Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

R・A・ラファティ『昔には帰れない』

2013年02月09日 | SF・FT
新☆ハヤカワSFシリーズの刊行予定に入っていながら途中で消失するなど、涼宮ハルヒばりの
紆余曲折を経た後にSF文庫から出版された、日本オリジナル編集のラファティ傑作選。
余談ですが、ラファティもハルヒシリーズで取り上げてくれれば、もっと売れる気がするんだけど・・・。
ハヤカワもラノベ方面に進出する際には、こういうメディアミックス的な戦略を重視して欲しい(笑)。



これまで紹介されてきたラファティ作品に比べて、スケールの大きさや発想のぶっ飛び具合、
そして物語の壮絶さにおいてはやや控えめな感じがあって、そういう傾向を期待した人には
ちょっとばかり物足りないかもしれません。
しかしそうしたメチャクチャさが控えめになった分だけ、ラファティ作品の本質ともいえる
「逆説性」や「はみ出し者の気楽さと孤独」が見えやすくなってるから、とっつきやすさは
これまでの短編集よりも増してると思います。

特に今回の巻頭を飾った「素顔のユリーマ」は、ヒューゴー賞も受賞した文字どおりの代表作であり、
ラファティらしさと親しみやすさがうまく調和した、ある意味で「最も良く書けている」作品です。

彼の時代には子どもはみんな賢く生まれつくようになっており、
この先も永遠にそうなりそうな形成だった。
彼はこの世に生まれた、ほぼ最後の愚鈍な子どもであったのだ。

アルバート少年は靴の左右もわからず、あくびの後に口を閉めるのを忘れ、時計の長針と短針の
どちらが時刻を指すか理解できないほどの愚か者。
なにをやってもうまくできない彼がやむなく考え付いたのは、インチキをすることでした。
つまり自分の代わりに物事をよりうまくこなしてくれる機械を作り、人に隠れてこっそりと
そうした機械を使ってズルをするのです。

不適応者は発明する。無能力者は発明する。敗残者は発明する。卑劣漢は発明する。

アルバートは字を書く小さな機械を作り、手の中に隠せる計算機を作り、女の子が怖い自分の代わりに
本人よりも社交的で頭の良い身代わりロボットを作ってズルをし続けました。
(身代わりロボットは彼の好きな娘を奪ってしまったので、自爆装置で娘ごと爆破しましたが・・・。)
やがてアルバートは大気から有害物質を取り除く機械や、街で暴れる不良少年の目をえぐるロボット不良
(しかも不良少年だけに見える特殊な素材製)を造り、おかげで世界からは公害と不良が一掃されます。
社会適応性がなく、一人では何もできない人物ではありますが、こうして「問題を解決してくれる機械」を
次々と作り続けた結果、彼の発明品は世界中の人々に幸福を与えました。

しかしそれによって得られた富と名誉はアルバートを幸せにせず、彼は相変わらず孤独なまま。
アルバートの偉業を讃える式典で、彼はたどたどしく「人生初の、自分で考えたスピーチ」を披露しますが、
それは会場にいた多くの人々を困惑させるばかりでした。

「パン種がなければ、何ものも生まれません。・・・
 しかしイーストは、それ自体菌類であり病気でもあります。」
「敗残者や無能力者がいなかったら、だれが発明するでしょう?・・・
 みなさんの練り粉を、誰が膨らませるでしょう?」
「世界は、不健康な精神がそのなかにまじっているからこそ健康なのです。」
「肝心なのは、うすのろです!」

 改革者が偉大な人物でないということは、なんと不愉快なことだろう。
 そして偉大な人物というものは、偉大な人物であるという以外なんのとりえもないものなのだ。

そして世間の人々だけでなく、自分の作った優秀な機械までが要領の悪い主人を嘲るに至って、
遂にアルバートは死を選ぼうとしますが、ひとりで何もできない彼は自殺すらできません。
仕方なく隠れ家で自殺マシーンをつくり始めたとき、むかし作ってほったらかしにしておいた
カンだけしか取り得のない予言機械のハンチーが、彼にある予感を囁きかけるのでした・・・。

