Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

21世紀最初の10年のショーケース『2000年代海外SF傑作選』

2021年01月11日 | SF・FT
2000年代(2000年~2009年)の海外SF短編を集めた年代別アンソロジーが、約20年ぶりに刊行されました。
編者は近年の海外SF紹介に目覚ましい活躍を見せる当代きっての敏腕レビュアー、橋本輝幸氏。
さて時代も編者も変わった新時代のアンソロジー、どんな作品が収録されているのでしょうか。



【エレン・クレイジャズ「ミセス・ゼノンのパラドックス」】
時代も場所も定かでないカフェで交わされる二人のミセスの会話が、ケーキをいかに分割するかという議論から
量子力学的な極限状況へとエスカレートする話。

昔ながらのSFホラ話の系譜に連なる掌編ですが、細かく読むと有名な「無限分割」のパラドックス以外にも
「場所のパラドックス」が出てきたり(カフェの場所が不確定なのはそのため)、パラドックスが解消されたら
ワームホールが生成されるなど、ゼノンのパラドックスに関する考察を多面的に取り入れた作品のようです。
でも詳細までは理解できてないので、詳しい人の解説が欲しいところ。

【ハンヌ・ライアニエミ「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)】
知性化された犬と猫が拉致された御主人を奪回すべく、ハイテク装備をまとって奮闘する。

タイトルに象徴されるギャグめいたアイデアと頻出するガジェットに造語、そしてペットの主人愛が印象に残りますが、
知性化の功罪や人権の在り方、ディストピアといった深刻な問題の是非には触れずにひたすらカッコよさで押す物語。
昔ならサイバーパンクの亜流と言われそうで、ポスト・サイバーパンクというよりファッション・サイバーパンクっぽい。
ド派手なセンスを誇示する作風をクールと見るか、それともケバいと見るかは好みによりそうですね。
このキッチュな感覚こそSFだぜ!という人はすごく好きそうだけど、2000年代の看板を背負うには少々食い足りないかな。

【ダリル・グレゴリイ「第二人称現在形」】
意識は行動の後付けとして存在するものだとしたら、意識を遮断するドラッグで自我を失った肉体に後から生じたのは
いったい誰の人格なのか?

多重人格やクローニングなどで複数の自己と対峙する「私は誰?」的な物語は前からあったものの、
本作からは「私はみんなの思うような私じゃない!」という切実な叫びが感じられます。
自己同一性について疑問を抱える多くの人たちには特に強く響くでしょう。
さらに経済的・社会的に自立していないティーンエイジャーを主人公に据えたことによって、
親子関係や家族のかたちを問い直す普遍的な物語としても読めるのがうまいところ。
でも別人であろうと意識があるなら、それはもう哲学的ゾンビじゃないのでは?というモヤモヤ感もあり。
もしこれを日本に置き換えたら、むしろ会社や家族から逃げ出したい大人の間でドラッグが大流行するだろうし、
そうした人々を社会復帰させる仕事を描いたSFのほうが売れるかもしれません。
あと鈴木俊隆師の名前は直すべきだけど、増刷は難しそうなんだっけ……。

【劉慈欣「地火」】
炭鉱夫の父をじん肺で失った主人公は技術者となり、採掘によらず石炭をエネルギー化する技術を開発した。
しかしその実験は人間の想像を超えた大事故を引き起こす。

劉の強みは現実に存在する中央集権的国家の圧力を背景に、その中で生きざるを得ない個人の葛藤を鮮やかに描く点でしょう。
そんな社会における科学とは国家と人民の輝かしい未来を創るものであり、同時に立身出世の道具でもあります。
この素朴ともいえる科学観をめぐって理想と俗っぽさの間を揺れ動く登場人物たちの姿は、少し古いSFでよく見たタイプ。
1950年代から60年代の英米では社会批評を書くためにSFが用いられましたが、「地火」を含めた劉の作品には
その頃の作品に感じた生真面目さと未来志向、そして破天荒な描写を躊躇しない蛮勇があります。
いわば一周回ったところに中国SFブームが来たのかな……という印象もありますね。
でも最先端SFの多くが個の問題を書くことに執着する中で、国家や社会といった「大きな問題」を取り上げた作風が
広く支持されるのは、なかなか興味深いです。
本作は2000年の発表ですが、大惨事を食い止めようと奮闘する人々の姿やその先の展開は我が国の原発事故に驚くほど似ています。
作中で「空は落ちない」という格言を叫んで動揺を収めようとする人物が出てきますが、空だって落ちるときには落ちるということを
2020年に生きてる我々は既に経験済なんですよね……。
最後の章はとってつけたようでいかにも政府のプロパガンダ的ですが、記述をよく読むと年代の異動や事実の隠ぺいが示唆されています。
ここに情報操作や歴史修正主義に対する著者からの異議が隠されていると思いました。

【コリイ・ドクトロウ「シスアドが世界を支配するとき」】
リアルとネットの双方で発生した大規模テロは全世界を一瞬にして崩壊させた。
職場のクリーンルームで死を免れたシステムエンジニアは同僚と共に世界各地の同業者と連絡を取り合い、
新たな世界秩序の構築を目指して奮闘する。

2006年という発表時期は同時多発テロの余波も強く残っており、この翌年には事件の影響を強く感じさせる
『ユダヤ警官同盟』が発表されて話題を集めました。
アメリカの隣国であるカナダにとっても「明日世界が終わるかもしれない」という不安と隣り合わせだったはずで、
そうした危機感が作中のリアルな描写に表れているのでしょう。
バイオ兵器やサイバー攻撃との複合テロというビジョンは、世界の破滅なら核攻撃というそれまでの固定観念を覆したとも言えそう。
姿こそ出てこないものの、危機的な状況のグーグルを束ねる女性リーダーも主人公の男性SEよりキャラが立ってました。
それにしても、システム復旧に出動した管理者が世界中に生き残っているという設定はいささか楽天的じゃないかな。
リアルが滅んでもネット世界は生き延びるから、我々はそこを守って民主的に運営しなきゃ!みたいな感覚もちょっとなあ。
これでは21世紀のギーク版「コージー・カタストロフ」じゃないの?という不満も感じました。

【チャールズ・ストロス「コールダー・ウォー」】
ソ連が崩壊しなかった世界、冷戦は悪化の一途を辿り、東側は核を超える兵器として超次元の存在を利用する計画を進めていた。
これを阻止すべく西側諜報員も動き出すが、はたしてその結末は。

宇宙開発が進まなかった世界なので大陸間弾道弾も無さそう……といった側面からも考察できそうな作品。
異世界から来た邪神を大量殺戮兵器に使うという発想は宗教対立による世界紛争へのアンチテーゼであり、
核兵器の原料にウラヌスやプルートーといった神の名が使われていることへの皮肉かもしれません。
そして「残虐行為記録保管所」のタイトルがバラードに由来するように、その原型とも思われる本作では
かつてバラードが多用した、いくつもの断章を重ねていく「濃縮小説」の手法が用いられています。
さらに邪神との接触がWWⅡのナチス・ドイツから連綿と続くものであると示されることで、
本作もまた大量殺戮の時代における「残虐行為展覧会」を狙ったのではないかとも感じますね。

【N・K・ジェミシン「可能性はゼロじゃない」】
「ありそうもない出来事が次々と発生する」という怪現象に見舞われたニューヨークでは、確立的に低い事件も日常茶飯事。
そして住人たちは効くかどうかもわからないお守りに身を固め、毎日を懸命にやり過ごす。

マンハッタンを舞台にしていることから同時多発テロを直接的に示唆する作品なのは間違いないですが、
かつて地下鉄サリン事件や東日本大震災と原発事故を経験し、いま新型コロナウイルス禍のど真ん中で暮らす
われわれ日本人にとっても、大変身につまされる話です。
統計学的にまれな出来事が立て続けに起きるという設定はハインラインの名作「大当たりの年」を思わせますが、
あちらが幕切れに破滅の気配を漂わせるのに比べると「可能性はゼロじゃない」の終わりには希望が感じられます。
たぶんこの希望こそ、著者が書きたかったものじゃないかな。
何の変哲もない日々が突然断ち切られる不安、「いつ何が起こるかわからない」という不穏さが毎日の生活にも影を落とす世界。
でもそれこそ人生本来の姿なのではないか?という逆説を問いかけることで、ジェミシンは毎日を生きることの幸福と不思議さを、
SFならではの表現で見事に書ききったと思います。
「不確実性の時代」を生きる人々の不安と葛藤をユーモアも交えて描きつつ、その生活に寄り添うことで一種の人間賛歌にもなっており、
2000年代を最もよく象徴する傑作のひとつだと思います。

【グレッグ・イーガン「暗黒整数」】
異なる数学を基盤とした世界同士の接触が破滅の危機をもたらした「ルミナス」の物語から10年後。
異世界への新たな干渉が発生し、かつて事件の解決に関わった数学者たちは再び世界を救うため行動を起こす。

鍵となる暗黒整数の理屈はよくわからなくても、別世界の数学が入り込むことで世界全体にエラーが生じてしまうと考えれば、
とにかく世界ヤバい!という雰囲気はなんとなくつかめるはず。
「ルミナス」には2000年問題への目くばせが感じられましたが、「暗黒整数」は同時多発テロ以後も世界を揺るがし続ける
「異なる原理によって成立する二つの世界」の交わらなさを、数学原理に託しながらも比較的ストレートに書いています。
そして前作ではまだ対話の余地もあった異世界との交流は、本作でほろ苦い結末を迎えます。
これこそ前作から10年の刻を経た世界の変化を如実に示すものでしょう。
90年代傑作選からの続き物として本作が選ばれたのも、実はこの変化を見せるためだったりとか……?

【アレステア・レナルズ「ジーマ・ブルー」】
強化された身体で真空からガス惑星までを踏破し、宇宙空間に巨大な前衛芸術を構築する謎の芸術家ジーマ。
その作品に使用されるトレードマークの色「ジーマ・ブルー」には、彼の秘められた生涯との深い関係があった。

NETFLIXで発表されたアニメシリーズ「ラブ、デス&ロボット」で映像化された一編。
その原作を収録する企画によって、2000年代以降の年代別傑作選が出版できる道が開けたとも考えられます。
意識と記憶を論じることで美の意味を問い直す物語は、インスタグラムやライフログという形で全ての行動を記録すること、
あるいはコンシェルジュAIに決定権を委ねることが孕む問題点を経由し、やがてはポストヒューマンを超えたポストライフ、
すなわち人生の仕舞い方へと行きつきます。
そのときジーマの正体は既に重要ではなく、聞き手は彼を通じて「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
という根源的なテーマを突き付けられるのです。

全体を見ると、年代別傑作選の収録作にヒューゴー賞もネビュラ賞も含まれてないのはこれが初めてですね。
とはいえ両賞の価値がまるでなくなったというわけでもなく、コニー・ウィリスやテッド・チャン、ケリー・リンクら、
主要な賞の常連組については既に作家別の単行本が出ています。
でもSFマガジン2020年6月号でらっぱ亭さんが「零號琴にも通底する」と評したユージイ・フォスターのネビュラ賞受賞作
"Sinner, Baker, Fabulist, Priest; Red Mask, Black Mask, Gentleman, Beast"はこの機会に訳して欲しかった。

個々の作品だけ見れば出来栄えに偏りも感じるし、80年代や90年代の傑作選に比べると「マスターピース」と呼ぶには
ちょっと弱いかなという印象もあります。
それでも全体を通読して「よいセレクトだなあ」と思えるのは、収録作が互いに共通のテーマを持っているからでしょう。
例えばそれは同時多発テロ以後の不確定な世界、戦争への不安、意識や自己同一性への疑い、ポストヒューマニズム志向であり、
読者は読み進めるうちにこれらのテーマを異なる作品から繰り返し読み取って、その時代の輪郭をイメージできるわけです。
このあたりは編者の選択眼が光るところですね。
過剰に技巧的だったりSFとFTの境界にあるような作品もないので、SFになじみのない人が手に取るにもよいでしょう。
21世紀最初の10年をまとめたショーケースとしては粒のそろったアンソロジーだと思います。

その一方、2000年代前後に頭角を現した、あるいは時代を象徴する作家に絞ろうとするあまり、
それ以前からのベテランが引き続き活躍していることを示す作品が入ってないのは少し残念です。
かつて80年代SF傑作選にもゼラズニイやジョアナ・ラスの新作が収録されていたように、
2000年代に日本で再評価が進んだベテラン作家の新作も採って欲しかった。

例えば2004年に『ケルベロス第五の首』 2006年に『デス博士の島その他の物語』が単行本として出版され、
一気に再評価が進んだジーン・ウルフには、SFマガジン掲載時に話題を呼んだ2002年の作品「風来」があります。
またSFマガジン2021年1月号では中村融氏がエッセイのアンソロジー収録を提案していますが、これを踏まえて
やはり2000年代に『奇術師』『双生児』が評判となったクリストファー・プリーストの「戦争読書録」を入れるとか。
あるいは日本で編まれることを念頭に、原爆の代わりに巨大怪獣映画を作って太平洋戦争を終わらせようとする珍作戦を
スーツアクターの視点から描いた、ジェイムズ・モロウ「ヒロシマをめざしてのそのそと」を収録するとか。
本来なら作家別作品集が出れば一番よいけれど、まず見込みがないモロウなどはこうした機会に残して欲しかったですね。

橋本氏もnoteで語ったとおり、年代別アンソロジーにはSFマガジンに収録されたきり書籍化されていない作品を
もう一度世に出す役割もあると思います。
しかし10年分を1冊にまとめるのはさすがに紙幅が足りないとすれば、早川書房にはそろそろ往年の名アンソロジー
『SFマガジン・ベスト』の再始動なども期待したいところですが。
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第2回名古屋SF読書会『虎よ、虎よ!』に参加してきました

2015年04月02日 | SF・FT
twitterでお世話になってる舞狂小鬼さんたちが主催する「名古屋SF読書会」に参加してきました。

この読書会、回数はまだ2回目ですが第1回の盛り上がりがすごかったと聞いていて、
さらに小鬼さんを初めとするスタッフの皆さんは10代20代のころににSFファンダム界で
バリバリ活躍していたというツワモノぞろい。
これはいっぺん参加したいなと思っていたところ、第2回で取り上げるのがベスターの歴史的傑作
『虎よ、虎よ!』に決まって、参加したい度がさらにアップしてしまいました。
とはいっても実は読書会とか出たことないんで、どんな感じになるか不安はあったものの、
そこはなんとかなるだろーという勢いで、関東の端っこから名古屋まで駆けつけちゃいました。

当日はお昼ちょっと前に名古屋入りして、舞狂小鬼さんの他に放克軒さんとたこいきおしさん
(このお二人も若いころから鳴らした、SFファンの兄貴分)と合流。
小鬼さんお勧めの店でエスニックな昼食を食べつつ、雑談がてら読書会のウォーミングアップとして
小一時間ほどベスター談義を繰り広げましたが、この時点で早くもミニ読書会の様相を呈することに。

このカレーはさっぱりしてるけどコクもあって、大変おいしくおただきました。

その後は会場に移動し、いよいよ本番の読書会がスタート。
まずは30人ほどの参加者が3班に分かれて『虎よ、虎よ!』について感想を述べ合う形式で進みました。

私の班はSFにあまりなじみがなかったり、ミステリ読書会からの参加という方が比較的多くて、
『虎よ、虎よ!』についてのファーストインプレッションが「あまり好みじゃない」という方が
全体の半分くらいを占めてました。
理由としては「主人公の悪逆非道ぶりに共感できない」というのが多かったのですが、一部の女性からは
「復讐のためにいろいろ学んで努力する姿がだんだん健気に見えてきた」という意外な支持もあったりして、
単なる嫌われ者という見方だけでもない様子。
内容については「サクサク読めるけどなんだかよくわからない」「いろいろ書いてありすぎて読むのが大変」
「勢いに任せて書いてるみたい」という意見もあって、とにかく詰め込みすぎな印象が強かったようです。

