パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

記事は本質的なことを伝えているか

2020年07月17日 08時55分10秒 | あれこれ考えること

放送局に勤めていた知人があるとき自虐的に
「放送ってのは文字をひっくり返して、送りっ放なしだ」
とこぼしたことがあった

時に世論を作り出す程の影響力を持ち
一般的には信頼されるとされるメディア(放送・新聞)は
本当に真実を伝えているのか、、と疑問に思うことが少なくない

今朝の地元の新聞には、昨日行われた新城市議会の採決の結果が掲載されている
みっともない話だが、その採決とは数名の議員の「問責決議」についてで
採決は「該当者数人は議場から除斥の上」で行われ賛成多数で可決された

記事はそれを客観的に伝えているのだが、実は会場(議場)には新聞記者は来ていない
(記者用の傍聴席にはいなかった)
来ていないがこうした記事は書けるということだ
単なる事実の羅列は現場にいかなくても、それなりのことは書けるということかもしれない

話は飛ぶが、昔ロッド・スチュワートのライブに行ったとき、翌日のスポーツ紙に
このライブについての記事があった
そこにはアンコールで彼のヒット曲「セイリング」がアンコールで歌われたとあった
しかし、事実は違う
その日「セイリング」は歌われなかった
事実と違うことが書かれていたのだ
スポーツ紙の記事だから、そんなもん、、と真剣に受け止めない〈?〉知恵が
ついてはいるが、メディアは正確に書いている訳じゃないと実感した瞬間だった

今朝の記事も結果だけを見れば、間違ったことが書かれているわけじゃない
だが、本質的なことが書かれているか?といえば少し疑問が残る
というのは昨日採決が行われた市議会本会議は、6月に終了するはずの
最終日の議案の議決が、7月の今まで延びてしまったという出来事があるのだ

普通なら6月に市議会は終わっている
それを半月も延長して議決を行う異常事態や
その原因とかその後の経過を何も報道しないことは
本質的な報道がなされているかが、一連の流れを見聞きしたものとしては不満が残る

この採決に至るまでには、議員全員が参加する全員協議会において
その議決方法が「違法か否か?」といった深刻な問題を検討がなさざるを得なかった
確かに新聞はスペースの都合があって何から何まで細かく掲載できるわけでなない
だが、今回の場合は議会が延長までなった本質的な原因のことについては
何も書かれていない、、
だからこれを読んだ人は、流し読みをするだけになってしまう
すると、半月以上も定例会が延長していて、それは通常ありえないことであったことも
人々の記憶の隅にも残らないのではないか

今回の場合は、少しばかりみっともない話なので、もしかしたら多くの人に
知られないほうが良い事案だったかもしれない
でも、人々の判断の基準になるようなメディアの報道が
実はこうしたものの可能性があることは、認識していたほうが良いように思う

記者クラブにリリースしておいたが、我々市民団体からの情報は、記事にも放送にもならず
無視された経験が幾度とあるので、少し嫌味を込めて、、愚痴ってみた

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「サルビアの花」

2020年07月17日 08時23分43秒 | 徒然なるままに

昨日の晩ごはんのメニューを思い出すのはボケ防止には良いようだ
幸い昨日と一昨日のそれは思い出すことができる
ボケ防止のこのブログ、昨日・一昨日とサボったので少し落ち着かない
それで思い出しながら昨日のことを

久しぶりに太陽が見えた早朝のウォーキング
道路を横断するカエルの数は、昨日は5匹だった
何事もなくいつものように過ぎていったが、信号待ちをしてると
ポケットにいれたスマホから突然音楽がなり始めた
何事が起きたのか?
何かの加減でアプリのスイッチが入ってしまったのか?
慌てて確認するが音楽のアプリは作動していない

信号が変わっのでそれ以上の追求はやめ横断優先とし
音楽は鳴るがままにしておいた
(後でわかったがYoutubeが作動していた)
急に流れていたのは「サルビアの花」もとまろの歌だった
この「サルビアの花」はとても記憶に残っている曲で
学生時代の下宿先で洗濯をしながらロイ・ジェームスの
不二家歌謡ベストテンを聞いていたシーンをいつも思い出す
競作が多い歌だったが圧倒的にもとまろの歌が好きだった
女の子二人のハモり方、声の質、女の子が「僕」というときの感じ方など
男が歌うよりしっくりした感じを持っていた

