パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

2つの「ピュア・マッカートニー」

2016年06月11日 19時28分51秒 | ポール・マッカートニー

ポール・マッカトニーにとって6月10日という日が
どのように特別な日か分からないが
ビートルズ時代以降の楽曲のベストアルバムが
この日に発売された 

大半はレコード・CDで所有しているので敢えて求めることは
ないのだけれど、ポール好きでここまでお付き合いしたら
ご祝儀!みたいな感覚でAmazonで求めた
それが今日届いた 

 

ネット上の広告は「ピュア・マッカートニー」となっている
ところが、このタイトルで以前発売されたアルバムがある
上の画像の左がそれで、確かに「ピュア・マッカートニー」と書かれている

このアルバムは初期の名作「RAM」をそっくりそのままの
カバーしている
演奏しているのはデンマークのティム・クリステンセン 
これは本当に楽しい
まず無条件に楽しめるのがポール大好き!といった思いがアルバム全体に感じられること
カバーと言っても無理やり自分らしい色に染めることなく
原曲を大切に出来るだけ近づけているみたいで
それがとても心地よい

ところで、最新の「ピュア・マッカートニー」自分は4枚組の方を購入したが
曲数は67曲 こんなにたくさんの曲がビートルズ解散以降に作られて
その一つ一つが好まれているという事実に驚く

そしてこの67曲の中に漏れた中にも入れて欲しかったというのが
何曲もある
(例えばCall Me Back Again とか What's That You're Doing?まだまだあるぞ、、、)
でもどちらかと言えば、ビートルで解散後、評判のよく無かった初期のアルバムから
たくさん選ばれているのが嬉しい
(その当時から自分は良いと言っていた 特にRAMは最高と)

RAMの中からDear Boyが選ばれたのも良い
ライブでもやって欲しかった一つだ Ram Onもやって欲しかったな

全67曲は流石に多くて今日は最初の一枚聴いたが
実は昨日もう一つの「ピュア・マッカートニー」を聴いた
楽しめたことは先程述べたが、1つだけやはりポールとは違う
音楽性の差が感じられた一曲がある
RAMのレコードのB面一曲目 Monkberry Moon Delightだ
この曲の後半半分くらいは繰り返し、あのヘイ・ジュードのみたいに
ボーカルによるアドリブがあるのだが、
ここにポールとティム・クリステンセンの差が くっきりと現れる
実際のところ自分がこの曲を聴く場合前半部分よりも 
繰り返しのアドリブに耳をそばだてる
そしてポールのメロディアスなベースラインのようなところにうっとりするのだが
残念ながら ティム・クリステンセンはあっさりと終わっている

この時代に生きてサッカー界の天才メッシをリアルタイムで見られるのは
とても幸せなことだと思うが、
同様にこの世紀の天才ポールマッカートニーと
同じ時代を生きているということは、後の時代の人から見れば
羨ましく思えることに違いない

彼はもうじき74歳(6月18日が誕生日)
また日本に来ることはあるのだろうか 

 

 



 

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同じ演奏ばかり聴いている

2016年06月10日 19時32分38秒 | 音楽

レコード・CDが少なからずある
ジャンルは雑食系で本当にいろんな分野に渡っているが
(演歌や現代音楽のアルバムも所有している)
これだけあってもその日の気分で
順番にいろんな曲を聴くということはない

最近、聴く曲は大体決まりつつある
まるでランチメニューをついついいつも同じものを選ぶように

クラシック関係では
バッハはたくさん持っているが聴くのは少しだけになりつつある
いいのはわかっているけど、真面目過ぎてちょっとついていけず
針を落とす気に離れないでいる
バッハが一時期忘れ去られた存在となったのは少し分かる気がする
(好きなのはシャコンヌとパッサカリアと音楽の捧げもの
  受難曲はいいけど気合が乗らないと聴けない) 

ベートーヴェンは割合聴く
でも中期の一体感のある作品よりは後期のピアノソナタとか弦楽四重奏曲
音で考えるということがどういうことかを感じさせるようだ
交響曲はエロイカが好きだ
第9は特に喜びの歌の部分ではなく後期の雰囲気が漂う3楽章がいい
そういえば部分的には荘厳ミサ曲のアニュス・デイ(クレンペラー)は聴く度に泣ける

