Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

『風の谷のナウシカ』原作ラストに対する、私的な解釈と感想

2012年05月13日 | アニメ
先日、テレビで『風の谷のナウシカ』が(何度目かの)再放送をされたとき、ネットでの反響を見て
「今でもアニメより原作を支持する人が多い」ということを確認しました。

それを見てふと考えたのが「あのラストの意味を、皆さんどう考えてるのだろうか?」ということ。
そして自分にとって、原作版とアニメ版はどういう風に違い、それをどのように受け入れているかを、
ある程度は整理しておきたい、ということでした。

そこで今回は、主に原作ラストの解釈を中心に、私なりのナウシカ観などを書こうと思います。

(ここから先はネタばれになるので、もし原作を読んでないならスルーしてください。)

原作コミック版最終巻で、ナウシカは旧世界の遺跡「墓所」の深部に突入し、旧人類が遺した
管理システムである「墓所の主」から、自分たちの生きる世界についての秘密を知らされます。
それは、腐海とその生態系が地球環境を再生するために計画された、人工的な浄化プラントであること。
さらに、その周辺に暮らす生き残りの人類たちも、実は広範に撒き散らされた毒への耐性を与えられた
改造種であり、世界が浄化されれば腐海の生物と共に絶滅する運命にある、ということです。

「墓所」には、浄化完了後に人類を元に戻す技術も保存されていましたが、ナウシカはそれを拒んで
旧人類の遺産を破壊します。
このときに彼女が発したセリフが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」なのですが、
ここで彼女が言う「いのち」が、「人類」のものだとは、ひとことも触れられていません。

むしろ前後の文脈から読むと、ナウシカは腐海の存在する世界こそ、いまある「自然」の姿だと受け止め、
やがてその「自然」が滅び、新たな「自然」が生まれるなら、そこに人類だけが生き残っていること自体が
「不自然」だという考えに到ったうえで、腐海と人類が先も生き残れるかは「この星」が決めることだ、
と言い切ったように読むことができます。

生というものは本来不確実である、という自然の摂理に沿って考えるなら、ナウシカの決断は正しく、
そして崇高なものだと言えるでしょう。
実際、わたしもこの言葉に泣いてしまった人のひとりでした。

しかし、逆に言うと、このナウシカの考え方は、今のわたしたちが追い求めてきた理想としての
「自然の摂理に逆らってでも、より長く、より健康に生きたい。」
「そして自分たちが犯した過ちは、自分たちの科学と技術で正すべきだし、人類にはそれができる力がある。」
という傲慢さや驕りとは、まるで正反対のところにあるはずです。

いま、かつてない事態に直面している私たちの中で、あのラストを読んでナウシカの真意を理解し、
自分たちを含めた人類の行いを振り返ることができた人が、どの程度いたでしょうか。

そしていま、新たにナウシカの原作を読む人たちは、自分たちこそこの作品で描かれた
「旧人類の末裔で、腐海という自然と共に生きる人々」そのものであるという自覚に至り、
それでもなお、彼女の決断に感動できるかどうか・・・。
正直なところ、私自身はそれに確信が持てません。

むしろ、今の社会の動きを見た感じだと、安易な自然保護や反原子力の方向性で解釈され、
その活動に利用されるのではないか、という危惧のほうが強いです。
それはかつて、王蟲と同じ名の教団が数々の物語を捻じ曲げ、自分たちに有利な解釈を与えて
信徒たちに「救済の神話」を吹き込んだときと、全く縁がないとは思えません。

私個人としては、原作のナウシカにおける結論は、救済の論理とは程遠いところにあると思います。
それは、人類はその過ちも含む世界の在り方すら「自然」として受容し、その穢れを背負ってでも
生きていかなければいけないということ。
確実な未来を求めたり、誰かの救いにすがるのではなく、不確実な世界の運命に身を委ねて生きていくこと。
そしてこうこうと輝く光ではなく、小さくても闇の中でまたたく光として生きていくこと。

しかし、ここで私の思考は袋小路に行き当たります。
これは理想論であり、実際にこういう行き方ができるのだろうか。
人間が知恵と欲望を自覚したときから、この生き方に戻ることは不可能ではないのか・・・。

だから原作のナウシカを読むとき、私は感動と共に苦痛を感じるときもあるのです。
これを読み、これに共感すればするほど、自分の、あるいは人間の本質とはかけ離れた理想が重たくなる。

そんな時、どれだけ生ぬるくお約束な物語と言われようと、もうひとつの理想、あるいは夢の世界としての
美しい結末が示される「アニメ版ナウシカ」の存在が、私の気持ちを少しでも和ませてくれるのです。

希望がなくなったら、やっぱり人間は生きていけないんじゃないか。
そのためには、やはり希望を語る物語が必要ではないか。

そう思うと、私にはどちらのナウシカも大切だし、どちらの物語も否定する気になれないのです。

その一方、ここまで重い業を背負った人類であれば、いっそ世界を敵に回しても生き残ろうとする
悪あがきの姿こそ、種としての生き様にふさわしいとも思います。
そして、そんな気分を最もよく反映し、がけっぷちに追い込まれた人間の反撃をオタク泣かせの表現で
痛快に見せてくれる作品こそ、私が偏愛するもうひとつの傑作アニメであり、「アニメ版ナウシカ」で
巨神兵出現シーンの作画を手がけた庵野秀明氏の初監督作品でもある『トップをねらえ!』なのです。

