Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

【お知らせ】日本SF大会に片渕監督が来場、上映会&トークと懇親会もあります!

2015年08月17日 | この世界の片隅に
劇場アニメ『マイマイ新子と千年の魔法』やTVシリーズ『BLACK LAGOON』を手がけ、
現在は2016年劇場公開予定の『この世界の片隅に』を製作中の片渕須直監督が、
8/29~30に米子で開催される「第54回日本SF大会《米魂》」に来場されます。

そこで今回は大会期間中に開催される片渕監督関連の企画について、ご案内させていただきます。

さて、当ブログにお越しの方には周知かもしれませんが、まずは監督の経歴紹介から。
片渕監督は宮崎駿監督の薫陶を受けてアニメ版『名探偵ホームズ』の脚本でデビューを飾り、
『魔女の宅急便』や『MEMORIES』といった名作で多大な貢献をする一方、
世界名作劇場『名犬ラッシー』では初めてのTVアニメ監督を務めました。

その後は満を持して劇場用アニメ『アリーテ姫』を発表。ヨーロッパ映画を思わせる陰影の濃い映像美と、
中世ファンタジーの世界に科学技術を無理なく溶け込ませたSF的設定は、目利きのアニメ関係者から
高く評価されています。
SF作品としての『アリーテ姫』について論じた文章では、氷川竜介さんがSFオンラインに掲載した
こちらのレビューが特に優れていますので、作品をご存じない方はぜひご一読ください。きっと見てみたくなると思います。

ちなみに当ブログの過去記事でも『アリーテ姫』を取り上げてますので、ついでに読んでもらえたらうれしいです。

続く劇場アニメ第2作『マイマイ新子と千年の魔法』では、はるか古代からの歴史がいまも息づく
山口県防府市を舞台に、昭和30年と平安時代という異なる時間に生きる少女の日常を交錯させつつ、
子供時代の楽しさと大人になることの痛み、そして未来への希望を高らかに歌い上げました。

そして現在はこうの史代先生のマンガ『この世界の片隅に』を原作とした新作劇場アニメを、
綿密な調査と徹底した現地取材を元に製作中。
原作の柔らかなタッチを最大限に生かしつつ、当時の様子を極限までリアルに再現しようとする
渾身の作業が続けられています。
そんな多忙な中を縫って、片渕監督がついにSF関係のイベントへとやってきます!

さて、今回は片渕監督に関連して、2つの企画が予定されています。

まずは大会内の企画として、8/29の10:30~12:00に分科会プログラム
「ある航時史学生の記」が開催されます。
最初に傑作アニメ『アリーテ姫』を上映し、その後に監督からお話を聞くという流れですが、
この『アリーテ姫』という作品、実は諸事情によりレンタルソフトが出回っていません。
つまりソフトを買うか上映会でしか見られないという、なかなかレアな作品なのです。

しかも今回は監督自らにお話を伺うことができるという大変に貴重な機会となりますので、
SF大会の参加者でアニメに詳しいと自負する方や、SFファンタジーにはうるさいぜと
豪語するツワモノはもちろん、アニメ作ってる人ってどんな感じ?と気になった方まで
ぜひ気軽に足をお運びいただき、貴重な映像とお話を楽しんでいただければと思います。

また「ある航時史学生の記」というタイトルでおわかりのとおり、片渕監督はコニー・ウィリスの
「オックスフォード大学史学部シリーズ」を読まれており、またその作品づくりの基礎的な部分は
ウィリス顔負けの調査と取材に支えられています。
そして『アリーテ姫』で遠い未来へ、『マイマイ新子と千年の魔法』では昭和30年と平安時代という
二つの時代へと降下してみせた片渕監督が、こうの史代先生の卓越した原作を得て、いよいよ戦時下の
広島・呉へと歴史的な降下を試みようとしているのが『この世界の片隅に』という作品なのです。

ある意味、これは日本版の『ブラックアウト』『オール・クリア』であり、今回の企画に参加する方は
ウィリスの2大作品に匹敵する歴史絵巻の誕生前夜に立ち会うことになる……とも言えるでしょう。
この新作についての最新の製作情報や、あるいは片渕作品の随所に見られるSFマインドの原点である
愛読書についてなど、普段は聞けない話が飛び出すかも。
個人的には「航時史学生というより、ダンワージー教授本人では……」という気もしてますが(笑)、
一学生の気持ちで歴史と向き合う片渕監督のひたむきな姿を、身近に感じていただけると思います。

なお、本企画は大会公式プログラムのひとつなので、ご参加にあたっては大会への参加登録と
2日分の登録料(2万円)が必要となります。これから参加を検討される方はご注意ください。


しかし『アリーテ姫』上映後のトークタイムだけでは、話す時間が足りなくなるのはまず確実。
というわけで、今回は夜の自主企画として「片渕監督を囲む親睦会」も開催します!

こちらは大会参加者でなくてもOKですが、参加人数を絞っての開催となりますので、
事前に主催者の「ooi@n_m」さん(@JDSDE214)にツイートするか、私のtwitterアカウント
@BitingAngle)へご連絡ください。
開始の目安は18時ごろ大会会場内に集合、18:30から米子ワシントンホテルで開催だそうです。
会費は当日清算で6千円程度を見込んでいます。(注:8/20に情報追加しました。)
親睦会の申込期限は8/23とさせていただきますので、お早めにお申し込みください。
その他詳細については主催者のooi@n_mさんにお問い合わせ願います。

ちなみに片渕監督は航空史を中心とした戦史研究家でもあり、「ギャラクティカ」の
熱烈なファンでもありますので、そちら方面の参加者も大歓迎です!