シューベルト・チャイコフスキー・ショパンはめっきり聴かなくなった
マーラーもだ

マーラーと一緒にブームとなったブルックナーはよく聴く
抵当に楽章を抜き出して響きの中に浸る

それと忘れてはいけないモーツァルト
気分次第でいろんなジャンルを聴く
聴くというより聞き流すこともあるが
これは欠かせない
モーツァルトの音楽はまるで子どもたちのおしゃべりを聞いているような
幸福な気になったりする
昔、離れ島に何か一つアルバムを持って行くとしたら、、、という問いがあったが
自分は「魔笛」
モーツァルトは別格

あとはベルリオーズもシューマンもブラームスもショスタコーヴィッチも
フォーレも、その他いろいろも聞くけど
結局はやっぱり、ベートーヴェン・モーツァルト・ブルックナーばかりかな
(そういえば案外ヴァーグナーも最近は多くなってるかもしれない) 

洋楽関係は、、、やっぱりビートルズ
ビートルズというよりポール・マッカトニー
ソロとかウイングス時代も  特に最近は低評価だった頃のアルバムが面白く感じる

ストーンズもいいけどバッハを聴いた時みたいな感じ
ずっとあの調子で聴くのはちと辛い

ジャズはマイルス・デイビスが興味深くアルバムも多いが
彼と合わなかったと言われる?モンクもなにか心惹かれる
コルトレーンはどうも波長が合わない

結局、自分の思春期に聴いた曲が好きなだけなのかもしれない
 
本当に同じ曲・演奏ばかり聴いている
沢山あるのにもったいないという気がしないでもないが
どうしても同じものを選んでしまう

ホント、食事のメニュー選びで偏るのとそっくりだ
だんだん保守的になっているということ? 

朝に続いて、毒にも薬にもならないお話、、、


 

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その存在は、生き延びる確率を上げるため?

2016年06月10日 09時55分09秒 | あれこれ考えること

時々、考えることがある

吉本新喜劇にはヤクザが登場する(最近は少ないが)
決して良いものとは認識していないが
生活の一部分のような存在として扱われている

街にはヤクザのことを中心に書いた週刊誌が出版されている
同様に漫画にもその類のものが存在する
かつては映画でもヤクザのことを扱ったものが大ヒットした

少し変わった性格の面識のある人は、ヤクザではないが
ヤクザのことをとても詳しく知っていたり、どこかしら
憧れのような口ぶりで自慢でに話す事があった

反社会的な存在としてのヤクザ・暴力団は日本のみならず
全世界に存在する
イタリアにもアメリカにも、ロシアにも、、
きっとどこの国にも 

ヤクザと暴力団と任侠道に通じた人々を一緒に扱うのは
あまりにも大雑把なくくり方かも知れないが 
こうした人々の存在するのがあまりにも常態化しているので
本来どうあるべきかどうかを超えた時点で
全世界に存在する理由があるのではないかとも思ったりする

決してその存在を肯定しているわけではないが
そのようにしか生きられない人々が存在するのも
どうしようもない事実
(それは大部分が生活環境、生い立ちに依存しているとしても)

そうなると、極論なのだが生物としての人は(DNAは)
より生き延びる可能性をいくらでも予め用意しておいて
その一つが、ちょっと社会生活になじまないが、どこか活力に満ちた
存在を残しているのではないかと思ったりする

もっとも普通は人間社会は理性とか感情に寄り添って
どこか適度に折れたり妥協したり、適度に暗黙のルールを作って
暮らすほうが生き伸びる可能性が高いと考えているから
こうした存在を困るものだとしているが

話は突然変わるが、あるキリスト教信者の本にこんなテーマを扱ったモノがあった
神が完全ならば、なぜ悪という存在を創りだしたのか(あるのか?)

この本は読んでいないが、この様に大真面目に考えている人がいる
という事実は、何か根拠もなく救われる気がする

世の中は、確率論的に存在するのか(無意識の中の)
それとも明晰なスッキリした秩序の中に存在するのか
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った
心情的にはそれを支持したいが、最近の生物学は
確率論的な要素が多すぎて、一歩間違うと生き延びることこそが
全てみたいになってしまう(と不勉強な自分は勝手に自己流解釈をしてしまうが)

それにしても、どうしても消し去ることの出来ない
反社会的な存在
どうすればより少なくなるかという方法論はもちろんだが
なぜ、存在するのか(憧れてなりたがる人々がいるということ)
という問いは困難を極める
ホント、何故なんだろう

