前半はいろはす、後半は由比ヶ浜の、ともに八幡を思慕する姿が描かれて終わった。
あ、間にこまちがでてきてささやかな笑いを取りに来たけど。
毛づくろいしてあげていた猫の動きが妙にリアルだったw
一方、雪ノ下は登場せず。
うーん。
由比ヶ浜は、どうしてここまで頑なに自己完結した恋にしてしまったのだろう?
「バイアス」という言葉も知らないことに見られるように、単純に八幡と雪乃に対する「頭の良さ」のコンプレックスから来てるのかな?
まぁ、このお話、いろいろな意味で、
勉強ができるとか、成績がいいとか、それで? だからなに?
って具合に、世の中を風刺するところに独自性をおいているから、仕方ないのだろうけどw
次回、例の、手のひらフラフラさせながら「イノベーションが」とか、「コンプライアンスが」とか、やたらとカタカナ・ビジネスワードを並べ立てるのが好きな他校の男子が出てくるみたいだしw
基本、勉強できてもこじらせるだけじゃん、めんどくせー、
という、まさに自意識の高い「こじらせた男子」、といっても多分大学生以上の男子というか男性から支持を受けて一応成功した作品だからねぇ。
そのアイコンとしての八幡は、最後まで、ケアテイカー的自己像に則りながら、こじらせ地雷女の雪ノ下の面倒をみるための、貧乏くじを引いていく、ということなんだろうな。
てか、こういう形で八幡を自発的に動かしてしまっている時点で、すでに雪ノ下って、完全に、彼女の思い描く理想像からずれてしまっているよね。
そういう意味では、雪ノ下からすれば、八幡と出会っていなければ、こんなに面倒くさい、無駄な抵抗を自分の母親に向かって行ったりしなかったんだろうな、と思ってるんじゃないかなと案じてしまう。
なので、多分、雪乃エンドが容認できない読者は、はぁ、こんな面倒な地雷女、助けたそばからポイしちゃえよ、と思うのだろうな。
いや、まったくそれに同意するけど。
だから、八幡と雪乃って、やっぱり似た者どうしの「共依存」なんだろうな、と思う。
てか、「共依存」という言葉による説明は、作中でもわざわざ言わせているわけだけど、八幡からしたら、それのどこが悪い、と居直っているようにしか見えない。
ある意味、自己の欲望に忠実。
だいたい、この物語は、そうした自己チューな奴らばかり集まったらどうなるか、という話だし。
今回でいえば、いろはすも由比ヶ浜もまた自己チューをこじらせているだけで。
そういう意味では、いろはすと由比ヶ浜は対象的なキャラだよね。
いろはすは、自己チューであることと自覚してそれを公言してまわる。
由比ヶ浜は、自己チューであることを自覚しつつもうちに留める。
だから、いろはすが登場してきた時点で、由比ヶ浜が滑り台にいくことは確定していたんだろうな。
てっきり、いろはすは、作中で作者を代弁する便利キャラだとばかり思っていたのだけど、それだけでなく、由比ヶ浜のカウンターでもあった。
そうして、消去法で雪ノ下が残る、というか浮上する。
やっぱり、昔のテレビドラマを見ているみたい。
多分、しんどいには、テレビドラマなら類似番組がたくさんあって、その全体でバランスがとれるけど、この作品の場合は、他にこんなラノベが見当たらないから、それだけに、しゃかりきに独自性の維持のために、八幡と雪乃のカップリングにこだわったのだろうなぁ。
普通に考えれば、出会ってから2年くらい過ごせば、その間にふたりともある程度の成長を遂げて、別々の道を歩むことになったっていう展開でも全然おかしくないのだけど。
で、そういう意味で、八幡がいろはすとつながるのに期待していたんだけどな。
でも、実際の読者層を考えると、八幡は、高校生ではなく、大学生もこえて、アラサーの社会人男性になってしまうから、今さら、自分の陰キャは変えられない、というところで、最初の雪ノ下との出会いに固執するしかなかったのかもしれない。
それにしても、寂しい結末だなぁ。
って、まだ終わってないのだけれどw
あ、間にこまちがでてきてささやかな笑いを取りに来たけど。
毛づくろいしてあげていた猫の動きが妙にリアルだったw
一方、雪ノ下は登場せず。
うーん。
由比ヶ浜は、どうしてここまで頑なに自己完結した恋にしてしまったのだろう?
