いや、122話のラストの夢オチで、もう『五等分の花嫁』という物語は、物語であって物語でない、美少女攻略ゲームの展開をマンガで表現する、という方針が明らかにされてしまったので、別に、伏線も何もあったものではないのだけど。
にしても、丸投げだったね。
まぁ、「鐘キス」は、一応、風太郎の夢=妄想とはいえ、触れられはしたけど。
結局、
京都の子、とか、
零奈バレ、とか、
ミサンガ、とか、
御守の中身、とか、
全部、嘘、とか、
この恋が叶わない理由を知っている、とか、
私には秘密があります、とか、
その他もろもろの、思わせぶりなネタは、全部、忘れ去られてしまった。
いやー、この丸投げ感は、全く『ネギま!』の最終回のときと同じで、嗤うしかないw
読者からすれば、放っぽられた!感。
でも、きっと、こうした伏線もどきのネタは、この先の、「2周目の五等分」とか、「3周目の五等分」で、ちょこちょこ小出しにされながら、あぁ、そういうことだったんだー、って、あと付けで明かされていくと思うよ。
それが、春場ねぎの敬愛する『ネギま!』のやり方だから。
で、その中で、
実は無堂が良い父親だった世界とか、
その結果、マルオが五つ子にかかわらない世界とか、
場合によったら、風太郎の母が登場する世界も、
描かれるかもね。
なにせ、夢オチだから。なんでもありだからw
風太郎の夢=妄想が尽きない限り、物語はエンドレスに、ヴァリエーションを少しずつ変えながら、読者に飽きられるまで続けられるはずだから。
そうやって、強引にでも、金のなる木を延命させないと、実際、マガジンも厳しいんだろうね。
いや、ホントは、こんな製作サイドの大人の事情のことなんか、考えずに、純粋に『五等分の花嫁』という「物語」について語りたいのだけど、でも、年が明けて以降の、115話から122話までの展開を見ると、まともに、物語だけに、作品だけにフォーカスして、何か語るのが虚しくなるよね。
うん、虚無。
これは虚無だよ。
『ネギま!』が、ラスボス討伐をすっ飛ばして、みんなハッピー素晴らしー!って終わり方をいきなりしたときに感じたのと全く同じ「虚無」。
そういう意味では、ホント、あの『ネギま!』エンドは、後続のマンガ家にもマンガ読者にも悪い影響を残したんだな、と思った。
だって、ほかでもない『ネギま!』の大ファンだった、『ネギま!』の主人公の名前ネギ・スプリングフィールドをちょっとひねってペンネームにしたマンガ家が、なんのてらいもなく、全く同じような、丸投げエンドを敢行してしまったのだから。
そういう意味では、ラブコメというジャンルも終わった、ということなのかものしれない。
でも、それがまた既成事実になり、今度は、この『五等分の花嫁』の読者の中から、そうか、マンガの終わり方ってこれでいいんだ、って妙に納得してしまった人が、また7-8年経ったところで、似たような、形だけ終わった気にさせる終わり方を繰り返すことになるのだろうな。
はーあ。
なんだかなー、だよ。
しかし、今思うと、あの日の出祭期間中の『最後の祭りが…』シリーズが、時系列が行き来するパズル的な展開を繰り返したのも、後日、2周目や3周目の「ごとよめ」をやるときの「リターンポイント」を設定しやすくするためのものだったんだな。
まじめに、時系列を整理して整合性をつけようとしたのは、まさに作者の思うつぼだったってことだな。
だって、あれで、読者の間にも、多数の分岐点による未来シナリオがあれこれ考えられてしまったのだから。
当然、あの最後で、四葉ではなく、一花が選ばれたバージョンとか、即座に展開可能だからね。
そのためにも、そこら中に穴だらけの、とりあえずデフォルトのシナリオが用意されていればいいだけのことなので。
でもさ、そんな、あれもこれも「やり直す」ことのできる世界って、読者が望んでいるものなのかね?
単に、各キャラの支持者たちが、それぞれ喜ぶだけのことで、それは引いた目で見れば、作者に、というか、もはやこれは五つ子ゲームの「運営」といってもいいと思うのだけど、その「運営」にいいように巻き上げられているだけじゃない。
はーあ。
どうしてこうなった?
