パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

困ること

2016年06月22日 09時43分45秒 | 徒然なるままに

困るのは政治資金規正法や清掃法が
ザル法と言うのではなくて、自分の記憶が
まるで大きな目のザルで水をすくっているみたいに
少しも蓄積されていないと実感すること

ミステリーを読んでも、登場人物が多くなると
人間関係が怪しくなる、まして集中と想像力を必要とする本などは
結果的に「読んだ」 という印象しか残らないことがほとんど
そしてコツコツ続けようとするドイツ語も単語が増えていかない

昔は覚えるのには苦労しなかったのに!
好きな車のスペックなんて一度見たら覚えてしまった
アルファロメオの排気量は1575ccで4気筒で変な数字だなとか
車の幅も長さも無理なく覚えられた

なのに、、、、
もう少し目的を持って取り組んだほうが覚えられるかもしれないが
そこまで、やる気はないし、、、(やる気の無さはぐでたま級?)
まー、いいか
きっと何かの役には立つこともある(かな?)
そう信じることにしよう

とりあえず、本を読もうとするだけ良いか
(でも深夜の読書は目が霞んできた、、、これも困るな) 

 

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後になって知ったこと

2016年06月21日 20時19分05秒 | 徒然なるままに

昨年ドイツに行って、現地で普通のスピードで話されるドイツ語が
全然聞き取れず悔しい思いをしたものだから、今になって
NHKやYoutubeでドイツ語の勉強をするようにしている

そんな中、教材にチップの話が出てきた
ドイツでは、価格の10%くらいのチップを払うのが普通です

あらら、しまった、自分は一度もチップを払わなかった
大きな財布をポケットやエプロンに入れながら給仕してくれた人
いくらクレジットで支払うとしてもチップは払うべきだったみたいだ

今思い出して、少し恥ずかしくなる
あの人たち、どんなふうに思ったのだろう

それを思うとチップを払わなくて済む日本は便利だ
次に行くときは(機会があったら)恥をかかないようにしよう
 

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産廃反対者連絡会に行ってきた

2016年06月20日 10時29分15秒 | 産廃

新城市の一鍬田公民館で、2週間おきに行われる
新城市産廃反対者連絡会に行ってきた
この連絡会、既に42回を数えている

自分が参加というより傍聴し始めたのは 
そんなに昔からではなく、こまめに行くようになったのは最近のこと

南部企業団地のタナカ興業の操業に関して一貫して
反対の立場をとっているグループのための連絡会だ

一貫して反対を唱えているのは地域エゴと言うよりは
タナカ興業の別の地域の活動から予想される被害が発生した場合
今までの普通の地域住民の暮らしができなくなってしまう
ことを恐れての活動だ

そして現実に、操業が始まってしまった現在
操業がフル活動ではないと思われるにもかかわらず
心配した臭いの発生が確認され、市に被害届、苦情が数件届けられている

この臭いに対する不安は、グループが手にしたタナカ興業の操業の
計画などから容易に類推できたことであり(設備の能力やシステム上の性能で)
それ故に安心できる根拠をタナカ興業から聞きたいと思っていても
何故かそれは実現されず、また市もこれまたどういうわけか
市民に安心できる根拠を伝えず、ある時は許可は県で行い、ある時は法に従っているを
繰り返すばかりだ

この連絡会は、現状の報告から始まる
具体的な被害状況をまずは共有
昨日は、先日行われた市議会での産廃関連の一般質問について報告があった
それから、時々テーマが変わるが「勉強会」を設けて
感情的な反対運動にならないように、法的な分野、産廃施設の機能的な分野などを
様々な知恵を持った人から情報を得ている
そうした中には「情報公開」で得られた市とタナカ興業の数回にも渡る会議の様子があった
(産廃進出が公になる前の会議  そこでどんな話が行われていたかを知ることができるが
 驚くべきものであった)

