一 ビック達よ、八つの善き人の布施がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、純粋なものを施すこと、極妙なものを施すこと、ちょうどよい時に施すこと、最も適したものを施すこと、吟味して施すこと、絶え間なく施すこと、施しながら心が安らぐこと、施して歓喜することである。
ビック達よ、これらが八つの善き人の布施なのである。
純粋で、極妙で、ちょうどよい時に、最も適した飲食を、
絶え間なく、梵行者達【ぼんぎょうしゃたち】の善き田圃に対して、布施をすることに、
多くの財産を注いでも、彼には後悔がない。
このように布施をすることを、正観する者は誉め称える。
このように、聡明で帰依ある者は、解脱の心をもって供養して、
自由で安楽な世界に、賢者は転生する。
【解説】
ここは大切なところなので、一つずつ説明したい。まず「純粋なものを施す」とは、例えば食べかけとか、あるいは使い古しとか、そういうものを布施してはいけないということである。布施のために用意したものを布施するのである。信徒さんでも、自分が使った残りを「使ってください」と布施することがあるが、これはあまりいい布施ではない。というのは、本来、布施とは徳の低い者が徳の高い者にするものだからである。
オウム真理教が今揺れているのも、徳が低い者が出家しているからということがある。徳が高い者が集まっていれば、当然そこには物が集まるのである。
「極妙なものを施す」とは、とにかく素晴らしいもの、食物にしてもおいしいもの、あるいは物にしても、本当に素晴らしいものを布施するということを言っているわけである。
「ちょうどよい時に施す」とは、例えば、食【じき】を布施する場合、仏教教団は十二時までに食事を取らなければならないので、前日から用意して布施するといったことである。また、よく私が、「教団が叩かれていて苦しいときの布施というものは、教団が潤っているときの布施とは違う」と言うのが、まさにこの「ちょうどよい時の布施」である。衣服がなくて困っている者に、そのとき衣服を布施するなどもそうである。
「最も適したものを施す」とは、例えば怪我【けが】をしていたら、そこには薬と包帯が必要であり、そのときに衣服を布施しても仕方がないということである。
「吟味して施す」とは、例えば絨毯【じゅうたん】をお布施したいと考えたときに、座り心地その他から、どの絨毯がいいだろうかと考えて施すということである。
この絨毯を例にすると大変わかりやすいので、改めてもう一度絨毯を例にして説明するならば、まず「純粋なもの」とは、使っていない絨毯を布施するということ、つまり、自分が使ってない新しいものを布施するということになる。第二番目の「極妙なもの」、これは、その人にとって最も価値のある絨毯、つまり高価なもの、あるいは、品質のいいものという意味である。
「ちょうどよい時」とは、例えばその修行者が、あるいはそのグルが絨毯を持っていないときに布施をするということ。「最も適したもの」とは、その人の部屋が広いとか狭いといったことを配慮して絨毯を選ぶということ。例えば、狭い部屋に対して広い絨毯を布施した場合、座具【ざぐ】を布施した場合、どうかと。やはり使いづらいだろう、というようにである。「吟味」というのは、実際に絨毯を敷く床の硬さや、あるいは絨毯の毛の長さなどを配慮するということが入ってくる。
次の「絶え間なく施す」とは、例えばその座具がすり切れて使いものにならなくなったら、新しい座具を布施するということである。本来は、食や衣、医薬品などを毎日、ひたすら布施し続けるということである。現代ならば、ひたすら財施を続けるということとなろう。
「施しながら心が安らぐ」とは、自分の悪業を受けてくださっているんだ、自分の善業を増大させてくださっているんだという心を持って布施するということである。最後の「施して歓喜する」というのは、「ああ、これで功徳が積めた」「もっと大きな功徳を積むぞ」、あるいは「絶妙な功徳を積むぞ」というような心を絶えず持ち、布施した物に対して惜しみをもたないということである。
この経そのものは、主に在家の修行者に対して説かれているのだが、出家した場合でも、グルに対する供養を忘れてはならないということは言うまでもない。例えば、釈迦牟尼の衣服を弟子達が作って、縫っているという経がある。つまり、覚者【かくしゃ】の衣を見て、「ああ、少し汚れが目立ってきたな」、あるいは「ほころびが目立ってきたな」ということで、ぱっとそこで自分達の布施されたものを集めるということである。
布施とは、出家していようが、在家であろうが、絶えずやり続けるべきものである。その場合、布施とは例えば「法を布施する」ということもあるように、物だけを意味しない。オウムのサマナの場合ならば、ワーク、あるいはその時間そのものでもいいわけである。その時間を布施するのだという意識をしっかりと持ち、「吟味」したり、「絶え間なく」といったことを心がけることが、良い布施になるということである。また、サマナに支給されている業財も、財施の実践のためにこそあるということは言うまでもない。
近頃は、こういった布施の意味合いを理解せず、「布施した物を返してくれ」とまで言う信徒さんがいるのだ。これでは布施でも何でもない。徳がない信徒さんが増えているのか、まことに残念でならない。