パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「民意の一言」ですべてが決められてはならない

2024年07月17日 09時49分19秒 | あれこれ考えること

「民意は正しいとは限らない」
これはそれなりの想像力の持ち主と、つらい体験をした人は理解できる
例えばドイツ人はかつてポピュリズムに乗ってヒトラーを
正式の手続(選挙)で選んでしまった
だからその反省として、需要なことは必ずしも大衆の支持の数では決めず
有識者と認められる人々に判断を依頼するようにしているらしい

実はこの発想は自民党の総裁選挙でも使われていて
総裁選の一票は最初は地方票と議員票はそれぞれひとり一票の価値だが
決選投票では、その人物を日頃見かけて性格とか人間性を知っている
と思われる議員は、地方の党員よりも正しい判断ができるとの想像で
票の価値は議員のほうが高くなっている(何倍かは忘れた)

フランスの選挙も一回ですべて決定ということはなく
勝ち残った人たちのよる決選投票を行う
これで想像される危険を避けることができるとされ
現実に今回は極右の拡大は防がれた
この方法はオリンピック会場の決定にも使われていて
多数決の危険性を、知恵ある人々はなんとかして補っているように思われる

ところが日本は多数決の結果が、「正しいもの」とされ
選挙で敗れたものはまるで価値のない政策とか人物の扱いを受けても
当然だとの考え方が広がっているように思えてならない

そして「選挙によって民意が結論を下した」
というフレーズは、あまりにも容易に使われていて
それが選挙のバッシングに使われているのが今の日本だ

話は変わって「類は友を呼ぶ」多分この諺は本当だと思う
その人となりを知るには彼の周りの人間・友達をみれば想像できる
今回の都知事選の話題の人物、石丸氏はSNSをうまく使って見事な結果を導いたが
それは無党派層とか無関心層に「自分と似ている人」のイメージ付けがうまく行ったようだ

だが怖いのは「自分と似た人がそのポジションで大丈夫か?」
という視点が欠けていないかということだ
自分と似た人は共感を持ちやすい、彼の怒ることは自分の怒りに似ている
それに彼を支持する人は多くいる
この安心感で自分の選択は間違っていないと思い込みやすい
でも、本当にそうなのか?

ここには「自分はちゃんとした判断力を持つひとりの人間」との
思い込みがあるのではないか
それはオルテガが訴えた「大衆の反逆」の一説が思い浮かぶ
数があるだけで大衆はその責任を負わず、それを正しいものと思い込む

オルテガは大衆ではなくエリートが政治とか社会を良きものとしているという
ここで言うエリートは高級官僚とか高収入の人々というのではなく
例えば職人であっても、その仕事に打ち込み、日々に良きものを求めて
試行錯誤をし、自らを常に振り返るものとしている
つまりは意識的に内的に生きている人はエリートと定義している
そしてその人達の活用こそが良きものとしている(ように思う)

さて自分に似た人を選んだ人々は、自らを人を選ぶ能力があって
選んだことに責任を負えると感じているのだろうか
また、選挙の結果が(民意が)すべてを乗り越えて正しい!
とまで言い切ることへ疑問を感じないのだろうか

またもや、まとまらない話

コメント
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