歩いていると気になったのは「転げながら、転げながら」の歌詞の部分で
「転げ、な、が、ら、転げ、な、が、ら」ともとまろの歌では
スタッカート気味に歌われているところが本当に石が跳ねながら転がっているようで、
歌の解釈と表現はこういうことだな!と感じたりした

井上陽水も「サルビアの花」を歌っているが、そこでは「転げながら」の部分は
普通につなげて歌っている
ただ井上陽水も普通のカバーはしない
彼の歌で気になった部分は「ぼく」という歌詞の音程がもとまろとは違う
もとまろは「く」の音のほうが高い音程だが、
陽水の方は普通に使用される「ぼく」のように「く」の音のほうが低い音程だ
意味的には陽水のほうが正しいような気がするが、音楽としてはもとまろの方が好きだな

あともとまろでは「扉を開けて出てきた君は、、偽りの花嫁」
となっているところが陽水では「扉が開いて出てきた君は」となっている
花嫁が自分で開けることは無いと思われるので、陽水のほうが意味的には正しそうだけど
自分で扉を開けて出てくる、、という方が、
この花よめの性格をしっかり表現しているような気がする

ということで、「サルビアの花」はもとまろの歌が思い出もあって好きということ
でも、なんで急にスマホから流れてきたのかは、、不思議

もとまろ サルビアの花


 

 

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面白い話(興味ある話)

2020年07月14日 08時38分34秒 | あれこれ考えること

テレビは朝食とか昼食のときに、時計代わり、時間つぶしに
ながら視聴をするが、その他はお役御免状態だ
家族揃ってテレビの前に鎮座して、同じ場面で笑い、喜び、泣いたりした
昔どこでも見られた光景は、現代人には不思議なものに思えるに違いない

昔は子供番組でも大人は付き合ってそれを見た
アニメも一緒に見て子どもたちと共通の感情を持つことができていた
現在でもお母さんたちはちびっ子に付き合って、番組の良し悪しを批評しながら
見ているひとは少なくないだろう
でも、それ以外のひとは、自分の見たいものを自分用のテレビで見ることが
多いと思われる(見たいものがあるとすれば)

テレビ番組は視聴率がとれそう、、との前提で制作されるのだが
そのとれそうと思う根拠はなんだろう
少なくとも見ている人が、面白いとか興味があると想像できることが前提だが
このテレビ局の人間の判断は本当に正しのだろうか
それは視聴率という数字に反映されるから、視聴率が高ければ
人々が興味を持つと仮定したことは正しい、、とのことになる

でも、それは本当に面白いか(興味があるか?)
最近は、このようなことをすれば、このようなタレントが出れば、
このような報道をすれば人々は喜ぶだろうと思われること自体が
バカにされているような気がしてならない

面白いか、面白くないか、興味があるか、興味がないか
これらは先のことなのでわからないとしても、
今感じていることは、テレビ局はあまりにも世の大人をバカにしている
と思えてしまう
だから対抗策としてテレビを見ない、、という手段を取るのだが
それでもテレビの力の大きなところはまだ否定し難く
世論は結局のところテレビの影響ということも否定できない

情報が自分から欲してなくても、あっちから勝手にやってくる
タイプのもの(テレビとかヤフーニュース)は、
自分で考えていたようでも、その実考えをコントロールされてしまっている可能性がある

これらは今の言葉で言えばメディアリテラシーを磨かないとアカン、、
ということに集約されそうだが、その前に自分自身で考える癖は必要だ
とも思ったりする

面白いことは、必ずしも楽ちんなこととは限らない(少なくとも自分は)

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「マスコミ亡国論」を読んで

2020年07月13日 16時04分16秒 | 

「マスコミ亡国論」と銘打っていても、内容は現在のマスコミのあり方への
批判というよりは、保守としての考え方を紹介している印象が強かったのが
西部邁さんのだいぶ前に書かれたこの本だ