勉強会は旬の話題を取り上げるほうが無理なく頭に入っていく
今の産廃の話題といえば「ダイコー」絡み
その話題を絡めて一般的な食品廃棄についての話が
昨年新城市文化会館で講演された石渡正佳氏の「食品廃棄の裏側」
の本を取り上げてなされた

問題としたのは肥料化のところ(タナカ興業も肥料化の事業だ)
本には(一部抜粋)
肥料化には、完熟するまで数ヶ月を要する。
ところが、どのまでやったら完熟かには食品リサイクル法にも
肥料取締法にも定義がなく、設備の能力が物理的に決まってしまう他の処理と違って
熟成期間を短縮すれば受け入れ能力(水増し能力)はいかようにもなる

つまり完熟すれば肥料となるのだが、完熟したと決めるのは企業側の申告やら
都合で適当に決められるということ
儲けることを至上命題とする企業は、当然の事ながら未完熟(臭いの出るものでも)
完熟したと称し効率よく肥料と解釈したものを作り続ける
(タナカ興業の熟成期間もずいぶん短い) 

政治資金規正法が入りはしっかり管理していても
出口がユルユルでザル法と言われるが、同様にこの分野の法律も
ザル法と言わざるをえない

またこの様な記述もある
未成熟性肥料の不法投棄は、農地造成工事を偽装して行われるので
発覚しにくい。この時肥料取締法がかえって抜け道になる。
肥料か土壌改良材かは、肥料取締法には定義がなく、未成性肥料の農地への
大量還元を規制できないのだ。(田原の件を連想させる)

結局は日本のいたるところで、同じような事が行われているということ
タナカ興業が!というよりタナカ興業もよくあるパターンの行動をしているということ

ならば、市は予想される危険性を各地の例から学んで、新城市には被害が及ばないように
すればいいと思うのだが、何故か心配されたことを被ることになってしまっている

まるで救いのない状況に思えるが、救いとなる記述があった(様に思える)

廃棄食品を大量に受注し、土壌改良材として大量に農地還元している肥料化施設は
実質的にリサイクル業者ではなく、最終処分業者である。農地は最終処分場でないから
農地が同意しても不法投棄である。

残念ながら、この部分の言わんとすることは自分にはよくわからない
産業廃棄物、一般廃棄物、リサイクル法、リサイクル業者、最終処分業者、清掃法、肥料取締法、
様々な法律が絡んで、その一つ一つに定義があったり(なかったり)
俄仕込みの自分の頭のなかでは細部が上手く結びつかない
(産廃反対者の方々はこのところをよく理解しておられるようで
 それだけでも感心してしまう)

ただ言えることは、よく使われる「法に則って」の一言が 
市民生活の安全・安心の担保をしていないということ
操業の許可を下す法律や、登録業者の認可をする法律は
それでもって安全性を担保する法律とは違うということのようだ

そんなことを知ってくると気が滅入るが
臭いの発生という事実は現実に存在する
優先すべきは、法の不備を問いたいが
もう少し現実的な対応だ

この新城市南部の問題が、南部だけでなく市内全域の心痛める
問題として共感の大きな民意となれば
あの舛添さんを辞任に追い込んだ力になる
現実に先日の市議会でも3人の議員さんから 一般質問で
産廃については扱われている
市議会で取り上げられているということは、市全体に関わることとして
心ある人々のもとに届けば良いのだが、、 



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選挙運動

2016年06月19日 08時39分01秒 | Weblog

その人は3回とも同じことを繰り返した
一応尊敬される立場にあるその人は、当たり前のように
ある会合〈イベント)で乞われて挨拶を行った

同じことを繰り返したというのは、この挨拶のことば
「おめでとうございます(会の趣旨に対する挨拶)、、
ずっとお聞きしていたい(拝見していたい)のですが、あとの予定がありますので、、、」 
と言って、挨拶だけをして途中からいなくなった