以上、日本SF大会関係の告知でした。皆様の参加を心よりお待ちしております。
合言葉は「8月29日に米子で片渕監督と握手!」
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劇場用アニメ映画『この世界の片隅に』公式支援サイトを開設、クラウドファンディングも始動

2015年03月09日 | この世界の片隅に
『夕凪の街 桜の国』や『ぼおるぺん古事記』で知られるこうの史代先生のマンガ『この世界の片隅に』が、
『アリーテ姫』『BLACK LAGOON』『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督によってアニメ化されると
このブログでもご紹介してから、早くも3年半が経ちました。
その後もさまざまなイベントで製作の状況が伝えられ、作品の舞台を訪ねる探検隊も実施されましたが、
具体的な完成時期等については明言されないままの状態が続き、この作品の完成を心待ちにするファンを
やきもきさせていたことと思います。

そして本日、アニメ版『この世界の片隅に』の公式支援サイトが、ついに開設されました!

今の時点では試作版の映像から切り出したカット写真や、この作品の説明が掲載されている程度ですが、
今後は製作状況や関連イベント等についての情報が随時掲載されていくと思われます。

イベントへの参加を通じて、片渕監督の原作に対する溢れるような愛情と、舞台となった広島や呉に寄せる
強烈な思い入れを知るにつれ、この作品は絶対にすごいものになるとの期待を日々強めてきました。
いよいよその期待が形になる第一歩を踏み出したことを、まずは喜びたいと思います。

その一方、この支援サイトは名前のとおり「作品の製作を支えてもらうための呼びかけ」の場でもあります。

本作のようなアニメの場合、いろいろな理由によって、いわゆる「商業的に厳しい」と判断されてしまうと
資金繰りが大変に難しくなります。
しかしアニメーション、特に長編アニメーションを1本作るためには、膨大な人手と時間が必要であり、
それを支えるための相当な資金を要します。

ここまでは片渕監督や作画の松原さん、浦谷さんたちの力によってこつこつと作業を進めてきましたが、
いよいよこの作品を世に出す段階に差し掛かったとき、ここから先は多くの人から支援を受けなければ
作り続けられないという状況に至りました。
今回開設された支援サイトでは、その支援をいただく手段であるクラウドファンディングについても
紹介されています。

アニメが日本の誇る文化であるとすれば、日本の一番暗い時代に明るさを失わず生きた人々の姿を
その土地も含めて丸ごと描こうとする『この世界の片隅に』こそ、日本アニメが文化たりえるか、
そしてアニメによって何が表現できるかについての試金石になると思います。

この作品が完成したら、日本アニメにとって、いや日本映画界にとっての大きな財産となるはず。
2015年の夏に予定通り公開されるよう、皆様の御支援をよろしくお願いいたします。
そして映画が完成したら、少しでも多くの方を誘って、ぜひご覧いただきたいと思います。

今後の情報については、当ブログでも随時お知らせしていきたいと思います。
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この世界の片隅に(このセカ)探検隊3 ~中島本町編~

2014年08月08日 | この世界の片隅に
7月27日に広島の中島本町で開催された「この世界の片隅に」探検隊3に参加してきました。

こうの史代先生のマンガ『この世界の片隅に』で幼少期のすずさんが海苔を届けに来て迷子になった場所、
そして周作さんと初めて会った場所であり、物語の最後に再び訪れる場所が、この中島本町です。
当時の広島では有数の繁華街であったこの町も、広島への原爆投下によって一瞬のうちに全てが失われました。
現在は広島平和記念公園として知られている場所に、かつては映画や喫茶店といった娯楽施設が軒を並べ、
夜はモダンなすずらん灯に明るく照らされた通りを多くの人が行き来していたのです。

今回はヒロシマ・フィールドワーク実行委員会とのコラボレーションにより、かつて中島本町に在住し、
原爆投下時は現地を離れていたため難を逃れた3名の方から当時のお話を聞いた後に、平和記念公園で
当時の町なみをたどりながら片渕須直監督に解説をしていただく…という2部形式で開催されました。

講演前に、広島平和記念資料館の東館地下1階で「この世界の片隅に」アニメーション版複製原画展を見学。






会場には約40枚の複製レイアウトが2枚1組となって展示され、それぞれのパネルに日本語と英語で
どんな場所を描いた物であるかのキャプションが添えられていました。
緻密に描き込まれた町のレイアウトは見応え十分。添えられたキャプションも絵を理解する助けになります。

なお、展示会場の先を曲がった通路には、原爆投下前と投下後の中島本町を建物屋上から撮影した比較写真の
大きなパネルが置かれています。
これを見ると現地の徹底した破壊のありさまがよくわかるので、『この世界の片隅に』の舞台を知る上でも
レイアウト展とあわせて必見だと思います。

レイアウトの展示を見終わった後に、第1部の講演会場へ移動しました。
100人くらい入る部屋はほぼ満員で、全体的に年配の方が多い感じ。
特に探検隊に参加しない全体の半分は、60~70代以上の方が8割くらいを占めているようでした。

まずは中島本町出身の3名の方から、お話を伺いました。

最初に話されたのは丸二屋商店の緒方さん、昭和3年生まれ。
化粧品や石鹸を扱う丸二屋は大正2年に堀川町(現在の広島三越の裏あたり)で創業し、
昭和5年に中島本町に移ってから、昭和11年まで同地で営業したそうです。
当時は粉ハミガキが主流だったけれど、やがて練りハミガキが発売されたというように、
お店で販売していた商品にまつわるエピソードなども、写真つきで紹介されました。


緒方さんは後に陸軍士官学校に入り、8/6は朝霞駐屯地にいたそうです。
この時、広島の状況を見てきた上官には「広島には何もない。帰る家がないと思え」と言われたとのこと。
東京大空襲も経験された緒方さんは「戦争はいけない。アメリカの責任は大きい。」と語っておられました。

続いて濱井理髪店の濱井さん、高橋写真館の高橋さんからお話を聞かせていただきました。
今回の語り手では最年少の濱井さんは昭和9年生まれ。当時は11歳の遊び盛りだったそうで、
中島本町で過ごした幼少期を懐かしく語ってくれました。

緒方さんと同い年の高橋さんは、実家の店を含めて写真館が4つもあったこと、豆腐売りや花売りの行商、
映画館の壁に穴があいていて人が覗いていた事など、当時の盛り場の雰囲気を生き生きと伝えてくれました。
当時は中島本町を取り巻く川を帆掛け舟が行き来しており、橋をくぐる時は帆をたたんでいたなど、原作で
すずさんが船に乗るエピソードに通じる話も披露されました。