にしても、丸投げだったね。
まぁ、「鐘キス」は、一応、風太郎の夢=妄想とはいえ、触れられはしたけど。
結局、
京都の子、とか、
零奈バレ、とか、
ミサンガ、とか、
御守の中身、とか、
全部、嘘、とか、
この恋が叶わない理由を知っている、とか、
私には秘密があります、とか、
その他もろもろの、思わせぶりなネタは、全部、忘れ去られてしまった。
いやー、この丸投げ感は、全く『ネギま!』の最終回のときと同じで、嗤うしかないw
読者からすれば、放っぽられた!感。
でも、きっと、こうした伏線もどきのネタは、この先の、「2周目の五等分」とか、「3周目の五等分」で、ちょこちょこ小出しにされながら、あぁ、そういうことだったんだー、って、あと付けで明かされていくと思うよ。
それが、春場ねぎの敬愛する『ネギま!』のやり方だから。
で、その中で、
実は無堂が良い父親だった世界とか、
その結果、マルオが五つ子にかかわらない世界とか、
場合によったら、風太郎の母が登場する世界も、
描かれるかもね。
なにせ、夢オチだから。なんでもありだからw
風太郎の夢=妄想が尽きない限り、物語はエンドレスに、ヴァリエーションを少しずつ変えながら、読者に飽きられるまで続けられるはずだから。
そうやって、強引にでも、金のなる木を延命させないと、実際、マガジンも厳しいんだろうね。
いや、ホントは、こんな製作サイドの大人の事情のことなんか、考えずに、純粋に『五等分の花嫁』という「物語」について語りたいのだけど、でも、年が明けて以降の、115話から122話までの展開を見ると、まともに、物語だけに、作品だけにフォーカスして、何か語るのが虚しくなるよね。
うん、虚無。
これは虚無だよ。
『ネギま!』が、ラスボス討伐をすっ飛ばして、みんなハッピー素晴らしー!って終わり方をいきなりしたときに感じたのと全く同じ「虚無」。
そういう意味では、ホント、あの『ネギま!』エンドは、後続のマンガ家にもマンガ読者にも悪い影響を残したんだな、と思った。
だって、ほかでもない『ネギま!』の大ファンだった、『ネギま!』の主人公の名前ネギ・スプリングフィールドをちょっとひねってペンネームにしたマンガ家が、なんのてらいもなく、全く同じような、丸投げエンドを敢行してしまったのだから。
そういう意味では、ラブコメというジャンルも終わった、ということなのかものしれない。
でも、それがまた既成事実になり、今度は、この『五等分の花嫁』の読者の中から、そうか、マンガの終わり方ってこれでいいんだ、って妙に納得してしまった人が、また7-8年経ったところで、似たような、形だけ終わった気にさせる終わり方を繰り返すことになるのだろうな。
はーあ。
なんだかなー、だよ。
しかし、今思うと、あの日の出祭期間中の『最後の祭りが…』シリーズが、時系列が行き来するパズル的な展開を繰り返したのも、後日、2周目や3周目の「ごとよめ」をやるときの「リターンポイント」を設定しやすくするためのものだったんだな。
まじめに、時系列を整理して整合性をつけようとしたのは、まさに作者の思うつぼだったってことだな。
だって、あれで、読者の間にも、多数の分岐点による未来シナリオがあれこれ考えられてしまったのだから。
当然、あの最後で、四葉ではなく、一花が選ばれたバージョンとか、即座に展開可能だからね。
そのためにも、そこら中に穴だらけの、とりあえずデフォルトのシナリオが用意されていればいいだけのことなので。
でもさ、そんな、あれもこれも「やり直す」ことのできる世界って、読者が望んでいるものなのかね?
単に、各キャラの支持者たちが、それぞれ喜ぶだけのことで、それは引いた目で見れば、作者に、というか、もはやこれは五つ子ゲームの「運営」といってもいいと思うのだけど、その「運営」にいいように巻き上げられているだけじゃない。
はーあ。
どうしてこうなった?