最初は、そうなんだ、忙しいのにご苦労様!
の印象だった
ところが2回目も同じことをされると既視感が先立って
あれ、またやってる
そして3回めになると、
そんなに忙しいなら来なくてもいいのに !
というか、この行動自体に少し嫌悪感を感じることになった

忙しいのに(本当にそうかな?)わざわざ来て(来たくもない)会やイベントで
挨拶する目的は 、、、、
そう選挙対策、名前を売る行為だ

昨日の河村さんがさり気なく、地域の盆踊り、敬老会、運動会に
市議が参列する(挨拶する)のは実質的な選挙運動だ
とこぼしたのを思い出した

選挙において、無理なく名前を売る機会の多さは
現役と新人とは最初からかなりのハンディがある 
現役は当選した時点からあらゆる機会を通じて選挙活動ができている

人は自分のことを語るのに、自分はあの人を知っているとか
あの人の知り合いだといって、少し有名なあの人の名前をあげたがる
そのあの人が現役の政治屋さんということは珍しくもない
少し知られた政治屋さんと知り合い、、それが人としてのステータスに
なるということは本当はないはずなのだが、現実世界ではよくある勘違いの事柄

政治屋さんはこの心理をうまく活用する
知り合いと錯覚させる機会を出来るだけ多く設ける
政治屋さんの中では多くの中のひとりにすぎないが 
当の本人にとってはそんなに客観的に自分の立場を解釈しているわけではなくて
何か知り合いであることで、自分が特別な人間と錯覚する
そしてこの様に無理ない選挙母体が出来上がっていく

でも、わざわざ来て挨拶だけして途中で離れる行為や
やたらと知り合いを増やそうとする行為は
何かしら違和感とか嫌悪感を感じる 

それにしても、弔電に誰々さんの名前が紹介されたり、、
なんだかな 

 

 

 

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思いの外興味深かった河村たかしさんの講演

2016年06月18日 19時00分25秒 | 徒然なるままに

知り合いに誘われて名古屋市長河村たかし氏の話を聞きに出かけた
 

河村さんは名古屋城を木造で建設したいとか、キーワードの減税とか
ちょっと品のない名古屋弁で何かと変わった人のイメージがある
正直なところ、減税の言葉もパフォーマンス用の言葉だと思っていた 

しかし、話を聞いて少しイメージが変わった
講演は思いの外興味深いものだった

まず減税について、これはパフォーマンスのためというより
「工夫する仕組み」のきっかけづくりとして取り組むということらしい
どこの家庭も入りが厳しいと必然的にいろいろ工夫してやりくりするようになる
そのやりくりの工夫こそが知恵となりムダを省くものとなる
市の財政も同じこと  そういう意味で減税をしようするのだそうだ

自分の行ったことでは、まず自身の市長給与の削減
次に市議会議員の給与の削減
これができた状態で、職員の総人件費の10%カット
こうすることにより名古屋市では180億の資金の捻出ができた

この180億の中110億円を、名古屋市民に減税という形で返還
(個人レベルでは大した金額ではなかったが)
残りの70億円を待機児童対策等に使ったという 
多少なりとも減税をしたということで市内の商業活動が活発になって
税収はアップしたみたいなニュアンス

なるほど、そうやればできるのか
と感心することしきりだが
現実には個人の給与のカットについては、とても大変な苦労や
粘りが必要だったんだろうと思われた

給与について話が及んで、市議や職員の給与の他国との比較とか
給与の基準ができた経過も知ることができた
これを知ると、日本は少しばかり外国と比べると
異様な立場にあるように感じる 
(戦後にできた給与に関する法律が、今となってはとても奇妙なもののようだ) 

同様に給与の話だけでなく、民主主義の現実的なところも
彼の解釈するところのものを聞くことができた
その中でしっくり来たのは、市議会議員は代理人であって
別にエラい存在でもなく市民と対等な立場である 
という下り 
自分は常々、市議会議員さんは分業としての専門職みたいな認識でいたので
大いに納得したところ