ま、得意の毒にも薬にもならない話だけれど、、、

 

 

 

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あちこちで聞かれる「違法ではないが、、、」

2016年06月07日 09時10分33秒 | Weblog

「違法性はなかった」とか「法に則って」とか
最近、嫌というほど耳にするフレーズだ 

これだけ耳にすると、そもそもその法というものが
どんなものか知りたくなる
ところが素人の辛さ、それがどんなものか詳しくは分からない

でも、ここ同じく耳にするのが
「ザル法」という言葉
「違法性はなかった」とか「法に則って判断してもミスが起きている」
というのは、どうもこの法自体がしっかりしたのもではないからのようだ

入り口はしっかり管理していても出口はユルユルの政治資金規制法
産廃関連の廃掃法やリサイクル法も、どうも環境を守るための担保となるよりは
別の目的のために作られた様に思えたりする

法は一つの目安になるが、悪用されると法に書いてないことは
何でもやっていいこと!と判断する人が出てくる
本来は、性善説ではないが、ひとりひとりが書かれていなくても
常識として行わないこと!いわゆるモラルの存在を前提としていた
しかし、今は、、、

書かれていないことを、法に触れないことを、モラルに反しても
行ってしまう人、それを「賢い人 」というのだろうか
少し気が小さくて、ついつい世間の目を気にして当たり前に
モラルらしきものを守る小市民は賢くないのか

ピケティは彼の著書で
「成功した人は、努力した人。運が良かった人。そして危ない橋を渡った人」 
と象徴的に書き残している
どうも最近は、「最後の危ない橋を渡った人 」の類が多すぎないか

小市民がついつい気にして守るモラルとか規則
それは本来は上手く生活していくうえでも知恵だったはず
ところが、今はそれがどうも機能していない
それより上位に直感的には理解しづらい法がある
そうなると、法を熟知している人たちのなすがままになる 

世の中はそんなにシンプルなものではない
と認めたとしても、もう少し感情的に納得できる世の中にならないものか
(でないと、感情の爆発がいつか起きやしないか)

なにかな、どうもやりきれない日が続く、、、 

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質問力

2016年06月06日 20時03分43秒 | あれこれ考えること

舛添都知事の第三者調査結果説明がテレビで生中継された
自分で選んでおいて果たして第三者か?
という意見もあったようだが、それについての追求はあまりなし

この第三者の弁護士さんに、舛添さんからお金をもらって
調べているのか?
というという問については弁護士さんはノーコメント 

説明会の後、質問の時間が設けられたが
フト、外国人記者なら一体どんな質問をしたのか?
を考えてしまった

質問者の所属(組織)と名前を名乗ってから質問したが
どうもTV系の組織の質問が多かった
ネットの世界の人もいた

新聞社の声は聞かなかったような気がする
また舛添さんの騒動を仕掛けた週刊誌もいないような様子

これはテレビを前提とした説明会だからその関係が多いのか
それとも記者クラブ加盟しているところに限定されているのか
その辺りは分からないが、せっかくの質問の機会を与えられている
記者さんの質問力はどうだったんだろう

説明を聞いてからでないと質問は出来ないから
ある程度の限界があるのは仕方ないとしても
果たして、一発勝負の戦いの場としての質問はどうだったのか

やっぱり予想した通りの流れになっただけのような
つまりはあの場所での戦いは記者さんの負けのような印象
あとの番組でいろいろ解説したところで、
あの場所ではやり込められてしまった感じ

ただ、弁護士さんが立腹したと思われるところは奇妙な気がした
確か、事実の確認作業について だったと思うが
弁護士さんがするその作業の正統性を(正確性)を質問した時
まるで、素人が口を挟むことじゃない、、、と言った雰囲気で
法律的な自分たちの正統性を上から目線で諭すように口にしたが
あれはどうなんだろう

夜や明日のテレビ番組でどんな風に解説されるか分からないが
記者さんの質問力  果たしてそれはプロのレベルだったか
外国人記者だったら、もっと鋭い追及はあったのではないか
などと勝手に思ったりする