「バイアス」という言葉も知らないことに見られるように、単純に八幡と雪乃に対する「頭の良さ」のコンプレックスから来てるのかな?
まぁ、このお話、いろいろな意味で、
勉強ができるとか、成績がいいとか、それで? だからなに?
って具合に、世の中を風刺するところに独自性をおいているから、仕方ないのだろうけどw
次回、例の、手のひらフラフラさせながら「イノベーションが」とか、「コンプライアンスが」とか、やたらとカタカナ・ビジネスワードを並べ立てるのが好きな他校の男子が出てくるみたいだしw
基本、勉強できてもこじらせるだけじゃん、めんどくせー、
という、まさに自意識の高い「こじらせた男子」、といっても多分大学生以上の男子というか男性から支持を受けて一応成功した作品だからねぇ。
そのアイコンとしての八幡は、最後まで、ケアテイカー的自己像に則りながら、こじらせ地雷女の雪ノ下の面倒をみるための、貧乏くじを引いていく、ということなんだろうな。
てか、こういう形で八幡を自発的に動かしてしまっている時点で、すでに雪ノ下って、完全に、彼女の思い描く理想像からずれてしまっているよね。
そういう意味では、雪ノ下からすれば、八幡と出会っていなければ、こんなに面倒くさい、無駄な抵抗を自分の母親に向かって行ったりしなかったんだろうな、と思ってるんじゃないかなと案じてしまう。
なので、多分、雪乃エンドが容認できない読者は、はぁ、こんな面倒な地雷女、助けたそばからポイしちゃえよ、と思うのだろうな。
いや、まったくそれに同意するけど。
だから、八幡と雪乃って、やっぱり似た者どうしの「共依存」なんだろうな、と思う。
てか、「共依存」という言葉による説明は、作中でもわざわざ言わせているわけだけど、八幡からしたら、それのどこが悪い、と居直っているようにしか見えない。
ある意味、自己の欲望に忠実。
だいたい、この物語は、そうした自己チューな奴らばかり集まったらどうなるか、という話だし。
今回でいえば、いろはすも由比ヶ浜もまた自己チューをこじらせているだけで。
そういう意味では、いろはすと由比ヶ浜は対象的なキャラだよね。
いろはすは、自己チューであることと自覚してそれを公言してまわる。
由比ヶ浜は、自己チューであることを自覚しつつもうちに留める。
だから、いろはすが登場してきた時点で、由比ヶ浜が滑り台にいくことは確定していたんだろうな。
てっきり、いろはすは、作中で作者を代弁する便利キャラだとばかり思っていたのだけど、それだけでなく、由比ヶ浜のカウンターでもあった。
そうして、消去法で雪ノ下が残る、というか浮上する。
やっぱり、昔のテレビドラマを見ているみたい。
多分、しんどいには、テレビドラマなら類似番組がたくさんあって、その全体でバランスがとれるけど、この作品の場合は、他にこんなラノベが見当たらないから、それだけに、しゃかりきに独自性の維持のために、八幡と雪乃のカップリングにこだわったのだろうなぁ。
普通に考えれば、出会ってから2年くらい過ごせば、その間にふたりともある程度の成長を遂げて、別々の道を歩むことになったっていう展開でも全然おかしくないのだけど。
で、そういう意味で、八幡がいろはすとつながるのに期待していたんだけどな。
でも、実際の読者層を考えると、八幡は、高校生ではなく、大学生もこえて、アラサーの社会人男性になってしまうから、今さら、自分の陰キャは変えられない、というところで、最初の雪ノ下との出会いに固執するしかなかったのかもしれない。
それにしても、寂しい結末だなぁ。
って、まだ終わってないのだけれどw