こんな風に時には自虐的になりながらも、基本的には真面目なところが
大いに見えた河村さん
この人の「民主主義」についての話は、観念的な(現実には実行を伴わない)どこかの
町の市長さんの話よりずっと心に素直に入っていった

その他、ロスアンジェルスの学校は学科の先生と、
人生を応援する先生が(パートタイマーではなくて)半々(?)揃えられている
とかが興味深かった

よその事を知るということ、いろんな考え方を知るということ
知ることは客観的に自分を振り返ることができて
本当に参考になる!と改めて実感する

 

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6月新城市議会傍聴(関心は議員さんでなくて現状認識)

2016年06月18日 10時09分03秒 | あれこれ考えること

6月の新城市議会の傍聴に行ってきた
数年前の自分から想像するとエラい変わりようだ

この議会傍聴については別のサイトでアップしていて
それがダラダラと長くて、もう一度整理してここに別の表現で
アップするのが面倒なので(このいい加減さが自分らしいが) 
あちらのコピペで横着 しようと思う

====================================================

 

いつもは市議会議員の方に関心がいく市議会
少し傍聴慣れしてきたせいか、今回は質問に応える側(職員)が気になった

いつも、と言うかしばしば感じるのが職員と一般人・議員さんとの現状認識の違いだ
議員さんは行政の監視役という立場だから、少しばかり批判的な姿勢を取らざるをえない
それは役割としてであって、けっして仕事ぶりを評価していないということではないだろう
(昨日は職員さんに向かってキツイ質問をされた議員さんがいたが)

この現状認識の違いがよく感じられたのが、産廃関連の臭いに関すること
地域自治区のこと、それと新東名運行バスについて
(それは自分の関心ある分野だったせいもあるが)

まずは地域自治区について
導入後3年後経過したこのシステムの評価について
自治区の委員が延べ643名、320件の交付金事業、協議会だよりも定期的に発行されている
18歳以上の満足度調査によるとアップしている
だから、概ね上手くいっていると表現したかったのと思われる

ところが質問にもあったが、地域自治区とセットになっている地域協議会の委員が
区長さんが兼任することが大半で、区長さんの仕事が多くなりすぎで
ある地区では地域協議会の委員長のなり手がなくて困る自体も起きている様な話も聞いた

この地域自治区、先日もここで取り上げたが果たしてこのシステムの全体像や機能・役割を
市民のどの位が知っているだろうか
少なくとも自分が聞いた普通の人の範囲ではそんなに知っている人はいなかった
実は、自分は交付金事業があることは知っているが、自治区予算の使い方の決め方については知らない

地域自治区制度は、(特に新城市は行政区を残したままで、それが物事をややこしくしているのだが)
どの自治体でも採用されているシステムではなくて、愛知県ではネットで調べると豊田市があるくらいで
そんなに取り入れなければならないようなものでもなさそう

普通、行政がなにか新しいことを導入しようとすると
数年間の準備期間を設けるのが普通
その内容の告知と理解の徹底、あるいは勉強・学習期間などで
さて新城市はどうだったか?

市民間に理解が深まるまでの情報の提供や勉強会がなされたか?
自分が出かけた公民館での市職員による地域自治区の説明会は
後半部分で市民の質問を受ける時間があったが、
そのそも市民は何を質問していいか、つまり説明されたことがチンプンカンプン
という状態だった

その半年後(だったか)このシステムは実施されることになった
あまりにも拙速すぎなかったか
少し記憶が怪しいが市長のブログで、確か愛大の教授が新城市の一年の総括を
述べているものがあって、その中に地域自治区のことがサラッと書かれていたが
そこには、理解が進んでいない面がある、、、といったような事が書かれていた