ここで班長の小鬼さんから話題のとっかかりとして、元ネタのひとつ『モンテ・クリスト伯』が紹介され、
大筋は元ネタが踏襲されていることや、主人公のガリー・フォイルが刑務所内で知識を得る場面などは
一種の教養小説とも読めるとの説明がありました。
さらに終盤で、フォイルが実現不可能とされていた宇宙へのジョウントを行う一連の場面については、
『2001年宇宙の旅』との相似性に触れつつ、ニーチェの超人思想の影響が現れているとの指摘も。

私のほうは小鬼さんの指摘を受ける形で「ジョウントとは何か」についての解釈を披露しました。
なぜジョウント現象は単にテレポーテーションと呼ばれないのか?というのが最初の疑問ですが、
それは発見者の名前というだけでなく、物語が進むにつれてフォイルの容姿と精神が変容するように、
ジョウントという言葉の持つ意味も変容していくからなのでは…と考えたわけです。

それを解く鍵が物語の序盤にある「ジョウントを成功させる鍵は、何よりも疑念をもたず信じることである」
という説明と、終盤でフォイルが語る「信仰において最も重要なのは、信仰を持つということ自体なんだ」
というセリフだとすれば、すなわちジョウントこそがニーチェの言う「神が死んだ」24世紀における、
新たな信仰のかたちなのではないでしょうか。
そして人間は己の可能性を信じることによって遂に星々の彼方へと跳躍し、人類という種は新たな段階へと
進化できたのではないか…というのが、私なりの読み方です。

でもハードSF派の人から見れば、超能力よりは量子テレポーテーションのほうが納得できるという
厳しい意見もあって、このへんは50年代SFをいま読むことの難しさなのかなーと思いました。

『虎よ、虎よ!』のいささか詰め込みすぎとも見えるアイデアの一部は、後にさまざまな作品へと
転用されており、中でも特に有名なのが『サイボーグ009』の加速装置です。
参加者の多くも、真っ先に思い浮かんだのはこれか『AKIRA』の燃える男だったようですね。
新しめの作品では、うえお久光の『紫色のクオリア』がそのまんまベスターへのオマージュであるとか、
『天元突破グレンラガン』の螺旋界認識転移システムがまさにジョウント能力だといった例が挙げられ、
21世紀になってもベスターの影響力は絶大だということを改めて感じました。
まあベスターもデュマの小説とブレイクの詩にインスパイアされて『虎よ、虎よ!』を書いたわけで、
名作の遺伝子は常に時代を超えて受け継がれるということなのでしょうね。
また、終盤に出てくるタイポグラフィについては「まるで3Dのようだ」という感想もありましたが、
それなら『虎よ、虎よ!』を下敷きにした009を3Dアニメ化した『009 RE:CYBORG』のような作品は、
ベスターの脳内映像に現代の映像表現がようやく追いつきつつある一例なのかもしれません。

感想のあとは、関連書として次に読むオススメ本の紹介へ。
これまで出た作品名のほかには『地球へ…』『スター・レッド』といった往年の名作マンガ、
ワイドスクリーン・バロックつながりでバリントン・J・ベイリーの作品などが挙げられました。
復讐譚として挙がったのが『マルドゥック・スクランブル』で、これは個人的にツボでしたねー。
『虎よ、虎よ!』という作品は主人公が自分を掛金に危険な博打を打ち続ける印象があるのですが、
『マルドゥック・スクランブル』のギャンブルシーンもやはり危険で熱いです。
当日は時間切れで挙げられなかったけど、私のオススメはタイトルの元ネタでもあるブレイクの詩集
『無垢と経験の歌(無心の歌、有心の歌)』。
終盤で赤々と燃えながら時空を翔け抜けるフォイルの姿は、この詩の描き出すイメージそのものです。

班別ディスカッションの後は、各班の板書を見ながらの全体ディスカッションへ。
フォイルの女性への仕打ちは他の班でも不評だったらしく、こういう奴はけしからんという声が多数でした。
あと、放射能男のダーゲンハムはアラン・ムーアの『ウォッチメン』に出てくるドクター・マンハッタンの
元ネタだろうという意見がありましたが、ならばラストに出てくるロールシャッハの手帳と、雑誌編集長の
「みんなお前に任せたからな!」のセリフも、やはり『虎よ、虎よ!』へのオマージュっぽいですね。
(同じムーアの『V フォー ヴェンデッタ』には、収容所から脱獄する燃える男のエピソードも出てきます。)
そのダーゲンハムの発する放射線で狂った給仕ロボットが、突然予言めいた言葉を発するくだりについては、
「まともなことを言ってるけど実は狂ってる」という二重性によって曖昧さを残しているという解釈に加えて、
あれは宗教そのものを皮肉った描写なのではないかという意見も出されました。
そういえばフォイルの新しい名は「NO→MAD」(ノーマッド)ですが、これは遊牧民や放浪者だけでなく、
NOからMADへと至るとも、MADの否定系にも読めますねー。さていったいどっちなんだろ…?
他にもいろいろな意見が飛び交いましたが、さすがに全部は追いきれませんでした。

そんなこんなで、初体験の名古屋SF読書会は終了。
好きな作品について、いろいろな人のいろいろな読み方、楽しみ方に触れられたのは大きな収穫でしたし、
なにより楽しかったです。
参加者の皆さん、そしてこの読書会を主催されたスタッフの皆さんに、改めて感謝いたします。


次回のお題はブラッドベリの名作『華氏451度』とのこと。
これまた盛り上がりそうですし、今の時代こそ読まれるべき作品のひとつだと思います。
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SFマガジン2014年12月号「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」

2014年11月07日 | SF・FT


2014年は孤高の奇想作家R・A・ラファティの生誕百周年にあたる、記念すべき年。
なので2013年のうちからネットでお付き合いのあるすっごくディープなラファティ関連の人たちに向けて
「なんかすっごいこと企んでるんでしょー?ね?ね?」と無責任なアオリを繰り返してきましたが、
心の奥では「2012年の暮れから2013年の前半にかけて3冊も本が出ちゃったから、さすがに弾切れかな…。」
などと思ってました。

そしてSFセミナーでも京都SFフェスティバルでもラファティ企画は組まれず、このまま今年も暮れるのかと
半ばあきらめの境地でいたところに、SFマガジンでまさかの特集号が出るというサプライズイベント!
2014年を冠する最後のSFマガジンの、しかも生誕百周年を迎える直前の号にこの特集を実現させるとは・・・。
しかもこの号、ラファティ生誕百周年記念日である11月7日の時点では世界で唯一の記念誌となります。

そして執筆者はと見れば、現在のSF業界を担う立役者から知る人ぞ知る達人まで、いずれ劣らぬ強者ぞろい。
我が国におけるラファティアンの層の厚さと、監修を勤めた牧眞司氏の人脈の広さがよくわかります。

ラインナップは邦訳短編が3本、本人のエッセイが1本、インタビューが1本、そして我が国における
ラファティ紹介の草分けである浅倉久志氏が海外の雑誌に寄せた英文エッセイの訳しおろし。
さらには邦訳全長編の個別レビューに未訳全長編と邦訳全短編の総まくりガイド、未訳短編20選紹介に
世界のラファティアン総括、評論が4本、さらに若島正氏の連載も特別にラファティを取り上げるという
まさにいたれりつくせりの充実ぶり。実に誌面の1/3がラファティで埋まってます、すごいすごい。

それでは、感想にいってみましょーか。

まずは邦訳もある「アウストロと何でも知ってる男たち」シリーズより「聖ポリアンダー祭前夜」。
猿人少年アウストロと彼が仕える(?)天才奇人グループをめぐるドタバタ劇が、文字どおりの
ドタバタ芸術と化しててっぺんまで舞い上がり、やがて地の底までおっこちるというお話です。
もう巻頭から強烈な先制パンチを食らった感じで、この特集の本気度がビンビン伝わってきました。
怪しい人物のもっともらしいウンチクと暴力にあふれた祝祭描写はラファティならではの楽しさなので、
まずはその過剰なまでの破壊力を堪能してもらうのが一番でしょう。
一方、テクノロジーによる現実拡張やテレイグジステンスによって生じる意識の変容に目を向ければ、
サイバーパンク以後のSFとして読んでも十分通用する作品だとも思います。
(柳下毅一郎氏の訳文も、実はそのあたりを意識してるんじゃないかなーと思いました。)
つまり「十分に発達したSFは、ラファティと見分けがつかない」ということなのですねー!

山形浩生氏の評論に“ラファティは異様な女嫌い”と書かれてましたが、自分の受けた感じでは、
むしろ女性が大好きなんだけど、その反面ですごく苦手にしてたんじゃないかなーと。
ラファティの目には女性(特に若くてキレイな女性)はことごとく魔女かポルターガイストに見えて、
しかもそれを鎮める方法がわからなかったんじゃないですかね。
異性に興味津々だけどその扱い方がわからない姿には、思春期の少年のような初々しささえ感じます。

山形氏が訳した「その曲しか吹けない-あるいは、えーと欠けてる要素っていったい全体何だったわけ?」は、
まさにそんな思春期の少年が主人公なので、読み方によってはこの年頃の少年が抱えるもどかしさとか
やるせなさについて、SF仕立てで語りなおした作品にも思えてきます。
とはいえ、世界の謎について繰り返しほのめかしながら話を進めていき、最後にドカンとオチをつけて
種明かしをするところは、かの名短編集『九百人のお祖母さん』の収録作に通じるところがありますし、
読み終えた後に首尾一貫した論理性を感じるあたり、3作中で一番SFらしいとも思います。
ラファティになじみがなくて比較的ストレートなタイプのSFを好む人には、まずこれから読み始めるのを
お勧めしたいですね。

短編のトリを勤めるのはラファティ界隈には知らぬ者なき超人のひとり、その名も“らっぱ亭”こと
松崎健司氏が手がけた「カブリート」。
仔山羊の丸焼きと幽霊にまつわる奇譚ですが、安酒場でうさんくさい少女と老女からホラ話を聞かされ、
最後にはなんだかよくわからないけどヒドイ目にあうという展開は、実にラファティらしいと思います。
南米やアフリカの文学等で魔術的リアリズムの手法になじんでいる人なら、これが一番楽しめるかも。
逆にSFらしさからは一番距離がある作品なので、その手の話が好きな人にはかなりの難物かもしれない。

余談ですが、らっぱ亭さんはラファティだけでなくアヴラム・デイヴィッドスンやキット・リード、
マーガレット・セント・クレアにリサ・タトルにキャロル・エムシュウィラー等の“こじらせ度高め”な
奇譚系を大の得意にしてますので、まだご存じない方はtwitterで追いかけてみてください!

ラファティによるエッセイ「SFのかたち」は、作者自身がSFと小説の作法を語ったものですが、
語り口を小説風に改めればそのまま“SF小説について語るSF小説”にもなりそうですね。
ラファティの小説観もおもしろいのですが、一番興味をひかれたのは旧約聖書に出てくるカインについて
「キリストもアンチヒーローだとわかったとき、カインはある程度の復讐を果たしました。」と書いた部分。
ラファティはイエスをそう見ていたのか…やっぱり彼のカトリック信仰は、普通の信者とは違ってるのかも。

浅倉久志氏の「ラファティ・ラブ」は、ラファティ作品との出会いから、やがて翻訳者としてラファティ
(の作品)と相思相愛になるまでの道のりを簡潔にまとめたエッセイです。
短い文章の中に浅倉さんの人柄とラファティ愛を感じると共に、浅倉さんらしい語り口を見事に再現した
古沢嘉通氏の訳文に、先達への深い敬意を感じました。

ラファティへのインタビューは本人が68歳の時に行われたものですが、矛盾した世界にひとり立ち向かう
頑固じいさんというハードボイルドな一面を垣間見ることができます。
ラファティならではの歴史観や世界観も楽しいけど、特に注目したいのが「小説より先に詩を書いていた」
「詩の多くは小説の章題に使ったり、一節として小説の中に散りばめている。」と語っているところ。
ラファティの書く小説は、実のところ詩につけられた膨大な注釈なのかもしれません。

井上央氏が交わしたラファティとの書簡はラファティの思想と人物像に最も深く迫る貴重な資料であり、
さらにはインタビュー以上に彼の肉声を伝えているように思いました。
邦訳長編レビューからは各執筆者の思い入れを感じ、未訳長編ガイドにはまだ見ぬ作品への憧れを抱き、
邦訳短編全紹介がラファティ作品全体への評論になっていることに舌を巻き、未訳短編20選を見ながら
「らっぱ亭さん、次は何を訳すんだろう?」と期待してみたり。海外での動きにも要注目です。

評論では柳下氏と山形氏の書いた内容が、偶然にも互いを投影するかのような相互関係を見せながら、
笑いだけではないラファティ作品の奥深さについて言及しています。
それに対し、牧眞司氏は作品のうちに潜む終末観を見据えつつも、それを越えた先にあるものを信じて
“ラファティを全肯定する”という姿勢を明確に打ち出します。この迷いのなさはすごい。
若島氏はラファティ至上主義に冷や水を浴びせるような出だしですが、最後にはきっちりと誉めつつ
この作家の特徴をズバリと指摘してみせるのがすばらしい。これぞ名手による名エッセイです。

最後は山本雅浩氏の評論「ラファティのモノカタリ」について。
これはラファティ作品にもましてちゃんと読みこなせてない不安があるのだけれど、山本氏の指摘する
「イメージのとめどない増殖と飽和状態」「作者自らがアイデアやイメージを破綻させてまわる」には
全く同意する一方、自分が手塩にかけて作り上げた世界を無邪気に、あるいは執拗なまでに叩き壊して回る
作者の姿に、私はある種の解放と爽快感を覚えます。
あるいはこれがラファティの考える世界のカタチであり、彼が世界に対して示す意思表示なのかも…。

いびつで不完全なコラージュである故に、誰にも真似のできない奔放さと美しさを持つ芸術がある。
ヘンリー・ダーガーとラファティの作品は、そうした点でよく似ていると思います。
特にラファティの長編は必ずしもバランスがよくない分、ダーガー的な美しさを強く感じます。
世界がダーガーを見つけたように、いつかラファティも世界に見出されると信じているのですが、
今のところはスワンウィックが「絶望とダック・レディ」で書いたとおりの厳しさなんですよね…。

しかし絶望してばかりはいられないと、スワンウィックも牧さんも書いている(と思う)。
だからラファティのファンは何度ぺしゃんこにされても復活するし、ラファティの作品もまた復活して
新しい世代へと受け継がれていくものと確信しています。

来たるべきラファティ新世紀に向けて、我らの航海は始まったばかり。お楽しみはこれからだ!
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クリストファー・プリースト『限りなき夏』感想

2014年03月11日 | SF・FT
2013年に邦訳が刊行された『夢幻諸島から』が高く評価されたクリストファー・プリーストの、
同じシリーズに属する短編4編を含む日本オリジナルの傑作選が、2008に刊行済みの本書です。

