智徳の轍 wisdom and mercy

                  各種お問い合わせはbodhicarya@goo.jpまで。

三十九 あふれ出たもの

2005-07-30 | ☆【経典や聖者の言葉】

一 ビック達よ、功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることには、八つのものがあり、それらは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 それでは、この八つとは何であろうか。
二 ビック達よ、ここに聖なる多学の弟子があって、覚者【かくしゃ】に帰依をする。ビック達よ、これが、第一の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
三 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、法に帰依をする。ビック達よ、これが、第二の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
四 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、サンガに帰依をする。ビック達よ、これが、第三の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
五 ビック達よ、五つの布施がある。それは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 それでは、この五つとは何であろうか。
六 ビック達よ、ここに聖なる多学の弟子があって、殺生を捨断【しゃだん】して、殺生を離れた。ビック達よ、そして、殺生を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第一の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第四の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
七 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、偸盗【ちゅうとう】を捨断して、偸盗を離れた。ビック達よ、そして、偸盗を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第二の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第五の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、愛欲における邪行【じゃぎょう】を捨断して、愛欲における邪行を離れた。ビック達よ、そして、愛欲における邪行を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第三の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第六の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、妄語を捨断して、妄語を離れた。ビック達よ、そして、妄語を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第四の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第七の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、放逸【ほういつ】さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を捨断して、放逸さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を離れた。ビック達よ、そして、放逸さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第五の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第八の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、これらが、八つの功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それらは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。

【解説】
 ここで見落としてはならないのは、前半の三つは、仏・法・僧(サンガ)に対する帰依が、布施、物質的な布施のことを意味することを、後半の五つは、精神的な布施を意味していることを説いた経であるということである。この後半の五つはオウムでいう安心施のことである。
 例えば、果実酒とか穀物酒は飲まないことによって心が乱れることがなく、正しい丁寧な言葉で人と接することができ、それによって安心施という功徳を積むということを表わしている。また、嘘をつかないことによって相手を傷付けないということを表わしている。つまり、より安心施を細かく分類し、それが五戒と表裏であるということを表わしているのだ。そして、前半の三つの帰依で財施を表現しているということである。
 グレードとしては、順番にやりづらいグレードということになる。つまり、まず救世主に帰依することはできる。救世主がいるときには布施の実践もしやすい。次は、その救世主の説いた法に帰依、これもまだやりやすい。その次が問題で、救世主の法を実践している弟子に帰依することができるかどうか。このへんから徐々に引っかかりが出てくると思う。
 次に、殺生についても、大きな生き物は殺生しないかもしれないが、小さな生き物は殺生してしまうということがある。偸盗も、実際に仏教的な偸盗というものはかなり厳しい。そして、邪行しないとなると、これはもう在家としてはかなりつらいであろう。不妄語と不飲酒も同じように難しい。釈迦牟尼の当時、ビンビサーラ王やパセーナディ王も、初めのうちは酒を飲んでいた。徐々に徐々に深く傾倒していって、戒律が守れるようになってくるということなのである。