正直な話、このシステムは一般に理解が進んでいないものと思われる
準備期間が少なすぎて、わからないままに進んでしまったような印象がする
もっとも、どれだけ説明を尽くしてもみんなに理解が広まることは
難しいことも現実だが

でも取り入れてしまったシステム
どうせなら上手く機能させなければもったいない
そのためには、運営上のスキルだけでなく、このシステムの役割の機能から
つまり最初から勉強しなけばいけないのでは!と思ったりする

ここで現状認の話に戻るが、もう十分に周知されているというのと
まだ理解が進んでいないと判断するのでは、次に何をすべきかということが変わってくる
もちろん動いているので、いつも最初に立ち戻るのは現実的でないかもしれないが
ある程度は、そもそもこの地域自治区というものは、、、、
と言った理解が必要のような気がする

産廃の臭いについて
職員は「悪臭」という言葉を使わない
被害届を市に製出したのが2件、苦情が22件あったらしい
その人達はもちろん「悪臭」として届けている

臭いを悪臭とすぐに解釈するのは、臭いの感じ方には個人差があり
また現実に臭っている時もいない時もあって(測定した)
一概に被害があるとは言えないとの解釈を発言した

でもそれは言葉の上のこと、立場上そうしか言えないとしても
もう少しあの地区の人々の気持ちに寄り添った態度・表情が欲しかった

自分たちは自分たちに与えられた職務の範囲内で十分仕事をしている
自分たちは間違っていない
結局、行政の方々の理屈はこのパターン
これは「違法ではないが不適切」でのり切ろうとしたあの人に通じる
常識的にはなにかおかしいと感じる
しかし、その常識的におかしいことをもっと正確に説明せよ
その根拠は、数字は、法的なものは、、、
しかし、そこまで突き詰めて一般市民が答えられるか
だからこアバウトな常識という判断があるというのに

まずは臭いがでている、そして困っている人達がいる
その現実を素直に認識すべき

ところで臭い漏れの原因は旧建屋から新建屋への移動の時に
漏れたと考えられるとしているが、この可能性があることを
ずっと心配してきた
法的には(機能的には)だいじょうぶと言いながら
やっぱり!という現実
認可したのは県、新城市は関係ないといいそうだが
現実に新城市民を守ることが出来ないとしたら
法的にはそうであっても本当にそれで良いのか、、

新東名バスの問題
どう考えても現実的ではないと想像されることなのに
何故、そんなことを思いついたのか
これが一番の興味だが
市はアンケートした結果だとしている(現状認識の結果)

ならばそのアンケートは今通勤・通学している人に
新東名バスが必要か?とのアンケートをしたのかといえば
そうではなくて、以前何かのアンケートで
「(新城市に)住み続けられない理由に、通勤・通学が出来ない」という答えがあったから
ということらしい
これがそのまま新東名バスが必要とする判断も、えらく飛躍したものだと感じざるを得ない
そして現実的な面  ずっと心配している他の交通機関との競争力の点
そして運行時間の件
不安定な時間となりやすいバスで仮に定刻通り8時15分に藤が丘についても
名古屋の中心地栄には地下鉄で22分かかる
待ち時間や移動時間を入れると、民間企業が9時スタートだとすると
ちょっと間にあうか怪しくなる
それに料金も片道1000円は決して安いものとはいえない
(他の交通機関の定期とか割引運賃と比べて)

こんなことは自分に限らず、誰もが想像すること
その誰もが常識的に感じる不安を乗り越えて実行しようとするには
実は丁寧な説明が必要で、納得いくものでなければならないのに
行政からしっかり納得いく説明がなされたかといえば
やっぱり疑問
そして不思議なのは、行政の人でも同じように感じたはずなのに
何故、そんなに苦しい説明をしなければならないようになったかということ

誰もが普通に考えて普通に思うことを実行する
そんなことが何故こんなに難しくなっているのか
物事をあまりにも単純化して考えるのは、あまり良くないとしても
もう少し直感的に良いな!と思うことがなされないかな

※結局、一晩寝ても頭のなかは整理されず、ダラダラと長くなってしまった

====================================================

土曜の朝、まだ部屋はそれほど暑くなっていない
これからはこの夏最高の暑さという表現が続くんだろうな

ところで、今日は豊橋商工会議所で名古屋市長の河村たかし氏の
講演があって、仲間と聞きに行く予定
さてどんな話が聞けるか! 