収録作8篇のうち、前半は非シリーズ物の短編が4つ。そのうちひとつは雑誌掲載されたデビュー作、
他3編は初期のプリーストを代表する作品が揃っています。

「限りなき夏」
テムズ川の流れを背に、かつてと変わらぬ姿で立ち続ける美しき女性。
それを眺め続ける男の周囲では、戦争と不気味な存在の影が跳梁していた。

河出文庫の『20世紀SF 70年代編』にも収録され、本書の表題にもなった作品。
ある理由で恋人と引き裂かれてしまったひとりの男の目を通して、ヴィクトリア時代の余韻を残す
1904年の風景と、ロンドン空襲の真っ只中である1940年の風景を交互に描いていきます。

謎の存在や時間凍結機といった魅力あるギミックはあくまで道具立てに留まっていて、そのへんが
SFならではの理屈を読みたがるファンにとって食い足りないところ。
でもプリーストが一番書きたかったのは「変わりゆく時代と、変わらぬヒロイン」の対比であり、
それを「時間からはみ出した者」として見つめ続ける主人公の心情なのでしょう。
そんなミスマッチに、プリーストが日本で「SF作家」として評価されにくかった理由がありそうです。

むしろ「ロマンス要素を軸にした風変わりな歴史小説」として読んだほうが、生き生きと描かれた
古き英国の姿を楽しめるような気もします。
プリーストの作品ってSFというより、H・G・ウェルズ以来の「科学ロマンス」に近いのかも。

実は『20世紀SF』で読んだとき、ラストに違和感を感じて好きになれなかったのですが、
この傑作集で他の作品と比べながら読み直した結果、ようやく自分なりに納得ができました。
読者の眼から見れば、問題の要因が取り除かれて事態が正常に復することが「幸せな結末」なのですが、
主観視点に徹するなら、あれが最も美しい「終わりなき幸福」になるのでしょう。
しかも永遠に色褪せない、最高の一瞬として。

「青ざめた逍遥」
時間の流れに影響を与えるフラックスが流れる公園に、時を渡る橋が架かっている。
これを渡った少年は、後に生涯を通じて追い求める少女の姿を初めて見た…。

プリーストの邦訳短編では「限りなき夏」と並ぶ知名度を誇る作品です。
個人的には、こちらを作品集のタイトルに使って欲しかったですね。

初めて読んだ時は、ロマンチックだけどいまひとつモヤっとした感じの残る作品だと思ったのですが、
何度か読み直すうちに印象がガラッと変わりました。
最後の1節はほのぼのとした終わり方を狙ったものだと考えていたのですが、あれは別の読み方をすると、
それまでの話を全部ひっくり返す可能性をほのめかしているのかもしれない…という事に気づいたのです。

もしかすると、自分はこれまでプリーストにまんまと騙されていたのかも!
さすがは英国SF作家協会賞受賞作、一筋縄ではいきません。

騙りの魔術師・プリーストの本領が発揮された逸品。個人的には収録作中のベストです。

「リアルタイム・ワールド」
異星に設置された施設で研究を続ける人々に、地球からのニュースを届ける役目の男が隠し持つ秘密とは。

「静かな緊張が続く閉鎖環境」「時間線を異動し続ける研究所」「極秘実験と未来予測」「謎のファイル」と、
壮大なハードSFに展開しそうな要素を詰め込みながら、物語はまったく想像外の方向へと転がっていきます。
初めてラストを読んだときには「えー、そうなっちゃうの?!」と開いた口がふさがりませんでした。

それでも「リアルタイム・ワールド」というタイトルにこめられた意味や、作中で語られた様々な事柄のうち
どれが真実なのか、そして主観が現実にどう影響を及ぼしたのかを考えていくと、ひとつの解釈に留まらない
多様な「可能性」を持つ世界の姿が見えてきます。
いわば「プリースト流SF」の特徴が最もコンパクトにまとまっているのが、この作品の持ち味ですね。

そしてこの短編、いろんな部分で長編の代表作『逆転世界』を思わせるところがあって、
ラストで明かされるちゃぶ台返しもよく似ています。
むしろプリーストの場合、このオチのために延々とそれまでの話を書いてきたっぽい。

ついでに『逆転世界』について触れると、あの話でプリーストが本当にやりたかったのは
「それでも世界は逆転してるんだ!」という二段オチなのだと思います。
でも普通のSFファンにとっては、最初のオチのほうが大仕掛けに見えるので、二つ目のほうは
あんまり印象に残らないんですよねー。
ガチガチのSFファンが理屈を重視する傾向と、理屈と主観では後者を優先させるプリーストの流儀が、
ここでも微妙にズレているように感じます。

まあプリーストのちゃぶ台返し的な発想に慣れてしまえば、あとはすんなりと騙りのおもしろさに
身を委ねられるわけで、そのためのガイドブックでありトレーニングキットとして最適な1冊が
『夢幻諸島から』なのだと思います。
でもこの本、ヘタをするとプリーストとの相性をはかるリトマス試験紙にもなりかねませんが(笑)。

「逃走」
敵国へのミサイル発射に立ち会っていたタカ派議員に、突然の緊急警報が伝えられる。
車で議事堂へと駆けつける議員の前に、若者の集団が現れた。

原題の「The Run」を「逃走」と訳したのは、「闘争」と読みを重ねたものでしょう。
作品自体はニューウェーブの影響を受けたストレートなSFですが、タイトルに複数の意味をこめる点や、
その後も繰り返し取り上げる戦争が主題という点で、プリーストの個性が既にはっきりと現れています。
そして「戦争という主題」にこだわり続ける姿勢は、夢幻諸島におけるプリーストの分身(の一人)である、
モイリータ・ケインとも共通するものがあります。

「赤道の時」
惑星の赤道上空を通過していく巨大な時間の渦の中を、凍りついたように舞い上がっていく飛行機たち。
眼下には夢幻の島々、そして目的地は戦争が続く南の大陸。

ここからはいよいよ「夢幻諸島」ものが続きます。(本書での表記は「夢幻群島」。)
「赤道の時」の原題は「The Equatorial Moment」ですが、これはバラードの代表作『結晶世界』の
第一部タイトル「春分(昼夜平分時)」の原題「Equinox」を思い出させます。

夢幻諸島とそこに起きる奇妙な現象の原因と思われる「時間の渦」を直接取り上げた作品として、
シリーズの基礎を成す作品ですが、それ以上に「凍りついた航空機の渦」の美しさが印象的です。
これぞプリースト流のテクノロジカル・ランドスケープ。

「火葬」
夢幻諸島でも珍しい火葬の風習が残る島にやって来た男が体験する、美と恐怖の物語。

男女の駆け引きと因習めいた土地の儀式をメインに据えた退廃的ホラーであり、作中人物のうち
誰が真実を語っているかがわからないという「信用できない語り手」モノでもあります。
官能的な快感が一転しておぞましさへと変わる感覚を、男女の機微と絡ませて書いたところに
作者のうまさを感じますが、それ以上に強烈なのが殺人昆虫スライムの気持ち悪さ。
恐怖というより、むしろ「厭な物語」の筆頭格というほうがしっくりくる話です。

「奇跡の石塚(ケルン)」
親戚の訃報を受けた主人公は、同行する警官と共にシーヴルへと渡航する。

プリーストが時間や戦争と共によく取り上げる「記憶」についての物語。
「わたし」という定義が大きく揺らぐ作中の仕掛けに評価が集まっていますが、自分はむしろ
「石塚(塔)」の立つ荒涼とした風景や、その中での体験に強くひかれました。
ああいう遺跡が立つ辺境の地を舞台にできるのは、ストーンヘンジなどの巨石文化になじんだ
英国の出身ならではの感覚なんですかね。

それにしても、あの塔は何のために作られたんだろう…と考えてしまうのがSF者の性分なのですが、
当然ながらプリーストはそれを説明してくれません(笑)。

なお、『夢幻諸島から』に登場したトームとアルヴァスンドがシーヴルで垣間見た未来は、
この作品へと続いているのですが、逆に「奇跡の石塚」で語られなかったトームの最期は
「シーヴル」にさりげなく書いてある…という、なんとも複雑な構成になっています。

「ディスチャージ」
徴兵によって過去を失った若者が、芸術作品にまつわるかすかな記憶を頼りに自己を取り戻していく。

発砲、脱走、消耗、解放など、タイトルに両義性を含む複数の意味を持たせた、訳者泣かせの作品。
芸術と戦争の関係を扱った点では「否定」と対を成す物語ともいえるでしょう。
また、「火葬」では死を導く先触れだった官能性は、ここでは再生のためのきっかけとして機能しています。

なお、作中で登場する「触発主義絵画」を描いたラスカル・アシゾーンについては、『夢幻諸島から』の
「ムリセイ」や「リーヴァー」に、主人公を助ける娼婦たちのネットワークについては「ウインホー」に、
関連するエピソードが書かれています。
これらもあわせて読むと、物語の背景や説明されなかった謎についての手がかりになるかもしれません。


書かれた順番としては『限りなき夏』に収録された作品のほうが先になるので、こうした短編群から
『夢幻諸島から』の各章が生まれてきたと想像するのも、また楽しいものです。
しかしここまで来ると、やっぱりシリーズの長編が読みたくなりますね。


古沢嘉通氏による訳者あとがきは、プリーストの経歴について簡潔にまとめた秀逸な内容です。
そしてこれを読むと、「否定」の結末がある英国SF作家の短編を思わせる理由もわかるはず。
プリーストがいまだにSF小説を書き続けてるのは、結局のところ「SFファンだから」という一言に
尽きるのかもしれません。
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クリストファー・プリースト「否定」感想(SFマガジン2014年4月号所収)

2014年03月06日 | SF・FT
「SFが読みたい!2014年版」で『夢幻諸島から』が海外篇第1位を獲得した記念として、
かつてサンリオSF文庫のアンソロジーに収録されていた夢幻諸島ものの短編「拒絶」が、
「否定」と改題され、SFマガジン2014年4月号に掲載されました。
今回は第1稿から数えて4度目の改稿を経たバージョンを『夢幻諸島から』も手がけた古沢嘉通氏が
新たに訳しおこしたものなので、実質的にはほとんど新作と言ってよいかも。

舞台は夢幻諸島より北に広がる大陸に位置し、隣国と戦争状態にあるファイアンドランド。
国境沿いの寒い街で警備にあたる志願兵の青年は、戦地視察に訪れる作家の到着を待っていた。
その作家の名はモイリータ・ケイン。千ページを越える大部の作品『肯定』でデビューしたものの、
名声を得るにはほど遠いケインだったが、青年兵士は彼女の作品と才能に絶対的な敬意を抱き、
従軍前は自分も作家を目指すほどの多大な影響を受けていた。
首尾よくケインとの面会にこぎつけた青年は、彼女と『肯定』に隠された象徴について語り合い、
作品への理解と作家への思慕をさらに募らせていく。
しかし彼女には、軍部協力のための戯曲を書くという裏に隠された目的があった…。

第1稿の発表された1978年は、東西冷戦が真っただ中のころ。
その当時に読んでいれば、作中で繰り返し出てくる「壁」や、凍りつくようなファイアンドランドの土地柄、
そして特権市民という存在から、特定の場所や国家の姿を連想するのはたやすかったでしょう。
むしろ鉄のカーテンやベルリンの壁といった言葉が風化しつつある2014年にはじめて読む読者のほうが、
具体的なイメージが浮かびにくいかもしれません。
しかし見方を変えれば、世界各地に宗教対立と民族紛争が蔓延した現在のほうが、ケインの言う「壁」が
より身近な存在として、あらゆる土地のあらゆる人々の心の中に立ちはだかっているようにも感じます。

しかし「否定」という作品の魅力は、現実の投影という狭い視野に限られるものではありません。
むしろそれ以外の部分、特に「物語について語る物語」であるという構造、さらには物語で現実を語り、
語られた物語がいつしか現実になっていくという相互作用こそ、現実感覚のあいまいさを書き続けてきた
プリーストならではの個性と筆力が、最も発揮されている部分だと思います。

作中人物が架空の物語について架空の会話を繰り広げることで世界が内側に畳まれていき、
最後には架空の物語が現実とひとつに溶け合って、静かなクライマックスへと到達する。
その畳み方も見事ですが、畳むまでの過程に仕掛けられたいくつもの伏線の配置が見えてくると
この作品全体の巧妙な組み立て方に、改めて驚かされます。

さらっと読むと難解だったり意味が読み取れなかったりするかもしれませんが、何度か再読して
細部をしっかりと拾っていくと、やがて何が書かれているかがすっきり見通せると思います。
そうした再読の中で前に読み飛ばした部分を見つけたとき、はめそこなっていたパズルのピースが
ピタリとはまったような気持ちよさが感じられるのも、この作品を読む楽しみのひとつですね。

このように短編としての完成度も高い作品ですが、『夢幻諸島から』に収録された関連エピソードと
あわせて読めば、さらに大きな満足と感動が得られると思います。
そのうちひとつはモイリータ・ケインが作家になるまでの過程を書簡形式で綴った「フェレディ環礁」。
これについては、訳者の古沢嘉通氏がSFマガジンに寄せた解説にも書かれています。

もうひとつの重要な章については、古沢氏もタイトルを伏せていますので、あえてここにも書きません。
既に『夢幻諸島から』を読んだ人ならば、どの話なのかはもう知っているはずですし(笑)。

もしも「否定」を読んだ後に『夢幻諸島から』へと進むなら、どれがその話なのかを探してみてください。
きっと「ああ、そうだったのか!」と改めて驚き、そしてなんともやるせない気持ちになると思います。
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クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』感想

2014年02月15日 | SF・FT
『奇術師』『双生児』といった傑作で、個人的には「プラチナ・ファンタジイ作家」という
勝手なイメージを持っていたクリストファー・プリーストの新作『夢幻諸島から』が、
新銀背こと新☆ハヤカワSFシリーズから登場しました。
そういえばプラチナ・ファンタジイってシリーズ名、いつのまにか使われなくなってたような・・・。

余談はさておき、かつて創元推理文庫やらサンリオSF文庫などで英国SF界期待の新人と紹介されていた
われらがプリーストも、いまや巨匠と目される一人になりました。
かたや同じころに宿命のライバルと言われていたイアン・ワトスンのほうは、なんだかマニア好みの
奇想SF作家というレッテルが貼られてしまったようで、かつてワトスンびいきだった私としては
なんだか寂しいような悔しいような、複雑な気分です。
今でもワトスンは好きですけど、文庫で入手できる作品が全然ないってのはあまりに不憫な扱い・・・。
おっと、今はワトスンじゃなくてプリーストの話をしなくては。

プリーストのSFといえば、『ドリーム・マシン』の多重世界が思い浮かぶ人も多いはずですが、
個人的には『逆転世界』みたいな“特殊な環境下で形成される社会と、そこに生きる人々”についての
粘っこい描写が好きでして、その両方の要素を適度に混ぜ合わせた世界こそ、時間と空間に歪みを持つ
“夢幻諸島”ではないかと思ってます。
そんな設定に、プリーストお得意の“身代わり”や“分身”といった要素が加わった『夢幻諸島から』は、
いわば全プリースト作品の見取り図であり、それらにアクセスするための格好のガイドブックでもあります。

さて、本作は連作短編集の形をとっているので、そのうちいくつかの感想を紹介してみます。

「大オーブラック」
未開の島に上陸した昆虫学者オーブラックのチームを襲う、未知の生物による脅威。
無名の土地や生物がそれにゆかりのある人物の名をつけられることは、彼らを襲った運命を考えると
なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
しかしそれ以上に複雑な気持ちにさせられるのが、悲劇の後にオーブラック諸島に起こった後日談。
最初は人類絶滅の危機かと思われた殺人昆虫も、資源目当てに進められた開発によって駆逐され、
その毒は相変わらず危険視されながらも、管理できないリスクとは見なされなくなっていきます。
一方、リゾートとハイテク企業で繁栄するオーブラック諸島では若年労働者の死が著しく高く、
昆虫という言葉を使うことは極めて厳格に規制され、さらにこの島でゴルフに興じる人々は、
決して明らかにされない理由により、自らゴルフボールを拾うことが禁じられています。