こうしたお話のバックでは、当時の写真や再現地図などの資料が次々と映し出されましたが、これらはすべて
片渕監督が収集したデータを、監督自身が操作して映写していたもの。
事前打ち合わせはあったと思いますが、パソコン内の膨大なフォルダやファイルの中から話者の語りに応じて
次々と関連資料を見せていく監督の手際のよさには驚きました。

イベントで片渕監督が集めた資料の本棚が映し出されると、あまりの分量に観客から驚きの声が上がりますが、
映像を出す前に見えるパソコンの中もほとんど同じか、それよりも分量が多い印象です。
その中のどこに何があるかを覚えている片渕監督は、きっと並外れた記憶力の持ち主なのでしょう。

地元のお三方のお話に続き、片渕監督からは現在製作中の『この世界の片隅に』についてのお話がありました。
書き漏らした部分も多いですが、以下にメモした内容を写しておきます。
(文中カッコ内は聞き手による補足です。その他にも聞き取った範囲で意味が通りやすくなるよう、
 細部で内容を整理しています。発言そのままの記録ではないことをご了承ください。)

 (監督のイメージとしては)「まず世界があって、その片隅に女の子がいる。」
 この女の子のいる片隅を描くには、この世界を知らなくてはならない。

 原作のマンガには(背景等の)全てが描いてあるわけではない。
 よく「人物があって世界がある」というが、実は「背景」というものはないのではないか。
 単に世界のすべてがクローズアップにならないというだけで、(物語の都合上背景となってしまう物事にも)
 すべてに意味がある。

 何年か前までは広島に来たこともなかったが、(この作品のために広島に来るようになって)もっと大きな
 世界の中で、広島がようやくわかってきた。
 (そうしているうちに)中島本町を描くためのレイアウトが、中島本町を囲む場所まで広げて描かざるを
 得なくなってしまった。
 どこまで自分たちが知った気になっても、(物語の舞台を取り巻く世界が)それを許してくれない。

 原作ではヨーヨーが描かれているが、こうの史代さんが当時のヨーヨーブームを知らずに描いたとは
 思えなかったので、ご本人に直接聞いたところ「私は歴史に詳しくないので、最初に年表を作ったら
 ヨーヨーブームが出てきたので描きました。」とさらっと答えが返ってきた。
 (こういう原作を手がけるからには、アニメ化にあたっても相当に調べなくてはいけないということ。)

 いま写している中島本町のレイアウトでは丸二屋が出てくるが、この看板は丸二屋さんに話を聞く前のもの。
 その後に何パターンも修正している。
 (ここで同一のレイアウトで看板を描き直したものが何枚も映し出される。)
 アニメーションを作るのにそこまでする必要はないが、想像しないとその世界がどんなふうなのかが
 わからない。
 世界の形を知るよすがが、建物の形などになる。

 濱井理髪店のレイアウトは、濱井さんに話を聞きながらレイアウト修正をした。
 高橋写真館の向かいの建物は後にカフェ・コンパルになり、これが焼け残ったあとに新しい建物が
 増築されたのではないか。(高橋さんから「そのとおり」との指摘あり。)

 新相生橋は洪水で流された後の修理によって大正と昭和では手すりが違うとわかって、あわてて描き直した。
 すずさんの実家が海苔を作っているので海苔漉きの体験もしてみたが、東京と広島では漉き方や道具が違うと
 わかったので、簀巻きの材料をヨシから竹に変更したこともある。

 マンガの場合、白い部分には無限の可能性があるが、アニメではなにかを描かなくてはいけない。
 では何を描くか。
 たとえば原作の1コマに出てくる奇妙な道具が、広島の西半分だけしか使わない盆燈籠であることは、
 東京の人間にはわからない。
 原作を読むことが知的冒険であり、(その中で世界が)たまたま見えてくると、どこまでも見えてくる。
 その世界は現在までつながっている。

 アニメーションが自分たちの描いた世界をどこまで拡張できるか、これも自分たちの冒険だと思っている。


最後に片渕監督から「11月の広島国際映画祭で機会を与えられたので、その時には中島本町の動く絵を
お見せしたいと思っている。」との最新情報が伝えられ、イベントの第1部が終了しました。

第2部では広島平和記念公園に移動し、公園内に設置された説明板等を巡りながら「原作で少女時代の
すずさんが歩いた道」を、中島本町の入口にあたる本川橋から終点の相生橋までたどりました。

当時の写真パネルを見せながら、原作ですずさんが歩いたと思われる場所について説明する片渕監督。










「ここからは商店とかが続くにぎやかな場所なので、たぶんすずさんはこっちへ入っていって道に迷ったのでは」
といった、原作に出てきたシチュエーションについての考察もありました。

しかし実際に回ってみると、防府や呉の探検隊に参加した時とは決定的な違いを感じてしまいます。
それは、当時を想像させる地形や建物がこの場所には一切残っていないこと。

『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台となった防府では、映像に出てきたのと同じ形をした山を眺め、
新子たちが見たのと同じ国衙の石碑の前に立ち、千年前と昭和30年の時空を同時に感じられました。
呉ではすずさんが見下ろした海を同じ角度から見下ろし、すずさんが歩いた道ぞいに建つ蔵の前を歩き、
実在しない人物がいたはずの実在する場所を目の当たりにしてきました。

しかし、中島本町は爆心地から半径500m以内に位置していたため、原爆の投下によって
そこにあった町と人の全てが失われています。
そして戦後、この場所は住民が立ち退かされ、新たに盛られた土の上に平和記念公園が作られて、
かつての町の痕跡は公園内に設置された説明板だけとなりました。

だからここには当時の道もなく、建物もなく、人の生活の痕跡もない。
現地を回って説明を聞いても、その説明がいま見ている風景となかなか結びつかないのです。
すずさんがここを歩いたんだなという感覚が、自分の中に湧き上がってこないというか。

