Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

時かけ10周年記念「博物館で野外シネマ」に行ってきました

2016年07月17日 | アニメ
細田守監督の『時をかける少女』が公開されてから今年で10周年だそうで、それを記念して
作中にも登場する東京国立博物館で野外上映が開催されました。
前回の野外上映は2014年でしたが、あの時は仕事終わりに駆けつけたら既に長蛇の列で
映画の後半まで入場できなかったので、今回は最初から土曜日に行くと決めての参加です。

とはいうもののその前に済ませる用事があったので、現地に着いたのは17時過ぎ。
場内の場所取りは16時からなので、敷地内の芝生からアスファルトの上に至るまでのあちこちに
早くもレジャーシートが敷き詰められてました。
限定グッズを購入後に何とか座る場所を確保。かなり後ろですがスクリーンが見えるのでまだマシです。
そのうち奥華子さんが登場してリハ開始、スクリーン前に置かれたキーボードで「ガーネット」のサビを
入念にさらっています。歌も音楽もしっかり聞こえるのでこれは期待できそう。

しかしいざトークが始まってみればスピーカーの音が小さすぎて、話がほとんど聞こえません。
前から拍手は聞こえるけれど内容どころか誰がしゃべってるかも不明。この時間はかなりつらかった。
後で判明しましたが、この時は齋藤プロデューサーのトークだったんですね。

トークが終わっていよいよ本編の上映開始。最初は音が小さかったけど、後から調整したのか
映画自体は音楽もセリフもそれなりに聴き取れてちゃんと見られました。
……と思ったら2回目のタイムリープ中に映像がダウン。会場説明や復旧見込のアナウンスは
後方にまったく聞こえずやきもきしました。
結局十数分で映像が復旧。まあこれも時間が巻き戻ったんだろうと気を取り直して続きを観てたら、
今度はクライマックスのタイムリープでまたもや映像が落ちました。これには会場全体が苦笑い。
近くの人は「涙が引っ込んじゃった」とがっかりしてましたが、野外上映にはトラブルがつきものと
割り切るしかないのでしょう。

その後は無事にラストまで完走。エンディングの後に大拍手があって、いよいよ奥華子さんの登場です。
場内が総立ちで野外フェス状態の中、まずは「変わらないもの」、続いて「ガーネット」を熱唱。
映画の余韻が冷めない中で奥さんの弾き語りを聴くと、タイムリープのように感動が蘇ってきます。
背後の上野の森からは夏虫の鳴く声が響いてきて、季節感をさらに高めてくれました。

さて、私にとって東博で『時かけ』を観る一番の目的は、やはり「白梅ニ椿菊図」です。

この実在しない絵を実在する東博で観ることにより、作中の世界と我々の世界が交錯する瞬間を感じ、
その意味を考えたいというのが、自分にとって最大のテーマ。

もちろん、それを修復した芳山和子が東博にいる気分を味わいたいという面もありますが(笑)。


間宮千昭が「白梅ニ椿菊図」をなぜ観に来たか、それが彼の時代と今の時代にどう関係しているかは
以前にも考察しましたが、おそらく次のような事情によると思われます。

“千昭の住む時代はおそらく戦乱で人口が減少し自然も破壊されている。その時代を生きる千昭は
 かつて戦乱の世に無名の人物が描いた「白梅ニ椿菊図」を知り、実物を観るために現代へ来た。
 未来人にとって歴史改変は許されないことで、彼自身もそれは不可能とあきらめていたからこそ
 ただ「観る」ためだけにタイムリープを行った。そして「白梅ニ椿菊図」がこの時の展示を最後に
 失われたとされているのは、おそらくそう遠くない時期に東博をも巻き込んだ非常事態が発生し、
 それが千昭たちの置かれている境遇へとつながっていることを暗示している。”

だから私が東博で「白梅ニ椿菊図」を観たいのは、千昭の住む時代を現実にしないこと、そして
真琴が言った「なんとかしてみる」という言葉を自分の心に刻みつけたいという思いからなのです。
まあ単なる思い込み、思い入れにすぎないと言われればまったくそのとおりではありますが。

しかしこの野外上映が行われた空の下で、フランスやトルコでは人々の血が流れ、さらに世界各国では
次々と大きな揺らぎが起きています。
「白梅ニ椿菊図」という架空の絵には、そうした土地や人々にも共通する物語が示唆されている。
だから今、私は東京国立博物館でこの絵を観たかったのです。千昭と同じように。


『時かけ』が公開されてから10年。まだタイムリープは発明されず、川は地上を流れています。
それはこの映画を観たすべての真琴たちが歴史を変えたおかげなのか、それともまだ千昭の時代までは
遠く離れていて、その間に取り返しのつかないことが起きるのでしょうか。

その答えは、また10年後に東博で『時をかける少女』を観ることができたらわかるのかも知れません。


なお、東京国立博物館特別4室では「『時をかける少女』と東京国立博物館」を7/31まで開催中です。
映画と東博の関係にも迫る展示なので、こちらもお見逃しなく。
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ノイタミナ10周年企画、『PSYCHO-PASS』続編概要と伊藤計劃作品のアニメ化が発表されました!

2014年03月21日 | アニメ
フジテレビの深夜枠で斬新かつ意欲的な作品を提供し続けてきた「ノイタミナ」が、
2014年に放送開始10周年を迎えます。

その10周年を飾る企画を発表する「ノイタミナラインナップ発表会2014」が3月21日に開催され、
その中で『PSYCHO-PASS』のTVシリーズ続編及び劇場版製作と並んで、伊藤計劃氏の長篇SF小説
『虐殺器官』と『ハーモニー』の劇場アニメ化プロジェクト「Project Itoh」が発表されました。

個人的に『PSYCHO‐PASS』という作品は「ノイタミナ」枠に留まらず、ここ数年のTVアニメでは
屈指の傑作だと思っています。
ProductionI.G.が手がけてきた『攻殻機動隊SAC』を思わせるテクノロジー管理社会を描きつつ、
潜在的な犯罪傾向を色相の濁りによって判定するという設定には、脚本担当の虚淵玄氏の代表作
『魔法少女まどか☆マギカ』との共通性も感じられます。
このように、現在最も注目される2本の傑作アニメの正当なる後継作品と見なせることだけでも、
『PSYCHO‐PASS』というアニメの重要性がわかると思います。

それに加えて、厚生労働省が国民統制機関と化して実力行使を行い、福祉と精神保健に基づいて
犯罪捜査から人権の制限及び身柄拘束、そして矯正措置を行うという設定には、既に触れた
『攻殻機動隊SAC』の世界設定をされに推し進めた「清潔なディストピア」の姿を描いています。
私はここで描かれた「清潔なディストピア」こそ、伊藤計劃氏が『ハーモニー』で示した
絶望的な管理社会の姿を、アニメとして見事に具現化したものだと受け止めました。

また、『PSYCHO-PASS』における日本は、作中のセリフや関連ムックの資料などから検証すると

「世界的な経済恐慌が引き起こした混乱と紛争によって各国の国力と治安が大きく衰退する中で、
 いち早い鎖国と精神衛生管理に基づく治安維持が効果を挙げ、恐慌後の世界情勢においても
 先進国的な地位と安定した社会を維持し続けている、唯一の国家」

という位置づけであることがわかります。

こうした設定は明らかに『虐殺器官』から『ハーモニー』へとつながる設定と二重写しになっており、
その意味で『PSYCHO-PASS』は、伊藤計劃以後というSF界のムーブメントを体現するアニメとも言えます。

そんな理由で『PSYCHO-PASS』という作品の動向については、放送終了後もずっと注目してきたのですが、
まさか本家本元の伊藤計劃作品までがアニメ化されることになるとは思わなかった…。

しかしここまでの経緯を考えれば、ノイタミナレーベルで「Project Itoh」がアニメ化されるのは
ある種の必然だったと思うし、これ以上に理想的な製作状況は他に望めないかもしれません。
あとは誰が手がけ、どのような作品として完成するかだけが気になるところ。

劇場版アニメの公開時期は『虐殺器官』『ハーモニー』ともに2015年になる予定。
期待を裏切らない傑作として、ノイタミナと日本アニメの歴史に新たな1ページを刻んで欲しいものです。

なお、『PSYCHO-PASS』については、S-Fマガジン誌上にて2014年秋のノベライズの連載等も行われます。
「Project Itoh」とあわせて『PSYCHO‐PASS』プロジェクトの進行にもご注目ください!
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宇宙戦艦ヤマト2199 第七章「そして艦は行く」

2013年08月24日 | アニメ
宇宙戦艦ヤマト2199の最終第七章「そして艦は行く」、上映初日の初回を観てきました!

いやー、すばらしかったですよ!
第6章までの伏線を回収しつつ、オリジナルからあっと驚く改変も加えながら
見事に結末へと導いてくれました。
見たことがある場面も新鮮で、知っているエピソードにも新たな意味が与えられている。
その発想と物語の運び方、見せ方のうまさには舌を巻きました。うまい、うますぎる!

そして第七章まで観たからこそ、断言できること。
25話の内容が少し切られてるとか、劇場限定ソフトの販売が遅れたなんてのは些細な話。
一刻も早く劇場に駆けつけて、この屈指の力作が迎えた大団円を眼に焼き付けるべきです。
それだけの価値が、この作品にはあると思います。

あと、初代『トップをねらえ!』のファンに業務連絡。
もしもヤマト2199を観ていないのなら、TVでもレンタルでもいいので大至急22話まで観てから
劇場に足を運ぶべし。その理由は・・・観ればわかるはずです!(笑)


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「009 RE:CYBORG」神山健治監督×宮野真守さん舞台挨拶 “PRE:CHRISTMAS!”