それゆえに、私の中ではこのふたつの作品はテーマも含めて表裏一体であり、そのふたつをあわせて、
ようやく「人類」という種の性質が揃うものである、と考えています。

また作品を構成するパーツを比べても、戦うヒロイン、人類の危機、環境が原因で引き起こされる不治の病、
巨大生物と人類の対決、そして巨神兵(ガンバスター)の登場と、多くの部分で重なるところがあります。

そしてなにより、トップのヒロインが宇宙で最初に乗るメカの愛称が「ナウシカ」(笑)であること。
これは『トップをねらえ!』が『風の谷のナウシカ』の影響を色濃く受けているという自己申告であり、
一方ではこれが『ナウシカ』へのアンチテーゼだという宣言ではないか・・・とも考えてしまいます。

ちょっと話がそれましたが、原作コミックで『風の谷のナウシカ』を読むとき、感動でひとしきり泣いた後に
ラストでナウシカが何を思い、何を犠牲にする決断を下したかを、改めて考えて欲しいと思います。
それからアニメ版を見ると、また違った見え方、感じ方があるかもしれません。

・・・もしよければ、その後に『トップをねらえ!』とも見比べてもらえると、さらにうれしいのですが(^^;。
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18 コメント

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Unknown (ななし)
2012-10-28 17:32:11
まさにその通りだと思います。
今IPS細胞が出てきて、巨神兵が生まれる日もそう遠くないと感じています。
とても感動しました
返信する
ありがとうございます (青の零号)
2012-10-28 19:46:34
ななしさん、コメントありがとうございます。
IPS細胞も人の使い方次第で、夢にも悪夢にもなる技術ですもんね。
そういう時に人々の考え方のベースになるのが、『ナウシカ』のような
深い洞察に裏打ちされた作品であって欲しいと、私も強く願ってます。
返信する
Unknown (ただのひも)
2013-08-16 14:39:57
もちろん、宮崎氏のアニメは好きです。その世界観が一番現れているのが、このナウシカ原作でしょうね。戦後日本の倫理観が色濃く現れている。物語は時代を超える。是か非かではなく、時代が変われば受け止め方も変わる。でも物語は生きている。
私は、石橋湛山の靖国神社廃止論を考えながらこの原作本を読んだので、墓所が靖国神社のようにも思えてきます。
今の日本の矛盾である憲法と自衛隊と靖国神社と天皇を並べて、これをいじることの難しさも感じます。
このままでいいのか?矛盾は力関係が均衡している状態であって、過渡的形態に過ぎない。強いものが圧倒することで解消される運命にある。
立ち止まることは許されないのですね。そして、受け入れることも。

返信する
ありがとうございます (青の零号)
2013-08-18 01:33:29
ただのひもさん、コメントありがとうございます。
フィクションと現実をどこまで重ね合わせて見るべきかは難しいところですが、
時代や場所を越えた共通の問題意識というのはあるかもしれませんね。

そしてどんな世界であれ、人が生き続ける限り、物語も生き続ける。
さらには時代ごとの読み手によって、後の世にも無数の物語が生まれていくのだと思います。

人と同様に物語も転生し、再生を繰り返していく。
私はアニメ版のラストを、そうした象徴としてとらえたいのかもしれません。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-09-14 04:15:36
はじめまして。
ナウシカは深いですね・・・。

大きなテーマである(と解釈してるのですが)人間の業と自然、というのは もののけ姫 でも示されているように相反するものなのでしょう。

けれど、それでも生きていかなければならないという事に帰結するのではないのでしょうか。
(生きねば、ですね)

私は劇場版999を偏愛しているのですが。
(原作は後付けで謎展開になっているので、あえて劇場版と限定します・・・)
鉄郎が作為的な永遠(機械人間になる)より、生身の人間でいる方を選んだというラストは旧人類が作った未来を否定したナウシカと共通点があるように思えます。

また突出した科学が招く怖さといった点が感じ取られる箇所が多々ありますが、否定ではなく提示、なんですよね。

主さまも救済の物語ではない、とコメントされてますがその通りだと思います。
答えを出すのではなく、個々への問いかけが多いからこそ支持され続けられている作品なのではないでしょうか。

世情不安な今だからこそ、余計に心に響くのかもしれない、とも思います。
返信する
「自然である」ということの変容について (青の零号)
2013-09-15 19:30:03
はじめまして、コメントありがとうございます。
劇場版999とマンガ版ナウシカの比較はおもしろいですね。

生身の身体が人類の自然な在り方であると考える鉄郎に対し、
ナウシカの場合は既に人類そのものが環境にあわせて改造された結果、
清浄な世界では生きられなくなっている。
このとき、彼らは鉄郎と機械人類のどちらに近いのかと問われたら、
つい考え込んでしまいます。