なんだか砂を掴むような、ここにあったはずの人の営みのすべてが拭い去られてしまったあとの
きれいになった場所に立っているような、ちょっと言いあらわせない無常感。
この身を切るようなつらさは、いままでの探検隊では感じたことがありませんでした。

平和記念公園の意義を否定するつもりはまったくありませんが、今回の探検隊で何よりも強く感じたのは、
公園化事業によって失われてしまったものの大きさかもしれません。
ああ、ここは本当に「戦前・戦中」を徹底して葬り去ってしまった場所なんだな…と実感することの痛み。

なお、この平和記念公園でデビューした建築家の丹下健三は、のちに東京オリンピック国立屋内総合競技場
(代々木体育館)や大阪万博会場、新東京都庁などを手がけていきます。
ある意味、この平和記念公園で始まった「戦前・戦中との訣別」が、後の丹下建築、そして高度成長期の
日本の姿を形づくっていったのではないか…そんな思いも浮かびました。

うろ覚えですが、かつて片渕監督は『この世界の片隅に』のアニメ化を手がけるにあたって、
「原作を読むと、戦中の暮らしが戦前とはガラリと変わったわけではないということがわかる。
 戦時中にも人々の変わらぬ営みがあり、変わらぬ喜びや悲しみがあったことを描きたい。」
 という趣旨のお話をされていたように思います。

戦前・戦中の人々の痕跡が失われた中島本町は、今回のアニメ化で最も描くのが困難であると共に、
この作品が挑もうとする「戦前から現在までを貫く人の営みを描く」というテーマを表現するうえで、
最もふさわしい場所でもあると思います。
片渕監督や浦谷さん、松原さんたちの今の苦労が、やがて作品として大きく結実することを信じながら、
こちらもじっくりと腰を据えてアニメの完成を待ちたいと思います。

探検隊の終了後は、完歩証がわりのアイスが配られました。

ちなみにアイスの下に置いてある扇子は、急ごしらえの手製です。
あの日から69年目の中島本町に、どうしてもすずさんを連れてきたかったものですから。

その後はコミケよろしく、急ごしらえの物販コーナーが開店。
片渕監督のサインもいただけるとあって、青葉のポスターやこのセカTシャツ、手ぬぐいなどが
次々と売れていきました。

ポスターが折れ曲がらないようにとバズーカのような図面ケースを背負ってきた猛者も多数。
ここにもファンの熱意を感じました。

次の販売は9/28に阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベント「ここまで調べた『この世界の片隅に』」を
予定しているそうなので、欲しい方はぜひ同イベントへお越しください。
今回の探検隊についての報告や最新の成果について、片渕監督や松原さんから直接聞けるかもしれませんよ。
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『ここまで調べた「この世界の片隅に」』第1回レポート(2013年12月23日開催)

2014年03月19日 | この世界の片隅に
2014年3月23日、新宿ロフトプラスワンにおいて、片渕須直監督の新作アニメ映画「この世界の片隅に」の
製作過程について、監督自らが語る『ここまで調べた「この世界の片隅に」』の第2回が開催されます。

このイベントを目前に控えて、2013年12月23日に開催された第1回の内容を振り返るため、
遅ればせながら当日メモしてきた内容をまとめたレポートを掲載させていただきます。

なお、あくまで聞き書きによる個人的な記録なので、内容の不備等についてはご容赦ください。
また、記事についてなんらかの問題がありましたら、コメント欄にてお知らせ願います。

出演者は片渕須直監督、作画監督の松原秀典さん、イベント主催者でアニメスタイル編集長の
小黒祐一郎さん。
ただし話の大部分は片渕監督による講義スタイルだったので、まとめ文も講義のノートみたいな
箇条書き風になりました。(読みにくくてすいません)

それでは、ここからレポートです。

【前半】

イベント冒頭、壁一面を占める本棚とそれを埋め尽くす資料が映し出されました。
そのほとんどが、呉の郷土史や警察史、消防史を含む「この世界の片隅に」のための製作資料。

片渕:最近は頼まなくても地元の古本屋が資料を送ってきてくれる。
   はじめは郷土史家だと思われてたみたい。

   (資料に)ないものは作って出すのか、なければ出さないかの選択をしなければならない。
   でも資料の中で必要な情報は1冊にひとつくらいしかない(そのため自分で加工が必要)。
   港に泊ってる船の時刻と位置まで調べて、それをExcelでシート化するとか。

   原作そのままのレイアウトだと、映画にするとき左右が足りないので、元の資料にあたることになる。
   江波が描かれたコマについて調べると、背景の松は当時もあったが、出っ張りの部分は戦後のものと
   わかったので、現地を見に行った。

   江波山の気象台については柳田邦男が書いている。
   近くにある高射砲を撃つ時、街を撃たないようにするのに困ったとのこと。

   (イベントを開催したのが天皇誕生日なのにちなんで)今上天皇の生まれたのが、
   原作のプロローグの前の月にあたる昭和8年12月。
   
   すずさんの家があるあたりは、現在高速道路を建設中。
   すずさんが絵を描く場面は、江波山の上から見下ろしている。
   こうの史代先生は地図を見ながらマンガを描いたそうで、自分以外にも
   そういう人がいるんだと知って感激した。
   
   原作について調べれば調べるほど、腑に落ちる点がある。
   そして原作に描かれているのはけっして「片隅」ではなく、その裏に世界のすべてがあると気づいて、
   それに触れたいという思いが強くなる。
   (原作に描かれている情報について)知らないよりも知っていて描くほうが納得できる。
   こうのさんは地元なので、我々の知らない深いところまで知っている。
   もともと民俗学的な発想を持っている人。

   現地訪問4回目で松原さんに同行してもらった。
   広島のダマー映画祭で話す機会があったとき、作中に描かれた建物に手すりがあるどうかについて、
   1年前まではついていたことが判明した。
   すずさんが実家から海苔を売りに行った先は、中島本町にあった「ふたば」。
   どの橋を渡ったかを特定するため、江波から中島本町までのルートをたどってみたところ、
   相生橋ではないかと思う。
   この橋は上から見るとT字型をしていて、原爆投下時の目印にもなった。
   (ここで当時の写真が写される。確かにT字型。)