2012年12月22日 | アニメ
新宿バルト9で12月22日に開催された『009 RE:CYBORG』の舞台挨拶つき上映に行ってきました。

リピーター御礼企画の第8弾となる今回は、上映終了後に神山監督と009役の宮野真守さんが
登場するとあって、会場内は女性が圧倒的に多かったです。

今回は2度目の鑑賞なので、細かい部分や見落としていた部分にいろいろと気づくことができました。
メカニック的には、アメリカのミサイル巡洋艦から六本木ヒルズへ撃ち込まれたのが「トマホーク」の
後継機として開発されている超音速巡航ミサイル「ラトラー」だったり、002が操縦しているF38
(F22と23の合いの子っぽい形状にカナードを装備した、架空の米軍機)を追跡しているのが、
ロシアか中国の戦闘機であること(形状がスホーイっぽいので、Su-30か殲撃11の系統?)が、
新たに確認できたところです。ヘルメットと機体にも赤い星がついてましたからね。
あと、最後にゼロゼロナンバーズが弾道弾迎撃のため占拠したイージス艦の名称が「シャイロー」に
聞こえたのですが、同名のSM-3搭載艦が横須賀基地に配備されていたはず。

今作では3Dの効果を最大限に生かすため、アオリやパースのついた絵がたくさん出てきますが、
特に目立ったのは、003の足元からナメるように撮るカットですね(^^;。
なお、トモエについても同じ撮り方をしているのは、両者の同一性を暗示する演出なのかも。
そういえば『攻殻SSS 3D』の舞台挨拶で、神山監督が「3D映像だと、下から見上げたときに
女性のスカートの中とかのぞけそうな感じで、ドキドキしませんか(笑)」と言ってましたが、
今回の003(とトモエ)は、まさにその言葉を実践したかのような映像でした(^^;

009の代名詞である加速装置は、前半は009の主観で、後半は加速状態を客観的に見た演出で
その「速さ」を表現していますが、後半はちょっと石川五右エ門の斬鉄剣っぽい気がしました(笑)。
大量の敵を一瞬で倒す009はカッコいいけど、個人的にはハイスピードカメラ風の主観映像のほうが
アニメの表現として斬新だし、迫力があったと思います。

ラストの解釈については、神山監督自身も「はっきりと描いてしまいたくなくて、観客に委ねた」と
言っているとおり、あのシーンだけで断定的な答えは出せないと思います。
ただし、「脳こそが神そのもの」というピュンマの仮説と「神は乗り越えられる試練しか与えない」という
トモエの言葉を総合すると、ラストに起こった「奇跡」は、人の意識のネットワークが生んだ超越者である
「集合的無意識」の存在を暗示すると共に、それが009たちを人類にとっての「希望」と認識したことで
(具体的な手段は不明ながら)なんらかの力で彼らを救った・・・とも解釈できそうです。
だとすれば、今回の『009 RE:CYBORG』も『攻殻SACシリーズ』や『東のエデン』と共通の世界観を持つ、
一種のパラレルワールドと見なすこともできるでしょう。

以前にお台場の「ノイタミナショップ&カフェシアター」で行われた『東のエデン総集編上映会』で
神山監督から「新作と『東のエデン』、そして『攻殻SAC』は、同じ世界というわけではないにしろ、
ある種のつながりがある、つながってたらいいなという思いで作っている」との説明がありましたが、
その言葉が『009 RE:CYBORG』のラストにそのまま反映されているというのが、私の考えです。

ですから、脳波通信とネットワークを司る力を持つ003が、流れ星を見上げて祈りを捧げる姿は、
人類全体の「願い」の象徴であり、同時に神山作品に繰り返し登場する電脳シャーマンの一員として、
この世界を超えた存在へと直接呼びかけているようにも見えました。

その一方、ハインリヒの「神ほど自分勝手に人間を苦しめてきた存在はいない」という発言は、トモエの
「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉と対になって、「神」の持つ「残酷さ」と「慈悲」の
二面性を表すものになっています。
そしてこの二つの言葉は、そのまま「東日本大震災による被害」と「震災後の復興に立ち向かう人々」に
向けられた、一種の「メッセージ」である・・・とも解釈できるでしょう。
震災によって甚大な被害を受けながら、11月17日に再オープンを果たした石ノ森萬画館のことを思うと、
『009 RE:CYBORG』は、そうしたメッセージを伝えるよう運命付けられていたのかもしれません。

そう考えた場合、この作品から聞こえる「彼の声」は、神山監督、そして石ノ森章太郎先生から届けられた
「いま生きている私たちへの呼びかけ」のようにも感じられます。
これが劇中終盤でジョーが言う「彼の声が、今は全く違うものに聞こえる」というセリフを理解するうえで、
ひとつの手がかりになるのではないかと思います。

さて、『009 RE:CYBORG』上映終了後には、神山監督と宮野さんによる舞台挨拶が行われました。
初上映から2ヶ月を越えて上映が続いていること、熱心なリピーターと今回が初鑑賞のお客さんに対して
お二人から感謝の言葉が述べられた後、作品やアフレコについてのエピソードが披露されました。

神山監督は今回初めて音響監督も手がけたということですが、3Dの映像を見ながらのアフレコでは
ブレスタイミングが2Dに比べて若干早くなる傾向があり、声優さんに苦労をかけてしまったとの話。
宮野さんは「最初はちょっと合わせにくかったけど、これが人どうしの間合いなんだなと思いました。」
・・・ということは、3Dの場合は舞台的な呼吸で演じたほうがうまくいくのかも。

アフレコ初日のエピソードとしては、音響ブースに入ってチェックをしていた神山監督がふと見ると、
キャスト側のブースがやたら盛り上がっているので、音声レベルを上げて中の様子を聞いてみたら
宮野さんがスギちゃんのモノマネで「ゼロゼロナンバーズのプロフィール」を語っていたとか。
これを聞いた本人は「なんでスギちゃんだったんでしょうね・・・加速装置するぜぇ~!」といきなり実演。
ちなみに2日目もこのノリでスタジオに入ったら、ギルモア博士役の勝部演之さんから「まだ早いって!
はじめからそのテンションだと、最後まで持たないから!」と言われたそうです(^^;。

劇中で印象的なシーンを聞かれて、神山監督は「最後のジョーのシャツが、萌え袖なところです(笑)」
男性スタッフが絵を描くと、袖をピッタリな長さに描いてしまうので、そこは女性目線にこだわって
「違う、そこは(袖を余らせて)萌え袖にして」と監督自ら指定したそうです。
これには宮野さんも「それは初耳でした(^^;」とビックリ。

ちなみにこの日、宮野さんの衣装は萌え袖。そしてフォトセッションで横に並んだ神山監督も、シャツの袖を
ぐいぐいひっぱって「インスタント萌え袖」に変身。これを見ていた観客からは、思わずくすくす笑いが・・・。
神山監督、相変わらずお茶目だなー。

印象的なシーンについて、宮野さんは「フランソワーズですね・・・まさかあそこで脱ぐとは(笑)」
ちなみに神山監督によると、3Dでは本番前にリハーサル映像を作るそうで、そこではスーツ姿でしたが
何かの手違いで「スカートだけ脱いだフランソワーズ」が出てきたこともあったとか。
これについて監督からは「アレは全脱ぎより強力だったかもしれません」と、うれしそうなコメントも(^^;

宮野さん自身が演じたジョーの登場シーンでは、やはり加速装置がお気に入りだそうです。
「やっぱもえますよね、加速装置!・・・いや「萌え袖」の萌えじゃなくて、火へんの「燃え」です!」

急遽行われた観客からのリクエストでは、映画の続編だけでなく、現代にあわせてアップデートされた
原作エピソードや、ゼロゼロナンバーズの解散から再結集までの空白期間を描く前日譚の希望がありました。

宮野さんいわく「なんで解散したんですかね・・・まあちょっとしたことで仲が悪くなることもありますし。
・・・たとえば、隣で何度も「飛行!」のポーズをやられて、イラッとしたとか」これは場内も大爆笑。
ここで初日舞台挨拶の小野大輔さんとのミニコントをひっぱってくるとは、わかってるなぁ。

今回のジョーはこれまでの正義感あふれるイメージだけでなく、トモエに自分勝手な依存をしたりと
「黒い・悪い」姿を見せるところもあり、宮野さんも神山監督もそういう一面に魅力を感じたとか。
神山監督は「悪ジョーはもっと描きたいですね」、宮野さんは「そんなジョーを、もっと演じてみたい」と
物語やキャラを膨らませることに意欲的でした。

続編やスピンアウトについては、映画への反応も含めて判断することになるようですが、神山監督としては
「自分以外の誰かが作る可能性も含め、いま誰かが撮らなければ新しい物語が始められない・・・という思いで
今回の009を作りました。自分の中には映画の後の画もあるので、いつかそれも撮ってみたいです。」
そして最後に「できればゼロゼロナンバーズのみんなに、また集まってもらえたらと思います。」

こうした発言が、何らかの形で今後につながってくることを期待してます。
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「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」初日感想

2012年11月18日 | アニメ
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」公開初日の11月17日に観てきました。

本当はもう少しほとぼりが冷めてから行くつもりだったんだけど、twitterとかで感想が流れてくると
ネタバレが心配でヒヤヒヤするもんですから、席があったらすぐ行っちゃおうということで。
近所の映画館をチェックしたら席があったもんで、結局初日に観ることになってしまった・・・(^^;

ちなみにこちらの写真は、公開前日の新宿バルト9です。
ここの券は持ってないので、前を通ったときに写真だけ撮影。なので最速上映は観てません(^^;

さて、映画が公開したばっかりなので、細かいことには触れずに大雑把な感想だけ書いときます。

Qはいろんな意味で相当ぶっ飛んでますが、旧作をなぞりつつの新展開という目で見れば、まあこういう
新たな解釈の仕方もあるだろうなー、という許容範囲には納まってます。
だから驚きはそんなにないんですけど、これまでのエヴァが持っていた「思春期の少年少女たちの交流と、
大人の男女たちの愛憎劇」というイメージとはやや変わって、スケールの大きなSFアニメであることを
前面に押し出そうとした感じは、ちょっとだけ意外でした。
ですからそっち方向に話が流れるのを好まない人には、たぶんウケが悪いんだろうなぁとは思います。

まあ今回の大転換については、やっぱり脚本に最大の原因があると思いますね。
マニアックな専門用語のオンパレードや、ひとひねりもふたひねりも加えられたキャラクターの造形、
凝りすぎな設定にどこかで聞いたようなセリフ回しとか、いろんな所が榎戸さんっぽいなぁ・・・と思って
見てましたが、エンドロールを見たら脚本協力の筆頭に名前が出てきて「ああ、やっぱり」って感じ。
ですから鶴巻・榎戸コンビの作品を見たことがある人なら「あ、この感じは知ってる」と思うような
独特のエキセントリックさが、Qでもあちこちに見られました。
そういう意味では、あんまりエヴァっぽくないかもしれないなぁとか思ったりもしましたが。

そして今回のエヴァQに何よりも大きく影を落としているのは、今年公開された多くの作品とも共通する、
東日本大震災と福島第一原発事故による甚大な被害に対する意識なのだと思います。
かろうじて食い止めはしたものの、実際に世界の終わりの扉が開きかける状況を引き起こし、そして今も
その痛手から回復できず、放射能への不安から逃れられないわが国の状態。
それが思ったよりもストレートに、Qへと投影されてしまったな・・・という感じですね。

ある意味では、破に比べて物語そのものは後退してしまったようにも見えるけど、これもまたエヴァなりに
現実とコミットしようとする姿勢なんだ、と理解することもできるでしょう。
その一方で、こうした作り手の意図が、必ずしも熱心なエヴァファンに受け入れられるとは思いませんが、
これもやっぱり現在進行形の、今を生きている「エヴァンゲリオン」そのものなんだと思います。

リメイクではあるけど、今でもエヴァはこの瞬間の現実と真正面からぶつかりあっている。
その生々しい激突の瞬間に立ち会うのを覚悟して、劇場に足を運んで欲しいと思います。

もちろん、カヲルとアスカはいろいろと大活躍しますよ~!(微妙な言い回し)

ちなみにQの場合、スタッフの名前を書くだけでどういう映像になってるのかバレちゃいそうな人が
結構いるもんで、そのへんは見てのお楽しみ。
まあ冒頭6分38秒の空中戦を見た人なら、あそこに誰が関わってるかはすぐわかると思いますが(笑)。
映像に関しては現在の最高峰とも言えるレベルなので、そっちについては期待しても大丈夫です。

最後にネタバレをひとつだけ・・・。

8号機の目って、ホントに8の字型してるんですよ!(全然ヒネリなし)
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10月27日全国公開『009 RE:CYBORG』感想