人間が管理できる危機に対して徐々に失われていく恐怖心と、本当は管理などできていないことを隠し、
その危機について語ることさえ憚られる社会の不気味さ。
このシチュエーションには、わが国の抱えるある大きな問題との類似を感じてしまいます。
まあこの作品の原書が2011年に刊行されたことは、単なる偶然の一致なのですが…。

「ミークァ/トレム」
夢幻諸島の地図を作ろうとするヒロインと彼女の失踪した恋人、そして島々を撮影する無人機の物語。
ヒロインの心象に夢幻諸島の定まらない地形が重ねあわされた作品ですが、その背景には
サイバーパンクに通じる変容譚が隠されているようにも感じました。
失踪した恋人は無人機と一体化し、常に彼女を見つめ続けているのかもしれません。
それにしても、自律飛行する無人機たちが夢幻諸島の自然に組み込まれていくイメージが美しい。

「シーヴル」
謎の意思を発する遺跡を調査するためにやって来た男女が遭遇する、奇妙な現象。
読み方によってはホラーにもSFにも受け取れそうな作品です。
SF的なガジェットとしては、副題にもなっている“ガラス”が活躍するのですが、
あまり掘り下げた説明がないので見逃されやすい気もしますね。
なお、他の収録作にも“ガラス”は繰り返し登場しており、『夢幻諸島から』全体における
最重要キーワードのひとつと考えて良さそうです。

収録順では「シーヴル」より先に置かれている「グールン」とは、舞台となる島や事件の発生時期なども
共通しており、同じ物語の別バージョンのようにも読めますね。
主人公の“トーム”という名も、「グールン」の主人公であるハイキ・トーマスの省略みたいに聞こえますし、
どちらもガラスをめぐる物語ですし。

あるいは同一人物の辿った異なる人生を描いた物語なのかもしれないし、ある人物に起きた出来事を題材に、
別の人物が二つの物語を書いたのかもしれない。
そもそも島名以外に副題がついてる章については、作中に創作が含まれている可能性を示唆しているとも
考えられますからね。

余談ですが、ガラスと時間を扱ったSFといえば、やはり英国作家であるボブ・ショウの代表作
『去りにし日々、いまひとたびの幻』を思い出しますが、『夢幻諸島から』はこの名作に対する
ある種のオマージュではないのかな…とも考えました。

「ヤネット」
二人のインスタレーションアーティストが出会い、共同制作によって島に声を与えようとする。
『夢幻諸島から』という作品全体を通して、表現と芸術は繰り返し語られるテーマのひとつです。
ヨーとオイ、どちらの作る芸術作品もユニークですが、それ以上にゲリラ的な製作スタイルが面白いです。
島を改造して声を与え、風によって叫ばせるというヨーの発想は、いわば「島自体を人にする」ようなもので、
人工物が島の一部になっていく「ミークァ/トレム」と対になっているようにも感じました。

これらの作品の他にも、相互の作品同士で登場人物や事件に相関性や相似性があったり、
登場人物同士の役回りが共通してたり対照的だったりと、実に入り組んだ構成になっています。
かといって、それをつなぎ合わせても物語の確実な全容が現れるわけではない…というのが、
『夢幻諸島から』の困ったところであり、また大きな魅力でもあるところ。
こういうお話は、ああだこうだと頭の中でこねくり回している時が一番楽しいですからね。

時間の歪みというSF的な設定が下地にあるものの、科学と人間の力が大きな世界をどうにかする物語とは
ちょっと毛色が違います。
むしろ大小さまざまな島の風土やそこに暮らす人々の暮らしぶり、そして外部からの来訪者たちが引き起こす
様々な事件を連作形式で書くことにより、個々の短編では見えなかった“夢幻諸島”全体を取り巻く物語が、
いわば海流や季節風のように浮かび上がってくる感じです。

海洋によって分割された島々が風によって季節ごとに姿を変えるように、空間によって隔てられた舞台が
時間の歪みによって様々な様相を見せ、ひとつの事件に無数の解答が示される。
それが“夢幻諸島”という世界に存在する、唯一の真実なのかもしれません。
大きな世界をひと括りに語るのではなく、小さな世界の集合体として多面的に組み上げ、そこに結ばれる
あいまいな像を楽しむこと。
それが『夢幻諸島から』との理想的な向き合い方ではないかなー、と思ったりして。

そして全編を読み終えた後に改めて序文を読むと、初読時は何を書いてるのかさっぱりわからなかった内容が、
実は極めて要領よくまとめられた本編の要約だったことに気づきます。
この序文こそ、『夢幻諸島から』の最終章にして、再び島々へ旅立つためのスタート地点となる場所なのです。

また、読者はこの序文を読むことで、書き手であるチェスター・カムストンの視点を引き受けることになり、
いわばチェスターの分身めいた立場におかれます。
つまり本編中でチェスターが偽名を用い、あるいは双子の兄を身代わりにしたのと同じことが、読者自身にも
起こっているわけですね。
こうした入れ替えトリックはプリーストのお家芸ですが、他ならぬ読者を巻き込んで共犯者に仕立て上げるのが
ミステリとしても楽しめる趣向ではないかと思います。

なお、「シフ」の章で書かれている内容に従えば、『夢幻諸島から』の刊行とチェスター・カムストンを含む
作中の登場人物が生きていた時代には、およそ200年の隔たりがあります。
それにもかかわらず、(さらには作中ですでに死んでいるはずの)チェスターが序文を書いているのは
大きな謎ですが、これはやはり夢幻諸島の特徴である“時間勾配”のせいなのでしょう。
時間勾配についてはプリーストの短編集『限りなき夏』に収録された「青ざめた逍遥」でも語られていますが、
あの作品では違う時代の主人公がいくつものバージョンとして同じ場所に存在しているくらいなので、
『夢幻諸島から』で別バージョンのカムストンが何人出てこようと、別に驚くことではないのかも(笑)。

その一方、この序文を書いたのは“チェスター・カムストン”を騙る別人だという可能性もありますが、
その場合は“誰がチェスターを名乗っているのか”というのが問題になります。
ここで手がかりになるのが、序文の前に置かれている「エズラに」という献辞です。

夢幻諸島で最も影響力のある社会運動家・カウラーをファーストネームの“エズラ”と呼べるのは、
カウラー自身が「ただ一人その名で呼ぶことを許した人」というチェスター本人のみ。
しかし、チェスターとカウラーの双方に傾倒した人物であれば、チェスター・カムストンになり切って
“エズラに”という献辞を書く可能性もあるんじゃないでしょうか。
そうだとすれば、一番の容疑者となるのはチェスターの熱烈なファンであり、処女作でカウラーをモデルに
『The Affirmation(肯定)』という作品を書いた作家、モイリータ・ケインとなるでしょう。

そして『夢幻諸島から』の著者でもあるクリストファー・プリーストが、ケインの書いた作品と同名の
『The Affirmation』という作品を書いている…とくれば、もはやどちらの書き手が分身なのやら。
そもそも夢幻諸島のある惑星についても、海の割合が70%だったり、テクノロジーや言語が我々の世界と
全く同じものだったりと、わざわざ地球との“双生児”に設定したようにも見えますしね…。

『The Affirmation』という作品を介して、作家自身を夢幻諸島という仕掛けに組み込んでしまうことで
夢幻諸島と我々の世界が合わせ鏡となり、さらには置き換え可能な別の現実、見え方の違うもうひとつの
世界として、読者の前に立ち上がってくる…これがプリーストの狙った最大のイリュージョンなのかも。

なお、この作品集で語られなかった夢幻諸島の物語の一部は『限りなき夏』で読むことができます。
さらにS-Fマガジン2014年4月号「ベストSF2013」上位作家競作では、長らく入手困難だった
モイリータの登場する短編「The Negation(拒絶)」の新訳(しかも改訂版)が掲載されるとのこと。
この勢いで、2013年に出たばかりの夢幻諸島もの最新作『The Adjacent』、そしてコラゴによる
不死研究を取り上げた『The Affirmation』といった長編も、ぜひ訳されて欲しいものです。
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R・A・ラファティ『第四の館』

2013年07月02日 | SF・FT
私が最も偏愛する作家のひとりが、奇想SFの書き手として一部ファンから熱狂的な支持を集める
R・A・ラファティなんですが、このヒトは短編を書かせたら名手と呼ばれる一方で、長編になると
ナニが書いてあるんだかわからない!とも言われるヒトであります。

そんなラファティ先生が2002年に亡くなってから(私は死んでないと思ってますが)10年を経て、
なんと未訳の長編が2本、さらに単行本未収録の短編を集めた傑作集が1冊出るという怪事件が発生。
短編集の『昔には帰れない』は既に紹介したので、今度は連続刊行のトリを飾ったラファティ初期の傑作、
国書刊行会〈未来の文学〉から刊行された『第四の館』をご紹介します。



アメリカの片田舎に、すごく目がいいけどちょっとオツムの足りないフレディという青年新聞記者がいました。
このフレディが、ひょんなことから政府要人カーモディの秘密を探り始めたのがすべてのはじまり。
この男、どう見ても500年前にイスラム世界で生きていたカー・イブン・モッドという人物に瓜二つ、
いやまるで本人そのものに見えるじゃないか?

それを探った記者は必ず消されるぞ!という上司のアドバイスにも耳を貸さず、フレディ青年は
カーモディのネタを嗅ぎまわり、やがて町の事情通であるファウンテン老人や変人のバグリーから
世界の秘密の泉を守る「守護者」や、歴史の中で蘇りを繰り返す「再帰人」の存在を聞きだします。

そんな考えをフレディのアタマの中に吹き込んだのは、再帰人たちと対抗する七人組にして、
フレディの恋人ベデリア・ベンチャーもその1人である「収穫者」と名乗る精神感応者たちでした。
七人組は編み上げた脳波網でフレディに接触し、彼を操ってカーモディを探ろうと企んでいたのです。
しかしこの網に触れられた者は、網とつながった他人の考えにも接触できるという反作用がありました。
フレディは脳波の網を逆に利用して、同じく網に絡めとられたメキシコ人革命家のミゲルと接触し、
彼と意識を共有しながら再帰人のカーモディへと迫っていきます。

命の危険を顧みずテレパシー実験を繰り返す「収穫者」、別人と入れ替わりながら復活する「再帰者」、
人知れず世界の秩序を保とうと奮闘する「守護者」、そして世界を転覆させようと立ち上がった「革命家」。
それぞれに聖なる四つの生物を象徴する四つの勢力と接触し、世界の広さと深さを知ったフレディですが、
ついに再帰者のワナにかかって精神異常と診断され、あわれ収容所送りに。
一方、再帰者たちは密かに大規模な世界絶滅計画を練り上げ、まさにこれを実行に移そうとしていました。

この絶体絶命の状況を覆す手段はあるのか?収容所に閉じ込められたフレディの運命は?
そして四つの勢力が目指す神の領域への入口「第四の館」には、いかにして辿り着けるのか?

テーマそのものはズバリ「人間はいかにして神になるのか?」という進化SFであり、また一方では
世界そのものを新たにやりなおそうとする破滅SFでもあります。
しかしそれを企む連中がなんとも珍妙で、収穫者はテレパシー接続中にいきなりアタマをカチ割り始めるし、
再帰者は塩水入りの水槽にアタマを突っ込み、守護者は泉に潜む触手怪獣をぶん殴り、革命家は辺境の町で
みみっちい小競り合いを繰り返しては退却を繰り返すというしまりのなさ。
こんなろくでもない秘密結社が繰り広げる争いの顛末については、実際に読んで確かめてみてください。

話のムチャクチャさ加減と暴力性、そして言語によって紡がれるサイケデリックなビジュアルについては、
あのベスターの怪作『ゴーレム100』を思わせるところもありますが、話の筋はあれよりしっかりしてて、
アクション性はゴーレムよりも少なめ。あとさすがにタイポグラフィは出てきません(笑)。

では『第四の館』ならではの魅力は何かと言えば、海外の諷刺コメディ番組っぽい会話の面白さとか
言葉にするだけでもへんちくりんなしぐさ、そして予想を越えるヘンな展開といったところかなぁ。
ノリとして一番近いのはやっぱり「モンティ・パイソン」ですかね・・・まあラファティは敬虔なる
カトリック信者なので、ネタの下品さだけは負けますけど(笑)。

タイトルになっている『第四の館』にちなむ宗教小説としては、書きぶりこそなかなかマジメだけど
こんなやり方でちゃんと神様に近づけるんだろうか・・・と半信半疑なところもあります。
ただし、そのうさんくささ満載の中に「ひょっとしてこれホントの話?」と思わせるような
奇妙なリアリズムもちらちらと垣間見せるのが、ラファティ作品のおもしろくも怖いところ。
そういう時に絶大な効果を発揮するのが、彼の得意とした言語と歴史についてのうんちくです。
随所に盛られたこれらのうんちくと時おり語られるもっともらしい解説が、ウソとホントの境界線を
知らず知らずにぼやけさせ、気がつけば見たこともない場所までつれて来られてしまっているのです。
この快感は慣れてくると病み付きになりますが、中毒性が高いのでご用心(笑)。

あとはひとつだけ、大切なご注意を。
『第四の館』を読み終えた後に、もしやラファティは堕落した人類にわずかなチャンスを与えようと、
わかる者だけにわかる形で秘密の叡智を書き記したのでは・・・などと間違っても口走らないこと。
アナタもおかしくなったと思われて、いきなり収容所へ送られてしまうかもしれません(^^;
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SFセミナー2013に行ってきました(合宿企画編)

2013年05月07日 | SF・FT
SFセミナー2013、合宿企画編。
本会が終了していよいよ合宿会場へ移動するわけですが、その前に寄らなければいけないのが秋葉原。
ただいまSF関係者の注目を集めつつある施川ユウキの『バーナード嬢曰く。』を入手するためですが、
秋葉原にあるCOMIC ZINで買うと、描きおろしカードがついてくるのです。

店内に入り1階の奥へ進むと、特設コーナーにずらっと並んだ『バーナード嬢曰く。』を発見!
ネット書店では品切れだし、近所のリアル書店でも見かけたことがなかった本がこれだけ置いてあると、
なんか不思議な気もしますね。
とにかく喜んで購入したあと、チェックイン開始に間に合うよう合宿会場へ移動。

今回は本会に引き続き、ジョー・ホールドマン夫妻も合宿企画に参加してくれました。
最初は諸注意と企画案内、そして関係者の紹介ですが、例年の事とはいえこれが結構長い。
40分ほどかかったあとに、ようやくホールドマンさんの挨拶になったのですが・・・。

ホールドマンさんからの言葉は「まず最初に挨拶があると思ったら40分近く待たされまして、
皆さんも疲れたでしょうから、私の知っている日本語で簡単に挨拶をします・・・(そして沈黙)」

日本語知りません、というオチに場内は拍手喝采でしたが、ご本人の心中はどうだったやら。
まあギャグと考えれば気にすることもないんでしょうけど、今回は遠くからわざわざ来てくれた
特別なお客さんだし、何はさておき真っ先に挨拶してもらうべきだったのではないでしょうか。