   中島本町の写真は見つかったが、平和記念公園になってしまって面影はない。
   1つだけ残っている当時の建物が大正屋呉服店で、今はレストハウスになっている。
   現地に行ったとき、作品と重なるものがあると、それを見た人が「この世界」と重ねられるのがいい。

   レストハウスはあまり寄ると原爆に耐えた姿が描ききれないので、いろいろと考えて今の(原画の)
   アングルに決めたが、そうなると(原作に出てこない)周りの建物も描かなければならない。
   でもよくわからないので、今度はそのための資料を探す。
   
   古い地図で隣の店が大津屋であることは特定したが、今度は店の写真が欲しくなってしまって、
   手に入ったいろんな写真で検証することになる。
   商工会人名録で電話を調べたら、この写真は違うらしいと判明したこともある。
   
   レストハウスに手すりのあとがあるので、いつついたかを調べ、手すりのついている写真を発見。
   当時小学生だった人に聞いてみたら、金色の手すりがあったとの証言を得たが、大正屋呉服店にも
   手すりがあったとの話になり、手すりを追加した。
   
   中島本町は(戦前の広島でおなじみだった)スズラン灯が最初についた場所。
   写真を見てスズラン灯を数えていると、道路にマンホールらしきものを見つけた。
   調べてみると実際にマンホールがあったとわかったが、その過程でマンホールマニアの方と
   知り合いになり、下水道史の本まで購入してしまった。
   おかげで杉並区のマンホールのデザインまでわかるようになった(笑)。
   (原作中には)出てこないことまでやってしまっている。
   
   写真を調べていて、ガラスに映りこんだ文字を読むためにPhotoshopで反転させたところ、
   大売出しの垂れ幕だとわかった。
   写真は個人所有のものも多く、中国新聞の編集委員の方が当時についていろいろ調べているが、
   権利等もあるので教えてもらえない。
   レストハウスになった大正屋呉服店のハッピは、現物が見つかった。

   原作の始まった時期は、12月の皇太子誕生のお祝いムードがまだ続いていたはずだが、
   当時の街の様子が検証できないので、少し前の12月22日の写真を参考にしている。
   (街のショーウィンドウに並んでいるマネキンについて)当時のマネキンは全て西洋人がモデルで、
   金髪碧眼に作られているので、戦争が始まると黒く塗りつぶそうかという話もあった。

   世界があって、その片隅にすずさんがいる。その周囲のうすぼんやりしたものが
   (いろいろ調査することにによって)クリアになっていく。

   原作のあるコマに、当時のヨーヨーブームについて描いてあるが、写真で調べることによって
   原作に近づけた感じがする。小津安二郎の映画にもヨーヨーが出てきた。
   (当時の写真を写しながら)天秤棒をかついで行商をしながらヨーヨーをするほどのブームだった。
   すずさんが欲しいものを思い浮かべる場面でヨーヨーが出てくる謎が、ようやく解けた。
   
   すずさんが欲しいものの中にキャラメルも出てくるが、当時は20個入りと10個入りがあった。
   こうの先生からは「これは20個入り十銭が3箱ではなく、10個入り五銭が3箱」と教えてもらった。
   映画でキャラメルを出すなら森永製菓に協力してもらうしかないと思っていたら、たまたま背景に
   森永の看板がついた建物の写っている写真が見つかった。

   原作の中に、既に多くの世界(の情報)が入っていて、それを紐解くとさらに世界が広がっていく。
   こんなにおもしろいマンガはない。
   (すずさんのいた)この街が確実にあったという感じ、その上に歴史が流れている感じがする。
   (原爆投下後に撮影された中島本町の写真を見ながら)彼女たちの実在を信じないほうがおかしい、
   確かにここにいたんだと思えてくる。その人たちの見ていた世界を描く。
   内容がわかればわかるほど、世界が広がるマンガだと思う。

松原:戦争の大きな事とすずさんの個人的なことが、等価で描かれている。
   原爆投下後の荒れ地を見ながらの会話。当時は日本中の状況がわからない。
   これは3.11の状況と似ているのではないか。
   こうの史代さんのバランス感覚がすごい。原爆が落ちてからその音が聞こえるまでに、
   すずは自分の身の振り方を決めなければならない、その運び方がすごい。

片渕:江波は爆風が来ているが焼けてはいない。
   (気象台では)キノコ雲の気象観測をやっていたらしい。
   8月7日にはNHK広島放送局が放送を再開し、電気も復旧している。

松原:そういうのは今も変わらない。インフラに携わる人がすごくがんばっているのに感動する。

片渕:『火垂るの墓』では火災時に消防車のSEがないが、本来ならガンガン走っていたはず。
   原爆で燃えた火事を消し止めた碑があると知り、つい広島県消防史を買ってしまった。
   当時の消防車は赤くない。
   原爆投下の一方で、警官が市民に罹災証明を発行している様子の写真もある。
   こういうことが、世の中の片隅、反対側にある。ここ2年くらい前に見た光景に近い。
   昭和20年の光景と(現在は)縁遠いものではない。いつこうなるかわからない。

ここで前半が終了。
休憩中には会場のロフトプラスワンが用意した、本日の特別メニュー「すいとん」の説明がありました。
これは片渕監督のオーダーで、原作に出てくる食事をアレンジしたもの。
(白玉もちが入っていたりと、当時よりは格段に豪華でおいしいものでした。)

片渕:本来は米を炒ってふやかした楠公飯を出したかった。
   (原作では)あまりおいしくなさそうなものを出すのもどうかと考えてやめにしたけれど、
   実際に作ってみるとなかなかおいしいので、話がちょっと違う。

   (すいとんの材料について)戦時中の小麦粉は今と違って、ビタミン補給のため「ぬか」を混ぜたり、
   イワシを粉末にした魚粉を混ぜたりしていた。
   でも味つけの醤油がなかったので、あまりおいしくなかった。
   ここで食べられるすいとんが、いかにしあわせなことか。