2012年10月28日 | アニメ
神山健治監督作品『009 RE:CYBORG』公開初日に新宿バルト9で観てきました。


こちらの写真は劇場内の様子。ロビー上には009の特設売店が設置されてます。


売店ではPatisserie Swallowtailとのコラボレーション焼き菓子も販売。

デザインは009、002、003の3タイプがありますが、やはり一番人気は009のようです。

10Fの「009カフェ」にはEL発光ポスターや作品ロゴつきのテーブルが置かれてました。

ここでは各キャラをイメージした9種類のドリンク販売に加え、名前が入れられる千社札の発行機があったり、
公式HPで見られる作家さんたちのイラスト色紙が飾られたりしています。
ディスプレイも含めて009一色なので、バルト9で009を観るならぜひ寄っておきたいところです。

さて、作品の内容についてですが、細部に触れると絶対にネタバレになるのが苦しいところ。
ざっくりまとめて言ってしまうと、今回は「原作と人類史という二重のミッシングリンクに触れつつ、
サイボーグ戦士が再集結するまでの物語」ということになるのかな。
現在の世界情勢にあわせて大きくアレンジされた部分はありますが、基本の設定はできるだけ活かし、
取り込める部分はなるべく取り込もうとした努力が、随所に見られたと思います。
全体の中に散りばめられたエピソードには、原作に疎い私にも「あ、これは原作準拠のアレンジね」と
わかるところがあるので、元ネタがわかるファンには結構うれしいんじゃないでしょうか。

ジョーとフランソワーズの関係も「001の次に生身の部分が多い」という003の設定をうまく生かしてるし、
これまでの「清楚なヒロイン」というイメージを残しつつ、うまく妖艶さを加えることに成功しています。
それに「清楚なヒロイン」の部分はまた別に…ごにょごにょ。(そこは特に重要なネタバレなので)

作品を振り返ってみれば、今回のストーリーで009と002の次に重要な役回りだったのは、やっぱり003。
今回の003は神山監督の得意とする「電脳世界」にまで精通する存在と位置づけられたことで、これまでの
どのシリーズにも増して、圧倒的な存在感を持っていたと思います。
…ちなみに、肉体面での存在感も圧倒的でした(笑)。
一部で「009ノ1」とか「009-1」と言われてるのも無理ないわな…私もそう思ったし(^^;

今回の『009』が取り上げたテーマについてですが、神山監督が長くこだわってきた「9.11」と、昨年から
監督が何度も言及している「3.11」という二つの大事件を「神」と「人間」の関係から読み解くことにより
関連付けようとしたのではないか…と思います。
(ちなみに「神」の部分に入る名称は、様々に読み替えることが可能。)
私は人の愚行と自然の猛威を同列に考えたくないので(そういう発想自体が人類の驕りだと思うから)、
同時多発テロと東日本大震災を並べて論じるのは好きじゃないのですが、今回の『009』が示した
やや特殊なアプローチについては、ある程度納得できるところがありました。

しかし、それを論じる過程で宗教人類学の視点を持ち込んではみたものの、アルベルトの一方的な語りで
やや中途半端な見解が示されたことについては、ちょっと残念です。
「〇〇論」(あえて伏せ字)では、全体の謎解きとしてちょっと弱すぎるんじゃないかと…。

それに世界中から集結したサイボーグ戦士は、いわば人種のるつぼなわけですから、それぞれの
相反する宗教観をぶつけ合う、という展開があってもよかったと思うのです。
ジェロニモとピュンマと張々湖が民族的な宗教観を語り、そこに合理主義者としてのアルベルトと
愛国者のジェットが絡み、無神論者のジョーやグレート、女性であるフランソワーズ、さらには
旧共産主義国出身のイワンが意見を述べる…というのは、攻殻SACの「ネットの闇に棲む男」ぽくて、
なかなかエキサイティングじゃないでしょうか。
まあそれをやっちゃうと、劇場映画じゃなくてTVシリーズの1話になってしまうわけですが…。

今作のサイボーグ戦士たちについては「もしヒーローが現実に存在していたら」というコンセプトが
徹底していたように感じました。
これは映画版も含めて『ウォッチメン』に関してよく語られるコンセプトですし、私がムーア好きなせいで
類似性を見てしまうのかもしれませんが、それでもやっぱり「影響を受けている」可能性はあると思います。
なにしろ『東のエデン』も、「現実的かつ等身大のヒーロー像」を描こうとする試みだったわけですからね。

こうしたコンセプトだけでなく、映像面についても「ハリウッド映画からのインスパイア」と思われる点が
いくつも見られました。
特にジェットの飛行シーンは、やはりリアルなヒーロー像を指向した『アイアンマン』を思わせるところが
多かったですが、ライバル視すべき作品と表現が似てしまうことについては、やや微妙な思いがあります。

映像は最初から3Dを前提としたので、映像設計においても建造物などの存在感を強調するレイアウトが
多用されていたように見えました。
人物の描き方やカメラアングルでも、3Dを想定した強めのパースが意識されていたように思えます。
とはいえ、立体視の効果が一番よく出ていたのは、なんといっても加速装置の発動シーンでしょうね。
私は3Dに「リアルさの中にある浮遊感」を感じる人なので、これが「フラットなアニメ絵なのに3D」
という不思議さと組み合わさることで、加速中の超現実的な感覚が生々しく体感できました。
…できれば、こういうシーンをもっとたくさん見せて欲しかったですけど。

シーンといえば、空戦シーンで出てくる「プガチョフ・コブラ」はよかった!
ぶっちゃけ空戦の見せ方では『スカイ・クロラ』よりデキがいいかもしれません(笑)。

スケールが大きくて扱いが難しいテーマであることや、原作尊重の縛りをかけてるためか、
全体としては「意あまって描き切れず」な感じもありますが、神山監督の原作への想いと、
作品に託した熱いメッセージは、しっかりと伝わりました。
私の評価はやや辛めかもしれませんが、これは原作や3Dに思い入れが薄い人の感想であって、
昔からの009ファンや3Dアニメに強い関心を持つ人なら、また違った見方になるでしょうね。

さて、私の見た回では、ゼロゼロナンバーズ役がそろい踏みの舞台挨拶が行われました。
全員がサイボーグ戦士のユニフォーム(風のTシャツ)を着て勢ぞろいする様子は、まさに壮観。
各声優さんが生で名セリフを述べられたほか、宮野真守さんの決めポーズや小野大輔さんの「飛行!」
(やりすぎて宮野さんに怒られるというコントもあり)、緊張で何度も噛みまくる杉山紀彰さんなど、
短いながらとても楽しいイベントでした。

そして玉川砂記子さんからの一言は「私の演じたセリフは、今回も加工音声です。(ニッコリ)」
これには神山ファンなら、みんな苦笑いしつつうなずくと思います(^^;

館内ロビーに飾られていた、サイボーグ戦士のサイン入りポスター。


こちらは影の主役ともいえるフランソワーズ役・斎藤千和さんのサインのアップ。


そして神山作品におけるキーパーソン・玉川砂記子さんのサインのアップ。

加工なしで玉川さんのセリフを聞けたのが、実は一番レアだったのかもしれません(笑)。
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『虹色ほたる』への批判に対する、ささやかな考察

2012年06月05日 | アニメ
『虹色ほたる』について、twitterに寄せられた感想のまとめを読むと、作品についての
賞賛と批判が、かなりくっきり分かれていることがうかがえます。
賞賛については、シンプルな感想から分析的なものまで様々ですが、批判派は数が少ないぶん、
それぞれの主張を強い言葉で表現したり、あるいは仔細に説明しているものが多いですね。

そしておもしろいのが、この批判をひとつひとつ読んでみると、ややぶっきらぼうだったり
肯定派を煽るような文章も見受けられるものの、多くの場合はそれなりに筋が通っていて、
良かれ悪しかれ作品の持つ特徴を、きちんととらえていることです。
これらを参照しながら、自分が『虹色ほたる』をどう見たかを、再度まとめてみようと思います。

これらの批判的な意見をおおまかに分類すると、だいたい次のとおりになります。

1.タイムリープや恋愛要素がご都合主義であり、全般的に論理性や必然性が欠けている。
2.昭和50年代や田舎の素朴さに寄りかかっていて、さらに当時を美化しすぎている。
3.肉親の死や恋愛といった要素に新味がなく、物語そのものが凡庸である。
4.作画が下手な(もしくはうますぎる)ため、観客を無視した極端な表現に走っている。
5.クセのある絵柄にこだわった結果、キャラクターの演技や表現がおろそかになっている。

まずは論理性や必然性について。
これらがすべての物語に不可欠とは思いませんが、本作にそのような部分は確かにあるし、
さらに言っちゃうと、物語自体はとてもありきたりなものだと思います。
口の悪い人なら、たぶん「陳腐」のひとことで片付けられちゃうんじゃないかな。

しかし、そのありきたりなお話を、アニメならではの過剰な作画によって表現したことで、
『虹色ほたる』の場合は「陳腐さ」から逃れているのではないでしょうか。
はっきり言って、このありきたりな物語を、きれいで手堅くまとまった絵で表現されたら、、
いま私が感じているような『虹色ほたる』の魅力は失われてしまうと思います。
そしたらきっと、いま以上に話題にもならなかったかもしれない。(ジブリ作品でもない限りは)

例をあげると、山村という高低差を生かした舞台設定と、それを使った上下の動きに加え、
どこか官能的な身体の躍動を組み合わせることで、子どもならではの疾走感と自由奔放さを
十分に表現した動きは、アニメでなければ、そしてこの作画でなければ、たぶん描くことが
できなかったと思います。

そして、この自由闊達な人体表現を支えるのが、時に写実的、時に情緒的な表現で描かれる、
美術的な背景の存在です。

もしすべてが不定形な線で描かれてしまったら、それはバックやユーリ・ペトロフのように
背景と人物が渾然となった、完全にアート寄りのアニメーションになるでしょう。
しかし『虹色ほたる』では、躍動する子どもの不安定な姿がどれだけ走り回ったとしても、
それを包み込むようにしっかりと支える背景があります。
まるで、彼らを取り巻く大人たちがしっかりと子どもたちを見守っているかのように。

揺るぎのない世界と、その中で絶え間なくうつろう人間によって織り成される光景。
それは見方によっては、最も現実の光景に近いものではないでしょうか。

もしもこれが実写で撮られたなら、それこそ凡庸な作品になったと思います。
そんな作品にある種の非凡さを与えたのが、アニメーションの力であったことについては
やはりきちんと評価されるべきだと思います。

また、twitter上の多くの感想を読むと、さほど時間を置かずに「あの絵に慣れた」という意見が
多数見られることを考えると、絵のクセは観る側が慣れてしまえば問題にならないのが明らか。
ですから、一部の過剰な表現についてはさておき、『虹色ほたる』という作品が終始にわたって
「観客を無視した作画」で構成されていたとするなら、それはやっぱり不当でしょう。

それでも、最後まであの絵がダメだったという人については、最初に予告編か公式サイトを見て、
これは絶対に観ないと決めておくべきだった・・・としか言えません。
嫌いなものは嫌いなままでいいし、いくら努力しても慣れないものはありますからね。

昭和50年代という「失われた時代」に託された原風景の意味は、以前の感想に書きましたが、
この作品が実際よりも田舎を美化している・・・という意見には、そうかもしれないとは思います。

