ここのところ連日ため息が出るニュースが入っていますが
その中でも中学生二人が刺された事件には
もうなんとも言えない気持ちにもなったものです。
犯人が40代の近所に住んでいる男性で
逮捕されたところでホッとしたのも束の間、
どうやら大声で奇声をあげたりすることで
それなりに近所で知られている人だったそうで、
そのせいで精神疾患による無罪になるんじゃないか?
という話が盛り上がっているのを見て、
それについて適当なことを言う人がいっぱいで
なんかなぁって気持ちになってるsachiakiです。
まぁ自分も(あーだこーだいう)その一人に今からなるんですけれど。
昨日、秋のイベントを行なっている実行委員で集まって
忘年会をしていたんですけれど、
障害福祉の話から行動障害はかなり大変だって話になっていて
私もそれは端っこ程度に勉強をしたので
気持ちわかるって感じで聞いていたんですけれど、
この行動障害の厄介なところは
どうしたって「閉じ込める」ということが
現状最善というところに終結しやすいって話で
本人にとってもどうにも制御できないものであるし、
かといって制御できないからって
他人を傷つけるのはありか?と言ったら
そんなことはあり得ないわけで、
そうなると障害の度合いの大きさによっては
閉じ込めるというものにしかならず、
古代から座敷牢というものでしか
対応できないものがあり、
今も変わらないというもどかしさを感じたりします。
で、傷つけるのはありかなしかって話の時に
やっぱりなしだっていう話になるのと同時に
”それ”が起きてしまった時に
その罪はどうなるのだろうか?っていう話になるわけですよね。
責任が取れるかどうかという話ですわ。
罪の償い方として刑が裁量されて服役をするわけですけれど
精神疾患を持っている時は責任能力がないという理由で
放免されてしまうわけですよね。
ある程度はその理屈はわかるんだけど、
同様に自分がたまたま偶然柱に寄っかかったりした時に
その柱の経年劣化が激しく崩れ落ちてしまい、
さらに運が悪く誰かが亡くなってしまった時でも
それは意識がなくとも罪を行ったと言うことで
当然背負うものができるわけですよね。
ならば、例え責任を負える能力がなかろうとも
少なくともある程度負わなくてはならないものが
あるんじゃないだろうか?
それが人間として扱うってことなんじゃないだろうか。
そんなことを最近思うようになってきました。
当然酌量の余地はあると思うので
死刑にしろとかそういうのは思わないし、
家族がこれまでどれだけ苦しみながら
その人と向き合ってきたかなどを思えば
その人の責任の一環を家族が負うのは大変だと思うけれど、
それもまた償うことで気持ちが楽になるってことはないだろうか?
なんかそんな感じです。
私は報復のためや見せしめのために
刑を重くしたりするのは反対だけど、
償うチャンスを奪うのも間違っていると思うので
罪と向き合う時間を作って欲しいなって思います。
そんな感じ。
ちょっと違うけれど、12/7(土)から
ポレポレ東中野で「どうすればよかったか?」という
統合失調の姉を撮ったドキュメンタリー映画が上映されていて
こちらも障害をめぐる家族の話なので
とても気になっております。
モイ
1 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する。
という文言があります。
これは、刑罰は刑事責任能力がある者が受けるものであるという考え方に基づいています。
この刑事責任能力というのは
①弁識能力(自分の行為の善悪に関して適切に判断する能力)
②制御能力(その判断に従って自分の行動をコントロールする能力)
とを合わせたものを指します。
心神喪失者は、この刑事責任能力がない状態であり、理性的な判断をする能力、および理性的な判断によって行動することができない状態の方になるため、法律上罪に問うことができず、無罪の判決になります。
心神耗弱者は、心神喪失者よりは刑事責任能力があるとされますが、やはり、十分に備えている状態ではないため、刑罰が軽減されます。
これによって冒頭に書いた「精神障害者は犯罪を犯しても無罪になる」といわれることがあるのです。
刑事罰に関する基本的な考え方は、刑事罰は被害者のためではなく、加害者のためにあるとされています。
加害者自身が罪を償う権利を与えるというのが刑事罰なのです。
なので、罪を犯したことが判断できない人に、罪を償うことはできないという考えに基づいて第三十九条は設けられています。
罪を償う権利を与えられるというのは、人間にとって非常に重要なことです。
ミシェル・フーコーの言うように、狂気の扱いは時代のエピステーメーで変わります。
子連れ狼を書いた小池朝夫原作の劇画に、『首切り朝』があります。
公儀解釈人の山田朝右衛門が主人公ですが、罪人が斬首にいたるまでの過程が丁寧に描かれていました。
人の業をよく表現していて、好きな劇画でした。
狂気や病は時代の時々の捉え方で違うという話は精神分析などの授業でも題材として扱われていたので、なんとなくわかる気がします。
私たちはその人が持つ「狂気」が本当に気が狂っているかどうかをその時代の尺度でしか測れないので、今ここまで議論を呼んでいるのは節目になっているのかも?なんて感じなくもないです。
子連れ狼は時代劇で祖母と見ていた覚えがありますが、「首切り朝」は長谷川平蔵みたいな人も出てくるんですね。
時代劇で育っているので、罪の捉え方や償い方にはかなり影響を受けているので、「首切り朝」も読んでみたくなりました。
なんだかんだで大岡捌きが好きですが、人間とはなにか?罪とはなにか?っていうのをもう一度振りかえってみたいです。