庶民のレベルを上げる、レベルが上がるということは
記者さんの洞察力等のレベルが上がるということのような気がするが、、

記者さんは特別な立場の人間 
分かりやすくはいいけれど 専門家の話を聞くだけでなく
自ら本質をつく知恵と技術を身につけて欲しいものだ

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夏でも緑茶

2016年06月06日 08時36分27秒 | 徒然なるままに

夏になると、家庭でも飲食店でも麦茶を出されることが多い
ところが、どうも麦茶は胃腸との相性が悪い
麦茶はたいていしっかり冷えているが、そのせいなのか
それとも麦が合わないのか、必ずと言っていいほど下痢気味になる
(ビールを飲んだ翌日もお腹の調子が怪しい〉 

というわけで、もうずっと麦茶を飲むことはない
自宅以外でも「●●さんは、麦茶駄目でしたよね」と気をつかって
緑茶を出してくれる
(手間のかかる人間だ) 

困るのは麦茶しかない飲食店
ま、水を飲んでおけばいいんだが

麦茶は駄目だけど、冷たい烏龍茶は大丈夫
やっぱり麦との相性が悪いのか
 

 

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モハメッド・アリに関する記憶

2016年06月05日 09時28分52秒 | 徒然なるままに

自らを鼓舞するためとメディア受けを狙ってか
試合の前から賑やかしい行動の目立ったモハメッド・アリさん
最近はパーキンソン病で不自由な姿を見るだけだったが
74歳でこの世から別れを告げられた

この人のパフォーマンスで強烈に印象に残っているのは
ジョージ・フォアマンとの戦い
世に言うキンシャサの奇跡と言われるもの

あの当時のフォアマンは桁外れに強かった
ジョー・フレージャーをパンチでマットから浮き上がるくらいぶっ飛ばし
ケン・ノートンをロープに追い詰めぶん殴って 
その様子をテレビ画面で見ただけだが、その野獣のような怖さが
見ている方にも伝わって夢に出そうな気がした

こんな殴り合いに勝てる人がいるとはとても思えなかった
いくら、天才的に防御が上手いと言っても一発当たれば
それで即終了に違いないと思っていた

この試合(キンシャサ)大学時代 の出来事で
確か先輩とどこかテレビのあるところに出かけて見た

いつノックアウトされるのだろう?
正直なところ、そんな感じで見ていた
でも一ラウンドで倒されなかった
それまでのフォアマンの相手は早いラウンドにノックアウトされていたから
それだけで少し感心した
途中、ボクシングの技術らしいパンチ(フォアマンは殴り合い)が
2.3決まって、やるものだと思ったりしたが
いつかはやられるだろうと思っていた

しかし、あのロープを背にしてゆらりゆらりの戦術
実際はそれなりのパンチも受けていたのできつかっただろうが
ラウンドを重ねるとフォアマンが疲れてまともなパンチが打てなくなった
今までは早いラウンドで倒していたものだから、長いラウンドまでの
スタミナはなかった
そして、信じられないことが起きた
それほど強烈なパンチという印象はなかったが
フォアマンがノックアウトされた

相性があるかもしれないが、こういうことが起きるとは
正直とても信じられなかった

相性といえば、モハメッド・アリはケン・ノートンとは
あまり良いものではなかったかもしれない
ジョー・フレージャーとも接戦になる感じで

モハメッド・アリの記憶といえばもう一つ猪木との異種格闘技戦がある
この戦いを企てた猪木もすごいが受けたアリもすごい
戦いは凡戦に終わったかが、これは仕方ない面もあったかもしれない
でも、やったという事実は両人に対して敬意を払うべきかもしれない

昔、ドイツに行った時、この猪木とアリ戦のことを知っている人がいた

たった一人の格闘家、スポーツマンの死が世界中のニュースになる
彼はその生き様で人の記憶に残る存在となった
今の政治家さんは、果たして後々語り継がれる存在となるだろうか

 

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ブルガリア戦

2016年06月04日 08時32分24秒 | サッカー

日本7-2ブルガリア
(得点 岡崎、香川2点、吉田2点、宇佐美、浅野)

おそらく誰もこれほどの点差になるとは予想しなかっただろう
予想したことといえば、地味な試合
シュートチャンスがあってもパスを選択、シュートは撃っても
ゴールの上、ボールを前線に運ぶ手段はパスばかり、
DFはプレスを掛けられると不正確なパスのせいでリズムが作れない

ところが、入り方が日本は良くてブルガリアが悪かったせいで
このような結果に
結果的には岡崎の試合早々の得点でこの試合の行方を決めたようなもの
そして長友からの素晴らしいクロスを香川が決めて
勝負に対する興味はほとんど失せてきた