しかし、そもそも主人公は「進んで山に遊びに来た」のであり、誰かに強制されたわけではない。
彼はもともと、(父との想い出も含め)なにがしかの期待を持って、ここに来たわけです。

そしてこの作品は「子ども向けかどうか」とは別に「子どもの目線」で世界を見たものであり、
そのための導入部分として「父とカブトムシを獲りに来た記憶」が配置されているのです。
その意図をわざと見逃すなら、これは映画に対して最初からバリアを張っているに等しい。

また、主人公は地元の子どもにとって「転校生」ではなく「客人」であり、それ自体が一種の
興味の対象ですから、先方から近づいてくることが特に不自然とは言えません。
まして、「村民の親族」という偽装設定があるため、不自然さはさらに減少します。
まあこのへんを「ご都合主義」とするのは否定しないけど、逆に余計なもたつきをなくす上では
うまいことやったなぁ、という感じのほうが強いですね。

さらに、主人公の滞在が一時的なものであること、そして山あいの村の自然とコミュニティが
あと1ヶ月程度で永遠に失われるという時限性が重なり合うことによって、子どもたちの夏は
必然的に切迫した、かけがえのないものになって行きます。
ここで彼らの体験が通常よりも美化されていくのは、むしろ必然のものでしょう。

そして、楽しそうな子どもたちの仕草や表情に見られる細かい演技と、それらにこめられた
高揚感や恥じらい、あるいは葛藤が、時にじわじわ、時にドラマチックに伝わることによって、
観客とキャラクターの距離は縮まっていき、自然に彼や彼女に対する共感を深めていきます。
そのとき、スクリーンに映るのはもう他者ではない、自分の分身としての特別な存在なのです。

もし自分とは別の存在として、登場人物を突き放して見た場合、この感覚は得られないでしょう。

また、ありきたりということは、よく言えば「わかりやすい」ということでもあります。
それはつまり、多くの人の共感を得られる物語だとも言えます。
特に子ども時代の素朴な思い出や肉親の死、さらに恋愛といった素朴な感情に訴えかける内容は、
観客のプライベートな体験と結びついて、広く支持を受けやすい題材なのも確かです。

再度言いますが、物語としてはよく見かけるタイプのお話、ということになるでしょう。

しかし、この「よくある話」を「他ではない表現」で描くことによって、独自の境地に達したのが
『虹色ほたる』という作品であることは、既に説明しました。

ここで、作画と物語の関係について、対象的な2つの例を並べてみます。

1 「見たことのない、個性的でクセのある作画」
2 「みんなが慣れた、キレイにまとまった作画」
3 「見たことのない、個性的でクセのある物語」
4 「みんなが慣れた、キレイにまとまった物語」

たぶん、一番評価が高くなりやすいのは、2と3の組み合わせでしょう。
そして一番多く作られるのが、2と4の組み合わせでしょう。
1と3の組み合わせは、うまくいけば大傑作、あるいはカルト作品になるでしょう。

そして『虹色ほたる』の物語は、間違いなく4です。
だとしたら、他と違う作品にするために選ぶべき選択肢は、ひとつしかありません。

また、いくら凝りに凝ったシナリオでも、物語が初見で「わかりにくい」と思われてしまうと、
観る側の警戒心が強くなってしまいます。
ですから物語そのものはわかりやすく、しかしプロットはやや複雑に(時間線を3本引いている)、
そして演技は密やかに見せることで、それに気づいた人が作中にずるずる引き込まれていくという
非常に手の込んだ作り方をしているのが、『虹色ほたる』の巧みさだと思います。

さて、今回は自分が『虹色ほたる』という作品のどこを評価したか、それだけを書きました。
ですから、あまり良くないと感じたり、あるいは関心のない部分については触れていませんし、
それが何かについても、説明するべきではないと思っています。

なぜなら、それは個性的な作画がやがて気にならなくなるのと同じように、自分にとっては、
この作品の魅力の前では、まったく無視できる程度の不満だからです。

また、そこを直せば・・・という気持ちもある一方で、私以外の人が好きな部分を否定するのも、
なんだか了見が狭い気がしますから、ここでは書かないことにします。
殺伐とした気持ちは、この作品に一番ふさわしくないものですからね。

減点法では測れない『虹色ほたる』の美しさは、観た人が自分でつかむしかありません。
未見の方は、できればソフト化される前に劇場で観ていただき、自ら確かめて欲しいと思います。
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宇田鋼之介監督作品『虹色ほたる~永遠の夏休み~』感想

2012年06月03日 | アニメ
東映アニメーションの新作『虹色ほたる』を見てきました。

実は絵柄や登場人物が完全な子ども向けに見えたので、見に行く予定はなかったんですが、
ちょうど深夜に再放送があった宇田鋼之介監督のTVシリーズ『銀河へキックオフ!!』を
たまたま見て、そのテンポのよさと演出センスにハートを鷲づかみにされてしまいました。

この監督の作る劇場作品なら、かなり期待できるんじゃないかなーという気持ちが高まったところへ、
twitterに『マイマイ新子と千年の魔法』のファン仲間から寄せられた賞賛の声が続々と到着。

やっぱりこれは見るべき作品かも・・・とあわてて上映館を探したのですが、近所では上映してないし、
一番近い上映館でも1日1回のみ、しかも近々終了とか。
ネット上で良い評判が続々と出ている最中だというのに、それが世間に広まる前に興行を打ち切られる
映画界のシビアな現状を、痛いほど思い知らされました。

ようやく見つけた劇場で『虹色ほたる』を観た感想ですが・・・とにかくおもしろかった!
“こどもの世界”を生き生きと描いている点で、先に観ていた『ももへの手紙』よりも、
自分にとってはしっくりくる感じでした。

個性的な作画にばかり話題が集中してますが、物語自体はとてもわかりやすい、実に普遍的なもの。
しかし、それを緻密に組み上げられた設定と繊細な演出、そして優れた美術で支えることによって、
他とは違った独自の良さを生み出したのが『虹色ほたる』という作品です。

とにかく見どころが多いので、映像と物語に分けて紹介してみましょう。

まずは、映像の持つ魅力について。
筆描きのように強弱があって、関節部で途切れる線で描かれた動画には確かにクセがありますが、
この線はどこかで見た気がする・・・と思ったら、日本の絵巻物の描線によく似ています。
(絵巻物との類似については、twitter経由で評論家の永瀬唯氏からもご教示いただきました。)

とりわけこれを強く感じたのは、ヒロインのさえ子たちが浴衣を着ている場面。
和服が作るひだや身体のラインが、柔らかい線で美しく表現されています。

絵巻物の異時同図法が、日本アニメに影響を与えている・・・という意見への賛否はさておき、
『虹色ほたる』がこうした発想に自覚的な作品だとすれば、欧米的な作画とは違う表現への
ひとつの試みとしても、高く評価できるのではないでしょうか。

一方で、雨や日差しの描写は、欧米の個人製作アニメを思わせるような手描き表現によって、
それ自体が生き物のように脈動しています。
このへんは、ノルシュテインやフレデリック・バックの作品を観たことのある人なら
「あ、こういうの好きだなぁ」と思うはず。

さらに背景も実に多彩で、印象派的な強いハイライト表現や水墨画を思わせる夜の描写など、
美術好きならハッとする表現がいくつも見られます。
特に山中や切り株の描写には、ワイエスや犬塚勉のような写実作家の作品を思い出しました。

とまあ、アニメに限らず多種多様な映像表現を、それこそ貪欲なまでに盛り込んでいるのが、
『虹色ほたる』という作品なのです。


映像の魅力ばかり書くと、いかにも「作画アニメ」のように思われそうなので、続いては
物語の魅力についてご紹介します。

詳しいあらすじは公式サイトを見ていただくとして、要はみんなが好きな定番ストーリーである
「タイムリープ+ボーイ・ミーツ・ガール」ですから、見ていて特に悩むこともありません。
むしろ同種作品の先輩であり、いまやこのジャンルの代名詞ともいえる『時をかける少女』よりも、
さらにストレートで純粋な「小さな恋の物語」という感じ。

しかしその定番の恋物語の中に、様々なひねりや仕掛けが施されていて、それに気づいた瞬間に
物語の見え方が劇的に変わったり、キャラクターの感情により深く共感できる・・・というのが、
この『虹色ほたる』の、一筋縄ではいかないところでしょう。
小道具やセリフにも多くのヒントが隠されていたり、小さなしぐさに重要な意味を持たせたりと、
観るたびに新たな発見があります。

さらに「過去と未来」「大人と子供」といった対比や、同じ風景を時代ごとに描き分けることで
変わるものと変わらないものを暗示するなど、様々な部分に作り手の意図が読み取れますから、
普通に映画が好きな大人の観客が見ても、十分以上に楽しめると思います。

さて、既に何度も『虹色ほたる』を観ている人には無粋な話かもしれませんが、
作品に込められたテーマ性の部分についても、少々触れてみます。

『虹色ほたる』の舞台となっている深山井は、間もなくダムの底に沈むという設定です。
ここは確かに、子供時代や古きよき時代を思い出させる懐かしい場所として描かれていますが、
一方では「近いうちに確実に失われる」ということが明らかな場所でもあります。
つまり、深山井は誰しも失ってしまう少年時代そのものであり、さらには私たちが便利さや
経済成長を求めるあまり、水中(そして記憶の底)へと沈めてきた、日本の原風景なのです。

だから、失ったものにノスタルジーを感じるだけではなく、自分たちの選んだ「現在」への
忘れがたいステップとして受け止めながら、今ある「現在」を生きなくてはならない・・・。
それこそ『虹色ほたる』という作品が、最後に伝えたかったことではないでしょうか。

これを強調しようとするあまり、最後にいわずもがなのメッセージが示されるのはやや興ざめですが、
それが『虹色ほたる』を単なる懐古趣味と思われたくないスタッフからの意思表示であるとすれば、
その思いを否定したくはない・・・という気持ちもあります。
まあ、あれがなくても十分に伝わってますよ・・・とだけは、あえて言わせてもらいますけどね(^^;。

劇中でもうひとつ、作り手側の思いがあふれ出してしまったところを挙げるとすれば、やっぱり
「灯篭まつりでの疾走シーン」でしょう。
ここでは作画がリアリズムに傾斜するあまり、それまでのキャラデザインを完全に無視していて、
これはさすがにやり過ぎだし、あとで作画崩壊とか言われそうだな・・・とも思いました。

全体の整合性を考えれば、あのシーンは確かに暴走だと思います。
しかしこれを、慎重に組み立てられたそれまでの枠組みから噴出してしまった「抑え切れない衝動」と
捉えるなら、これもまた『虹色ほたる』という作品の個性なのでしょう。


そして『虹色ほたる』の興行的な苦戦と、『マイマイ新子と千年の魔法』の時にも繰り返し言われた
「この作品は、どの客層を狙って作られているのか」という意見を目にするたびに思うこと。
それは、実写映画では子どもを主役にした「一般向け映画」の傑作が山ほどあるのに、アニメの場合は
なぜそういう見方をされないのか?という悔しさです。