さて、合宿企画1コマめ。
翻訳SFファンとして選んだのはやっぱり「中村融の部屋」でしたが、ここでは中村さんと旧知の仲である
東京創元社の名編集者・小浜徹也さんの独壇場。
本会企画ではあまり触れられなかった大学時代近辺の同人活動を中心に「天才SF青年・中村融」の肖像を
名調子で語り尽くしました。
中大SF研当時に刊行した会誌「Bagatelle」の戦慄すべき内容は翻訳・評論も含めてほぼ中村さんの仕事で、
SF研の後輩を指揮して全編手書き(当時はガリ版刷り)の誌面を作成。
イラストは実弟である中村亮さんと、ローラリアスで知り合った末弥純さんが担当したという裏話などは、
若くして才能をバリバリ発揮していた当時の雄姿が眼に浮かぶようでした。
思い入れのあるケイン・サーガの邦訳が当たらなかった苦い思い出など、うまくいかなかった逸話も含めて
「SF・ファンタジー界における一時代」の表裏を垣間見た気がします。

2コマ目に選んだのはアンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』読書会。
評論家の岡和田晃さんの司会進行により、先日刊行されたカヴァンの『アサイラム・ピース』について
感想を述べ合おうというものです。
出演者と参加者にネットでお世話になっている方々がいらっしゃると聞き、無謀にも課題図書も読まずに
参加してしまったのですが、案の定ろくな感想も言えずじまい。

ただし会の内容は未読の私にも大変参考になるもので、カヴァンの無機質な表現や圧倒的な閉塞感、
人工物と自然の対比、あるいはその美しい自然が逆に人工的にも見えるとの指摘が次々と提出され、
ひとつの解釈に留まらない多彩な『アサイラム・ピース』像が描き出される過程は、実に刺激的でした。
何よりもイベントに参加してるというヒリヒリした緊張感であったり、作品を介して他の参加者と
直接向き合う感触は、本会も含めた企画の中で一番手ごたえがありました。

読書会の終了後は、部屋に集まっていたネット仲間の皆さんにご挨拶。
その後はちょっとしたオフ会のノリで、企画終盤までご一緒させていただきました。

3コマ目は「これでアナタもSFスキャナー」。
SFマガジンの名物である海外SF紹介コーナー「SFスキャナー」を長年にわたり執筆されている
「ミラクルボイス」東茅子さんに、SFスキャナーになるまでの道のりを聞く・・・というもの。
しかしてその真実は、御母堂から『渚にて』と『ジャッカルの日』をプレゼントされたいたいけない少女が
ビジョルドを目当てにアナログを読み始め、やがてお茶大SF研の先輩に導かれてSFレビュアーの道に入り、
最後は気恥ずかしくて手に取れなかったハーレクイン・ロマンスを読むに至る・・・という成長物語(?)でした。

とか言いつつも、情報誌「ローカス」をどう活用するかや作品の目星をつけるために購読している雑誌など、
実用的な情報もしっかり盛り込まれ、スキャナーになりたい人にもちゃんと役立つ内容だったのはさすがです。
なお、東さんはアナログを読んでレビューしてくれる後継者を募集中だそうですので、我こそはと思う強者は
名乗りを上げてみては?

さて、最後の企画部屋は「セミナーオークション・ダークリー」。
筒井康隆が私家版として作ったNULL2号、たんぽぽ娘が本邦初訳された宇宙塵などなど・・・。
SF界屈指のコレクターが名品・珍品を持ち寄って出品するとあって、見るだけでも楽しめる
資料性の高い(笑)オークションとなりました。
でも正直なところ、一部の出品には価値がさっぱりわからないものもちらほらと。
『現代ソビエト短編集 りんご漬』なんて聞いたこともないよ!うーん、やはり古本道は奥が深い。
しかし出品者であるコレクター同士ではその価値も一目瞭然らしく、参加者の食指が動かないと見るや
「これは珍しいよ!」「オレも持ってないなぁ・・・この版は」と煽ったあげく、そのうち出品者同士が
互いに入札を始めるという驚愕の展開に。しかも既に持ってるはずの本をガチで競りあってるし!
私もいくつか買わせてもらいましたが、あの領域には到底踏み込めません(^^;

夜2時過ぎに寝たあと、翌朝8時ごろに大広間へと起き出して来たら、タカアキラさんとU-kiさんが
『翠星のガルガンティア』について熱く語りあう部屋と化しており、「あれは逆転世界の逆転版だ」
「それじゃ転世界でしょ!」といった楽しい会話を聞かせてもらいました。
やがて話題が『花の詩女 ゴティックメード』に差し掛かったころ、ネット仲間の皆さんも大広間に合流。
ここでゴティックメードの説明をしているうちに閉会式が始まり、各企画の関係者から報告がありました。
行けなかった企画も盛り上がっていたようでちょっぴりもったいない気持ちもありましたが、個人的には
ちょっとしたオフ会もできたし本も買えたしと、大いに堪能させていただきました。

そして閉会後は参加者同士で来年のラファティ生誕百周年への期待などを語りつつ、帰路に着いたのでした。
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SFセミナー2013に行ってきました(本会企画編)

2013年05月05日 | SF・FT
昨年は行けなかったので、個人的には2年ぶりのSFセミナーに参加してきました。
本会の企画についてざっくりとしたメモをとってきましたので、参考までにご紹介します。

1. Gene,Meme,Hacking-藤井太洋インタビュウ
個人による電子書籍で出版され、好評を受けて改稿・書籍化を果たした『Gene Mapper』の作者である
藤井太洋さんに、作家でありSF考証等でも知られる堺三保さんがインタビュー。

藤井さんの経歴がかなりユニークで、劇団の舞台美術づくりからMacによるセットデザインを行った後、
食えないのでMacが使えるDTP業に転職、プログラムを書きつつソフトのセールスで世界を飛び回り、
アメリカ出張では大規模農業と環境の問題に触れるといった様々な経験をされています。
まずセルフ電子出版という形態を選んだのも「経験的にできることがわかっていたから」とのことで、
お話の端々に学者や科学ライターなどとは違う「現場経験を積んだエンジニアの気概」を感じました。
好きな作家はクラークやセーガンで、『楽園の泉』や『コンタクト』を愛読したそうですが、これは堺さんの
藤井作品に対する「バチガルピやストロスのペシミズムに対して、地に足のついたオプティミズムを感じる」
との評にも通じるような気がします。

SF作品の話に留まらず、アバターによるコミュニケーションやソフトのオープンソース化による改良などを
早くから予見していたこと、いまの株取引はマイクロセカンドの遅れが致命的なので、回線のソケットに
プログラムを仕込んで売買の自動実行をさせていること(生物の脊髄反射に近いですな)、誰でも知ってる
有名なWebサービスのソースコードに「人間が書いたとは思えない部分がある」といった、実に興味深い話も
聞かせていただきました。

我々の知らない現実は既に存在していて、一握りの人間だけがその現実を見ているのかもしれない。
そんな現実を我々にも可視化してくれるのが、藤井さんの作品なのかも。

昼休みには藤井さんと、はるこんのゲストで来日されたジョー・ホールドマンさんのサイン会が開催されました。
(福武書店版『ヘミングウェイごっこ』を持っていったら、同じ本を持ってる人が何人もいて苦笑い)

2. シスターフッドの時代に
2011年のセンス・オブ・ジェンダー賞受賞作、特に新設のシスターフッド賞についてのパネル対談。
シスターフッドとは女性同士の友情や連帯を指す言葉で、こうした視点から受賞作に選ばれたのが
『終わり続ける世界の中で』と『魔法少女まどか☆マギカ』の2作だそうです。
登壇者はジェンダーSF研幹事の小谷真理さん、選考委員の水島希さん、高世えり子さん、そして受賞作
『終わり続ける世界の中で』の作者である粕谷知世さん。司会はジェンダーSF研の柏崎玲央奈さんです。

両作品の共通点である「まじめな女の子が真剣に物事を考える作品」「女の子同士の友情の物語」について
話が進みましたが、総体としては「まどマギをどう評価すべきか」という議論に集約されてしまう感じもあり。
あとは戦う少女の人工性とメイクアップの関係、力を得た女性が私欲よりも世のために活動する話が多いこと、
少女に戦いを背負わせる社会の束縛感や、戦いとは自分の力で何かを得るための行動では?との指摘など。

今回の企画では『終わり続ける・・・』の作者でありかつての大賞受賞者、そして選考委員も勤めたことのある
粕谷さんが登壇しましたが、まどマギ側の登壇者はなし。
そうした中で両受賞作を比較するのは、欠席裁判ぽくてあんまりいい感じではないなーとも思いました。
特に登壇者のひとりが『終わり続ける・・・』との対比で主に否定的な見解を述べていたのは、一ファンとして
かなり辛かったです。(他の方はまどマギに対し、おおむね好感を持たれていたようですが・・・。)
これなら粕谷さんにじっくりと自作を語ってもらったほうが、気持ちのいい企画になったかもしれない。

シスターフッド賞という名目であれば、作中に登場するまどかの母や女性担任の立場も踏まえたうえで、
女性を生贄とし続ける世界すべてへの異議申し立てという見方まで踏み込んで評価して欲しかった・・・。
さらには魂なき肉体という見地から『接続された女』との類似性を考えるとか、作品を語るための題材は
ほかにもいろいろあると思ってますけどね。
でも小谷真理さんの「なぜ作り手は女の子の関係性をここまでよく知ってるのか?」という指摘には、
思わずヒザを打ちました。
これは虚淵脚本を考える上で、重要なヒントになり得るかもしれない。

余談ですが、今回のセミナーに来場したジョー・ホールドマンさんの『擬態』も、2007年の海外部門で
センス・オブ・ジェンダー賞の候補に挙がってますが、この時の受賞作が『ようこそ女たちの王国へ』・・・。
はっきり言って、私はこの受賞作が苦手です。
だって父権主義を女性版に裏返ししただけの冒険ロマンスで、制度自体の問題点は温存したままに見えるから。
たとえば男子の純潔が重んじられるのも、女性の処女性に置き換えただけであって、純潔性に対する固定観念に
直接切り込もうとする鋭さは見えません。つまりは世界を変えようとする意志が感じられない。
でも娯楽小説のフォーマット上「主人公男子が最後に得た特権性を肯定する」ためには、世界の仕組みなんて
変わらないほうがいいんでしょうねぇ。もし変わってしまえば、彼の得たものも無になっちゃうから。
選評では『大奥』と比較されてるけど、男女逆転が社会制度を変革し、他方では合理的に制度が温存される
『大奥』の巧みな構成と比較するのは・・・おっと、イベントのレポートと関係ない話になっちゃいました。
まあ男の目線から見た上でのたわごとなので、あんまり気にしないでください(^^;

3. 海中ロボットの現在と未来-鉄腕アトムは海から生まれる
世界的ベストセラー『深海のYrr』にも登場する自律型海中ロボットの生みの親である浦環先生が、
海中ロボットの現在から未来までを熱く語る企画。
ザトウクジラの歌を聞きわけて自動的に追跡するロボット、水中で一定の位置をキープしながら移動して
対象物の周囲を自動観察するロボットなど、すごいメカが次々に紹介されました。
浦さんの弁舌も歯切れよく、研究者としての理想と現実的な開発理念の対比もおもしろかったです。
「研究者に必要なのは、実際にやって見せること」
「有線ロボットなんてつまらない」
「自分は全自動ロボしか研究しないし、学生にもそれしか研究させない!」
「ロボットの価値は人間の役に立つかで決まる」など、数々の名言も披露。

そして浦さんの夢は、深海で海中資源を採掘し供給する人間不可侵の「ロボット帝国」を樹立すること・・・。
これを聞いて「天馬博士でもお茶の水博士でもなく、ララーシュタイン博士だったのか!」と思ったのは、
私だけでしょうか(^^;

4. ライブ版SFスキャナー・ダークリー
翻訳家・アンソロジストとして勇名をはせる中村融さんに、SFとの出会いから同人誌の製作、さらには
翻訳技術からアンソロジーの編み方までをうかがうもの。
聞き手はSFレビュアーにして中村門下の翻訳者としてもデビュー予定の橋本輝幸さんと、法政大学で
「一人SF研究会」として気を吐く茅野隼也さんです。

これは比較的まめにメモをとってきましたが、話の内容がいくつかに分かれるので、簡単に整理してご紹介。
中村さんのブログ「SFスキャナー・ダークリー」に記事があるものは、一部リンクを張っておきます。

【ファンタジーと同人誌】
SFマガジンで「夢みる都」を読んでエルリックにハマったものの、2作だけで続きが出なかったので
コナンからトールキンへと手を伸ばし、やがてファンタジー同人誌の名門「ローラリアス」に入会。
しかし原稿を送ってもなかなか掲載されず、しびれを切らして初の個人誌を作ってしまった。
(橋本さんが質問した自作小説やムーングラムのコスプレ疑惑については「別人でしょ!」と全力で否定)

【原書と翻訳】
翻訳SFファンは原書に憧れるので、シルヴァーバーグ編のアンソロジー(Alpha 5)を買った。
高校時代の3年かけて読めなかったが、3年目にライバーのYesterday houseが読めてしまった。
最初に読みきった長編は、コルム三部作の合本版。
ファン出版のTHATTA文庫でヴァンスの短編(五つの月が昇るとき)を訳したのがきっかけで、
白石朗さんから浅倉久志さんへとつながって翻訳者デビューできた。すべてはヴァンスのおかげ。
翻訳を仕事にすると日本語の話や小説は読まなくなって、主にノンフィクションを読んでいる。
翻訳は自己表現。やればやるほどうまくなるので、楽しくなる。
他人に誇れる翻訳は『ブラッドベリ年代記』。

(橋本さんから「一人称の訳し方は?」)読み始めは単なるI(アイ)でも、進めていくうちにだんだんと
人称が決まってくる。それでもブレが出てきてしまうときは、訳すときに人称を全部とってしまうこともある。
翻訳中に主語や語尾の表記を軌道修正する場合もあるが、まれに直し損ねた部分が残ってしまうことも。

【ホラーSFアンソロジー『影が行く』】
90年代は翻訳アンソロジーが出ない、出せない時期。
それをなんとかしたかったので、翻訳者として実績ができたころに東京創元社の小浜さんに相談したら
企画を任せてくれた。
名作ではないが読みたい、復活させたい作品として「影が行く」と「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」を軸に、
ホラーなので13編に絞るまで5倍ほどの作品を検討した。

(ここで中学生時代から現在までつけているという、「読書ノート」の映像が登場。初出年、話の長さ、
5点評価のデータが書かれている。)

読書ノートで4点以上の作品を選べばすぐに作品が集まるが、いま読み返すと3プラスや3Aがついている、
「点数だけでなく何かひっかかりを感じた作品」のほうに残るものがある。
読書ノートは小説、雑誌、海外を合わせると、全部で30冊ほど。

SFホラーとしてマイクル・シェイの「検視」と、マーティンの「サンドキングズ」も収録したかったが、
版権の都合で収録できず。
代わりに収録したのが巻末のオールディス「唾の樹」だが、これが好評だった。(私も大好きです。)
ナイトの「仮面」は、わざとテーマから外して選んだ変化球。
これは作者の註入り版を使って訳したが、優秀な作家の考え方がわかって勉強になった。
アンソロジーを編むとき、傑作ばかり選ぶとべったりしておもしろくない。
(茅野さんから「引き立て役はシオドア・L・トーマスの「群体」ですか?」)そのとおり。
アンソロジーにはでこぼこが必要で、並び順が最も重要。並び順に命を懸けているとも言える。