   白米も七分つきや五分つきとなり、やがて米が減って押し麦と大豆が主食になる。
   呉は海軍のおひざもとなので、これでも食糧事情は恵まれている。
   砂糖の配給タイミングを調べたところ、原作と事実が一致していた。
   昭和19年の正月には服、着物、酒などが配給されていて、まだ国民への気配りがあったとわかる。
   スイカは昭和16年から24年まで禁止作物だったので、原作でもヤミで売られている。
   マンガを読み始めて知的冒険になるとは思わなかった。

【後半】

片渕:原作に出てくるのり作りについて、松原さんと一緒に広島へ体験しに行った。
   広島の作り方は紙すきに似ているが、松原さんは改良の余地があると言っている(笑)。

   (ここで会場に戦前のおしろいを回し、当時の香りを体験)
   大正時代には既にサンタがいた。

   戦時中といえばモンペと防空頭巾のイメージがあるが、その服に切り替わった時期や、
   胸に名札を縫いつけるようになった時期を特定する必要があった。
   そこで当時の服装が映っている写真を集めて年代順に並べてみると、モンペを着ていない人が
   多いことがわかった。
   調べてみると、昭和13年頃には洋装化が進んだらしい。すずさんも登場時は着物だったが、
   やがて洋装に変わっている。
   でも洋装になったときも、妹は完全に洋服なのにすずさんは洋装の上から半纏を着ている。
   ここからすずさんのすぐには変われない性格、周囲より少し遅れて変わっていく性格がわかる。
   
   女性の服装はモンペよりもズボンやスラックスが着用されていて、当時は男性用のズボンを改造した
   サロペットを履く人が多かった。ズボンの裾を絞って履くと、モンペのように見える。

   すずさんが持ち歩くバッグの取っ手は木製だが、このバッグは当時の写真にもよく出てくる。
   こうの先生はこういう点も調べて描いている。

   昭和18年に、文部省が女子生徒の服装をモンペに統一するよう決定し、
   19年までにモンペへの移行が進んだ。
   昭和18年の秋にはモンペ流行のきざしが見えるが、原作でもその頃からモンペを着るようになっている。

   昭和19年の4月から、胸に身元票(名札)を縫い付けるようになった。
   これは政府が敗戦と本土攻撃を意識するようになったから。(国民に被害が出ると想定しての措置)

   昭和19年9月には、女児の服装がモンペ化される。
   女性の服装もモンペやズボン姿となる。
   この頃に日本はマリアナ諸島を失い、本土空襲が現実的になった。

   昭和20年1月に大阪府警察局から、市民が正月にモンペを着ていないことについての
   注意喚起が出されている。
   こうした様子を見ると、人間はギリギリになるまで変われないのではないか。
   これは危機感が無いのではなく、そもそも人間とはそういうものだと思うし、そんな部分に共感する。

   アニメの絵コンテについては、平成24年に全部上がっている。
   その後、現地のロケハンに持ち込んで修正したりしているが、むしろレイアウトで
   修正したほうがいいだろうということになり、今はそうした作業を進めている。

松原:自分もマンガの絵を頭に入れたり、現地に行くと古い建物がちょいちょいあったりで、まだ勉強中。

片渕:当時の広島駅の様子も割り出してある。

松原:これが長い話で、これだけでイベント1回分ができるというもの。

片渕:大河ドラマなみ(笑)。(それだけ)ちゃんと作りたいと考えている。

松原:1日1回は(片渕監督の奥様でアニメーターの)浦谷さんに描き直しを頼んでいるけど、
   いつか大変なことになるのでは(笑)。

片渕:今は戦艦大和が見える位置を割り出しているところ。
   いっぺん手をつけると、浦谷さんがそれに沿って作業をしてくれる。
   11月に呉で開催された「艦隊これくしょん」のオンリーイベントにあわせて、
   (哲さんが乗っていた)巡洋艦青葉のイラストを描いてもらった。
   開催まで2週間しかなかったのに、浦谷さんはちゃんと描けてしまう。

小黒:普通ならメカ専門の作画担当が描くもの。

松原:自分がここにいるのは(NHKが製作したアニメPVの)「花は咲く」に、
   MAPPAの丸山正雄プロデューサーの声かけで関わったから。
   この仕事がおもしろかったので、「この世界の片隅に」でも何かできないかと頼んでおいたら、
   丸山さんからお呼びがかかった。でもまさか作画監督とは思わなかった。

片渕:「花は咲く」で担当してもらった原画パートでの芝居が、絵コンテを上回るほどよかったので、
   今度はぜひすずさんを描いてもらいたいと思った。

松原:監督から話を聞いて(いろいろ)わかってくると、思い入れが強くなる。
   実在しない人なのに、頭の中がすずさんでいっぱいになってしまう。このおかしな感覚。
   (代表作である)『ああっ女神さまっ』や『エヴァンゲリオン劇場版』とは絵柄が違うので、
   自分で描いてみたら(原作と違和感があって)ヘンな感じ。
   
   ひとつの絵柄をモノにするのに、早くても半年はかかる。
   頭の中で(絵柄が)できあがらないと、手から出てこないので、ちょこちょこと描いてみている。

片渕:広島から帰ってくる車中で松原さんと話したときに。
   (註:この時の経緯は『1300日の記録 第59回』に記載があります。)

松原:見ていてひっかかった事を片渕監督に聞くと、全部答えが返ってくる。
   実在しない人の話をまるで実在したかのように真剣に話しているのが、おかしな感覚。

片渕:空襲の写真を見ていると、このへんにずずさんがいたんだと思えてしまう。
   原作者のこうの史代さんも、同じように考えている。
   すずさんが実在していたらいまは80歳代。まだここで生きているのでは。
   こうした話をする機会をシリーズ化したいという思いがあったところに、
   小黒さんが場所を見つけてくれた。

松原:できればこうの史代さんをお呼びして、話を聞いてみたい。
   あと、浦谷さんの絵がうまくて(自分のほうが)困っちゃう。

片渕:戦時食を作る体験会を以前にやったが、またやってみたい。
   twitterで@kuroburueをフォローしてもらえば、今後もいろいろ情報を発信していく。