・・・これこそ、アニメという表現に対して誰もが持つ「先入観」の、典型的な事例ではないでしょうか。

確かに、自分も「子ども向け作品だから」という理由で観てない作品は、たくさんあります。
でも、実際にその作品を観て、自分が感動した後なら、その時にはもう「客層」とか関係ないし、
ましてや「大人が泣ける児童アニメ」というレッテルすら不要なはず。
そのときは普通に「少年少女が主人公の、一般映画の良作」という認識を持って、その作品に
どんな魅力があるかを、その人なりの表現で語ってみせればよいと思います。

これはアニメファンに限らず、特に配給会社の宣伝部門にも、きちんと考えて欲しいところ。
そして、アニメ作品の売り方や媒体への露出方法について、もっと真剣に取り組んでいただきたいです。

・・・こうした考え方が当たり前になった時、ようやくアニメは本物の「文化」になれるのかもしれません。
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『風の谷のナウシカ』原作ラストに対する、私的な解釈と感想

2012年05月13日 | アニメ
先日、テレビで『風の谷のナウシカ』が(何度目かの)再放送をされたとき、ネットでの反響を見て
「今でもアニメより原作を支持する人が多い」ということを確認しました。

それを見てふと考えたのが「あのラストの意味を、皆さんどう考えてるのだろうか?」ということ。
そして自分にとって、原作版とアニメ版はどういう風に違い、それをどのように受け入れているかを、
ある程度は整理しておきたい、ということでした。

そこで今回は、主に原作ラストの解釈を中心に、私なりのナウシカ観などを書こうと思います。

(ここから先はネタばれになるので、もし原作を読んでないならスルーしてください。)

原作コミック版最終巻で、ナウシカは旧世界の遺跡「墓所」の深部に突入し、旧人類が遺した
管理システムである「墓所の主」から、自分たちの生きる世界についての秘密を知らされます。
それは、腐海とその生態系が地球環境を再生するために計画された、人工的な浄化プラントであること。
さらに、その周辺に暮らす生き残りの人類たちも、実は広範に撒き散らされた毒への耐性を与えられた
改造種であり、世界が浄化されれば腐海の生物と共に絶滅する運命にある、ということです。

「墓所」には、浄化完了後に人類を元に戻す技術も保存されていましたが、ナウシカはそれを拒んで
旧人類の遺産を破壊します。
このときに彼女が発したセリフが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」なのですが、
ここで彼女が言う「いのち」が、「人類」のものだとは、ひとことも触れられていません。

むしろ前後の文脈から読むと、ナウシカは腐海の存在する世界こそ、いまある「自然」の姿だと受け止め、
やがてその「自然」が滅び、新たな「自然」が生まれるなら、そこに人類だけが生き残っていること自体が
「不自然」だという考えに到ったうえで、腐海と人類が先も生き残れるかは「この星」が決めることだ、
と言い切ったように読むことができます。

生というものは本来不確実である、という自然の摂理に沿って考えるなら、ナウシカの決断は正しく、
そして崇高なものだと言えるでしょう。
実際、わたしもこの言葉に泣いてしまった人のひとりでした。

しかし、逆に言うと、このナウシカの考え方は、今のわたしたちが追い求めてきた理想としての
「自然の摂理に逆らってでも、より長く、より健康に生きたい。」
「そして自分たちが犯した過ちは、自分たちの科学と技術で正すべきだし、人類にはそれができる力がある。」
という傲慢さや驕りとは、まるで正反対のところにあるはずです。

いま、かつてない事態に直面している私たちの中で、あのラストを読んでナウシカの真意を理解し、
自分たちを含めた人類の行いを振り返ることができた人が、どの程度いたでしょうか。

そしていま、新たにナウシカの原作を読む人たちは、自分たちこそこの作品で描かれた
「旧人類の末裔で、腐海という自然と共に生きる人々」そのものであるという自覚に至り、
それでもなお、彼女の決断に感動できるかどうか・・・。
正直なところ、私自身はそれに確信が持てません。

むしろ、今の社会の動きを見た感じだと、安易な自然保護や反原子力の方向性で解釈され、
その活動に利用されるのではないか、という危惧のほうが強いです。
それはかつて、王蟲と同じ名の教団が数々の物語を捻じ曲げ、自分たちに有利な解釈を与えて
信徒たちに「救済の神話」を吹き込んだときと、全く縁がないとは思えません。

私個人としては、原作のナウシカにおける結論は、救済の論理とは程遠いところにあると思います。
それは、人類はその過ちも含む世界の在り方すら「自然」として受容し、その穢れを背負ってでも
生きていかなければいけないということ。
確実な未来を求めたり、誰かの救いにすがるのではなく、不確実な世界の運命に身を委ねて生きていくこと。
そしてこうこうと輝く光ではなく、小さくても闇の中でまたたく光として生きていくこと。

しかし、ここで私の思考は袋小路に行き当たります。
これは理想論であり、実際にこういう行き方ができるのだろうか。
人間が知恵と欲望を自覚したときから、この生き方に戻ることは不可能ではないのか・・・。

だから原作のナウシカを読むとき、私は感動と共に苦痛を感じるときもあるのです。
これを読み、これに共感すればするほど、自分の、あるいは人間の本質とはかけ離れた理想が重たくなる。

そんな時、どれだけ生ぬるくお約束な物語と言われようと、もうひとつの理想、あるいは夢の世界としての
美しい結末が示される「アニメ版ナウシカ」の存在が、私の気持ちを少しでも和ませてくれるのです。

希望がなくなったら、やっぱり人間は生きていけないんじゃないか。
そのためには、やはり希望を語る物語が必要ではないか。

そう思うと、私にはどちらのナウシカも大切だし、どちらの物語も否定する気になれないのです。

その一方、ここまで重い業を背負った人類であれば、いっそ世界を敵に回しても生き残ろうとする
悪あがきの姿こそ、種としての生き様にふさわしいとも思います。
そして、そんな気分を最もよく反映し、がけっぷちに追い込まれた人間の反撃をオタク泣かせの表現で
痛快に見せてくれる作品こそ、私が偏愛するもうひとつの傑作アニメであり、「アニメ版ナウシカ」で
巨神兵出現シーンの作画を手がけた庵野秀明氏の初監督作品でもある『トップをねらえ!』なのです。

それゆえに、私の中ではこのふたつの作品はテーマも含めて表裏一体であり、そのふたつをあわせて、
ようやく「人類」という種の性質が揃うものである、と考えています。

また作品を構成するパーツを比べても、戦うヒロイン、人類の危機、環境が原因で引き起こされる不治の病、
巨大生物と人類の対決、そして巨神兵(ガンバスター)の登場と、多くの部分で重なるところがあります。

そしてなにより、トップのヒロインが宇宙で最初に乗るメカの愛称が「ナウシカ」(笑)であること。
これは『トップをねらえ!』が『風の谷のナウシカ』の影響を色濃く受けているという自己申告であり、
一方ではこれが『ナウシカ』へのアンチテーゼだという宣言ではないか・・・とも考えてしまいます。

ちょっと話がそれましたが、原作コミックで『風の谷のナウシカ』を読むとき、感動でひとしきり泣いた後に
ラストでナウシカが何を思い、何を犠牲にする決断を下したかを、改めて考えて欲しいと思います。
それからアニメ版を見ると、また違った見え方、感じ方があるかもしれません。

・・・もしよければ、その後に『トップをねらえ!』とも見比べてもらえると、さらにうれしいのですが(^^;。
コメント (18)
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沖浦啓之監督作品『ももへの手紙』感想

2012年05月06日 | アニメ
こどもの日にちなんだわけでもないけど、5月5日に『ももへの手紙』を見てきました。



映画館は丸の内ルーブルをチョイス。
初日舞台挨拶が行われた会場だから・・・というわけではなく、いま自分が足を運べる中で、
ここが一番大きなスクリーンだろうと判断したからです。
結局、この読みは大あたり。当代最高ともいえる顔ぶれが手がけた最高レベルの映像を、
大スクリーンで細部まで堪能することができました。

背景美術はむやみに細かく描かず、むしろ明暗や空間の広がり、奥行きや空気感を重視した感じ。
舞台装置や小道具も細部にこだわるより、人が見たときの印象や質感を重視したかのように見えました。
こういう描き方はアニメを見慣れない人にも、絵としての“くどさ”を感じさせず、むしろ人の実感に沿った
「既視感」をかきたてるのに効果を上げていると思います。
まあ実際に映像を見てどう感じるかは人それぞれですが、私にとってはこれで正解でした。

そして一番の見どころは、ヒロインのもも本人が見せる、多彩な表情と動きです。

非常識なアクションや極端にデフォルメされた表情はありませんが、小さなしぐさから
いかにもアニメっぽいポーズまで、ひとつひとつの動きが実に魅力的に描かれています。
移動時の動きにしても、とぼとぼ歩きから全力疾走まで実にさまざま。
そしてその動きから、ヒロインの心理状態が見る側へとダイレクトに伝わってきます。

これだけ雄弁な絵を描けたのも、沖浦啓之監督自身が優れたアニメーターであり、
その意志を完璧に表現できるだけのスタッフに恵まれたからでしょう。
極端な話、この作画技術の高さを見るためだけでも、映画館まで足を運ぶ価値は
十分にあると思います。

さて、絵と動きという狭義に限っての「アニメーション」としては、抜群の完成度を誇る
『ももへの手紙』ですが、シナリオも含めた広い意味で見たときには、物語の掘り下げ方や
語り口などについて、いくつか不満を感じるところもあります。

例えば、ももが精神的に辛い状況とはいえ、地元の人々との交流がストーリー上にあまり盛り込まれず、
人情や風土性といった部分を生かしきれていないように見えること。
ももの語尾に地元の方言が混ざるラストも、それまでの布石が弱いせいで、ちょっと説得力が不足気味。
あと、これは尺の都合かもしれませんが、一番のクライマックスで動きのある場面を重視するあまり、
最後にはどうなったかをきちんと見せなかったのもすっきりしませんでした。
あそこはやっぱり、ちゃんとゴールまでさせるべきですよ。子ども向け作品ならなおさらです。

そして本作に対する最大の疑問は、ももという少女が自分の中に抱えている「こどもの世界」を、
はたしてどこまで表現できていたのか?ということ。

この年頃の女の子の仕草は見ているだけでおもしろく、また絵にもなるというのはよくわかったけど、
一面ではその目線が少女本人のものではなく“少女を観察する側”のものに感じられてしまうのです。

娘を温かく見守りつつ、その動きをおもしろがる目線は、むしろ“父親の目”に近いのではないでしょうか。

つまりこの物語にいないはずの父の思いこそ、この映画全体を常に支配する雰囲気であり、
結局は子どもが抱える深い部分にまでは踏み込んでいないように見えたのが、私にとって
“アニメとしては抜群、でも物語としては物足りない”と思った、最大の理由です。

特にこの映画で「宮浦」って名字を聞くたび、いつも監督の名前が思い浮かぶんですよー。
・・・実は沖浦監督にも娘さんがいて、彼女を見ているうちにこの作品のアイデアを思いついたとか?

