細田守監督の『時をかける少女』が公開されてから今年で10周年だそうで、それを記念して
作中にも登場する東京国立博物館で野外上映が開催されました。
前回の野外上映は2014年でしたが、あの時は仕事終わりに駆けつけたら既に長蛇の列で
映画の後半まで入場できなかったので、今回は最初から土曜日に行くと決めての参加です。
とはいうもののその前に済ませる用事があったので、現地に着いたのは17時過ぎ。
場内の場所取りは16時からなので、敷地内の芝生からアスファルトの上に至るまでのあちこちに
早くもレジャーシートが敷き詰められてました。
限定グッズを購入後に何とか座る場所を確保。かなり後ろですがスクリーンが見えるのでまだマシです。
そのうち奥華子さんが登場してリハ開始、スクリーン前に置かれたキーボードで「ガーネット」のサビを
入念にさらっています。歌も音楽もしっかり聞こえるのでこれは期待できそう。
しかしいざトークが始まってみればスピーカーの音が小さすぎて、話がほとんど聞こえません。
前から拍手は聞こえるけれど内容どころか誰がしゃべってるかも不明。この時間はかなりつらかった。
後で判明しましたが、この時は齋藤プロデューサーのトークだったんですね。
トークが終わっていよいよ本編の上映開始。最初は音が小さかったけど、後から調整したのか
映画自体は音楽もセリフもそれなりに聴き取れてちゃんと見られました。
……と思ったら2回目のタイムリープ中に映像がダウン。会場説明や復旧見込のアナウンスは
後方にまったく聞こえずやきもきしました。
結局十数分で映像が復旧。まあこれも時間が巻き戻ったんだろうと気を取り直して続きを観てたら、
今度はクライマックスのタイムリープでまたもや映像が落ちました。これには会場全体が苦笑い。
近くの人は「涙が引っ込んじゃった」とがっかりしてましたが、野外上映にはトラブルがつきものと
割り切るしかないのでしょう。
その後は無事にラストまで完走。エンディングの後に大拍手があって、いよいよ奥華子さんの登場です。
場内が総立ちで野外フェス状態の中、まずは「変わらないもの」、続いて「ガーネット」を熱唱。
映画の余韻が冷めない中で奥さんの弾き語りを聴くと、タイムリープのように感動が蘇ってきます。
背後の上野の森からは夏虫の鳴く声が響いてきて、季節感をさらに高めてくれました。
さて、私にとって東博で『時かけ』を観る一番の目的は、やはり「白梅ニ椿菊図」です。
この実在しない絵を実在する東博で観ることにより、作中の世界と我々の世界が交錯する瞬間を感じ、
その意味を考えたいというのが、自分にとって最大のテーマ。
もちろん、それを修復した芳山和子が東博にいる気分を味わいたいという面もありますが(笑)。
間宮千昭が「白梅ニ椿菊図」をなぜ観に来たか、それが彼の時代と今の時代にどう関係しているかは
以前にも考察しましたが、おそらく次のような事情によると思われます。
“千昭の住む時代はおそらく戦乱で人口が減少し自然も破壊されている。その時代を生きる千昭は
かつて戦乱の世に無名の人物が描いた「白梅ニ椿菊図」を知り、実物を観るために現代へ来た。
未来人にとって歴史改変は許されないことで、彼自身もそれは不可能とあきらめていたからこそ
ただ「観る」ためだけにタイムリープを行った。そして「白梅ニ椿菊図」がこの時の展示を最後に
失われたとされているのは、おそらくそう遠くない時期に東博をも巻き込んだ非常事態が発生し、
それが千昭たちの置かれている境遇へとつながっていることを暗示している。”
だから私が東博で「白梅ニ椿菊図」を観たいのは、千昭の住む時代を現実にしないこと、そして
真琴が言った「なんとかしてみる」という言葉を自分の心に刻みつけたいという思いからなのです。
まあ単なる思い込み、思い入れにすぎないと言われればまったくそのとおりではありますが。
しかしこの野外上映が行われた空の下で、フランスやトルコでは人々の血が流れ、さらに世界各国では
次々と大きな揺らぎが起きています。
「白梅ニ椿菊図」という架空の絵には、そうした土地や人々にも共通する物語が示唆されている。
だから今、私は東京国立博物館でこの絵を観たかったのです。千昭と同じように。
『時かけ』が公開されてから10年。まだタイムリープは発明されず、川は地上を流れています。
それはこの映画を観たすべての真琴たちが歴史を変えたおかげなのか、それともまだ千昭の時代までは
遠く離れていて、その間に取り返しのつかないことが起きるのでしょうか。
その答えは、また10年後に東博で『時をかける少女』を観ることができたらわかるのかも知れません。
なお、東京国立博物館特別4室では「『時をかける少女』と東京国立博物館」を7/31まで開催中です。
映画と東博の関係にも迫る展示なので、こちらもお見逃しなく。