長いタイムスパンを一気に語り切る話術、続々と繰り出されるアイデア、巧妙に張られた伏線の
見事な回収、そして何よりも常識の裏を突く逆説の発想と、そこに込められた真実が持つ重さ。
この短編一本の中に、ラファティ作品の様々な魅力がすっきりと収まっています。

わかりやすいぶんだけ、すれっからしのラファティ好きがあえてベストに推さない(笑)という
これまた逆説的な作品ですが、奇想に関心の無い方にも広くオススメできる傑作です。

それにしても、本作のエディの姿には、ビル・ゲイツやスティーブ・ウォズニアックといった
実在の人物がダブって見えてしまいますね。
「ギーク」の出現を書いた先駆作という意味では、見事に「未来を予見した」作品と言えるかも。

そしてラファティの人物像を伝える文章を読むと、彼自身も“人付き合いが苦手で、シャイな人柄だった”
ということがわかります。
豊かな知識を持つ卓越した語り部でありながら、実生活では人と関わるのが不得手な元電気技師であり、
酒が最も身近な友人・・・そんなラファティ自身も、ある種の「ギーク」だったのではないか。
そう思うと、この作品が単なる諷刺だけではないように思えてなりません。

作者が45歳になってからデビューしただけに、人生の輝きとそれが色褪せていく様子を書いた作品にも、
しみじみとした味わいがあります。
魔法の財布を手に入れた男が社会の変化に対応できず落ちぶれていく「ぴかぴかコインの湧き出る泉」や、
子供時代に訪れた魔法の月を再訪した大人たちを描いた「昔には帰れない」は、そうした傾向が強い作品。
特に「昔には帰れない」では、語り手の名前が「アル」と表記されているのが重要なポイントでしょう。
つまりこれはレイフェル・アロイシャス・ラファティ自身の思い出であり、彼の目から見た現実なのです。
(そういえば「アルバート」の省略形も「アル」なんですよねぇ・・・。)

こうしたラファティの視線が、作中で「生者と死者」「現実と非現実」「歴史と神話」の区別がない、
独特の「魔術的リアリズム」を形成しているのではないでしょうか。
「廃品置き場の裏面史」や「一八七三年のテレビドラマ」も、こうした視線からとらえることによって
「真実」とか「歴史」の裏にある多様な顔を表す物語としての、新たな側面が見えてくるかも・・・。

カトリック作家としてのラファティを考える上で重要なのは「すべての陸地ふたたび溢れいづるとき」と
「行間からはみだすものを読め」の2作でしょう。
カトリックを信仰しながらでありながら進化論を標榜し、人間に対する皮肉と失望を露わにするその感性は、
司祭でありながら『ガリヴァー旅行記』を書いたスウィフトの逆説と冷徹な人間観を思わせます。
まあ「九百人のお祖母さん」も、ガリヴァー旅行記のストラルドブラグ人の挿話が元になってますし、
ラファティ自身もスウィフトに強い共感を持っていたんじゃないかと・・・。
どちらもアイルランドに起源を持つ作家、という共通点もありますしね。

人生のおかしさとほろ苦さを豊富な知識とウソ知識で彩り、隠し味に人生経験をピリリと効かせた逸品。
これが私の考えるラファティの妙味です。
そして彼の目で見た現実世界には、幽霊や架空の存在が当たり前のようにウロウロしているのです。

だから2002年に亡くなったラファティの幽霊だって、今でも現実世界を酔っぱらってうろつきながら、
偶然ぶつかった人に「Bang!」と言っているに違いないし、ラファティの目を受け継いだ優秀な読者なら、
きっとその姿を見ることができるに違いありません。

もしかしたら、生前には会ったことのなかった浅倉久志先生と一緒に歩いてる姿が見られるかも・・・。
そんな二人をどこかの街角で見かけた方は、ぜひご一報ください。
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