仮にこの推測が当たってるなら、この映画こそ沖浦監督から娘さんにあてた「手紙」といえそうです・・・。

ともかく、『ももへの手紙』が、沖浦監督が本当に撮りたかった作品、そして自分の思いを
前面に押し出した作品だろうということは、まず間違いないと思います。
押井守脚本の『人狼』では、独特や世界観と強烈なテーマを見事に映像化して高く評価されましたが、
あれはあくまで“押井さんの世界”を撮ったものなのでしょうね。

見守り組の妖怪3人組については、それぞれに役者さんの個性をよく反映していたと思う反面、
もっと見せ場があってもよかったなと思いました。
その中でも控えめな“マメ”が一番印象に残ったのは、チョーさんの名演が大きいと思います。

期待値が高すぎたぶんだけ厳しい意見も書きましたが、総評としては、素朴な物語を高レベルの作画で
手堅くまとめた、一般向けアニメの秀作だと思います。
家族を失うという重いテーマを扱っても、極端に暗い話にはならず、むしろ瀬戸内の自然と懐かしい街並みが
見る人の気持ちをほぐしてくれます。
ちょっと小旅行に行くつもりで映画館に足を運び、家族の大切さを再確認するには最適な作品でしょう。

さらに現地へ旅行したくなったら、映画のモデルとなった場所などを案内する特設サイト「もも旅」や、
広島県作成の「瀬戸内もも旅ガイドマップ」もありますので、参考にしてください。

こちらは丸の内ルーブルに掲げられた、宣伝用の懸垂幕です。


あと、ももや見守り組と一緒に記念写真が撮れるパネルも設置されてましたが、
チケットもぎりのお姉さんの視線が怖かったので、撮影は断念しました(^^;。
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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 TV版』劇場上映イベント(新宿バルト9)

2011年08月27日 | アニメ
大雨の8月26日の夜、パブリックビューイングの『新劇場版ヱヴァンゲリヲン:破 TV版』を
新宿バルト9で見てきました。(アイキャッチの表記は“EVANGELION:2.02’)


入場者には日テレとバンダイナムコのコラボによるクリアファイルの配布あり。
(日本テレビの通販でエヴァグッズを買うとついてくるのと同じものです。)
さらに放送開始前には、今回の企画に協力したトヨタとのタイアップで「NERVの公用車がプリウスの
プラグインハイブリッドになった」という設定のCM「電力補完計画」を、10分ほど上映。
アニメ部分は劇場版からの流用でしたが、セリフ部分は三石琴乃さんによる録りおろしでした。
これはどうやら、箱根で行われた「電力補完計画」で使われた映像と同じみたいですね。

また、上映開始前には大月プロデューサーが登壇して、各会場に向けて簡単なお礼の言葉を述べましたが、
これを見ていた横の席の男子二人組の会話が、ちょっとおもしろかったです。

「大月って誰?」「監督じゃね?」「いや監督はマサユキとかいう人っしょ?」

・・・横でいろいろとツッコミたくなるのを我慢するのが大変でした(^^;。

やがて開始60秒前からスクリーンにカウントダウンが表示され、9時になると同時に本編開始・・・
と思ったらAKBの人が写ったのには拍子抜けしたものの、ともかくTV放送が始まりました!

自分が見たのはシアター9ではなかったので、生のステージこそ見られませんでしたが、映像のほうは
TV放映用のフィルタがかけられてなかったおかげで、本来の美しさを大画面で楽しむことができました。
まあロードショーでもブルーレイでも既に見てはいるんですが、使徒の変形とかエヴァの動きとかは、
やっぱり大きな画面で見たほうが迫力があります。
あの異様な動きから得られる視覚的な快楽は、映画館のスクリーンサイズじゃないと体験できないかも。

あと、「Q」の新予告編を大スクリーンで見られたのは、今のところこのイベントの参加者だけになるのかな?

そして上映終了後は、伊吹マヤ役の長沢美樹さんと加藤夏希さんによる30分ほどのステージトーク。
イベントの提供元がバンダイなだけに、話題の半分くらいは新作ゲーム「3rd Impact」の宣伝でしたが、
長沢さんからは製作現場の裏話として

「新キャラ役は誰が来るんだろう?とウワサしてたら、まさかの坂本真綾ちゃんだった!」とか、

「アフレコ中に庵野総監督のリテイクが30回くらいあった!」とか、

「破の印象がTVシリーズと違うのは、ちょうど総監督が結婚して幸せだったおかげかも!」とか、

「自分たちは出ずっぱりで(マヤが)ゲーゲー吐いたりしながらがんばってるのに、カヲル役の石田彰さんは
 最後だけ出てきて、オイシイところをぜんぶかっさらってズルイ!」

と本人に言っちゃった話とかを聞くことができました。

また、加藤さんは控室で大月Pから「Q」の展開について少し聞いてしまったとのこと。
具体的な内容には触れませんでしたが「エヴァらしい賛否両論のありそうな、衝撃的な話」だそうです。

なお、長沢さんの言っていた「Qは2作同時上映と聞いたことがある」という話は、新劇場版の製作発表時に
「最終話を2分割して製作する」とアナウンスされたことに基づいているので、現時点では未定と考えるのが
正解だと思います。
それにまだ主要キャストのアフレコ予定すら決まっていないうちに、ファンがあれこれと詮索しすぎるのも
どうなんだろう・・・とも感じますし。

あと、いまさらながら「破」に対する私の感想を簡単にまとめたので、以下に書いておきます。

「序」の時は「修正シーンとCGが増えたけど、基本的には変わらないじゃん」と否定的な見方をしてましたが、
「破」では“原型となるTV版と劇場版を回収・統合しながら、新たな筋書きへと転回させる”という意図が
明確に感じられたので、旧版との違いを比較しながらおもしろく見ることができました。

今回で「エヴァが単なるヒーロー物になってしまった」と嘆く声も聞きますが、以後の作品がことごとく
内向的になってしまったことを考えると、原点たるエヴァがその殻を破ろうとしているように見えるのは
むしろ歓迎すべきことではないでしょうか。
わざわざ作り直すんですから、このくらいの劇的な変化(あるいは開きなおり)がなくちゃ意味がないし、
それが時代の要請だとすれば、これが文字どおり「新世紀」仕様のエヴァなんだろうと思います。

そして「破」では、TV版19話までをベースにしながら、そこに「THE END OF EVANGELION」の要素も
取り込んで、ひとつの区切りを迎えたように感じました。
ようやく“旧エヴァンゲリオン”を清算するための物語が終わり、いよいよ未知なる領域へと突入する、
いわば本当の意味での「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」が始まるのが「Q」なのかもしれません。

おまけ:ひとり寂しくワンダースワンをプレイするアスカ。

この場面で流れる起動音を聞くと、おもわずニヤリとしちゃいます。

・・・セカンドインパクト後の世界でTVゲームの覇権を握ってるのは、きっとバンダイに違いない(^^;。
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「フレデリック・バックの映画」公開初日に見てきました

2011年07月03日 | アニメ
神田の神保町シアターで「フレデリック・バックの映画」4本立上映の初日に行ってきました。





ジブリ美術館がらみの上映会といえば、これまでは渋谷のシネマ・アンジェリカが定番だったので
神保町シアターに行くのは初めてでしたが、新しい設備や小劇場のわりにゆったりした座席など、
鑑賞時の快適さはアンジェリカよりも格段に上質。
今後はここを拠点にジブリ配給作品を上映していくというスタイルが定着するといいですね。
・・・オーナーが吉本興業なので、ロビーの半分を吉本芸人グッズが占めているのはちょっとアレですが(^^;。

○『木を植えた男』
最初に上映されたのは、バック氏の代表作で2度目のアカデミー賞を受賞した「木を植えた男」。
戦争や開発、あるいは政治への風刺という側面でもよく知られた作品ですが、そのメッセージが
強い説得力を持つのも、何よりも映像表現が抜群に優れているからでしょう。
インターネットによって誰でも発言者になれる今こそ「何を語るか」以上に「いかに語るか」が
大切になってきていると思います。
いま求められているのは、わかりやすい「正しさ」を振りかざすことではなく、それを納得させる
優れた表現力なのではないか・・・バック氏の作品を見て、そんな思いを強く持ちました。

○『大いなる河の流れ』
「木を植えた男」と並ぶ長さの作品「大いなる河の流れ」は、セント・ローレンス川を巡る歴史から
カナダの開拓とそれに伴う自然破壊を振り返る作品。
テーマ的にやや教科書的な硬さも感じますが、土地の歴史を人の営みと絡めて丹念に語るスタイルの
頂点に達したともいえる、現時点でのバック氏の集大成です。

線と色の流れで紡がれる物語は、バック氏の作風そのものが「水」のイメージに近いことを感じさせます。
そんな中で、人間の暴挙による殺戮と自然破壊は、まさに「汚れ」や「澱み」そのものに見えました。
水をめぐる物語として「崖の上のポニョ」に通じる点もあるので、両者を比べてもおもしろいかもしれません。

○『トゥ・リアン』と『クラック!』
識字率の低かった時代、民衆に情報を伝えるために最も重要なメディアが「絵画」であったことは
多数の宗教画や歴史画からも明らかですが、バック氏の作品にもそれらに通じるわかりやすさとか、
人間の根っこにある原初的な感覚を揺さぶるものがあるように思います。
その点で「木を植えた男」以上に重要な作品かもしれないのが、映像詩のような「トゥ・リアン」や
「クラック!」といった小品。
なお、フランス語でTout-Rienとは「全か無か」の意味、CRACは「バキッ」という感じの擬音だそうです。

前者は旧約聖書をモチーフにした世界創造の物語、後者はスケッチ風に綴られたある家族の歴史ですが、
言葉抜きで色彩と動きが奔放に溢れ出すこの2作こそ、バックの本質を最もよく伝える作品にも思えます。

特にバック初のアカデミー賞受賞作である「クラック!」は、ちょっと比べるものがないほどすばらしい。
人の手で作られ、人に寄り添い、成長を見つめながら歳を重ねていく家具の魅力が見事に描かれていて、
「ものづくりの本質」と「よりよく暮らすことの意味」が、この短編の中に凝縮されていると感じました。

また、「クラック!」に登場するシェーカー風の素朴なロッキング・チェアが、小さな子どもたちの遊具として
様々な乗り物に見立てられる様子は、イスの源流のひとつであるシェーカーチェアが徐々に発展していき、
やがてイームズのプライウッド・エレファントやアアルニオの動物シリーズといった子供用チェアに至るまでの
「イスの進化」のはじまりを見ているような感じでした。
イスを巡る発想の広がりを考える上でも刺激的な作品なので、イス好きや家具好きも必見です。

さらに神保町シアターには、バック氏自らの設計図を元に再現されたこのロッキング・チェアの実物も
展示されていました。
しかも劇場の人にお願いすれば、実際に座ることも可能!なんという太っ腹!

ちゃんと背もたれにも顔がついてます。

こちらはきれいなスカーフ・・・と思ったら、なんと「ふろしき」でした(笑)。

お値段は5,000円。

そういえば「木を植えた男」の語り手が最後にエルゼアールと会った時、彼は87歳でした。
そして1924年生まれのフレデリック・バック氏は、今年で満87歳を迎えたところです。

そんな記念すべき年に、日本でフレデリック・バック氏の作品に触れることができるありがたさを
しみじみと感じつつ、この企画を立てた関係者の方々に深く感謝しています。

東京都現代美術館で開催中の「フレデリック・バック展」も、近いうちに見に行く予定。
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『魔法少女まどか☆マギカ』とうとう見てしまった

2011年06月26日 | アニメ
ウワサの『魔法少女まどか☆マギカ』、ニコニコ動画の一挙放送でついに全話見てしまいした。

どーもあのキャラの絵柄と「魔法少女」ってのが自分にあわなくて敬遠してましたが、ちゃんと見てみれば
世間で高く評価されてるのも納得のデキですね。
しかし劇団イヌカレーの絵って、めちゃくちゃシュヴァンクマイエルっぽいよなぁ・・・。

(以後、けっこうネタばれしてます。作品を未見の方は要注意!)