以上、ざっくりとしたまとめでした。

今回の話を聞いて、片渕監督や松原さんが進める作業の中身がよくわかりました。
それは「こうの史代先生によるマンガを一読者として読み解き、取材と資料によって現実と結びつけ、
そこからアニメによる表現として『この世界の片隅に』という作品を丹念に組み立てていく」という
気の遠くなるような取り組みです。

アニメ製作者すべてがこうした作り方をするわけではないし、これがベストだというつもりもありませんが、
この製作スタイルが原作と現地で起きた出来事に対する、最も誠実かつ真摯な姿勢であるということだけは
間違いないと思います。

こうした姿勢で作られる、アニメ版「この世界の片隅に」を、ぜひ原作のファンに見て欲しい。
そして可能なら、先行イベントである第2回『ここまで調べた「この世界の片隅に」』にも足を運んでもらって、
自らの目と耳でその製作過程を確認してもらえたらと思います。
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【イベントレポート】特別ゲストも登場!「この世界の片隅に(このセカ)探検隊」

2013年11月24日 | この世界の片隅に
こうの史代先生が原作マンガを描き、片渕須直監督がアニメ化を進めている『この世界の片隅に』。
その舞台となる呉の街と周辺部を、ロケハンで既に何度も足を運んでいる片渕監督の話を伺いながら
実際に見て回ろうという企画が、「このセカ探検隊」です。

既に防府で実績をあげている「マイマイ探検隊」の手法にならったものですが、呉では初の試み。
防府とは地理条件等も違うので、実現にあたってスタッフがかなり苦労されたんじゃないかというのは
実際に回ってみて感じたところです。詳細についてはあとで触れますが、本当にお疲れさまでした。

さて、当日朝は大和ミュージアムの駐車場に集合です。

片渕監督の背後にそびえるのは、大和も使用していた九一式徹甲弾のダミー。
そういえば防府の国衙跡にも、日露戦争の砲弾(こっちは本物)があったなぁ・・・。
ちなみに監督の影になってる方は呉市の観光課長さんだそうで、後ほど丁寧な御挨拶もいただきました。

まずは呉の港について、昔の写真を見ながらの説明。

ちょうどこの方向から見ると、大和の建造ドックが見えたはず。

その後は観光バス2台に分乗して、灰ヶ峰の展望台を目指します。

こちらは海上自衛隊呉教育隊の正門前。潜水艦実習なども行われます。


上に見える煉瓦づくりの建物が、旧海軍の呉鎮守府庁舎。

現在は海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎として使用され、毎週日曜日に一般公開されています。
ここと道路を挟んで斜め向かいには、周作さんが勤めていた軍法会議(軍事裁判所)がありました。

歩道橋の向こうに見える緑色の外壁は、呉の名物「メロンパン」の本社だそうです。

しかしこの「メロンパン」、呉に行くたびにいつも売り切れで、実物は見たことないんですよ・・・。
こっちで言うメロンパンとは見た目も味も全然違うそうなので、いちど食べてみたいんですが。

市街地を抜けて、いよいよ灰ヶ峰を登っていきます。


こちらは灰ヶ峰にある、大正時代に造られた平原浄水場の低区配水池です。

市民の飲み水を供給するために作られた施設なので、すずさんたちもここからの水を飲んでいたはず。
等間隔に出ている突起物は換気塔で、地下が配水池になっているそうです。
地下の様子が気になる方は、こちらに写真がアップされています。

ちなみにここは煉瓦づくりの大きな排気塔が有名ですが、アングルが悪くてほとんど見えませんでした。
上の写真では、木の陰にちらっとそれらしきものが写ってます(^^;。

こっちは緩速ろ過池ですが、平原浄水場が今年3月に廃止されたため、水は抜かれていました。

これもまた、歴史の移り変わりを感じさせるひとコマです。

さらに山道をぐんぐんと登っていくと・・・。


呉の市街を一望できる高台に到着しました!


灰ヶ峰の山頂展望台から見た、呉市の全景。

原作マンガの新装版後編48ページに描かれたものと同じ風景が、目の前に広がっていました。

「見い 九つの嶺に守られとろう ほいで九嶺(くれ)いうんで」
「ほいで真ん中のんが灰ヶ峰 あのすそがわしらの家じゃ」

そう、ここは原作の最後で、周作さんがすずさんと共に見上げた山。
時代こそ違うものの、その山のてっぺんから、私たちは九嶺の街を見下ろしているのです。

なお、山頂と市街地の位置関係を示すと、こんな感じになります。

さすがに遠い・・・車を使わないと、来るのも容易じゃありません。

展望台から右手を見ると、その先には広島市が見えます。

なお、広島市への原爆投下で発生したキノコ雲の高さは、およそ18,000mと見積もられていますが
広島市から灰ヶ峰までの距離はおよそ19km。
なので、すずさんたちが広島市のキノコ雲を見た時は、ほぼ頭上を見上げる形になったのでは・・・
というのが、片渕監督による推論でした。

野球場と陸上競技場が見える一帯は、すずさんたちが花見をした二河公園です。

すずさんとリンさんが登った桜の木は、あの陸上競技場あたりに生えてたのでしょうか。

さて、いったん灰ヶ峰から市街地へ下りてから、今度はすずさんたちの家があったとされる住宅地付近へ。
直行ルートを使わないのは、すずさんが乗ってきたバスの経路を想定して走るためらしい・・・こ、濃いなぁ。

そしてすずさんが下車した辰川に到着すると、ここで特別ゲストが登場しました!

こうの史代先生、キター!
このセカ探検隊の初回ということで、今回は特別参加していただけるそうです!

そんなわけで、ここからは片渕監督とこうの先生によるダブル解説つきの探検隊となりました。

なんというぜいたくなイベント!参加者も大興奮!