 

 

 

 

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品格

2016年06月17日 08時26分25秒 | あれこれ考えること

舛添さんが辞職を表明して、この騒ぎはいったん次の段階へ

それにしても、相変わらずのメディアのバッシングは
呆れるほどだ
自分たちでストーリーを作り上げて、それに乗らない話は
取り上げない、無視する、反論を挟む余地を与えない空気を作る
これは一見、民意を反映したかかのように見えるが
一歩間違えると大衆迎合主義に陥る

性懲りもなくひどいな!と思いつつ
今回はあのSTAP細胞の時ほどマスコミに対して怒りを覚えていない自分がいる

それは何故なんだろう?
と、どうでもいいことだけど考えてみる

小保方さんと舛添さん
無意識にこの人物の好き嫌いを言えば
舛添さんは好きじゃないが、小保方さんは(男だから仕方ない?)
嫌いじゃない
冷静な意識と言っても実は無意識にコントロールされていると
「意識は傍観者である」と脳神経学者のデイヴィッド・グルマンは本の中で述べている

こんな大袈裟なことを持ちださなくても、
人にはよくある事の一言で済む

たまたまある人の文章を読んでいたら、
「これだ!」と思い当たった事があった
それは「品格のない知性」という言葉

舛添さんの「違法ではないが不適切」でのり切ろうとした姿勢は
違法でないことを拠り所にしているが、庶民感情は(常識)は
それではNOと判断している
これは感情的な盛り上がり・怒りというよりは
「このような考え方をする人は、いつかもっと重要な問題で間違いを起こす」
と無意識に判断しているのではないか

法は人々の常識をベースに考えられるものと思われるが、その常識から見ても
違法ではないとするならば、そもそもその法自体が不十分ものとして考えられる

今回のマスコミ、もっと自分的には大声を出して欲しかったのは
政治資金規正法についての変更と、第三者というのが客観的に正しかったのか
という点(もっとも佐々木善三弁護士は随分評判を下げたが)

何年か前「国家の品格」という本がベストセラーになった
新渡戸稲造の「武士道」も話題になったことがあった
自分を律するものの存在や根拠・必要性を説いたものだが
最近はこれらが希薄になっていないか

その代わりに「法的に、、、」という言葉が使われるようになっている
法に書かれていないから、法の解釈によれば、、、
そしてその法は、素人が読んで解釈するのは極めて難しく
解釈はほとんど専門家の仕事になっている
この専門家が「品格ある常識人」であればいいのだが
単なる詭弁の能力があるだけとしたら、それは不幸なことになる
(法は本来なら常識を反映すべきなのに、どうもそうなっていない傾向にある?) 

品格、誰にそれがあって誰にない、と判断するのは独断に過ぎないが
安倍さん、この人に「品格」あるのだろうか
安倍さんに限らず今の政治屋さんに品格のある人を見つけ出せるか、、

国連の緒方貞子さんは、よく知らないが画面を通してみただけでも
品があったな 
人に必要なのは、損得の瞬間的な判断力だけでなく
にじみ出る人間性(教養をベースとした)と思いたいが、夢想家すぎるか 

 

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「ディア・ボーイ」「ワンダーラスト」そして「エリナー・リグビー」

2016年06月14日 19時34分14秒 | ポール・マッカートニー

今回のポール・マッカートニーのベストアルバム(ピュア・マッカートニー)に
「ディア・ボーイ」「ワンダーラスト」が入っている
この曲が好きな自分は感性が認められたみたいで
少し嬉しい気分だ