雄弁な怒りを込めた書きっぷりに、若い頃なら圧倒されてしまったかもしれないが
今は、少し違うな、、、と引いて見ることもできる
怒りを込めた書きっぷりといっても、西部さんのテレビでの恥ずかしげで
可愛いところもある話しっぷりが頭に浮かび、さほど気にはならない

この本、「大衆の反逆」などと同じで、ひと1人の心の持ち方を深く追求しているように思える
心の持ち方の基礎データとしてもマスコミの情報が必要だから、それは適切なものが必要と考えているだけで
現在言われているような「マズゴミ」に対する批判とは少し違うニュアンスだ

いくつか付箋をいれて、書き残しておこうとした部分がある
それは人間というものの把握と保守の考え方に関する部分で
マスコミとは関係ないが、この部分こそが西部さんぽい

引用1.

人間という存在は何割かの性悪ぶり、何割かのいかがわしさをひめたものである。そのいかがわしさが他者あるいは社会に迷惑をかけるというのでないかぎり、そのいかがわしさについては互いに攻撃を仕掛け合うようなことは避けようというルールを欧米社会は作り出したのだ。
もしもその種の相互暴露、相互攻撃をやりはじめると、人間のいかがわしき可能性は人間関係の前面に露出してしまう。そんな状態では、安定した人間関係は取り結ぶわけがない。つまり、プライバシー権にあっては、いわば「大人の偽善」が前提されているわけである。
われわれはお互いいかがわしい存在にすぎないのだが、他人に迷惑をかけないかぎり、それを暴露し合うようなことはしないでおこう、これは偽善であるがしかし大人の作法である。
またそれを認め合わなければ、人間の主体性とか自由というものも空語に陥ってしまう。つまり人間という主体が他者との関係を結ぶときには、かりにも虚構だとしても、まあまあまっとうな自己であり他者であるようかのように認め合うという礼儀作法が必要になるのだ。

これなんかは現実の社会を見るとそう思う
だが、大目に見るのと許さない加減がなかなか難しい

引用2.

日本人はデモクラシーという言葉を民主主義と訳した。私が思うに、デモクラシーと民主主義は必ずしも一致しないのである。デモクラシーとはデモス(民衆)のクラシー(支配)ということを意味するにすぎない。 つまりデモクラシーというのは、それだけでは、良いものとも悪いものとも判断されていない中立的な概念である。
さらにいえば。もしも民衆が賢明であるならデモクラシーから賢明な政治が出てくるであろうが、もしも民衆が愚昧ならばデモクラシーは愚昧な政治がもたらされるだろうということにすぎない。つまりデモクラシーとは、社会的な意思決定の過程に多数者が参加し、その中の多数派でことを決める、という意思決定の一つの方式なのだ。その方式から真が出てくるか偽が出てくるか、善が出てくるか悪が出てくるか、美が出てくるか醜出てくるか、それは民衆の資質にかかわっている。

民主主義イコール良きもの、、と無条件に考えてはいけないということ
時々、このシステム自体が本当に最適なものなのか、、と考えることがある
(民衆の資質を上げるしかないとしても、それは簡単ではなさそうで)

引用3.

当時の啓蒙主義者たちは、人間はパーフェクティビリティ(完全可能性)をもつと宣言した。完全なる神にかわって人間が完全な存在に接近するのだと宣言したわけである。そこから人間性への異常なる礼賛そして人間の権利の異常なる高まりがはじまった。
そこから2世紀半、人間社会は膨大な殺戮、裏切り、混乱を経験した。それにもかかわらず、この人間性のパーフェクティビリティという空語だけは根強く生き残った。
健常者ならば、自己の不完全さがなんらかのかたちで制限されてはじめて、自分が真っ当に生きられるであろうと自覚するはずだ。そして自己に対する制限がルールとかマナーと呼ばれるものであることを認めるはずだ。
このルール、マナーは必ずしも明文化されているとはかぎらない。というより、明文化されたものの根底に明文化されざるルール、マナーがある。つまり死者たちが歴史を通じて残してくれた「伝統の知恵」のようなものが、潜伏的なかたちで生者を制限する。明示的かつ潜伏的なルール、マナーの体系によって方向づけられることによって、生者の健常な生が可能になるのである。

