智徳の轍 wisdom and mercy

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三十七 善き人(一)

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、八つの善き人の布施がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、純粋なものを施すこと、極妙なものを施すこと、ちょうどよい時に施すこと、最も適したものを施すこと、吟味して施すこと、絶え間なく施すこと、施しながら心が安らぐこと、施して歓喜することである。
 ビック達よ、これらが八つの善き人の布施なのである。

  純粋で、極妙で、ちょうどよい時に、最も適した飲食を、
  絶え間なく、梵行者達【ぼんぎょうしゃたち】の善き田圃に対して、布施をすることに、
  多くの財産を注いでも、彼には後悔がない。
  このように布施をすることを、正観する者は誉め称える。
  このように、聡明で帰依ある者は、解脱の心をもって供養して、
  自由で安楽な世界に、賢者は転生する。

【解説】
 ここは大切なところなので、一つずつ説明したい。まず「純粋なものを施す」とは、例えば食べかけとか、あるいは使い古しとか、そういうものを布施してはいけないということである。布施のために用意したものを布施するのである。信徒さんでも、自分が使った残りを「使ってください」と布施することがあるが、これはあまりいい布施ではない。というのは、本来、布施とは徳の低い者が徳の高い者にするものだからである。
 オウム真理教が今揺れているのも、徳が低い者が出家しているからということがある。徳が高い者が集まっていれば、当然そこには物が集まるのである。
 「極妙なものを施す」とは、とにかく素晴らしいもの、食物にしてもおいしいもの、あるいは物にしても、本当に素晴らしいものを布施するということを言っているわけである。
 「ちょうどよい時に施す」とは、例えば、食【じき】を布施する場合、仏教教団は十二時までに食事を取らなければならないので、前日から用意して布施するといったことである。また、よく私が、「教団が叩かれていて苦しいときの布施というものは、教団が潤っているときの布施とは違う」と言うのが、まさにこの「ちょうどよい時の布施」である。衣服がなくて困っている者に、そのとき衣服を布施するなどもそうである。
 「最も適したものを施す」とは、例えば怪我【けが】をしていたら、そこには薬と包帯が必要であり、そのときに衣服を布施しても仕方がないということである。
 「吟味して施す」とは、例えば絨毯【じゅうたん】をお布施したいと考えたときに、座り心地その他から、どの絨毯がいいだろうかと考えて施すということである。
 この絨毯を例にすると大変わかりやすいので、改めてもう一度絨毯を例にして説明するならば、まず「純粋なもの」とは、使っていない絨毯を布施するということ、つまり、自分が使ってない新しいものを布施するということになる。第二番目の「極妙なもの」、これは、その人にとって最も価値のある絨毯、つまり高価なもの、あるいは、品質のいいものという意味である。
 「ちょうどよい時」とは、例えばその修行者が、あるいはそのグルが絨毯を持っていないときに布施をするということ。「最も適したもの」とは、その人の部屋が広いとか狭いといったことを配慮して絨毯を選ぶということ。例えば、狭い部屋に対して広い絨毯を布施した場合、座具【ざぐ】を布施した場合、どうかと。やはり使いづらいだろう、というようにである。「吟味」というのは、実際に絨毯を敷く床の硬さや、あるいは絨毯の毛の長さなどを配慮するということが入ってくる。
 次の「絶え間なく施す」とは、例えばその座具がすり切れて使いものにならなくなったら、新しい座具を布施するということである。本来は、食や衣、医薬品などを毎日、ひたすら布施し続けるということである。現代ならば、ひたすら財施を続けるということとなろう。
 「施しながら心が安らぐ」とは、自分の悪業を受けてくださっているんだ、自分の善業を増大させてくださっているんだという心を持って布施するということである。最後の「施して歓喜する」というのは、「ああ、これで功徳が積めた」「もっと大きな功徳を積むぞ」、あるいは「絶妙な功徳を積むぞ」というような心を絶えず持ち、布施した物に対して惜しみをもたないということである。
 この経そのものは、主に在家の修行者に対して説かれているのだが、出家した場合でも、グルに対する供養を忘れてはならないということは言うまでもない。例えば、釈迦牟尼の衣服を弟子達が作って、縫っているという経がある。つまり、覚者【かくしゃ】の衣を見て、「ああ、少し汚れが目立ってきたな」、あるいは「ほころびが目立ってきたな」ということで、ぱっとそこで自分達の布施されたものを集めるということである。
 布施とは、出家していようが、在家であろうが、絶えずやり続けるべきものである。その場合、布施とは例えば「法を布施する」ということもあるように、物だけを意味しない。オウムのサマナの場合ならば、ワーク、あるいはその時間そのものでもいいわけである。その時間を布施するのだという意識をしっかりと持ち、「吟味」したり、「絶え間なく」といったことを心がけることが、良い布施になるということである。また、サマナに支給されている業財も、財施の実践のためにこそあるということは言うまでもない。
 近頃は、こういった布施の意味合いを理解せず、「布施した物を返してくれ」とまで言う信徒さんがいるのだ。これでは布施でも何でもない。徳がない信徒さんが増えているのか、まことに残念でならない。