アニメって節目節目の時期に実験的作品が出てるので、映像面のすごさや新しさなどはそれほど感じませんが、
むしろ短い話数でコンパクトにまとめ、かつ伏線を最大限回収した構成のうまさには参りました。
ただし「魔法少女」を「極道」に置き換えて考えてみると、魔法少女が守る地域の安全とかシマ争いの構図は
まさに虚淵玄の得意とするダークな裏社会モノ(笑)という気もしますけどね。
特に杏子の序盤での振る舞いなどは、その典型だと言えるでしょう。
あと、終盤の決戦に関しては、戦闘シーンも含めて「魔法少女らしさ」がかなり薄かった気もします(笑)。
とはいえ、私にとってはああいうドンパチ主体な感じのほうが受け付けやすかったですが。

またSF者の目線では、ソウル・ジェムに関する「“身体”から外部化された“精神”」というギミックが
特に興味深いものでした。
「人間をハードとソフトという側面で整理する」という捉え方をすれば、サイバーパンク以降の人間観を扱った
『攻殻機動隊』などに代表される「ポスト・ヒューマニズム」の流れを受けた作品のひとつともいえますが、
この最新のテーマを古典的な魔法少女の設定と結びつけたのは、なかなか新しいかも。
(まあ士郎正宗氏は既に『戦術超攻殻ORION』や『攻殻機動隊2』で、科学と魔法が等価になった世界を描いてますが)

ただし、作中でヒロインに「身体と切り離された精神」に対する不快感をはっきりと表明させた点については、
「ポスト・ヒューマニズム」系の作品としてはかなり異色ではないかと思います。
これは男性よりも身体に対する意識が強く出る女性ならではの反応、ということになるのかな?
思春期の少女が主人公という設定も、このあたりとリンクする部分じゃないかな?とも思ったりして。

また、この「ポスト・ヒューマニズム」的な視点に加えて、人類より上位の知性体であるキュウべえの語った
「感情とは知的生命体にとって本来不合理な精神疾患で、自分にはそれが理解できない。人類は例外的存在。」
というくだりには、伊藤計劃氏の『ハーモニー』にも通じる「人間の、あるいは人間らしさの基準とは何か?」
という問いかけが込められているようにも感じました。

上位知性体によって宇宙への供物として捧げ続けられる魔法少女たちと、その悲しみの連鎖を止めようとして
最後にまどかがたどり着いた願い。
このへんの展開は、まるでハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』をアニメで見た気分でした。
エリスンの名作短編と同じタイトルを掲げた作品では、『まどか☆マギカ』と作風の類似性でも取り上げられる
『新世紀エヴァンゲリオン』が有名ですが、本家エリスンの原作をうまく取り入れたという点では、間違いなく
『まどか☆マギカ』に軍配が上がります。
もともとノワール系のPCゲームで腕を振るい、『BLACK LAGOON』の小説作品でも評価の高い虚淵氏ですから、
犯罪小説も得意とするエリスンとよく似た資質を持っているのかもしれませんね。

物語の最後に一番重い運命を背負うのはまどかですが、彼女の対となる存在のほむらをはじめ、終盤まで動かない
(動けない)まどかの役割を、個々の魔法少女が担う形になっていました。
言い換えれば、登場した全ての魔法少女がヒロインだったということになるのかも。
(追記:まどかがなれなかった“可能性”の一部には、彼女を見守る詢子ママと和子先生も含まれるはず。)
その中でも群を抜いて印象に残る存在はやはりほむらなのですが、自分の場合は時計(のムーブメント)を見ると、
自動的に『ウォッチメン』を連想しちゃうというのも影響してそうです。
人知れず孤独に戦うヒロインって、アメコミのヒーローが持つストイックさとも近いものがありますしね。
泣くまいとして上を見上げる癖とか、細かいしぐさに裏の意味があるのもいいですなー。

そんなほむらが魔法少女になった理由が、1話で彼女を見たまどかと全く同じなのは見逃せないところ。
出自が同じであるまどかとほむらは、存在意義としては表裏一体と言ってもよさそうです。
そして、同じところから出発した別々の存在がぐるりと回って最後にひとつにつながるという物語の全体構造は
ループというよりも、むしろメビウスの輪に例えたほうがいいかもしれません。

繰り返される闘いの中で強さを身につけたほむらと、自分の中に秘められた真の強さを最後に引き出したまどか。
どちらの強さも本物だとは思いますが、そこに決定的な差があるとすれば、ほむらが「たった一人を救うために」
戦い続けることでは見い出せなかった答えを、まどかは「すべての魔法少女を救うために」という発想によって
導き出せたことではないでしょうか。
考えてみれば、まどかの本質はほむらとの最初の出会いから全く変わっていないわけで、その変わらなさこそ
最後に奇跡を起こすことができた原動力ではないかと思います。

そして、そんな「本質的な気高さ」を持ったまどかとの思い出を、世界でただ一人覚えていられるという事が、
ほむらにとってただひとつ許された(そして究極の)幸せなのかもしれません。

確証はないけど、恭介の態度やホストの会話、そしてキュウべえの傲慢さを考慮すると、
『魔法少女まどか☆マギカ』が本当にやりたかったことって、やや大げさに表現するなら
「歴史を通じて男性原理に殉じてきた全ての女性に対する鎮魂歌、そして彼女達の魂の解放」
ということだったんじゃないのかなぁ、とも考えてしまいます。
知久パパが専業主夫なのも、実は「彼ら」に対するアンチテーゼではないでしょうか。
まあ、そもそも魔女という概念自体が、男性原理の産物でもあるわけですが。

しかし、世間でキュウべえがあれほど嫌われている理由もよくわかったよ・・・。
確かにウソは言わないけど、肝心なところも言わないってのが本物の悪徳訪問販売っぽい。
一部で残虐描写が非難されてるらしいけど、むしろ「契約なんて安易にするもんじゃない」という教訓が
身につくという意味では、これから世に出る青少年にこそ見せるべきアニメなのかも(笑)。
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OVA「BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail」全巻発売記念上映イベント

2011年06月02日 | アニメ
アニメ版「BLACK LAGOON」の第三期となる最新作「Roberta's Blood Trail」の最終巻が、ついに完成。
これを記念して、新宿シネマートで行われた全話上映&キャストによるトークイベントに行ってまいりました!

イベントの流れとしては、まず先に発売済みのOVA4話が一挙に上映され、その後にレヴィ役の豊口めぐみさんと
ロック役の浪川大輔さんによる1時間ほどのトーク、そして発売前の最終話が上映されるという順番で進行しました。

トークイベントの様子についてはニコニコ動画でも中継されましたが、浪川さんが豊口さんとMCの吉田尚記さんに
イジられまくったあげくボロボロになっていく姿が実に愛らしく、「ああ、浪川さんはやっぱりこうでなくっちゃ!」と、
私に新たな感動を与えてくれました(^^;。
浪川さんも今年で35歳ということをトークで強調していましたが、平田広明さんのようなダンディズムを目指すことなく、
これからも不思議キャラとしてみんなに愛されて欲しいな~、と強く思いましたね。
あの強烈な個性は、失うにはもったいなさすぎますから(笑)。

豊口さんは地のかわいらしい声と、たまに出すレヴィの太い声の落差がすごかったなぁ。
攻殻3Dのトークイベントでの田中敦子さんと大塚明夫さんもそうだったけど、役者さんの
スイッチの切り換えというのは、本当にスゴイものだと思います。

ちなみに豊口さん、ロベルタ役の富沢美智恵さんとの掛け合いでは役になりきって怒鳴りあっていたので、
終わった後にどんな芝居をしていたか記憶が飛んじゃってた、とも話してました。

そんな豊口さんですが、オーディションで今のレヴィの声を出した後にまず思ったのが
「長いこと出すのが大変な声を作っちゃったな~」だったとか。
まああれだけ力の入った声を出すんですから、そりゃ大変にもなりますよねー。

また製作中のエピソードとして、豊口さんは第一期の最初の頃、作品のハードさから精神的に追い込まれた事で
胃をやられてしまい、どんどんやつれてしまった・・・という裏話もありました。
収録中に飲もうとした胃薬の錠剤を落としたときも、拾うのがとても大変そうだったのを見かねた浪川さんが、
代わりに拾ってあげたこともあったとか。
そんな豊口さんも今ではすっかりレヴィに馴染んだようで、第三期ではあまり人を撃たなくなったレヴィに対し、
心の中では「早く撃っちゃいなよ!」とつぶやいていたそうです(^^;。

そしていよいよトーク後に上映された「Roberta's Blood Trail」最終話、これは正真正銘の傑作でした。

青い闇の中で繰り広げられるロベルタの殺戮シーンは、凄惨でありながらも幻想的な美しさで、文字どおり
“この世のものとは思えない”光景です。
大画面に広がるケシ畑を通ってジャングルの奥へと徐々に進んでいく場面は、見ている私たちもロベルタの
心の奥へと導かれているような気持ちになりました。

もしかすると、あれはロベルタの内面に広がる闇そのものであって、画面いっぱいに広がっていたケシの花畑も、
実は蝕まれたロベルタの心を象徴するシンボルだったのかもしれません・・・。

今回のイベントで全話を続けて見たときに感じたのは、このOVAのテーマが「個人による復讐」に留まらず、
それぞれの登場人物の背後にある様々な“戦争”(ベトナム、アフガン、そして麻薬戦争など)が落とす影を
映し出すことにあったのではないか、ということ。
結果として「Roberta's Blood Trail」は、それらの戦争に翻弄されてきた人々の運命が交錯する物語として、
実に重厚な作品に仕上がったと思います。
(メインテーマが“戦争”であることは、エンディングで南北戦争当時に歌われた曲である
 「When Johnny Comes Marching Home」が使用されていることにも表れています。)

原作とOVAでは、同じ場面でも表現がかなり違っていたりしますが、これは互いのメディアにおける
表現方法の違いによるところが大きいのでしょう。
コマ割りとセリフ表記で見せるマンガに対し、一連の動きとカメラワークで引っ張るアニメで同じような
描き方をすると、どうしても無理や矛盾が生じてしまいます。
そこをきちんと計算した上で、アニメとして必要な画面構成や演出を積み重ねることにより、マンガとは違う
「BLACK LAGOON」ができあがるのは必然だし、逆に原作のマンガを深く理解していなければできない仕事です。
あたりまえの話ですが、マンガの場面を忠実になぞっただけでは「優れたアニメ」は作れないのですね。

このイベントの後にマンガとOVAを比較しましたが、それぞれのメディアにおける効果的な「見せ方」に
大きな違いがあることを、改めて確認することができました。
特に空間設計については、2D的な表現の迫力を重視するマンガと、広がりと奥行きを見せるアニメという
方向性の違いが、驚くほどはっきりわかります。
これからこの種の業界に進もうという人には、「マンガとアニメにおける演出の違い」の生きた実例として、
ぜひ両者を見比べていただきたいと思います。