これなんかは保守の考え方の基本のようなもので、
引用1に通じるところもあるように感じる

この本、確かに怒っている(浮かぶのは照れくさそうに話す西部さんだが)
その怒りの先は、仮想敵国のような具体的な対象ではないような気がする
もしかしたら、三島由紀夫が絶望したような日本のあり方(若者も政治家も、、、)ではないのか
そしてその怒りは、結局三島由紀夫と同じかたちで自らを終わらせるしかなかったにかな
と読み終えて感じたりした

この引用部分は、書いてあるから納得したのではなくて
常々あれこれ考えている時に浮かんでくることで
「自分の考えたことと同じだ」と思ったものだ

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自分で考えたこと?(それとも影響されていること?)

2020年07月13日 09時28分20秒 | あれこれ考えること

ビートルズ時代のポール・マッカートニーが「イエスタデイ」を初めて仲間に披露した時
仲間に「この曲はどこかで既にある曲なんだろうか?」と聞いたそうだ
彼は夢の中でメロディを思いついたが、それはどこかで聞いた音楽が記憶の中に残っていて
それを再現しただけではなかったのかと思ったのだ

彼の不安は取り越し苦労に過ぎなくて、仲間から完全にオリジナルだとのお墨付きを得て
今や彼の代表曲としてライブでは欠かせない一曲になっている

本を読んでいてこれと似たような状況を経験する
(自分が考えたのかそれとも既にある考え方なのかと)
最近特に本を読んでいて、この部分「自分が考えたのと同じだ!」と感じることが多い
本は新しい知識を得るだけでなく、自分の常々考えていたことが上手くまとめられている
というようなことが多いが、上手くまとめているだけでなく、その中の重要な考え方が
「自分と同じだ」と感じるのだ
そこで「自分の考えたの同じ」と感じるものの、本当に自分の考えたことなのか
それとも「知らず知らず他人の考えたことを身に着けていたのではないか?」
と気になるのだ

自分で考えたつもりでも、何かに影響されている、、のはとてもありそうなことで
結局のところ、人はある事柄に関して完全に客観的になることはできないように思える

例えば建前上は完全に公平であるとされる裁判にしても、別々の体験をした裁判官は
同じものを見ても同じように感じるとは限らない
彼らはどうしても自らの生きてきた経験から離れることはできないのではないか
もっともその危険性を自覚しているからこそ、それが暴走しないようなシステムには
なっているのだろうが(詳しくはわからないので、勝手にそう思っている)

自分が考えたようでも、人の意見の受け売りというのはスポーツの場面では多く見られる
前日の野球の結果を自慢げに話しているひとは、実はテレビで解説者が言っていたこととか
新聞に書かれていたことを繰り返しているだけ、、というのは珍しくもない
(本当に自分の意見を得るためには音声を消して、試合を見る方が良いだろうと思う)

野球に限らず世論的なもの、空気も自分で考えたものではなく
知らず知らず自分の考えたこととして妙に自信を持ってしまう人達がいる
そしてその考えは多いために安心し、正しいものに違いないと錯覚してしまう
(世論は果たして信頼に値するものか?)

最近は、こうした傾向を若干自覚しているので
いろんなことを鵜呑みにすることはなく、いろいろ疑いながら
そして自分自身も疑いながらことに当たるようにしているつもり
でも世間的には「面倒くさいやつ!」ってことになるかもしれない



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知らず知らず数えてしまう

2020年07月12日 08時49分59秒 | 徒然なるままに

 先週の土曜日(7/3)以来の早朝ウォーキング
やっと雨間ができて出かけた
蒸し暑い、空気が重い、山には雲がかかっている
すぐにでも汗が滲んできそう
出くわす人はいつもより少ない
出くわしたのは道路を横切るカエルだった

1.2.3......13.14...
知らず知らず出くわしたカエルの数を数える
ついつい数を数えてしまうのは何故なんだろう
そういえばブルックナーもやたらと数を数えたとか
その気持わかる、、といったところだ