サッカーはそんなに得点に入る競技ではない
それはプレイしている本人たちがよくわかっている
余程のモチベーションがないと逆転を狙う気にはなれない
ブルガリアにムキになって戦うモチベーションがあったか、、

日本の入り方はなかなか良かった
前線からプレスを掛けて、早めのクロス
これは数日間の練習の成果ともいわれるが
代表戦は久し振りで、こうした久し振りの場合最初の20分間位は
結構良いことが多い
問題は、一段落してからの時間なのだが
一旦落ち着くと思われた試合も早めの二点目で
それいけドンドンでいけてしまった

この試合は本田が負傷のため出場しなかった
上手いけど軽めの選手の多い中、どうやってシュートまで持っていくのか
興味はあったがどちらかと言えばブルガリアのプレスがあまりきつくないので
自由にやれたというところ 

豊田スタジアムの代表戦は以前、ワールド・カップ予選のウズベキスタン戦を見た
試合終了間近のカウンターで0-1で負け
あの時本田はいなかったが、ストレスの多い試合だった
そんなこともあって豊田スタジアムの相性は良くないかもしれない
とも思ったりしたが、杞憂に終わった

で、昨日の試合、良かったのはやはり海外組
岡崎の得点能力
香川のシャドーストライカー(海外での10番の役割)
清武のパスセンス
長友の正確なクロスとごつい守り(一度酷いミスはしたが)
長谷部も 酒井も吉田も  やっぱり経験で身につけたものの大きさを感じる

少し芸能ネタになるが、長友が頑張れたのはアモーレのおかげ
というのはまんざらウソでもない
誰かにいいところを見せようと頑張る
これは半ば本能〈?〉のようなもので、少年サッカーでコーチをしていた頃
いつもはそれほど活躍しない、動きまわらない子供が、その日はやけに動きまわって
活躍したのが不思議で、よく考えたら親が見に来ていたということがあった
人間の力の不思議で、誰かが応援していてくれたり、いいふうにテンションが上がると
疲れないし予想以上の力を発揮できる

ところでブルガリア戦
2失点は、あれだけの差になった後だから緊張感が途切れて
甘くなってミスして決められたが、ありそうな話
これがイタリアだったら、きっと失点はしないだろうと思ったりする
(最近はそうでもないか)

大差で勝利した試合は気分は良いが、あまり参考にならないのも事実
失敗は成功のもと、負けた試合は次の試合の勝利のもとだが
あの試合で無理やり問題点を探しても気分的に真剣に扱えないし
浮かれ気分もある意味しかたないか

適度に負ける それも真剣になった上で
そうしないと本当の進歩は望めないような気がする
キリンカップは親善試合  生き死にがかかっているわけではないので
少しばかり甘いイメージの試合
本当はワールド・カップ最終予選に向けては現実認識をするために
きつい相手とアウェイで戦うことが必要なのではないかと思ったりする

でも快勝の朝くらいは単純に喜ぶとするか
 

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インターネットの世界とテレビの世界の評価

2016年06月02日 20時03分25秒 | あれこれ考えること

STAP細胞騒動のきっかけはインターネットでの指摘からだった
理研の発表から時間をおかず不正が指摘され一気に広がり
それを発見した人がいたという事実と広がりのスピードに
すごい世の中になったものだと感心した

ところで現在、小保方晴子さんの「あの日」と須賀桃子さんの「捏造の科学者」の
インターネット上の評価を比べてみるとなかなか興味深い
まずはネットには関係ないが売れ行き 
正確には分からないが「あの日」のほうが売れているらしい
でもこれはスキャンダラスな面があるから、一概に良し悪しはどうとは言えない

ネット上の書評 これがなかなか面白い
Amazonで調べてみると「あの日」はこんなにあるのか
と思われるほど、とにかく多い
そしてそのレビューに対してのコメントもハイテンションでバトルがかわされたり
それが異常なほど多い
そして当たり前といえば当たり前だが、本を読んだ人は五つ星の評価を与えている
もちろん低評価の人もいる
ただこの低評価の人は本当に読んだのか?と思われる部分が多かったり
人格的な批判をしている

