パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ミャンマー戦(ワールドカップ アジア二次予選)

2019年09月11日 09時22分21秒 | サッカー

おそらく選手は最初の数分で相手の力を見きっただろう
「負けることはない」(結果は日本2-0ミャンマー)
時間が経てば結果が出てくるにもかかわらず、
自分たちで結果が出る前に結果を決めてしてしまう

昨日のワールドカップアジア二次予選のミャンマー戦での
不安はこのようなメンタルに関することだった

だいの大人が必死になって埋められない差がそこにはあったのは事実だ
試合終了前に勝手に結論を決めてしまう
これは油断に繋がるのでそういう気持ちで戦ってはいけない
とされるが、そこは人間の弱いところでみんながみんなそういう気分にはなれない

アジア二次予選は、FIFAランキングが示すとおり実力差があり
よほどの慢心が無い限り首位通過は可能だろう
だが不安なのはこの差のある相手との戦いにおいての選手のメンタリティよりも、
少しばかり別のことで騒ぎすぎるメディアだ

確かに久保はいきなりの最初のヒールのパスで驚きを与えるようなところを見せた
そしてそれはアイデアの豊富さ、効果的な判断、、を彷彿とさせるものだった
でも、昨日の伝えるべき内容は、久保じゃなくもう少し別のことだったように思われる

昨日は相手のシュートゼロ
得点は3点以上
それくらいが合格点ではなかったか
それくらいの結果を基本に昨日の試合を振り返る
というのがメディアの正しい伝え方ではないのかと思ったりする

ところで、昨日もその前の試合も、中島は少し抜きん出てる感じ
そのことを伝えるメディアは、、、

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海外派遣の高校生は、何を感じたか

2019年09月07日 08時54分44秒 | あれこれ考えること

電車で見かける高校生をやたらと幼く感じることが最近多い
自分は年齢を重ねていくが、高校生は15歳から18歳くらいまでで
いつも同じだから、自分が歳とった分だけそう感じるのかもしれない
高校生がこんなだから自宅の前を自転車で通り過ぎる中学生は
もっと幼く思えて、まるで小学生そのものと感じてしまう

昨日「高校生海外派遣報告会」が新城商工会議所で行われた
これは世界中の「新城」と名付けられた都市との交流を目指した
「ニューキャッスル・アライアンス」事業の一環で、毎年海外の
「新城」に一定数の高校生を派遣し、交流を深めると同時に
個人の経験を積んで今後に生かしてもらおうとするものだ

今年はイギリスのニューキャッスル・アポン・タインへ
15名の高校生(女性9名・男性6名)が派遣されたが
自分たちの若い時代はこんな興味深い試みなどはなかった
と少しばかり羨ましい思いを持ちながら報告を聞いた

報告会とはいうものの、派遣の高校生がみんな平等に報告するので
時間がたりず、結局深いところまでの報告はなかった
ただ、多分初めての海外旅行ということで、それに対する高揚感が
メンバー全体から感じられた

自分が一番関心を持ったのは、彼らが何を感じたか、、という点
英語の必要性を改めて実感したとか、積極的な態度が必要とかは
想像できたので、それ以外に何が心に残ったか知りたいと思った

公的な派遣のせいか、受け入れ側が「おもてなし精神」を発揮して
飽きないようにいろんな場所へ連れて行ってくれたり体験をさせてもらったようだ
ロンドンにいってハリー・ポッターの電車のプラットホームの撮影場所にいったり
武藤が所属するプレミアリーグのスタジアムに行ったり、2階建てのバスに乗ったり
そして彼らも、無邪気に思いっきり楽しい時間を過ごしたようだ

でも自分の関心はどうしても、彼らは遠くの地で何を感じたかという点で
それは自分の体験との比較となる

自分が最初の海外に出たときは、まずは日本との違いに驚いた
石造りの街、電柱のない景観、右側通行、横断歩道の信号、日曜休みの店舗、教会の多いこと
最初に驚いたのはこんなことだった
もう少しすると人に関することに移って
ユースホステルで知り合ったなかには、いい年をした(20代後半とか30代)の学生が多いことに驚いた
また街(コブレンツ)をブラブラ歩いていると、ちょいと酔っ払ったおっさんが
「お前は日本人か、今度も一緒に(戦いを)やろうな。イタリアは除いて」
と話しかけてきたのを覚えてる