【翻訳者兼アンソロジストとして】
ウォルハイム&カーの年刊傑作選が好き。頑固オヤジと尖った若造の両極端な組み合わせがいい。
いまやってみたいのは、ドゾワ&ダンによるアンソロジーの日本版。扶桑社から邦訳がいくつか出ているが、
意識しているのは「ALIENS!」と「ALIEN AMONG US」。
他のアンソロジーを読むと対抗心が湧く。
退化文化の話が好き。ハワードのキング・カルは暗い話だが、マッケンのピクト人論に影響を受けていると思う。
原書を読んでいい作品に当たる打率は、10本に1本ぐらい。
(橋本さん「原書のジャケ買いは?」)たまにするけど、まず失敗する。
アル・サラントニオ編の「MOONBANE」は表紙でワクワクしたけど、中味は想像以上にくだらない話だった。

今後の仕事としては、まず創元推理文庫の新訂版コナン全集が完結する。
創元SF文庫からは『時の娘』の続編的な時間SFアンソロジー『時を生きる種族』が出る予定。
これにはムアコックの表題作に加えて、T・L・シャーレッドの隠れた名作「努力」や、ヤングの中篇
真鍮の都」を収録する。


ウルトラQが好きで、大伴昌司編の『世界SF名作集』を入口にSFを読み始め、SFマガジンは74年の
2月号から購読、次の号でティプトリーの初邦訳に接するといった流れは、ある世代のSFファンにとって
共感する部分も多かったはず。
そうした歴史を若手SF者として期待されるお二人が聞く・・・という図式も楽しかったです。
まるで世代を超えるSF魂の伝授式のようにも見えて、なんだかぐっとくるものもありました。

本会企画はこれにて終了。自分の好きなジャンルは海外SFですが、企画全体に発見や驚きがありました。
一部釈然としない部分についても、自分なりに考えるネタにはなりましたし(^^;

この後は合宿に舞台を移しての延長戦や場外戦もありましたが、それはまたの機会に。
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R・A・ラファティ『昔には帰れない』

2013年02月09日 | SF・FT
新☆ハヤカワSFシリーズの刊行予定に入っていながら途中で消失するなど、涼宮ハルヒばりの
紆余曲折を経た後にSF文庫から出版された、日本オリジナル編集のラファティ傑作選。
余談ですが、ラファティもハルヒシリーズで取り上げてくれれば、もっと売れる気がするんだけど・・・。
ハヤカワもラノベ方面に進出する際には、こういうメディアミックス的な戦略を重視して欲しい(笑)。



これまで紹介されてきたラファティ作品に比べて、スケールの大きさや発想のぶっ飛び具合、
そして物語の壮絶さにおいてはやや控えめな感じがあって、そういう傾向を期待した人には
ちょっとばかり物足りないかもしれません。
しかしそうしたメチャクチャさが控えめになった分だけ、ラファティ作品の本質ともいえる
「逆説性」や「はみ出し者の気楽さと孤独」が見えやすくなってるから、とっつきやすさは
これまでの短編集よりも増してると思います。

特に今回の巻頭を飾った「素顔のユリーマ」は、ヒューゴー賞も受賞した文字どおりの代表作であり、
ラファティらしさと親しみやすさがうまく調和した、ある意味で「最も良く書けている」作品です。

彼の時代には子どもはみんな賢く生まれつくようになっており、
この先も永遠にそうなりそうな形成だった。
彼はこの世に生まれた、ほぼ最後の愚鈍な子どもであったのだ。

アルバート少年は靴の左右もわからず、あくびの後に口を閉めるのを忘れ、時計の長針と短針の
どちらが時刻を指すか理解できないほどの愚か者。
なにをやってもうまくできない彼がやむなく考え付いたのは、インチキをすることでした。
つまり自分の代わりに物事をよりうまくこなしてくれる機械を作り、人に隠れてこっそりと
そうした機械を使ってズルをするのです。

不適応者は発明する。無能力者は発明する。敗残者は発明する。卑劣漢は発明する。

アルバートは字を書く小さな機械を作り、手の中に隠せる計算機を作り、女の子が怖い自分の代わりに
本人よりも社交的で頭の良い身代わりロボットを作ってズルをし続けました。
(身代わりロボットは彼の好きな娘を奪ってしまったので、自爆装置で娘ごと爆破しましたが・・・。)
やがてアルバートは大気から有害物質を取り除く機械や、街で暴れる不良少年の目をえぐるロボット不良
(しかも不良少年だけに見える特殊な素材製)を造り、おかげで世界からは公害と不良が一掃されます。
社会適応性がなく、一人では何もできない人物ではありますが、こうして「問題を解決してくれる機械」を
次々と作り続けた結果、彼の発明品は世界中の人々に幸福を与えました。

しかしそれによって得られた富と名誉はアルバートを幸せにせず、彼は相変わらず孤独なまま。
アルバートの偉業を讃える式典で、彼はたどたどしく「人生初の、自分で考えたスピーチ」を披露しますが、
それは会場にいた多くの人々を困惑させるばかりでした。

「パン種がなければ、何ものも生まれません。・・・
 しかしイーストは、それ自体菌類であり病気でもあります。」
「敗残者や無能力者がいなかったら、だれが発明するでしょう?・・・
 みなさんの練り粉を、誰が膨らませるでしょう?」
「世界は、不健康な精神がそのなかにまじっているからこそ健康なのです。」
「肝心なのは、うすのろです!」

 改革者が偉大な人物でないということは、なんと不愉快なことだろう。
 そして偉大な人物というものは、偉大な人物であるという以外なんのとりえもないものなのだ。

そして世間の人々だけでなく、自分の作った優秀な機械までが要領の悪い主人を嘲るに至って、
遂にアルバートは死を選ぼうとしますが、ひとりで何もできない彼は自殺すらできません。
仕方なく隠れ家で自殺マシーンをつくり始めたとき、むかし作ってほったらかしにしておいた
カンだけしか取り得のない予言機械のハンチーが、彼にある予感を囁きかけるのでした・・・。

長いタイムスパンを一気に語り切る話術、続々と繰り出されるアイデア、巧妙に張られた伏線の
見事な回収、そして何よりも常識の裏を突く逆説の発想と、そこに込められた真実が持つ重さ。
この短編一本の中に、ラファティ作品の様々な魅力がすっきりと収まっています。

わかりやすいぶんだけ、すれっからしのラファティ好きがあえてベストに推さない(笑)という
これまた逆説的な作品ですが、奇想に関心の無い方にも広くオススメできる傑作です。

それにしても、本作のエディの姿には、ビル・ゲイツやスティーブ・ウォズニアックといった
実在の人物がダブって見えてしまいますね。
「ギーク」の出現を書いた先駆作という意味では、見事に「未来を予見した」作品と言えるかも。

そしてラファティの人物像を伝える文章を読むと、彼自身も“人付き合いが苦手で、シャイな人柄だった”
ということがわかります。
豊かな知識を持つ卓越した語り部でありながら、実生活では人と関わるのが不得手な元電気技師であり、
酒が最も身近な友人・・・そんなラファティ自身も、ある種の「ギーク」だったのではないか。
そう思うと、この作品が単なる諷刺だけではないように思えてなりません。

作者が45歳になってからデビューしただけに、人生の輝きとそれが色褪せていく様子を書いた作品にも、
しみじみとした味わいがあります。
魔法の財布を手に入れた男が社会の変化に対応できず落ちぶれていく「ぴかぴかコインの湧き出る泉」や、
子供時代に訪れた魔法の月を再訪した大人たちを描いた「昔には帰れない」は、そうした傾向が強い作品。
特に「昔には帰れない」では、語り手の名前が「アル」と表記されているのが重要なポイントでしょう。
つまりこれはレイフェル・アロイシャス・ラファティ自身の思い出であり、彼の目から見た現実なのです。
(そういえば「アルバート」の省略形も「アル」なんですよねぇ・・・。)

こうしたラファティの視線が、作中で「生者と死者」「現実と非現実」「歴史と神話」の区別がない、
独特の「魔術的リアリズム」を形成しているのではないでしょうか。
「廃品置き場の裏面史」や「一八七三年のテレビドラマ」も、こうした視線からとらえることによって
「真実」とか「歴史」の裏にある多様な顔を表す物語としての、新たな側面が見えてくるかも・・・。

カトリック作家としてのラファティを考える上で重要なのは「すべての陸地ふたたび溢れいづるとき」と
「行間からはみだすものを読め」の2作でしょう。
カトリックを信仰しながらでありながら進化論を標榜し、人間に対する皮肉と失望を露わにするその感性は、
司祭でありながら『ガリヴァー旅行記』を書いたスウィフトの逆説と冷徹な人間観を思わせます。
まあ「九百人のお祖母さん」も、ガリヴァー旅行記のストラルドブラグ人の挿話が元になってますし、
ラファティ自身もスウィフトに強い共感を持っていたんじゃないかと・・・。
どちらもアイルランドに起源を持つ作家、という共通点もありますしね。

人生のおかしさとほろ苦さを豊富な知識とウソ知識で彩り、隠し味に人生経験をピリリと効かせた逸品。
これが私の考えるラファティの妙味です。
そして彼の目で見た現実世界には、幽霊や架空の存在が当たり前のようにウロウロしているのです。

だから2002年に亡くなったラファティの幽霊だって、今でも現実世界を酔っぱらってうろつきながら、
偶然ぶつかった人に「Bang!」と言っているに違いないし、ラファティの目を受け継いだ優秀な読者なら、
きっとその姿を見ることができるに違いありません。

もしかしたら、生前には会ったことのなかった浅倉久志先生と一緒に歩いてる姿が見られるかも・・・。
そんな二人をどこかの街角で見かけた方は、ぜひご一報ください。
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シェリー・プリースト『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』感想

2012年05月10日 | SF・FT
ハヤカワ文庫SF『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』読み終えましたので、
あらすじとか感想をまとめてみました。

・・・物語の舞台は北米シアトル、時は1860年代。
南北戦争が長引く架空のアメリカで、凍土の下に眠るという金鉱脈を掘りあてるために
天才科学者レヴィティカス・ブルーが巨大ドリルマシン「ボーンシェイカー」を発明する。

しかしこのマシンがテスト走行中に市街地の地下を掘りまくるという暴走を起こしたことで、
街のいたるところが大きく陥没し、多数の死者が発生。
さらに掘った穴から致死性の毒ガスが噴出し、このガスが死者の一部をゾンビ化させたため、
街は「腐れ人」があふれかえる地獄となってしまった。
空気より重い毒ガスの拡散を防ぐため、生き残った人々は突貫工事で周囲に高い壁を建て、
破壊された街をゾンビもろとも封じ込めてしまう。

(ここまでが序章で、およそ5ページを使って設定を説明しています。このあとから本編。)

・・・大災厄から約15年後。壁付近にある水浄化工場で働く35歳のブライア・ウィルクスは、
二人の男の苦い記憶を引きずりながら暮らしていた。

一人は警官でありながら、大惨事の日に無断で囚人を解放した父・メイナード。
一人はシアトルを壊滅させたまま行方をくらました夫・レヴィティカスである。

二人の行いを非難する人々に囲まれ、肩身の狭い思いを強いられるブライアだったが、
辛い仕打ちに耐えつつ、最愛の息子が彼らとは違う真っ当な人間に育つよう願っていた。

一方、ブライアの一人息子であるジークは、祖父を英雄視する非行少年や犯罪者とつるみ、
ひんぱんに母との衝突を繰り返していたが、その裏には夫について一切語ろうとしない母と、
父の引き起こした事件の真相を知りたい息子との、心のすれ違いがあった。
やがてジークは父の名誉を回復しようと、壁の中に残されたレヴィの自宅兼研究室を目指して
封鎖された街へ侵入してしまう。
さらに息子の意図を知ったブライアも、父の衣装を身にまとい、ライフルを背負って追いかける。

メイナードを敬う犯罪者や封鎖都市内に残った人々の協力で、それぞれに目的地を目指す二人だが、
その前に立ちはだかるのはゾンビの群れと、壁の内側を科学力で支配するマッドサイエンティスト、
ミンネリヒト博士であった。
はたしてブライアたちはゾンビから逃げきれるのか?そしてミンネリヒトの正体とは・・・?


あらすじだけ読むと結構盛り上がりそうなんだけど、一番盛り上がるドリルメカの活躍部分は
冒頭5ページの要約のみ。そして本書で一番おもしろいのが、実はこの要約だったりします。
読む前に期待していたドリル成分については、結局ほとんど補給できませんでした。

ざっくりまとめると、親子関係がぎくしゃくした母子が冒険をきっかけに和解すると共に、
ヒロインが抱えていた父へのわだかまりと、暴君であった夫の記憶から解放されるという
要するに30代シングルマザーの自己回復物語です。
ノリはパラノーマル・ロマンスに近いけど、色恋沙汰よりは強い女性像で売り込むタイプ。

こういうのがウケるということは、あちらのSF読者には女性が多いということなのか、
それとも本書がそういう読者層をうまく取り込むことに成功したのでしょうか・・・。
いずれにしろ、マーケット受けを強く意識した内容であることは間違いないし、結果的に
その戦略がアメリカで見事に当たったのは、ローカス賞受賞という結果からも明らかです。

でも、SFとしてのスケールの大きさ、テーマの骨太さ、そして視野の大きさを期待すると、
たぶん肩透かしを食らうはず。
なにしろ徹頭徹尾、息子の心配ばっかりしてるアラフォーヒロインの話ですから・・・。
脅威の発明や壊れた世界、そして病んだ人々の姿は、この物語の中ではあくまで引き立て役。
物語の鍵となるのは常に妻と夫、そして親と子を巡る因縁に尽きます。
それは途中から登場するプリンセスやルーシーといった女性陣にも、例外なくあてはまります。

ゾンビガスから抽出されるドラッグというユニークな設定も、結局はヒロインがその密輸ルートで
封鎖都市内にもぐりこむというアイデアに使われるだけで、その後は忘れたように投げっぱなし。
そういう要素が、本作ではいくつも放り出されたままになっています。
タイトルになってるドリルメカ「ボーンシェイカー」は、まさにその代表と言えるでしょう。

そして結末、世界を修復する代わりに作者が描くのは「安全だけど息が詰まるような暮らし」から
「たとえ危険と隣り合わせでも、人に後ろ指を指されることなく生きられる新天地」に生きると、
ヒロインが心を決める姿でした。
プリーストとしては、強いヒロイン・強い母親像を書けてさぞや満足というところでしょうけど、
物語の最初に比べて何かが好転したわけでもないのに、これで感動しろってのは無理ですよ。

あとこの作者、人間も死人も含めてフリークを描くのにやたら力を入れてる気がしましたが、
巻末の解説で「デビュー後から主に南部ゴシック系の作品を書いていた」というのを読んで
あーもともとそういうのを書く人なのね、と妙に納得しました。
南部ゴシックの作家って、中も外も歪んだ人間を描くのが大好きな人ばっかりですからね。

ちなみに1860年代といえば、北米は西部開拓時代のまっただなか。
本書も西部劇の雰囲気が強く感じられるので、ネオ・スチームパンクと呼ぶよりも
むしろスチーム・ウェスタンとでも呼んだほうがお似合いな気もします。

まあ名称はどうであれ、話の平板さとスケールの小ささは変わりません。
そして外見こそスチームパンクの設定と南部ゴシックのフリーク趣味で飾りつけてはいますけど、
一皮むけば昔ながらの西部劇と、安易なフェミニズムが奇跡の合体を遂げた作品でした。
・・・これをSFとしておもしろく読むのは、私にはちょっと荷が重かった。