作中にも登場する東京国立博物館で野外上映が開催されました。
前回の野外上映は2014年でしたが、あの時は仕事終わりに駆けつけたら既に長蛇の列で
映画の後半まで入場できなかったので、今回は最初から土曜日に行くと決めての参加です。
とはいうもののその前に済ませる用事があったので、現地に着いたのは17時過ぎ。
場内の場所取りは16時からなので、敷地内の芝生からアスファルトの上に至るまでのあちこちに
早くもレジャーシートが敷き詰められてました。
限定グッズを購入後に何とか座る場所を確保。かなり後ろですがスクリーンが見えるのでまだマシです。
そのうち奥華子さんが登場してリハ開始、スクリーン前に置かれたキーボードで「ガーネット」のサビを
入念にさらっています。歌も音楽もしっかり聞こえるのでこれは期待できそう。
しかしいざトークが始まってみればスピーカーの音が小さすぎて、話がほとんど聞こえません。
前から拍手は聞こえるけれど内容どころか誰がしゃべってるかも不明。この時間はかなりつらかった。
後で判明しましたが、この時は齋藤プロデューサーのトークだったんですね。
トークが終わっていよいよ本編の上映開始。最初は音が小さかったけど、後から調整したのか
映画自体は音楽もセリフもそれなりに聴き取れてちゃんと見られました。
……と思ったら2回目のタイムリープ中に映像がダウン。会場説明や復旧見込のアナウンスは
後方にまったく聞こえずやきもきしました。
結局十数分で映像が復旧。まあこれも時間が巻き戻ったんだろうと気を取り直して続きを観てたら、
今度はクライマックスのタイムリープでまたもや映像が落ちました。これには会場全体が苦笑い。
近くの人は「涙が引っ込んじゃった」とがっかりしてましたが、野外上映にはトラブルがつきものと
割り切るしかないのでしょう。
その後は無事にラストまで完走。エンディングの後に大拍手があって、いよいよ奥華子さんの登場です。
場内が総立ちで野外フェス状態の中、まずは「変わらないもの」、続いて「ガーネット」を熱唱。
映画の余韻が冷めない中で奥さんの弾き語りを聴くと、タイムリープのように感動が蘇ってきます。
背後の上野の森からは夏虫の鳴く声が響いてきて、季節感をさらに高めてくれました。
さて、私にとって東博で『時かけ』を観る一番の目的は、やはり「白梅ニ椿菊図」です。
この実在しない絵を実在する東博で観ることにより、作中の世界と我々の世界が交錯する瞬間を感じ、
その意味を考えたいというのが、自分にとって最大のテーマ。
もちろん、それを修復した芳山和子が東博にいる気分を味わいたいという面もありますが(笑)。
間宮千昭が「白梅ニ椿菊図」をなぜ観に来たか、それが彼の時代と今の時代にどう関係しているかは
以前にも考察しましたが、おそらく次のような事情によると思われます。
“千昭の住む時代はおそらく戦乱で人口が減少し自然も破壊されている。その時代を生きる千昭は
かつて戦乱の世に無名の人物が描いた「白梅ニ椿菊図」を知り、実物を観るために現代へ来た。
未来人にとって歴史改変は許されないことで、彼自身もそれは不可能とあきらめていたからこそ
ただ「観る」ためだけにタイムリープを行った。そして「白梅ニ椿菊図」がこの時の展示を最後に
失われたとされているのは、おそらくそう遠くない時期に東博をも巻き込んだ非常事態が発生し、
それが千昭たちの置かれている境遇へとつながっていることを暗示している。”
だから私が東博で「白梅ニ椿菊図」を観たいのは、千昭の住む時代を現実にしないこと、そして
真琴が言った「なんとかしてみる」という言葉を自分の心に刻みつけたいという思いからなのです。
まあ単なる思い込み、思い入れにすぎないと言われればまったくそのとおりではありますが。
しかしこの野外上映が行われた空の下で、フランスやトルコでは人々の血が流れ、さらに世界各国では
次々と大きな揺らぎが起きています。
「白梅ニ椿菊図」という架空の絵には、そうした土地や人々にも共通する物語が示唆されている。
だから今、私は東京国立博物館でこの絵を観たかったのです。千昭と同じように。
『時かけ』が公開されてから10年。まだタイムリープは発明されず、川は地上を流れています。
それはこの映画を観たすべての真琴たちが歴史を変えたおかげなのか、それともまだ千昭の時代までは
遠く離れていて、その間に取り返しのつかないことが起きるのでしょうか。
その答えは、また10年後に東博で『時をかける少女』を観ることができたらわかるのかも知れません。
なお、東京国立博物館特別4室では「『時をかける少女』と東京国立博物館」を7/31まで開催中です。
映画と東博の関係にも迫る展示なので、こちらもお見逃しなく。
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