ポーランド人がやたらと日本のことについて詳しいのに驚いた
大相撲の話とか、アントニオ猪木がモハメッド・アリと戦ったことだとか
遠藤周作だとか(彼はポーランドでなにかの賞をもらっていたようだが)
これは、当時ソ連の実質的な支配下にあったポーランドが
日露戦争で大国ロシアに勝った日本を、少しばかり尊敬の目で見ていたことの裏返しのようだ
(彼は共産主義ノーノーとこぼした)

その他にも食べ物に関すること
意外に質素な食生活(ドイツ)色とりどりの生命力に満ちた野菜や果物
水は炭酸入りが標準だったこと

石造りの住居に住む人たちの孤独は、日本の木造の家に住む人達の孤独とは
少し違うように思えたこと
桁外れのお金持ちや王侯のその豪華な生活ぶりを知ることで、
その立場にたちたいという欲望は自然に湧き上がる感情かもしれない、、と思ったこと

こうしたちょっとした気付きの中で、徐々に日本と比べている自分がいるのに気づいた
ここが日本は駄目だ、、経済大国と言われていても実質的にはまだまだだ、、
その感情は、数年前にドイツ・オーストリアを旅したときも感じたことだった

海外に出ることによって必然的に感じる日本との違い
高校生の心の中に何が刻まれたのか、、
その素直な気づきを知りたいと思ったが、残念ながら高校生の時点では
内的なものまで落とし込まれるまではいっていない気がした

でも個人差はあるし、時間の経過でいつかこれらの経験が急に大きな意味を
持つようになるかもしれない
これは市長のあいさつにもあったが、普段意見を異にすることの多いが
洞察力と実感に満ちたこの部分は、珍しく納得した

もしかしたら自分の感じ方は案外、市長と似てるのかもしれない、、(世代も一緒だし)
だから、彼の考えることが予想がつくとか、、と不意に浮かんだが
洞察力や想像力、知識は認めるとしてもスタートの部分が違うから
結局は水と油かな、、

海外にトライする人間の男女比は、もしかしたら女性が多くて彼女らは遊びで海外にでかけたとしても、
そこで世界の標準とか世界から見た日本を見るようになるに対して、
男どもはいろいろ理由をつけて外に出ず、結局は日本国内の常識とされいる、もしかしたらガラパゴス状態の
判断基準に支配されているのではないか、、との不安が浮かんだが
二年に一度行われるこの高校生海外派遣事業の前回は、男子のほうが多かったと聞いた
それで、少しホッとしたが、、実態はどうなんだろう

それにしても高校生は幼いな、、(それ故かわいいな)
あの中で「カラマーゾフの兄弟」を読んで、頭が破壊されるような経験をしている人がいたのだろうか
と自分を振り返って、つい思ってしまった

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夏笑う

2019年09月04日 08時22分24秒 | 徒然なるままに

「山笑う」は俳句の春の季語
この時期の、芽吹いてきている山々を眺めると
「山笑う」とはうまいこと言うものだと感じたりする

「夏が笑う」と歌詞の中にある歌がある
先日見た「ロケットマン」の主人公のエルトン・ジョンの一曲で
作詞のバニー・トーピンのとの共作で「ハイアントンの思い出」
(First Episode at Hienton)

とても叙情的な歌で、一人の女性と無邪気に遊んでいたのが
彼女が大人になるにつれて、女性も自分もひとりぼっちになっていく
それを惜しむような歌だ

この歌の中に「summer laughing」と歌われる部分がある
初めて聴いたときからこの部分がとても好きだった
「夏が笑う」の表現がとても詩的で、その言葉だけで様々な連想が羽ばたき
城の中を走り回ると歌詞が続くその城は、何故か昔ドイツに行ったときに
泊まった廃墟のようなコブレンツのエーレンブライトシュタイン城を思い出す