この2曲、何がどんなふうに良いのかは
人それぞれと簡単に言い切ってしまうよりは
少しばかり説明できる特徴がある

この2つの曲は主だったメロディーに、同時に違ったメロディが
歌われている(対位法的?)
デイア・ボーイはポールのメロディアスな歌に
リンダのおおらかな旋律がかぶさる
この気持ち良さ

ワンダーラストはシンプルなメロディーに
今度は途中から小刻みにつぶやくような旋律が歌われる
これも同時に歌われるとものすごく効果的で
ゾクゾクする

実はこの手法、ポールは結構好きなようで
ビートルズ時代は「エリナー・リグビー」でもやっている
歌の最後に
All the lonely people
  Where do they all come from?
  All the lonely people
  Where do they all belong?」
というメロディーと「Ah, look at all the lonely people」
というメロディの
2つが同時に歌われる
ホント効果的で音楽的

ポールのこの手法は探せばもう少しあるかもしれない

で、ちょっと日本の歌について考えてみたら
この方法を使っている歌はどうもそんなに多くない
ずっと昔、河合奈保子のエスカレーションだったかな
それはこの手法が使われていた記憶がある(この曲はもともと洋曲か?)

そうだ、「ドレミの歌」もこの手法の気持よいところがある
「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」と歌うところと
「ソードーラーファーミードレ、ソードラーシードーレード」
とかぶさるところだ(この部分大好き)

ポールが好きな自分だから何かと理由をつけて
その良さを人に伝えようとするが、これが説得力を持つかどうかは
残念ながら分からない 
でも、本当にこの手法効果的と思うのだが、、、
(あまりやり過ぎるとうざったく感じるかもしれないが) 


 

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キム・ダミ ヴァイオリンリサイタル (宗次ホール)

2016年06月13日 08時25分55秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートに行くきっかけはプログラムか
それとも演奏家か?といえば自分の場合は
圧倒的にプログラムへの興味による

まずは演奏される曲が良いか、悪いかが 問題となって
いくら興味深い演奏家でも好みに合わないプログラムだと
それだけでパスしてしまう
(ゲルギエフは興味あっても苦手なチャイコフスキーでは
行く気になれない)

昨日、宗次ホールで行われたキム・ダミのヴァイオリンリサイタル

でかけたのは、このプログラム

2番目のヴィターリのシャコンヌが聴きたかったためだ

バッハと並ぶこのシャコンヌの名曲は、以前やはり宗次ホールで聴いた
この時は演奏者のヴィターリ愛にあふれ、感情のこもった演奏が
とても良かった

数カ月前からこのリサイタル(プログラム)は知っていて楽しみにしていた

ここからは完全に個人的な独断と感想
単なる思い込みに過ぎないかもしれないし、たまたま自分のコンディションに
よって不安定な感じ方だったかもしれないが
とりあえず何か残しておくことに

最初のヴィヴァルディ
その出だしの音でこの人の音の傾向・その日の方向性は
決まってしまうが、少し残念だったのが、その音は自分の好みの音ではなかった
楽器はストラディバリウスだそうだが何故かそんなにきれいな音とは思われなかった
特にフォルテというか大きな音量の時、もう少し吹っ切れたすっきりした音がでないものか
と感じて、実はこの時からヴィターリのシャコンヌの演奏にも少し不安がよぎった

ヴィヴァルディは職人的な音楽家で、内的欲求から作り出スタイプの作曲家ではないので
曲自体の必然性はあまり感じなかったが、ゆったりした楽章は四季の緩徐楽章を思い起こされて
この部分は心地よかった

さてお目当てのヴィターリのシャコンヌ
ピアノのゆっくりしたテーマの音形が奏されて
思い入れたっぷりのメロディーが奏されたが先ほど感じた不安を
吹っ切るものではなかった
何か空回りしている感じ(自分の中だけなのかもしれないが)