帯のコピー文では煽りまくってますが、さすがに持ち上げすぎ。


万が一にも、これが「ネオ・スチームパンクの最高傑作」だとしたら、このジャンルが我が国で
「SFの新たなムーブメント」になるのは、とうてい無理でしょう。
むしろこのジャンルの未来は、この後に紹介される作品の数と質にかかってくると思います。
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『ボーンシェイカー』読み始めました

2012年05月09日 | SF・FT
久しぶりに本屋をのぞいてみたら、ハヤカワ文庫SFの新刊コーナーにシェリー・プリーストの
『ボーンシェイカー ~ぜんまい仕掛けの都市~』が1冊だけ置いてあったので、とっさに購入。

実はゾンビ小説ってそんなに好きじゃないんだけど、海の向こう側で評判がいいのは聞いてたし、
改変世界でドリルメカと封鎖都市が出てくる冒険モノとくれば、とりあえず手にとってしまうのが
奇想SFファンのたしなみというものですからね。

で、だいたい100ページばかり読み進んだところですが、うーん。
思ってたほど盛り上がらないというか、自分の期待してた話と違う方向に進んでる気がする。

そもそもタイトルになってるドリルメカがほとんど出てこないとか、序盤で続く生活描写が
いやに長ったらしくて爽快感に欠けるのも、イマイチな理由ではあります。
でも一番気に食わないのは、ドリルで街を壊滅させたと世間に非難される父の汚名を晴らそうと
ゾンビの巣窟にもぐりこむジーク少年の無謀っぷりにも、それをを心配して追いかけるヒロインの
ブライア母さんにも、まったく共感を覚えないというところですね。

特にイラつくのは、ブライアがことあるごとに息子への母性愛と、彼女の父や夫に関する苦い記憶を
くどくどと自分語りするところ。
というか、ブライアのそういう内面をしつこく描写するところに、作者の女性としての自己主張が
透けて見える気がして、冒険活劇として気楽に読めません。

話の展開にいちいち父への反発と夫への怒りが絡んでくるあたり、まるで父権主義へのあてつけを
冒険小説仕立てにしたような印象もあります。
おまけに、そのあてつけも社会への問題提起というよりは、多分に私情がらみというめんどくささ。

私が考えるフェミニズム/ジェンダー小説のおもしろさは、既存の社会や価値観を揺るがすような
新たな視点を提示してくれることにありますが、この作品にはそこまでの深みが感じられないので
そっちの筋から読んだとしても、あんまり楽しめそうにないしなぁ。

・・・などといったん引っかかってしまうと、この物語の発端となった大事件として回想される
「制御できなくなったドリルメカが街を破壊し、その後に取り返しのつかない災厄を撒き散らす」
という挿話も、つまりは男性原理への批判そのものじゃないの?と勘ぐりたくなっちゃいます。

ストレートな冒険活劇にしてはなんだか息が詰まるし、かといって作中に鋭い風刺や問題提起も
感じられないので、このままだとつかみどころのないまま読み進めることになりそう。
この先、息子探し以外のテーマが話の中心に据えられる展開になれば、また印象が変わる可能性も
ありますけどねぇ。

Shan Jiang氏の描いた表紙は、文句なしにカッコいいんですが・・・。
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山野浩一傑作選『鳥はいまどこを飛ぶか』

2012年02月18日 | SF・FT
昨年のことになりますが、日本における前衛的・実験的(いわゆるニューウェーブ)SFの旗手として名高い
山野浩一氏の作品集が、創元SF文庫から2冊同時に刊行されました。

SF界の大物として名前の挙がる人は数あれど、小説に評論に雑誌編集、そして我が国における
ニューウェーブの伝道者・実践者しての役回りと、多方面での活躍ぶりで山野浩一氏に並ぶ人は
決して多くないでしょう。

しかし氏の作品が盛んに発表されたのは1970年代ごろで、今からおよそ40年も前のこと。
その山野作品を21世紀に復刻することは、氏の作品の再評価に留まらず、日本SFの歴史を
後世に伝えるという意味においても、意義のある企画だと思います。

私も山野氏の小説は読んだことがなくて、「サンリオSF文庫でいろいろ話題になった人」の印象が
強かったのですが、今回の傑作集でようやく「作家・山野浩一」の仕事に触れることができました。

マグリットを思わせる塩田雅紀さんの装画も、収録作のシュールな味わいを見事に捉えています。

さて、今回は傑作選1の『鳥はいまどこを飛ぶか』についての読後感をまとめてみました。

「鳥はいまどこを飛ぶか」
冒頭と結末を除いて各章の順番を入れ替えて読んでもいいという試みは、前衛小説というよりは
映画のカットアップを思わせます。
物語を読む上で大きな影響がある仕掛けではありませんが、むしろ読者が小説の中を渡り鳥のように
飛び渡ってほしい、という狙いなのでしょう。
最も印象に残るのは次元を越えて飛ぶ渡り鳥が空間をパレットナイフのように切り裂くイメージで、
このように視覚的イメージを鮮烈に描き出す文章が、山野作品の大きな魅力であると思います。
また、ホシヅルも登場する冗談交じりの架空の鳥とその命名には、作者の遊び心と言語への強い興味が
はっきり表れている感じです。

「消えた街」
団地の消失がサラリーマンの潜在的な失踪願望と結びつく、ある意味で力技的な作品。
作者自身があとがきで「アイデアだけの平凡な小説」としているのもそのためでしょう。
しかし、むしろ消失した団地の住民が外の世界に対して自治権を行使し、その狭い世界の中で
小さな自己満足を得ていくという展開は、戦後の日本人の精神性を縮図化したようにも見えて
なかなかおもしろかったです。
この方向をもっと突き詰めれば筒井康隆風になったのだろうけど、そっちに話が向かないのは
物語で現実と対峙することについて、山野氏があまり興味を持たなかったためかもしれません。

「赤い貨物列車」
電車という閉鎖空間は奇談にもってこいの舞台で、本作もその系譜を汲む一編。
車中の多数派を占める謎の集団が主導権を握り、平凡な主人公が少数派であることを悟られまいと
必死に立ち回る姿は、属すべき立場を見失って彷徨う他の作品の主人公たちと重なるものがあります。
作中でほのめかされる電車事故の陰謀論には時代の匂いが色濃く感じられますが、やっぱりこのネタも
ほとんど活かされずに終わるのが残念です。

「X電車で行こう」
作者のSFデビュー作にして、作中で最も魅力的な作品。
なんといっても「全ての路線を経路が重なることなく走る列車があるとすれば、どこまで行けるか」という
単純なゲーム性が、わかりやすくていいですね。
好きなように鉄道を引けるといえば、アートディンクにそのものずばり「A列車で行こう」という題名の
シミュレーションゲームがありますが、「X電車で行こう」はそれを小説としてやってのけているのが
実に楽しいし、その点でも時代を先取りしていたのかな、とも思います。

そういえば山野浩一氏は競馬の血統評論家としても有名ですが、競走馬の血統データを最大限に生かした
「ダービースタリオン」という大ヒットゲームもあったことを考えると、山野氏がこの業界に進んでいれば
いろんなシミュレーションゲームで大ヒットを連発した・・・という可能性もありそうです。

さて、序盤では無邪気な鉄道ゲームの主役であり、ダイヤという社会ルールに縛られない自由の象徴だった
X電車が、やがて暴走し他の車両を焼き払い、乗客を虐殺するようになる姿は、当時の社会運動が先鋭化し
やがて暴力へと傾斜していく過程と、よく似ているように思います。
最後にX電車から取り残された思いを抱く主人公は、そんな時代の流れに取り残された多くの若者の思いを
代弁しているのかもしれません。

「マインド・ウインド」
主人公の抱く日常への漠然とした不安感と、人を彷徨へといざなう心の風「マインド・ウインド」の噂。
はたして両者には関係があるのか?あるいは心の風など存在しないのか?
これについて作中では明快にされず、物語の力点はむしろ周囲に流されがちな主人公の揺れ動く立場と
その心のあり方をいかに描くか、ということに置かれています。
しかし、これがSFとしても普通小説としても中途半端な感じで、なんとも歯切れが悪い。
筒井康隆氏から「このような中間小説じみたものを書くべきではない」と批判されたそうですが、納得。

「城」
オチがどうこうより、子どもの残酷さと愚かさを詩情あふれる描写できれいにまとめた感性を評価したい。
そして主人公の少年が本当に生を実感できたのは、列車に乗っている短い時間だけだったのかも・・・。

「カルブ爆撃隊」
作者あとがきでは自信ありげなコメントがついていますが、作中に出てくる収容所やエントロピーや
爆撃機などのアイテムを見ると、既存のニューウェーブSFとのダブリを強く感じてしまいます。
そのため、他の収録作に比べると、むしろオリジナリティが薄いようにも見えるのですが・・・。
不条理小説はいまやそこかしこで見かけることも、その衝撃度を発表当時よりも弱めた一因かも。

本作の狙いはベトナム戦争と太平洋戦争との二重イメージ化にあったと思いますが、そこまで読ませるには
もっと押しが強い話でもよかった気がする・・・まあ、あえてそうしなかったのかもしれませんけどね。
あと主人公たちが収容所で戦争映画の悲惨な場面を延々と見せられる場面は、まんまルドヴィコ療法ですな。

ちなみに「犬」と「爆撃機」には押井守作品との類似も見られますが、押井さんが「爆弾」という象徴で
60~70年代の社会運動における熱気を表すのに比べ、本作における無国籍的な描写はむしろ作品から
熱気を奪いさるようで、どこかひんやりした手触りを感じさせます。

「首狩り」
むしろこっちこそオチが予想できる作品ですが、負け組の主人公が抱える劣等感が悲しいほどにリアルで
読み進めるほどに身につまされてしまいます。
不条理が日常に入り込んできた後の状況を生々しく描けるところは、山野氏のシミュレーション能力が
いかに優れているかを表すものではないでしょうか。
ちなみに首狩り組織首謀者のK・Yは、言うまでもなく作者である山野浩一のイニシャルです。

「虹の彼女」
この作品で最も注目すべきは、主人公が「自分が求めているのは“脱出しなければならない(日常)世界”で、
脱出した先にある世界に行こうと望んでいるわけではない」と自虐的に語る部分でしょう。
これはおよそ全ての収録作品に当てはまる評価で、山野作品のテーマを的確に表現したものだと思います。

ただし、これを主人公のセリフとしてはっきり言わせてしまったことで、この物語自体もまた
行き先を失ってしまったのは、やはり否定できないところ。
この思いをあえて言葉にせず、様々な視覚イメージに置き換えてビビッドに表現することが、
山野作品の持つ映像的な美しさの源泉だと思うし、それを言葉で明かすのは手品師が進んで
タネを割るのと同じことです。
そして禁断の言葉を口走った主人公は、読者と共に虹の彼方の別世界を垣間見るしかありません。
また彼が見る別世界の美しいイメージも、ローリングストーンズやビートルズの影が露骨に見えるせいで
やや緊張感に欠けるのが惜しまれます。

ちょっと話がそれますが、私の世代が「シーズ・ア・レインボー」を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
たぶんiMacのCMでしょうね。
作中でこの曲名が出たとき、真っ先に思い浮んだのはミックならぬMacの姿でした。

「霧の中の人々」
山登りのリアルな光景は作者の真骨頂で、その生々しい描写は夭折の画家・犬塚勉の絵を思わせます。
そして上りと下りが入れ替わることで世界の風景まで入れ替わってしまうあたりには、エッシャーの
騙し絵を思い出すなど、これもまた絵画的イメージにあふれた作品。
ラストのアクロバット的なオチは予想の範囲内ですが、それまでに積み重ねた山や都市のリアルな描写が
不在者という抽象概念のバックグラウンドに置かれることによって、結末に不思議な重みを与えています。

そして全ての収録作に共通して感じられるのは「何者でもなくなる」ことへの憧れでしょうか。
旅や登山は、帰属する集団からはなれて一時だけ「何者でもなくなる」ための手段であり、その離脱感は
帰属意識や同調圧力が強いとされる日本を舞台にすることで、より強いコントラストを際立たせます。

さらに言えば、一時だけ「何者でもなくなる」という体験は、まさに物語を書く事であり、さらには
それを読むという行為そのものでもあります。
作者と読者が物語というひとつの世界を巡って、自分だけの旅を続けていく・・・これはまさしく、
「虹の彼女」の主人公が垣間見た光景ではないかと思います。

山野氏といえば「和製ニューウェーブの旗手」という先入観が強かったけど、実際に読んでみると
「わからない」という感じよりも「意外なほどわかりやすい」ことに驚きました。
むしろ日本を舞台にし、普通の暮らしと普通の心象風景が生き生きと描かれていることによって、
SFが日常を切り裂き、あるいは日常そのものがSFと化す光景が、よりリアルに感じられる。
こうした作品は、やはり日本のSF作家でなければ書き得なかったものでしょう。

そして山野氏がこれらの小説を書いた当時と比べて、日本人の心象風景はあまり変わっていないように見える。
本書を読んで一番奇妙に思えたのは、むしろこの点だったかもしれません。
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チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』感想

2012年01月23日 | SF・FT
昨年の欧米SFの中でも『ねじまき少女』と並ぶ話題作、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を読みました。

バルカン半島と思われる地域にある都市国家・ベジェルで、若い女性が殺害された。
過激犯罪を担当するボルル警部補が乗り出すものの、この国ならではの社会事情から、
捜査は不可解な様相を示し始める。

実はベジェルの存在する都市には、言語・文化・風習・歴史すらも異なるもうひとつの都市国家、
ウル・コーマが並存していた。
両国は明確に国境を隔てる物理的障害を持たずに“混在”しながら、国民同士が互いの存在を意識的に
“無視”することによって、国家としての独立性を維持していたのだ。

そして殺された女はウル・コーマで暮らす外国人にもかかわらず、ベジェルで死んでいた。
すなわちこれは、厳しく禁じられている“越境行為”に絡む問題に発展する怖れがあるのだ。
もし不法な越境行為が確認された場合、事態は二つの国家を越えた強力な治安維持組織「ブリーチ」に委ねられ、
全ては旧に復されることになる・・・あくまで秘密裏に、誰の目にも留まることなく。

ボルルは事件を「ブリーチ」に委ねようとするが、国家を超えた勢力の介入を嫌う上層部の思惑もあって、
「ブリーチ」の発動は行われなかった。
ボルルはさらに捜査を継続するため、正規の手続を経てウル・コーマへと“入国”し、被害者が探っていた
“ふたつの国家の隙間にある存在”の謎へと接近していく。
彼女はなぜ殺されたのか。第3の国家とは何か。そして謎めいた「ブリーチ」とは、いったい何者なのか・・・。

身ぶりや服装、そして言語の異質性を逆手にとって、儀礼的無関心や傍観者効果の組み合わせにより
“そこにあるにも関わらず、互いに見えない国”を作ってしまうのが、本書の核心を成すアイデアであり、
実は推理小説としてのトリックでもあります。
最後に殺人犯は明確にされるものの、実はベジェルとウル・コーマが並存する「都市そのもの」が、
この殺人の共犯者であり告発者であるという点も、都市小説としての面目躍如というところでしょう。

また、「分断」という言葉を聞くと、日本人の我々としては「引き裂かれた」という印象を受けがちですが、
本書を読んでいてユニークだと思ったのは、「分断」こそがこの地の個性であり、それぞれの国民の精神に
深く根ざした「国民性」ではないだろうか・・・と感じさせるところ。
このへんはウエストエンドとイーストエンドの貧富格差、あるいはインド系移民などの流入が問題となっている
ロンドンで育った、作者ミエヴィルの体験が反映されているのかもしれません。
あるいは日本以外の諸外国では、こういう感覚がより身近にあるのかも・・・とも感じます。