三十六 徳行

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、三つの徳行の要素がある。それでは、この三つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、布施に関する徳行の要素、戒に関する徳行の要素、修習に関する徳行の要素のことである。
三 ビック達よ、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは少なく、戒に関する徳行の要素をなすことは少なく、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、不運な人間に転生するのである。
四 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは適度であり、戒に関する徳行の要素をなすことは適度であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、幸運な人間に転生するのである。
五 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、四大王は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、四大王天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
六 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、帝釈天【たいしゃくてん】インドラは布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、三十三天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
七 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、スヤーマ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、夜摩天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
八 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、サントゥシタ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、兜率天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
九 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、スニンミタ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、化楽天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
一〇 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、自在天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、他化自在天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
 ビック達よ、これらが三つの徳行の要素なのである。

【解説】
 前二経は、効果の差、効果の早さについて語られていたが、この経の読みどころは、どのような布施をなせば、具体的にどのような効果があるのかということである。ここでは、非凡な功徳と非凡な戒の実践を行なうことによって、それぞれの世界でトップに立てるということがポイントである。
 ただ、一つ気を付けなければならないのは、四天王衆天から他化自在天に至るまでの六つの状態については、「非凡」という、すべて同じ言葉で説明されているが、当然この六つの世界では、上に行けば行くほど非凡でなければならない。つまり程度差はあるということである。おそらく、二千五百年前のインドではその違いを言葉で表現できなかったのではないかと思う。私が弟子達のために瞑想用のテープを作ったときも、「信」という言葉の分別を行なう際、その差を表わす上で大変言葉が選びづらかったものである。
 また、ここではどの場合でも「修習に関する徳行の要素に至ってはいない」とされている。この経は在家の修行者について分別しているものであることから、要するに、在家の功徳とは出家の功徳に比べたら大したことがないということである。なぜならば、もう出家というのは、前生において在家のプロセスを過ぎているということであり、その段階がクリアできて初めて出家修行ができるからである。
 オウム真理教のサマナでなぜ落ちる者がいるのかというと、その者達は在家のプロセスの根本となる、布施・持戒の実践すらできていないからである。サマナの業財【ごうざい】の使い方を見ていると、やはり徳のない人、修行の進まない人ほど業財を使っている。
 逆に、例えばマイトレーヤ正悟師【せいごし】などは、たまにワークに必要な雑誌を買うことがあるとしても、基本的に業財はゼロである。また、私の三姉妹の中でも、やはり一番ステージの高いアーチャリーが一番布施をする。これらから見てもわかるとおり、布施がしっかりでき、戒が守れて、やっと修行ができるということなのである。
 それでは、それはなぜかというと、自分の徳の方向性、これを決定するのが布施だからである。次に、そのエネルギー、その徳を漏らさないようにするのが戒なのである。そして、そのエネルギーを全部修行に使う――この三段階が修行には必要なのである。
 ただし、釈迦牟尼はこの段階での布施と戒律では低い意識状態であると説いている。それよりも高い意識状態の表われである布施が、次の経で語られている。

三十五 布施者の転生

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、八つの布施者の転生がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 ビック達よ、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者が、五妙欲【ごみょうよく】を授けられ、具足し、楽しんでいるのを見る。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
三 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「四大王天は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
四 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「三十三天は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「夜摩天【やまてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「兜率天【とそつてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「化楽天【けらくてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「他化自在天【たけじざいてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
五 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「梵衆天【ぼんしゅうてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、梵衆天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、梵衆天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。また、それは離貪者【りとんしゃ】に対して説くのであって、有貪者【うとんしゃ】に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が離貪しているがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、これらが八つの布施者の転生なのである。

【解説】
 この経は、信徒さんはしっかりと押さえておかなければならない。つまり、布施の目的、布施を何のために行なうかという、その意味をしっかりと押さえた上で布施をするならば、効果が早く表われるということである。
 例えば、この現象界でいい生活をしたいとか、いい恋人を持ちたいとか、そういうために布施をする。あるいは、第一天界へ行きたいから布施をする。あるいは、第二天界、第三天界、第四天界、第五天界、第六天界へ行きたいから布施をする。あるいは、梵天界へ行きたいから布施をするというように、しっかりと、その布施の意味合いというものを意識して行なえば、布施はそれを現象化させるのだということである。