演奏は知らない曲の場合はその曲自体の訴えるものに集中できるが
聞き慣れている曲になるとつい比較という行為をしてしまう
ヴィターリのシャコンヌの比較対象はオイストラフ
この演奏が素晴らしい 濃厚な感情表現に富んでいてとてもドラマティック
他にYoutube でハイフェッツやサラ・チャンを聴いても
オイストラフを越える印象を持つことがない

こんな名演と比べることが可哀想なことだが、それでもライブだから
その時しか感じることの出来ない瞬間があるのではと期待したのだが
キム・ダミさんのこの曲に対する共感が本物ではないのでは!と思ったりする
いや、彼女はまだ若すぎるのかもしれない
この濃厚な感情の名曲はもう少しいろんな経験を積まないと
駄目なのかもしれない(と勝手に思い込んだ)

この曲に比べるとタルティーニの「悪魔のトリル」は良かった
音も無理なく鳴り始めて曲に感情が入っていく奏者の様子も見られた
(シャコンヌは感情の面が強すぎる曲なのかもしれない) 

後半のプログラムは概ね満足のいくものだった
ドビッシーのソナタは生で聴くのはラ・フォル・ジュルネの時以来
才気ばしったとっつきにくい曲だが、2回目のせいか
今回は結構面白く感じられた
(でも、やっぱり奇妙な曲の印象は残る) 

カルメン幻想曲は難しい聴き方をするより楽しむための曲
その意味ではリサイタルの最後を締めるには良い曲だ
なにか残るということはないが、その刹那は楽しむことができる

ということで、楽しみにしていたヴィターリについては少し残念だったが
こちらのコンディションもあるから仕方ないか
これが(お互い)一発勝負の生演奏というものか

ところで、席は指定となっていて前から4番目
本当はもう少し後ろのほうが良かったのかもしれない
演奏者と近すぎたために 生々しすぎた?

 

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「ヘイ・ジュード」「モンクベリームーンディライト」「マザー」

2016年06月12日 09時43分06秒 | ポール・マッカートニー

録音された時間の半分くらいが繰り返しというか
声によるアドリブ〈?〉で終止しているのが
有名なヘイ・ジュードと、ポールマッカートニーの
RAMの中の 「モンクベリームーンディライト」
そしてジョン・レノンの「マザー」

この繰り返しの部分を方向性を
ポールとジョンの比較をすると結構面白い 

ジョン・レノンのマザーは正直なところ怖い
「mother do'nt go 」と叫んでいるだけだが
どこか狂気じみていて、聴いてて辛い
だからこの曲を最後まで聴いたのは初めての時だけ
あとは途中でやめてしまう

一方ヘイ・ジュードとモンクベリームーンディライトは
ポールはダミ声でメロディというよりは
ジョンのように叫んでいる
でも繰り返しの中で次はどんなことを(表現を)するのだろう?
という興味のほうが先に立つ
そしてその多様さに驚くし、それらの表現が音楽的という言葉で
表現されるものになっている
昨日も挙げたがモンクベリームーンディライトの繰り返しの部分
特に最後の方のポールの鼻歌みたいな部分  好きだな

音楽で何を表現するか
音楽の範囲を超えず美しく何かを表現しようとした
根っからの音楽バカのポール・マッカトニー
まずは表現したいことがあって、そのためには
ジャンルの破壊すらも厭わなかったジョン

モーツァルトも音楽の中の秩序のなかですべてを表現しようとした
ベートーヴェンはジョンのように、まずは表現することアリきからスタートした、、、
とずっと思っていたが、どうもそうではないらしいという気持ちに
最近なってきた 

ジョンの方法とポールとどちらが優れているか
多分優劣はつけられない
要は、どちらがより好きかだけ、みたい 
自分は、、、タレ目のサウスポーの方 

コメント
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