自然そのものが取り返しがつかないほど変わってしまったとき、
人類はどのような立場でそれと向き合うべきなのか。
かつて世界を滅ぼした科学技術を用いて自分たちを浄化するのか、
それとも変容してしまった自然をそのまま受け入れて生きていくのか。
これは否定や肯定といった答えではなく、ご指摘のとおり
永遠に繰り返される「問いかけ」なのだと思います。
だからマンガ版ではキャラクターも読み手も救済されないわけですが、
それゆえに読み継がれていく価値があるのでしょうね。

>世情不安な今だからこそ、余計に心に響くのかもしれない、とも思います。

私もそう思います。
さらに言うと、できれば教訓ではなく、いまある自分と世界を見つめるための
ひとつの鏡として、原作コミックが読まれて欲しいなーと願っています。
返信する
私はナウシカの行動を支持します (msakurakoji)
2014-05-19 13:29:34
多少論理はちがいますが,私はナウシカのとった行動を支持します。

ナウシカの生命観は「この星では生命そのものが奇跡であり,生命はそれ自体の力で生きるもの」であり,人間が自分の都合でそれをプログラムすることは生命に対する最大の侮蔑であると考えています。

ナウシカの時代の人間や腐海の生物は1000年前の人間が生命に介入して(生命の尊厳を損ねて)造られたものであっても,生命は自分たちのものなのです。

造物主が使い捨ての道具として造った王蟲は種全体で共有する高度な知性や思いやり,慈しみといったこころを持っており,腐海の動植物は全体で一つの生命体のようになっています。この素晴らしい世界を構成する動植物の多くを1000年前の造物主の命令通りに滅亡させてよい理由はどこにもありません。

ナウシカにとっては自分と同じ時代を生きている生物は腐海の生物を含めかけがえのないものです。現世界の生物の大半は浄化の時代を生きられないかもしれませんが,それはこの星が決めることであり,1000年前の人間が考え出したプログラムに従ってそれを絶滅させる計画に手を貸すことなどは考えられません。

ナウシカの生命倫理観からすると生命に介入するプログラムを破壊することは当然のことなのです。管理プログラムが消滅したあとにも浄化は進み,新しい時代は確実にやってくることでしょう。そのような大変化は地球上では何回も起きており,生命はその都度,自分の力で新しい環境に適応していきました。それが生命本来の姿ということです。
返信する
コメントありがとうございます (青の零号)
2014-05-24 19:34:25
msakurakojiさん、コメントありがとうございます。
シュワの墓所をつくったのも結局は昔の人間ですし、それもたかだか1000年前の存在と考えれば、
地球の歴史に比べるとちっぽけもいいところでしょうね。

墓所の主も人類も造物主なんて立派なものではなくて、地球が生み出した自然の一部を
自分たちの都合のいい道具へと作り変えた程度だと思います。

そうした自らの傲慢さに気づかず、かつての世界を復元しようとすれば、
人類はまた同じ過ちを繰り返すことでしょう。
返信する
はじめまして (遅めの昼休み)
2014-09-08 13:47:16
偶々、昨日漫画版を読み返したら、この記事を見つけました。
ラストの感想なのですが、幾つかの解釈が自分の中では混在しています。

一つは、この記事と同じで、現状肯定派(自然主義)vs変革主義(技術派)
の視点で、この視点での私の感想も記事と全く同じで、ジレンマも良くわかります。

もう一つは、種の幸せ(全体主義)vs個々の命の幸せ(個人主義)の視点です。
種の視点で見れば、地球環境と人類種の絶望的な状況を打破するために、旧人類は
腐海を作り、改造人類(ナウシカ達)を作り、墓所を作った。
でも、今を生きているナウシカや人々、蟲達は、将来、種としては何れ滅びるかも知れないが
個々が命の素晴らしさを感じることにおいては、何の問題も無い。
なのに、種の未来の為として、現在生きている命を利用し、混乱させ続けている
ことに対する怒りと破壊だったのかなとも思いました。
「風立ちぬ」も最近見たのですが、全体主義より、個人の意志/夢こそが生きることだという宮崎さんらしい主張とも受け取れました。

難しいけど、面白いラストですよね
返信する
俺は (ん~)
2014-09-18 02:10:11
わがまま糞女の話にしか思えない
俺があそこで生きてたら
小娘の勝手な判断で絶滅したくないし

わがまま つらぬいた後
私のせいで みんな絶滅するよ
って説明しないで英雄きどり
&みんな待ってるのに谷に すぐには帰らず
やっと帰ってきたと思ったら
森のイケメンと谷のみんなを捨てて
去っていく

まだ絶滅するまで
一緒に生活してくれるならいいけど
どんだけ わがままなの?
やりたい放題すぎ

正直 みんなの意見も聞かずに
勝手に ひとりの判断で絶滅って
マジキチ
吐き気がするぐらいの自己中

唯一 泣ける というか
名場面はユパの左手&死

蟲使いの蟲殺害
でもそこまでしても 絶滅です
返信する

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