なお、ミエヴィルはこの小説を、現実に対する「寓意」として読んで欲しくないと言っていますが、
私はむしろこの設定の場合、積極的に「寓意」として読んだほうがおもしろいと思います。
一般的な見方としては、かつてのベルリンやイスラエル、あるいはべジェルのモデルとも思われる
旧ユーゴを連想すると思いますが、むしろいま現在でこの2国混在制度に最も近いのは、やはり
ネット空間上のコミュニティですかね。
例えばtwitterで互いをブロックしあう姿には、相手を「意図的に見ない」という儀礼がシステムに
あらかじめ組み込まれた社会が、既に日常化していることを感じます。
・・・まあネット社会そのものが、目に見えない「もうひとつの現実」でもあるわけですが(^^;。

個人的に残念だったのは、これだけユニークな設定を持ちながら、方向性が明確に「正統派ミステリ」と
決まっていることによって、本書の持つ可能性が狭められてしまったのはないかということ。
推理小説としてのフェアさにこだわらなければ、もっと異様な国家像が描き出せたのではないか、
もっとエキゾチックな社会が見られたのではないか、という期待を持ってしまいます。

事件の真相が思ったよりこじんまりしていた(というか、ハードボイルドでは結構ありがち)というのも、
ミステリとしてはやや弱い印象を与えてしまいました。
同種の作品として比較される『ユダヤ警官同盟』も、展開は正統派ハードボイルドミステリなんだけど、
あの作品は真相が判明した瞬間に“一転突破”の強烈さで世界をぶち抜く衝撃があるんですけどね。
『都市と都市』は、その一転突破を図ろうとしないし、あえて世界をぶち抜こうともしない。
これもジャンル小説としてのミステリにこだわるあまり、どこか突き抜けられなかった印象があります。
そしてSFとしての衝撃度だけで考えるなら、やはり前者のほうに分がある気がしますねぇ。

たまに出てくる「グーグル」とかの固有名詞が、私にとっては興をそぐ方向に感じてしまったのも、
ちょっとマイナスでした。
これだけ外部世界と隔絶した展開で進められるなら、逆に一切を架空のアイテムで固めてしまっても
よかったと思うし、そのほうが「寓意」の入り込む余地も少なかったでしょう。
まあ完全に外部と切り離してしまったら、今回の殺人事件そのものが成立しなかったとは思いますけどね。
(このへんはややネタばれです。)

中盤までは世界も事件もいまいち見通しが悪いのですが、謎の治安組織「ブリーチ」が登場してきてからは
物語も俄然スピードアップします。
最後は主人公が組織に〇〇〇〇されるというのは良くある話にも思えますが、彼らの精力的な活動ぶりは、
本書における華と言えるでしょう。
ある意味、『都市と都市』という作品は、オーウェルやアラン・ムーアに見られる「秘密機関への反感」や
「謀略史観」に対してのアンチテーゼとなっているのかもしれません。

ジャンル小説としてはアラも見えますが、凝った設定を自在に操って魔術的な都市空間を演出し、
それをどう維持するかに腐心したミエヴィルの筆力は、やはり確かなものだと思います。
ミステリとしてもよくまとまってますが、むしろ奇談系や都市小説が好きな人向けという感じ。
といっても、おどろおどろしかったり掴みどころがないわけではなく、むしろ理路整然とした作品で、
そこがFTやホラーではなく、SFとして高く評価されたポイントなのかなーとも思いました。

最後にひとこと、リズビェト・コルヴィ一級巡査をもっともっと活躍させて欲しかった!
しゃべりといい有能さといい、私のツボにハマりまくりのキャラだったものですから。

・・・もしかして、彼女が主人公の続編が出たりするかも?と勝手に期待しております。
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三省堂書店SFフォーラム〈『ダールグレン』の謎を解く〉レポート

2011年07月31日 | SF・FT
三省堂書店SFフォーラム サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン 1・2』刊行記念
柳下毅一郎さん×丸屋九兵衛さんトークショー〈『ダールグレン』の謎を解く〉に行ってきました。

まずは進行役として横に控える国書刊行会の樽本周馬さんから、今回のフォーラムのきっかけとなった
「あんしぶる通信」(元SFM編集長の塩澤快浩さんがやっていたSF系サイト)で行われた、丸屋さんへの
インタビュー記事が紹介されました。(記事のプリント配布あり)
樽本さんいわく「黒人文化とSFの両方に詳しい人だという記憶が残っていたので、『ダールグレン』が出たとき
すぐ声をかけさせてもらいました。」との話。
続いて丸屋さんからの自己紹介。本業である黒人音楽誌bmrの編集長でありながら、SFMではスタートレックの
コラムを連載し、さらに2011年9月号の小特集「ディレイニー再入門」にも寄稿されているという方ですが、
なにより共感したのはこの発言。

「今回はディレイニーの特集というから、てっきりメインかと思ったら小特集じゃないですか!これっておかしいですよね?」

まあこれには横の柳下さんから「(『ダールグレン』は)ハヤカワの本じゃないから。」と冷静なツッコミが入り、
樽本さんからは「よその本なのに取り上げてもらってありがたいです。」という感謝の言葉がありました。

丸屋さんは会場にサンリオSF文庫版『アプターの宝石』と『エンパイア・スター』を持参されてましたが、
神田有数のSF系古書店(ただし価格もべらぼうに高い)で購入したそうで、どっちも数千円とか・・・
まあそれだけディレイニーを愛している方、ということですね。

―以下、トーク内容をメモった中から拾い書きしておきます。

柳下さん(以下「柳」と表記):邦訳は読むだけなら簡単だった。
原書のバンタム・ブックスは古書店で買ったけど、背折れもないくらい読んでない。売ったやつも読んでなかったはず。
本国では70万部売れたといわれているが、読んだ人はどのくらいいるやら。

丸屋さん(以下「丸」と表記):一説には100万部強とも聞くけど、日本版はどれくらい売れたのか?

樽本さん(以下「樽」と表記):国書の在庫が500部くらい。初刷りは4000部。国書では多いほう。

柳:ディレイニーはスター性があってSF界の外でも評判になってたので、一般小説として売れたのでは。
  バンタム版は発売一ヶ月で四刷している。

丸:『ノヴァ』まではわかりやすいシンボル小説で、『ダールグレン』から長くてより複雑になってきた気もする。

柳:『ダールグレン』も初読はヒッピー小説と読める。これはディレイニーが60年代後半に過ごしたコミューン生活が原点。

(以後『ダールグレン』の元ネタと見られる未訳の自伝『天国の朝食』の紹介が続きます。)

柳:『天国の朝食』のほうが後に書かれているが、こちらがノンフィクションで、『ダールグレン』がフィクション版。
  「天国の朝食」はディレイニーがメンバーだったバンドの名前で、そのバンドが中心だったコミューンの名前も同じ。

丸:バンドの音楽性はロック?

柳:サイケデリック・ロック。いろんな楽器を演奏して多重録音とかやっていた。
  コミューンにはディレイニーの恋人だった「リー」という女性もいて、お金がなくなるとみんなドラッグの売買で稼いでいた。
  (でも3ヶ月の収入が26ドルとか)
  そしてこのドラッグ売買の元締め的なコミューンのリーダー格の名前が「グレン・ダール」(笑)。
  ただしノンフィクションといっても全部が本当じゃないので、この人物が実在したのかは不明。

柳:この「天国の朝食」は小ぎれいだったが、他にネズミの巣みたいに汚い「プレイス」とか、気持ち悪いほど
  分担性が行き届いた「ジャニュアリー・ハウス」というコミューンも出てくる。
  さらに334番地(これはうそ臭い)には、レザーと鉤十字がシンボルのSM風に装飾されたコミューンがあって、
  見た目は怖いし押し込み強盗的に家具とか強奪するけど、文句を言うと返してくれる不思議な連中が住んでいた。
  これがスコーピオンズのモデルになっている。

柳:セックス小説としてはどうなんでしょう?

丸:男女間よりは男性同士のほうが気合の入った描写になっている。男女間はわりとあっさり。

柳:レイニャとの関係はしっとり書いている。彼女のモデルと思われるリーという女性が、フルートを吹きながら
  木霊とセッションする、という場面も『天国の朝食』に出てくる。
  ちなみにこのバンドが解散したのは、スタジオ代が値上がりして払えなくなったから。

(ここで丸屋さんがディレイニーの写真を7枚ほど紹介。最近のあまりの変貌ぶりに、場内は大爆笑。)

柳:若いころはあまり黒人ぽくない。

丸:60年代はメリルの言う「ハンサム・ニグロ」、70年代に太って急激に劣化し、最近はすごいことに・・・。

柳:完全にアレン・ギンズバーグですね!

丸:今のディレイニーは抱かれたくないけど、若いころなら抱かれてもいい(笑)。

(ここで元妻のマリリン・ハッカーの写真が登場、短髪の男前な姿。)

丸:この人は基本レズビアンです。

柳:(ディレイニーとハッカーの編集した「クォーク4」を見せて)詩とか絵とかも入ったSFアンソロジーだけど、
  中にユイスマンスを引き合いに出した評論が載っていて、これを絶賛しながら「SF作家はこういうプロットも
  キャラもないけど、おもしろい小説に触れてこなかった」と批判しているが、これって『ダールグレン』の話では(笑)
  ディレイニーのSF界における抑圧感はすごかったんじゃないかと思う。

丸:『アインシュタイン交点』受賞時のプレゼンテーションで、司会に屈辱的な紹介をされたらしい。

柳:『アインシュタイン交点』はエピグラフで種明かしをしてるからわかりやすい。

(ここからSFM9月号「ベローナの歩き方」に基づく『ダールグレン』の紹介に入ります。)

柳:『ダールグレン』は、本人が書いたノートに後から書き直しを加えたもの。
  キッドはノートを書き換えながら行動しているが、その行動はあらかじめノートに書かれている。
  ノートに書かれていない体験を読者は知りえないが、それは存在しないのではなく、書くほどの事件が
  起きなかったからとも考えられる。ジョイス的な意識の流れを逆転させたものではないか。

丸:ディレイニーは円環構造多すぎでは?

柳:神話好きなんで類型に落とし込みがち。ディレイニーも言ってるが、『ダールグレン』は円環じゃなくメビウスの輪。
  自分としてはそのひねった部分は2巻の中盤、タックと倉庫に行って鎖と目玉を見つけてしまうところだと思う。
  ここで小説の仕掛けが露出している。自分が拒絶されたという隠喩の赤目玉が、実際のモノとして出てきてしまう。
  つまりここはディレイニーの脳内。以後は物語が裏の話になる。

丸:それ以後は裏返った話?

柳:そこから最初のほうへ戻っていく。

丸:だから最初のほうに行くと、性別が変わったりしている?

柳:そうそう。

(ここで柳下さんから、コーキンズはいると思うか?という疑問が示される。)

柳:コーキンズは声しか出てきていない。本当は実在せず、ダールグレンが仕切っているのではないか。

丸:謎を解きましたね!

柳:もう一個の謎解きとして、パーティの夜の狙撃事件の話。フェンスターが犯人という話の後に、彼とキッドと
  レイニャが仲良くしている場面がある。
  これは場面の順番が入れ替わったのかと思ったが、文中で「心の内部でふたつの食い違った表面がずれて
  きちんと整ったように感じた」という部分があることから、ここで二つの現実(裏と表)が重なったことを
  意味するのではないかと思った。
  『ダールグレン』では部分的にふたつのストーリーが進行していて、ひとつの場面が二通りに書かれている
  部分もある。それがここで重なったのではないか。

丸:狙撃事件のモデルはあるのか?

柳:この時代だからキング牧師の事件とか。

―『ダールグレン』の謎にまつわる部分の話題は、だいたいこのくらいです。

他に丸屋さんからはディレイニーのおばの話、キャンベルに『ノヴァ』のアナログ掲載を断られた話、
これをモチーフにしたDS9の137話「夢、遥かなる地にて」と、ここから繋がる幻の最終回の
エピソードなど、トレッキーで黒人文化に詳しいという強みを十分発揮したお話がありました。

さらに丸屋さんからの『ネヴェリヨン』シリーズはおもしろいの?という問いかけについては、四巻目まで読んだ
高橋良平さんが、客席からひとこと「つまらない」(^^;
なんでもファンタジーにおける貨幣経済について異常なくらいこだわりがあるようで、本人が別名義で書いた
長ったらしい解説を読むと疲れちゃうそうです。

柳下さんからはディレイニーが書いたポルノ『情欲の潮』で、マッチョな黒人が13歳と15歳の少年少女を
お稚児さんにしてやりたい放題という話を書いたものの、さすがにやばいので改定版が出る際に年齢設定を
「113歳と115歳」にしちゃったという爆笑ネタを披露してくれました。
SFじゃないけどファンタジーっぽい要素があるとは聞いたけど、そこなのかよ!もう少年少女じゃないじゃん(^^;

(ちなみに私が米のWikipediaを見たところ、この黒人の持ち舟の名前が「スコーピオン」さらに登場人物で
ロビーとかダヴとかいう人名も出てくるようで・・・まったくディレイニーは!)

あと『天国の朝食』に出てきたエピソードのひとつで、フォント好きの男がバンドのキャッチコピーを印刷するとき
「バベルフォントの17ポイント」で印刷してきたのが、『バベル-17』の元ネタだとのお話も。

ちなみにそのbabel sansのフォントは、こんな感じです。



うーん、ちょっとディレイニーらしくない地味なフォントですが・・・。
まあこのフォントの名前からあの傑作を思いつくところに、ディレイニーの非凡さがあるのでしょう。

最後に国書刊行会の樽本さんから、『ダールグレン』はジョイスじゃなくて『魔の山』だというディレイニー自身の
コメントについて「七章構成で青年が放浪し、知識人が延々と演説するところは完全に踏襲。また当時『魔の山』は
ヒッピーの聖典として読まれていた。『ダールグレン』はいわばサイケ版『魔の山』」という興味深い解説があり、
ここでイベント終了となりました。

丸屋さん、柳下さん、樽本さん、2時間にわたって濃いお話を聞かせていただき、ありがとうございました!

(8/5追記)
私より数ランク上のレベルで異色作品に挑み続けるさあのうず(現:放克犬博士)さんのブログ
「異色な物語その他の物語」にも『ダールグレン』刊行記念トークショーのレポートが載りました!

“丸屋さんファン(P-Funkファン、丸屋さんが編集長になってからのbmr定期購読者)柳下毅一郎さんファン、
 ディレイニーファンでもあるまさにオレのための企画だよ!”

と断言しているくらいなので、中身の濃さは保証つき。
こちらの取りこぼした話もしっかりフォローされているので、読み応え満点です。
その筋(どんな筋だ)では知られた方なので紹介するのもおこがましいですが、うちと併せてお読みいただくと
より完璧なベローナの全体像が見えてくるかもしれません。

なお、あちらのサブタイトルは「丸屋九兵衛VS柳下毅一郎@三省堂書店SFフォーラム」という血なまぐさいものですが、
別に男性二人が真鍮の蘭とかそれ以外の武器でお互いをつつきあったわけではありませんので、そっち方面についての
あらぬ期待だけはもたないようにお願いします(^^;。

なお放克犬さんのブログは2019年現在「異色もん。」となってます。
他にもシミルボンでコラム大賞を獲ったりと益々活躍中!
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