数字は単なる数字に過ぎないが記憶を呼び起こす
13はゲルト・ミューラーの背番号だったな
14はヨハン・クライフの有名な背番号
17は長谷部の番号、、
きっと人には相性の良い数字があるのだろう
そんなことを思い浮かべながら歩くと、久しぶりに高校の〈?〉チャイム音を聞いた

うっすら汗をかいて、家についたのは歩き始めて34分後
まずまずのスピードで歩けている
カエルの数、かかった時間、歩行距離、平均速度、消費カロリー
スマホにはデータが表示される
数字ってのは、便利というか不思議なものだな、、と思ったりする
ついつい、カウントしてしまうのは人間のさが?

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「読んでいない本について堂々と語る方法」

2020年07月10日 08時31分40秒 | 

本のタイトルにやられてしまった
「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール)

誰もが少しばかり後ろめたい気のするような読み方はあるものだと思うが
この本を読んで、救われた人も多いと思われる

本は読んだが内容を人に理路整然と説明できないとか
記憶に残っているのは部分的なことばかり
といった自分の読み方は、どうやら自分だけの欠点とはいえず
多くの人が身にしみて感じていることらしい
(それでホッとした)

特に最近は流し読みに近い読み方をすることが多いが
それでもいいんだ!とお墨付きをもらった感じがしたのはありがたい

この本の冒頭に本の評価の印がある(この本の中で引用された本について)
◎ とても良いと思った
◯ 良いと思った
☓ ダメだと思った
☓☓ ぜんぜんダメだと思った(本では☓☓の印ではないが、その表示法が探せないので)

これなんかは少し嬉しくなった
というのは自分もこれと同じように4段階評価をしているからだ
それは日本人らしく、優・良・可・不可で
大体の基準は似たようなもので、数年前から使っている

この他に
〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本
があるが、最後の〈忘〉などは、そうそうあるある、、とうなずくばかりだ

結局のところ自分の中の図書館(知らず知らずに出来上がっている価値観とかの)
と外的な図書館の関わりが問題であって、本のおかれている位置関係を把握しておけば
たいがいのことはクリアできる、、みたいなことが書いてある

そこには世にある本は何もかも読まなくていいようなことも
そもそも人はそれほど多くの本を読むこと自体が無理で
現実は読んでいない本の方が多いのだから、それに引け目を感じることはない
などとも、開き直って(?)書かれている

でもこの本で一つ違うな!と思うところがあった
それは例えば厚い難解な本を読む場合、必死になって読む必要はなく
要約や人から聞いた話で済ますことも可能とあるところで
内容把握についてはそうかもしれないが、読書を楽しむという点では違っていると思う

本を読む行為は悪戦苦闘している時が案外楽しい(Mか?)
理解できるかできないかは別として、作者も悪戦苦闘している姿を
リアルタイムに感じることのできるような読書は
思いの外内容以上に心に残る(少なくとも自分は)

ということで、この本の自分の評価は(良)
あと少しというところ


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いきなり独断(議会運営委員会のメンバーは交代したほうがいい)

2020年07月08日 08時14分26秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

「いきなりステーキ」ではなくて「いきなり独断」だが
今の新城市議会の「議会運営委員会」のメンバーは交代したほうがいい!
それがここのところ傍聴している者の実感だ

市議会には委員会と名づくものがいくつかある
総務消防委員会、厚生文教委員会、経済建設委員会
これらは議会で上程された議案のうち
該当する分野のものについて議決すべきか否かを話し合う

その他には予算決算委員会がある
これは大事なお金の使い方をチェックする場所なので
上記の委員会のように、数人づつに分けられて行うのではなく
議員が全員集まって行われる
全員が集まるからと言って、この委員会の議事進行は「議長」ではなくて
予算決算委員会の「委員長」が仕切る

その他にあるのが「議会運営委員会」と「広報広聴委員会」
この内の「議会運営委員会」を問題視しているわけだが、
そもそもこの「議会運営委員会」の役割が直感的にわかりにくい
知らないものの強みでいろいろ想像してみると(少し調べてみると)
これは議会の進め方ついて仕切る委員会で、議会の時間(今回のようなコロナ禍における)
議員の座る場所、質問の順番、質問が被った時の若干の調整など
読んで字のごとしの役割をするとされている