現在の日本の夏のような暴力的なイメージではなく、むしろ若い人たちの
ひとときの甘い記憶を喚起させる「夏が笑う」

「ハイアントンの思い出」は正確な歌詞の意味の把握ができなくても
英語で歌の雰囲気を味わうのが好きだ
日本語にしてしまうと、どこか違った無粋なものになってしまいそうで

ところで、「ハイアントンの思い出」は素人のカバーしたものがYoutubeにアップされている
この叙情的な作品に胸をかきむしられた人々は全世界中に一定数いるということだろう

歌詞をそのまま映像化したような動画は、こちら
First Episode At Hienton - Elton John (Story Video)

この曲をつくた頃のエルトン・ジョンが一番好きだな

 

 

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図書館の棚には少なかった現代史の本

2019年09月03日 08時49分46秒 | あれこれ考えること

以前トライしたが、難しくて途中で挫折した加藤陽子の「戦争の論理」


再挑戦したら今度は興味深く読み終えることができた
以前感じた難しさというのは、記述されている歴史的事実を知らないでいるためで
初めて目にする事実や人物の行動が、頭に入ってる前提でドンドン話が進められていくので
最近の自分の覚えられない傾向にはついていけないと感じたのだ

ところが、少し前「天皇機関説事件」を再読して、ロンドン海軍軍縮会議での条約の締結に
不満を持った連中のことが書かれていたが(美濃部達吉はこの条約を法的に有効としたために批判を受けた)
この「戦争の論理」ではその不満の詳しい内容が具体的な資料に基づき事細かに解説されていた
それを読むと確かに感情的な面もあるが、予想よりはもっと理屈に沿って反対している
国会での論争は割合真正面からの論争で、現在の日本の形だけの「ご飯論法」とは違うと感じてしまった

それから必然的に考慮せざるを得ない「天皇の統帥権」についての解釈がこの本では取り上げられ
当時の人達はどのように理解していたか、、みんな同じではないが、とても参考になった

しかし、これらの本を読んで、自分にはつくづく基礎知識が無いことに気づいて
そもそも日清戦争とか日露戦争、韓国併合などはどのような経緯で行われたのか
確認の意味で「現代史」を二三冊ざっと読むことにしようと図書館にでかけた

問題はここからで、歴史の棚に「現代史」に関する分野の本がとても少なかった
それは新城市の図書館レベルでは充実したものが揃えられない現実のせいなのか
それとも、我々が学校で学んだように「現代史」はおまけのような扱いでしか無いためなのか、、

仮に後者であったとしたら、、、と思うと、少しばかり不安を覚えてしまう
英霊などの言葉ではなく、死ななくてよかった人たちの先の大戦の桁外れに多い犠牲
それはもう絶対に繰り返してはならない
繰り返さないためには、繰り返さないシステムづくり(現実的な防衛環境)だけでなく
その戦争の原因追求から始めなければならない
(その当時の空気は何故戦争に向かったのか、、とか)
ところが、この肝心な反省すべきところの研究本が、、それほど見当たらないとすると、、、

現在、経済的にも実力低下の日本
最近の「日本凄い」の番組の多さは、自信喪失の裏返しのようだ
そして、芳しくない事実をみないようにして、良いところだけを見ようとするメディアとオーディエンス
わかり易い例では、野球でもサッカーでもテニスでも、勝ったときは穴のあくほど新聞を読んだり、
繰り返しテレビを見たりすることととても似ている
でも真に経験を活かすことができるようになるのは、むしろ負けたときのことだ
負けた原因、不足している部分、、それらを分析して次の練習に備える、、、それがスポーツでは強くなる秘訣

ところが、それと同じことが政治とか社会では行われずに来ている
我市の少しばかり恥ずかしい市議会議員の政務活動費のゴタゴタ事件も
市長が個人で125万円を市に払うことなった行政訴訟の件も「何故そんなことが起きたのか?」
との検証や反省は、できるだけ有耶無耶にされているような印象を受ける
そしてこの対応に自分らが不満を覚える感覚を、お隣の国の人が日本(政府)に感じているのだとしたら
それは、わからなくもない