「捏造の科学者」
これは読まずにレビューしている人はいないようだ
でも読んだ人はどちらかと言えば、大宅賞を得たにもかかわらず
低評価の人が多い
そしてその理由も、人格批判のようなことはなく
リークの出処、若山さんを一方的に信じ取材が公平になされなかったのではないか
といった指摘が多い

Amazonのレビューだけでなく読んだ人のブログ等を見ても
インターネット上ではSTAP細胞騒動は小保方さん寄りが多いような印象
これはテレビ上での扱いの印象とは異なる

テレビでは小保方さんは悪人
インターネットでは被害者
最近はこんな住み分けになっているのではないか
(なぜか小保方さん応援側は理論的、反対派は感情的な印象) 

もっともネット上でも最初の頃は小保方さんに対する批判のほうが多かったようだが
今は状況が少し変化しているように見える
やっと小保方さん応援側も市民権を得てきたのかもしれない 

ところで素人やプロの人が行う小保方さんの応援が
単なる感情的でないところが すごい(皮肉だが須田桃子並)
表に出ているデータ・情報からキチンと説明しようとしている

これらを読むと、テレビで流されたことは一体何だったのか
と疑問に思わざるをえない(本当に客観的で科学的で公平だったか)

確かにインターネットの力は大きい
しかし、グーグル八分という言葉があって、グーグルの検索にヒットしないものは
世の中に存在しないと思われるのと同じように 、現実の世界では(年寄りも多いので)
テレビで放送されないものは(事件が)存在しない と言っていいかもしれない
この意味ではテレビで名誉回復していない小保方さんの復権はまだまだの感じ
NHKのあの番組のBPOの結果も出てないようだし

自分がSTAP細胞騒動に関心があるのは
まずはメディアの伝え方が正しかったのかという点
次に本質的な科学の分野への興味
分化した細胞が外因性のストレスを与えることにより
初期化する現象の存在 の有無
何故か直感ではそういう現象はあってもいいのでは
(あって欲しい?〉と思ったりする 

それにしてもあの騒動は本当に不思議な事件だった
なぜかいつまでも骨が喉に引っかかった感じが抜けない
(多くの人は忘れてしまってるような事かもしれないが
 どうも気になって仕方ない)
 



 

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「マクベス」を見に行った

2016年06月01日 19時26分38秒 | 徒然なるままに

最初から最後まで晴れた天気はなかった
どんよりと思い雲が垂れ込め、光も弱々しく
色彩も土の色、血の色、鉄の色、、つまりは派手なところはない 
それが一編を通しての重い雰囲気を醸し出していた
「マクベス」シェークスピア原作の映画を見に行った

公式ホームページ

冒頭、3人の魔女が出てきて未来を暗示するシーンは
ついヴァーグナーの「神々の黄昏」のノルンを思い出してしまった
ヴァーグナーはこのアイデアを拝借したのか

原作は遠い昔読んだはずだったが例のごとく忘れてる
ただ「森が、、、」とか「明日、また明日、また明日、、、」
といったセリフがあったのはかろうじて覚えている

そうなると興味はいつそれが出てくるか
となるが「明日、また明日、、、、」は最後のほうで待ちくたびれた

物語をしっかり覚えていないせいと、外国人の顔が見分けがつかない
事もあって 筋を想像するのに苦労したが
いったん王を殺害してしまえば不安が増すのは当然のこと
それから先の展開は必然でもあり将来の王の候補を抹殺しようとする
この辺りは金正恩を連想してしまう

映画を見るのは久し振り 
本編を待つ間の予告編で次の来場を促すのだが
大画面で大音響で物を破壊するシーンがどの予告編でも続くと
何か少し変な気がする
退屈させないのが映画作りのコツとは言え、あれだけ破壊するシーンが多いと
人には破壊願望が巣食っていると感じざるを得ない

ところで、やっぱり自分と似たような変わり者はいるもので
「マクベス」を見に来た人は自分を含めて3人
いくら小さなスクリーンでも空き空きだった

今回の「マクベス」は正直、多少外れかな
という気がしないでもないが、それでも大宣伝費をかけての
派手っこい作品ばかりでなく、何かこだわった風変わりな作品も
地方都市でも上映してほしいものだ

ところで、自分が何かの機会に接してみたいのは
グリーンスリーブスの音楽が効果的なYoutubeの動画がある
「チューダーズ〈ヘンリー8世 背徳の王〉」



これは面白そう

※マクベス見て実感 「女は怖い!」

 

 

 

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