ところが表立っていないがその他にもいろいろ役割があるようで
一般質問が終わった時点で、不穏当発言がなかったかどうか?等の
チェックを「議長からの諮問」で行うことになっているらしい
(この不穏当発言についても、本当にそれが不穏当発言なのか
 と思う時が多々ある)

「議長からの諮問」というかたちで行われるものはまだ他にもある
「政治倫理審査会の請求」に関する時がそうで
決められた書式で書かれた政治倫理審査会の開催の請求は一旦議長に提出される
(市議会議員が請求するにせよ、市民が請求するにせよ)
議長は次に「議会運営委員会」に諮問を行う
問題はここからで、議会運営委員会が具体的にどのような機能を発揮すべきかが
かなりあやふやで、手続き上のチェックをするにとどまらず
時には内容まで踏み込んで判断を行うように見える時がある
本来は政治倫理審査会が結論を出すべきことも、結果的に議会運営委員会が
出してしまっていると思えるようなことが最近多く見られる

議会運営委員会が混乱した最近の例では、定例会で「緊急動議」が発議されたときだ
議会最終日の議員提案による「緊急動議」あった
前例のないことで、その扱いに悩むことになったが議会の運営に関わることなので
「議会運営委員会」が行われる事になった
ただ問題なのは、その動議の内容が議会運営委員会のメンバー数人に関することで
当事者たちにとっては、あまり議論してほしくない内容だったことだ

議会運営委員会のメンバーに都合の悪い内容のことでも、
彼らはちゃんと手続きに沿ってできるだろうか、、、というのが素朴な疑問だ

いろいろ見ていると、どうやら「議会運営委員会」は想像以上に
何かしらの力を持っているように思われる
だからこそ、かつて会派が存在した頃には、「議会運営委員会」は
全ての会派から選出されたメンバーで成り立ち、その決定は全会一致を基本として
「議会運営委員会」の暴走を防ぐようにしていたらしい
現在は会派がないというものの、実態としてはそれらしき集団は存在しており
その集団の数人はなんと「裁判の対象者」となっていて(裁判は終了したが)
そのなかから議会運営委員会のメンバーが4人選出されている(議会運営委員会は6人で構成)

先に挙げた「政治倫理審査会」に関することで
議長からの諮問に必要以上の内容への介入を感じさせたのも
(訴えられているのが議会運営委員会のメンバー)
不穏当発言の判断に対して疑問を覚えるもの
(その多くは議会運営委員会のメンバーと対立的な議員の発言について)
また最近話題になっている(議会は延長することになっている)
「利害関係者は議決に出席できるか否か」等の問題も
それらを仕切るのが実質的に「議会運営委員会」だとしたら、
今の特殊な構成メンバーで正常に「議会運営委員会」は機能できるのか、、
が疑問に覚えて仕方ない

物事を最終的に決めるのは多数決
それが制度的な正当性を確保するものとしても、その構成メンバーの多くが
案件に対して客観的な立場がとれないとしたら、その多数決は意味を成すものだろうか

ということで、最近の新城市の「議会運営委員会」は、
お互いが共通の利害関係に関与しすぎているメンバーから成り立ちすぎのように思える
一番スッキリするのは、対立的な立場の議員をあえて「議会運営委員会」に入れること
そうすれば、奇妙な「議会運営委員会」の暴走は防げると思うけど、、どうなのかな




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七夕

2020年07月07日 16時47分50秒 | 子どもたちのこと

新城市も一部崖崩れが起きている今回の雨
地球規模で世界が変わりつつあるのを実感する
天の神様の采配を少しばかり緩めてもらいたいものだ

火曜日は外国をルーツにもつ低学年(1.2年)の子の勉強の手伝い
担当してる彼の日本語の能力はとても心配だ
接している時に感じる日本語の能力で、毎日の授業ができているとは思えない
普通の日本人の子どもなら、当たり前のように吸収していくいろんなことが
分かっているとは思えない
仕方ない、まずは初歩から、、とにかく会話をしようと今日も始めた