昔のことだが、疾風怒濤の時期、ドイツにでかけてある女性にあった
自分は彼女を久しぶりに出会った日本人だと思い、日本語で話しかけた
ところが彼女は出身が日本ではなく韓国だった
彼女は「ここはドイツだ、ドイツ語を使うべき」と怒ったように答えた
間違えたことを詫てドイツ語で話しかけると、彼女は結婚しており
「マインマン(夫)はドイツ人」と会話が続くことになった
嫌韓・嫌中の空気が呆れるほど世間で広がりつつあるが、外国にいってみれば
このように日本人も韓国人も見分けがつかない
わかるのはアジア人同士だというくらいなもの

だからアジア人同士は仲良くすればいいのに、、と思うのはとても自然なこと
と思うのだが、何かがこのシンプルな思いにブレーキをかけようとしている

我々は、自分たちの先の人物たちが何をやって、何を失敗したのかを
もう少し謙虚に学ぶべきだと、最近つくづく思う


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Metライブビューイング「ラインの黄金」

2019年09月01日 08時51分12秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

体調が悪いというのではなかった
期待していなかったこともない
でも感動しなかったMetライブビューイングの「ラインの黄金」
(ミッドランドシネマ8月31日上映)

8月18日の愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」の熱い余韻が残るうちに
おさらいの意味も込めて、電車賃を使って名古屋まででかけたのに、、

「ラインの黄金」は地味な作品だが、その後多用されるライトモチーフが初登場で
その場面を覚えておくと物語の理解が進むので、思いのほか面白い
少なくとも前の2回はそう感じていた(新国立歌劇場と愛知祝祭管弦楽団の生)

ところが昨日は悲しいくらいに心が震えなかった
それが何故だったのか、、を考えることがまさかブログテーマになるとは、、

まずはヴァーグナー独特のまとわりつくような、色彩的であり迫力のある音が
どうも感じられなかった
音量はそれなりなのだが、迫ってこない
これはデジタル録音のせいなのか、それともレヴァインの指揮のせいなのか
いぜれにせよ会場を包む空気感とか音圧というものが、過去2回の生とはだいぶ異なった

そう言えば、自分はCD音源で感動したことが無いかもしれない
夢中になって聴いたのはレコード音源のほうで、便利この上ないCDはどうも何かが足りない
映画で使われるのは上と下の領域の音がカットされているのだろうか
その詳しいことはわからないが、映画から流れる音楽は、音楽が主人公というよりは
「映画音楽」だった

ライトモチーフはもっと雄弁に、思わせぶりになってほしかったが
目立つモチーフだけがメリハリよろしく鳴っているだけで
これはレヴァインの好む音楽なのだろうか

もしかしたら画面に頻繁に登場する顔のアップがいけなかったのかもしれない
歌いながら顔の表情で心理描写しているのは凄いものだ、、汗もかいて、、
と思ったものの、その絵は本当に必要なのだろうか、、と疑問を感じた
この映画は音楽ドラマの流れが中心なのではなくて、出演者のパフォーマンスが
中心となって、音楽は背景でしか無いような、、そんな気がしてならなかった

登場人物のアルベリヒとローゲは、もう少し音色で性格を現してほしい部分があった
その歌い手さんの名前や実績は知らないが、世界の檜舞台の出るくらいだから実力者なんだろうけど

「ラインの黄金」は人間が出てこない
小人、神々、巨人、、しか登場しない
だが、この人間が登場しない設定こそが様々な解釈ができそうで面白いのかもしれない
指環の由来、指環にかけられた呪い、、それらは「ラインの黄金」を見てこそ理解できる
やはり4部作は全部見て理解可能なんでろう

昨日のラインの黄金で、続く物語は行かないことに決めた
来年の3月にはびわ湖ホールで「神々の黄昏」があるので、そちらの方は行く気満々だが

結局、生には勝てないということなんだろうか
でもレコード音源の音楽には時を忘れるほど感動することはあった
ただ、それも若い時ゆえのものだったのだろうか

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