また、OVAでは原作マンガを超えるハードな描写があったり、ロックの隠された動機が異なっていたり、
終盤の展開で大きく変更された部分がありますが、全編を通して見たときの“納得度”に関して言えば、
私にはOVAのほうがより筋が通っていると感じました。

そして、たぶん原作のファンから賛否両論が出るだろうと思われる、OVAでの結末について。
私が原作を読んだ当時、このエピソードについて感じたのは
「ロベルタの本性はやはり猟犬で、これはガルシアが“新たな主人”としてロベルタに認められる話なのだ」
というものでしたが、OVA版はある意味で、そんな「枠組み」さえも超えるような結末になっています。
発売前なので詳しくは書けませんが、私にとっては「ああ、これでいいんだ」と、十分納得できる終わり方でした。

なお、この結末にあわせるため、ガルシアとファビオラの会話シーンに若干のセリフが追加されています。
このセリフを覚えていると、ラストシーンがより胸に迫るものになるはず。お聞きのがしのないように。

OVA「BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail」最終巻の発売日は6月22日の予定です。
衝撃の結末を、ぜひ自らの目で確かめてください。
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『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY 3D』少佐&バトー&神山監督による舞台挨拶レポート

2011年05月14日 | アニメ
連休前のことですが、新宿バルト9で行われた『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY 3D』の
大ヒット御礼舞台挨拶に行ってきました。
今回のイベントでは草薙素子役の田中敦子さん、バトー役の大塚明夫さんと一緒に作品を鑑賞した後、
神山健治監督を交えてのトークを聞かせてもらえるという豪華な内容です。

まずは映画の上映前、石井朋彦プロデューサーの司会にあわせて田中さんと大塚さんが登壇。
SSSの収録から既に4年ほどが経過し、さらに今回の3D版はお二人とも初めての鑑賞になるそうです。

観客へのあいさつ後、お二人は観客席中列の真ん中に設けられた特別席へ移動。
(残念ながら私の席からは遠く、上映中の様子などはわかりませんでした。)

順番に『Xi Avant』『タチコマな日々3D』『攻殻SAC SSS 3D』と上映された後に、
田中さんと大塚さんが再登壇して、トークがスタートしました。
(以下、発言内容での敬称は略させていただきます。手書きメモ再現につき、多少の誤りはご勘弁を。)

石井P:エンドロールでご覧になったシーンが、いま皆さんの目の前で再現されています!
     そしてtwitterのハッシュタグランキングでは1位、Ustではウィリアム王子の婚礼を抜いて10位!
大塚:バイブルのようなこの作品が、いかに電脳化された民を動かしたか(笑)。

石井P:では、バトーの声で神山監督を呼び込んでください!
大塚:バトーの声でですか・・・(ここで劇場全体に響くほど重い声になって)監督、監督!
神山監督:(先生に呼ばれた学生のような声で)はい~。

そしていよいよ神山監督が舞台へと登壇。

監督とスタッフは上映中に裏でUstを注視しながら、twitterで寄せられるファンの質問に答えていたとのこと。
(その時の公式まとめはこちら。)

そして席に座ろうとした大塚さんが、いかにもという感じで背後から取り出したのが『攻殻SAC SSS』の
ノベライズ版でした。
これは神山監督から当日贈呈されたもので、中には楽屋で書いてもらったという監督のサイン入り。

ノベライズには映画で見えなかった各キャラの心理も書かれてます、という神山監督の言葉に対し、
大塚さんはやや困ったような表情です。

大塚:ではこれを読んで、僕の演じたバトーの心理が間違っていたとしたら、その時はどうすればいいんですか!
神山:いや、間違ってるところは1個もなかったので、大丈夫です。自信を持っていただければ(笑)。

そして、初めて3D化された作品を見た感想について。

田中:まだ映画の中にいるみたいで、何かしゃべらなくちゃいけないのに現実に戻りきれてない気がします。
    すばらしい。

ここで自分も発言しようとするあまり、もらった本をつい膝に挟みそうになる大塚さんの姿に
場内からは思わずくすくす笑い。うーん、大塚さんてばお茶目すぎる。

大塚:(横のほうの席の人も)3Dで見えるんですか?あれはいったいどういう仕掛けなんですか?
神山:右目と左目の映像をすごい速さのシャッターで切り替えてます。
    細かい原理までは説明できませんが、映像に若干角度がついたように見えます。

田中:OPの映像で、私の横の若干一名が映像を一生けんめい手でつかもうとしてました(笑)。
(注・たぶん大塚さんがつかもうとしていたのは、マイクロマシンアンプルの映像でしょう。)

大塚:音が普通のサラウンドよりも多重に聞こえましたが?
神山:(3D化にあわせて)多少やり直しています。飛び出した映像を見ながらミックスしていないので、
    できてからもっと音を回せばよかったかなとも思ったので、そこは今後の課題です。

田中:アニメを見たという感じがしないですね。
大塚:電脳の場面だけ3Dになるかと思ってたら、アニメ全体が3Dになってるとは思わなかった。
    セリフは言った覚えがあるけど、画は違うぞと思ったところも。
神山:描きなおしはせず、視差で調整しています。もともと平面だったものを、奥に行くようにしたりとか。
    スクリーン面をゼロと思ってもらうと、向こう側もあるしこちら側もあるという感じ。

大塚:3D化で気づいたのかもしれないけど、すごく見慣れた場所がありましたが。
(注・バトーとサイトーがラジ・プートを見失う場面)
神山:あれは東京テレビセンターの裏の駐車場です。ロケハンに行く時間と、押井監督のように
    湯水のように使えるお金がなかったので(笑)
田中:収録には車で来る人が多いので、みんながあの駐車場に車を停めて・・・。
神山:そこでみんなで立ち話とか。トグサの家(のモデル)は、旧I.G.の向かいのマンションですし・・・。
    (ここでぽそっと)ちょっとしたコラージュで、身近なところでも映画は作れますよ押井監督(笑)。
大塚:ボクのぶんのお金も残しといてくれと(笑)。
神山:アバターに負けたとか言ってないで(笑)。
石井P:飛行機もまだエコノミークラスですし(笑)。

ここで壇上に置かれた、『SSS 3D』と警視庁のコラボによるサイバー犯罪撲滅キャンペーンの
ポスターが紹介され、田中さんが少佐の声でキャッチコピーを朗読してくれました!

「ネットは広大だわ。しかし逃げることはできない。」

・・・劇場内の空気がいきなりピーンと張りつめる感じ。思い当たる人がいたら、その場でいきなり
自首しそうなほどの迫力です。

しかし、ここで大塚さんがひとこと「今後もし警察に捕まったら、公安9課だ!と言えば見逃してくれるかな?」
これで場内はまたもや大笑い。

ちなみにこの種のコラボで申請を出しても普通は通らないところ、警察に攻殻SACのファンの方がいたことで
今回のキャンペーンが実現したそうです。

石井P:キャッチコピーはこのポスターのオリジナルですね?
神山:さすがに「この問題を解決してはならない」は、ちょっと警察むきじゃないなと(笑)。

ポスターの貼ってある場所は警察の所内等ですが、石井Pは近所の警察署をのぞきに行って職質を受けたとか。

大塚:貼ってあるのにサインとか書いちゃダメですか?
神山:たぶんすぐ剥がされて、その人が窃盗で捕まります。
大塚:僕もその場で捕まるか、器物破損とかで。
田中:(少佐の声で)しかし、逃げることはできない(笑)。

神山監督もお二人と会うのはしばらくぶりとのことで、やや同窓会的な雰囲気の話題もありました。

大塚:久しぶりに会って、貫禄がつきましたね。
神山:なかなかつかないんですが。髪は短くなりました。
田中:あと、前は必ず帽子をかぶってましたね。(注・「笑い男」のマークも、帽子をかぶった姿です。)
大塚:帽子はいろいろと頭によくないから(笑)。

ここで田中さんが、胸元に輝くシルバーのタチコマペンダントを披露。
(これについてはご本人のブログに写真入り記事が出ています。)

田中:すごくかわいくて、監督からまたもや奪ってしまいました。
神山:タチコマも、美しい人の胸元に行きたいと言ってましたので。
大塚:ボク何ももらったことないな(笑)。
石井P:小説、小説!
田中:監督にサインもいただいて。そして手を見ると、笑い男のリングが!
大塚:見せてくれるからくれるのかと思ったら、見せるだけだった(笑)。
神山:今度進呈します。(注・後ほどちゃんと進呈されたそうです。)

神山:(攻殻SACの第一期で)新人監督としてお二人と一緒に仕事ができてよかった。
    勉強では得られないものを得ることができました。
大塚:大きな声じゃ言えないけど、自分の中で一番好きな何本かの作品のひとつです。
田中:私は、一番好きな作品ですね。声優さんもみんな仲が良くて。
神山:9課のメンバーと一緒にいるような感じでしたね。
田中:収録中わからないところがあると、監督のいるタバコ部屋に行ったり。
    そんな時は「職員室に行ってくる」と言ってました。
神山:質問に答えるために、自分も収録前にずいぶん予習をしてました。
田中:作品によっては時代がすごく反映されているけれど、攻殻SACに関しては昔の作品という気がしないです。

石井P:この先の素子さんとバトーさんの構想は?
神山:いくつかやり残したことがあって、例えばバトーが(素子以外と)のっぴきならない恋に落ちるとか。
田中:それは聞き捨てならないですね!
神山:バトーって弱い人を助けたくなっちゃうから、少佐に気持ちがありつつも・・・というのが書けるとおもしろいかなと。
田中:(大塚さんを見ながら)どうしますか?素子を一番に思っていても、そういう事態になったら・・・
    (ここで少佐っぽく)どうなの?
大塚:(バトーに)迷子になっちゃダメだぞ・・・と言いながら、少佐のほうに歩いて行けばいいんじゃない?
神山:少佐もバトーの前ではポーカーフェイスだけど、実際そういう事態になったらどうなの?と問いかけてみたいです。
石井P:そのへんを見たい方は、twitterでハッシュタグ #PH9をつけてつぶやいてください。

また、神山監督と田中・大塚ご両名については、7月発売のBDソフト『攻殻SAC SSS 3D AD』の
オーディオコメンタリーでも顔を合わせるので、そちらの内容にもご期待くださいとのことでした。

最後に大塚さんと田中さんから「この作品を見て、日本のアニメと日本の底力を感じて欲しい」という趣旨の
挨拶があり、神山監督からは全世界のUst視聴者へのお礼と、もしもチャンスがもらえれば(攻殻SACの)
次回作に挑戦したいという意欲が語られました。

少佐とバトーをナマで見る&声を聞くというめったにない機会に加え、3D版の初鑑賞に
同席させていただけるという貴重な場を共有できたのが、何よりもうれしかったです。
もう攻殻SACの新作が作られないとしたら、こういうイベントは二度とないかもしれないし。

・・・そうならないためにも、ぜひプロダクションI.G.には次回作の実現にがんばってもらって、
神山監督、田中さん、大塚さん、そして全世界のファンからの熱い期待に答えて欲しいです。
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