先週のおさらい、上の反対は下、右の反対は左、前の反対は後ろ
今日は7日の火曜日  このあたりはまだいい
だが、昨日は?と聞くといきなり頭を抱えてしまう
月曜日、、とは答えられるが、6日(むいか)とは答えられない
そうか、日の数え方は彼らには難しい、、
でも考えてみると、なんでこんなにいい方が変わるのか確かに不思議だ

そうした復習のあと、今日は買い物に行く場面を設定した
「君の好きなジュースは150円
 ここに100円硬化がふたつ、10円硬貨が5つあるとしたら
 君は自販機にどれをどれだけ入れるかな?」(自販機の絵を描いた)
これは簡単に、一枚の100円硬貨と10円硬貨を5つと答えた
「今度は難しいよ、今100円硬貨が2つしかないとしたらどうするかな?」
少し困った顔をしたが、ちょいと意外な答えを考え出した
「ピアゴでは、近くに、、ええと、、ええと、、」
両替をしてくれる人がいるので替えてもらう
と言いたいらしい
「よく気がついた、偉い!でも近くに誰もいないとしたらどうするかな?」
「ええと、2つ入れて、ボタンを押して、、」
「それでジュースを持って帰っていいのかな?
 それだとお母さんに怒られないかな?」
ここからが難しい、、お釣りの概念がわからない、、
なんとかして、そういうものだ、、と分かってもらおうとしたが
難しいようだ
でも彼は必死に何かを伝えようとした
死んだおじいちゃんが80円くらいなモノをかった時、100円硬貨を入れた
とか
太鼓の達人は1人100円で、二人の場合は200円で、5人では500円ではなくて
5人ではできないとか必死になって説明しようとした
こちらは太鼓の達人のシステムがどうなっているのかわからないが、
彼ががちゃんと説明できるか我慢して聞いた

こういう時、彼は必死に言葉を探している
なんとか分かってもらおうとしている
ピント外れなことも多いようだ
でも必死になって頭をフル回転している

そんなことをしていると小学生2年には長いと思われる時間が過ぎた
「すごい、Aくん、今日は集中してできたね」
普段は疲れたりサボりたい様子が見えるが今日はそんなことはなかった

今日は七夕ということで、このボランティアの主催者が七夕の短冊を持ってきて
「なにか願い事を書いてごらん!」と告げる
願い事?
どうもそれがわからないようだ
「だったら欲しいものを書いてごらん!欲しいものは何かな?」
「鬼滅の刃の本がほしい」
「だったら、そう書いてみな!右の方から書くんだよ」

彼は言われたとおり書いた
「きめつのやいば」が「きみつのやいば」と書いてあったが
彼らには難しいのだろうな、、
短冊をカーテンレールの飾って、さて今日の行事も終わり、、
そう思った時、彼は「もう一枚書きたい」と言った
「いいよ、書いてごらん」
短冊を手にした彼は、今度は悩むことなくすぐさま書き始めた
「これ!」
彼が見せてくれた短冊には
「きょうは しゅくだいができて うれしかった A」

こういう瞬間がたまらない
今日は宿題をしたわけでなかった
でも彼は充実した時間を感じたのだと思う
人の気持ってのは通じるものだ、、
天気の冴えない七夕だが、自分にとってはとても良い七夕だった

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イライラしている

2020年07月06日 10時03分48秒 | 徒然なるままに

少しイライラしている
思うようにならないことが続くためだ
世の中は思うようにならないことの方が圧倒的に多い
それでもつい望むのは、自分の思い通りに物事が進むことで
それが満たされないと、どうしても凹み気味になる

世の中は自分の思い通りに進むべきと考えることは
(たとえそれなりの理屈があったにせよ)
一種の全能感を持つことで、少々不遜なのかもしれない
と気持ちの余裕のあるときは謙虚になれる
しかし、それはできないのが、、不完全な人というものの有り様

これら(望むように進んでほしいこと)は気持ちの持ち方で
クリアされるようなことではない
もしかしたら、思い通りにならないからイライラしているのではないかもしれない
と不意に思ったりした
もう少し、何が根っこにあるか、考えてみることも必要か

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