こちらの家は煉瓦塀と軒下のべんがら塗りから見て、戦前からの建物と思われます。


べんがらには防虫・防腐効果があるため、昔から木材保護用として使用されてきた歴史があります。

なお、原作マンガでも描かれてますが、このへんはせまい坂道が続く市街地です。
ぶっちゃけ、あまり大人数でぞろぞろ歩くところではないんですよね・・・。

さて、今回最大の難所とささやかれていたのが、こちらの階段です。

すでにかなりの坂道を歩き続けた後に、これはちょっとツライところ。
しかしここを越えないことには、遅い昼ご飯にすらありつけません。これが探検隊の掟。

百数十段を黙々と登る参加者。なお、片渕監督とこうの先生は登っている最中にも談笑していたとか!


階段を登った後は、すずさんが周作さんと大和を見た場所のモデルになった場所へ。


港には自衛艦の姿が。たぶん、すずさんもこんな感じで利根や日向をスケッチしたのでしょう。

当時と違って、こうして写真を撮っても憲兵に引っ張られることはありません。
願わくば、これからもそういう時代がずっと続きますように・・・。

原作でもひんぱんに登場する、長ノ木町の旧澤原家住宅にある三ツ蔵です。


持参した新装版前編の158ページを開いてみると、まさにこのとおりの構図が!


こちらでも、こうの先生と片渕監督によるダブル解説を聞かせていただきました。


既に午後二時くらいになってたと思いますが、ここでようやくお昼ご飯。
おやつには呉名物、福住の「フライケーキ」も出ました。

こうの先生とはここでお別れ。探検隊は最後のひと踏ん張りです。

新装版前編の177ページに出てくる火の見櫓は、ここから見たものだとのこと。


なお、この火の見櫓は後編127ページにも登場しています。
ちなみに前日の懇親会で披露されたラフスケッチでは、こんな感じに描かれてました。

当時の呉市街におけるシンボル的な建物として、アニメでも頻繁に登場するのではないでしょうか。

ゴールの大和ミュージアムには「このセカ探検隊first! おつかれさまでした!」の文字が。

片渕監督もスタッフの皆さんも、ホントにお疲れさまでした!

さて、今回の探検隊を体験して感じたこと。
冒頭でも書きましたが、やはり防府と比べると探検隊には厳しい地理だなーと思います。
防府は比較的平坦で道幅もあり、住宅も道からちょっと離れて建ててある感じでした。
それに比べて、呉のコースは坂が圧倒的に多く、しかも道幅が狭くて住宅が密集しています。
行程がきついだけでなく、あそこを大勢で話しながら歩くのは、やはり地元にご迷惑ではないかなーと・・・。

また、住宅周辺がほぼ全て坂道なので、地元の方は車やスクーターを多用されているようです。
そのせいか、路地での交通量は防府よりも全然多いと感じました。
しかも曲がりくねった坂道なので、見通しもよろしくないんですよ。
防府のルートは車が来ても避けるのに十分な余裕がありましたが、呉の一部ではかなりギリギリでした。
今回事故が起きなかったのは、スタッフの配慮と参加者の声かけのおかげだったと思ってます。

次に探検隊をやるなら、現地調整はさらにしっかりと済ませておく必要があるかもしれません。
何かトラブルが起きて、地元でのイメージが悪くなったら元も子もないですからね・・・。
今回の探検隊がとてもよかったぶん、今後もイベントを続けていって欲しいという気持ちから
あえて気になる点を書いてみました。

まあ何はともあれ、防府から呉までの強行軍も無事に終了。
旧知の仲から当日初めての方まで、参加者の皆さんに励まされ元気づけられた3日間でした。

これからもマイマイとこのセカを通じて、もっとたくさんの人と交流したい。
そのためにも、一日でも早く『この世界の片隅に』を劇場で見られる日が来るよう願ってます。
出来上がった作品が、きっと新たな出会いを運んできてくれるはずだから。
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片渕須直監督、次回作は劇場用アニメ『この世界の片隅に』

2012年08月18日 | この世界の片隅に
『アリーテ姫』『BLACK LAGOON』そして『マイマイ新子と千年の魔法』という数々の傑作で
私たちに衝撃と感動を与えてきた、片渕須直監督。
その最新作として、こうの史代先生によるマンガ『この世界の片隅に』の劇場アニメ化が
いよいよ公表されました。

原作マンガについては、文化庁メディア芸術祭での優秀賞受賞や実写ドラマ化などで有名だと思います。
ちょっと空想好きで絵心のある女性の、第二次世界大戦という状況下における日常を描くことで、
過酷さを増す日々を生きる人々の小さな驚きと喜び、そして訪れる大きな悲しみと苦痛、さらには
その痛みを受け止めて生きることを力強くかつ繊細に描ききった、まさに「今の時代」を生きるうえで、
広く読まれるべき傑作です。

その傑作マンガを原作に、『アリーテ姫』の想像力、『マイマイ新子と千年の魔法』の日常感覚、そして
『BLACK LAGOON』の非情さを併せ持った片渕監督がアニメ化するとくれば、期待せずにはいられません。

特に、日常から非日常へ、幻想から現実へと行き交うヒロインの心理描写については、片渕監督以外に
描写できそうな人が思いつかないほど。
これまでの作品のテイストを受け継ぎながらも、また新たな世界と物語を紡ぎだしてくれるであろう
片渕監督の挑戦に、期待が高まります。

またこの作品は、長きにわたって片渕監督を支えてこられた、元マッドハウスの丸山正雄氏が
新たに設立した制作会社「MAPPA」の、第一回劇場用作品となるはず。
これまであまたの傑作をプロデュースしてきた丸山氏の手腕も、大いに注目されるところです。

そして『マイマイ新子と千年の魔法』という作品では、製作だけでなく宣伝スタッフの息の長い活動にも
大きな特徴がありました。

新作の『この世界の片隅に』では、マイマイで課題となった「スタートダッシュ」を克服しながら、
マイマイに負けないほど長く愛される作品になってほしいと思いますし、それを実現するためには、
マイマイ公開時の苦しさとその後の歩みを知る宣伝スタッフに、また力を貸して欲しいとも思います。

そして、この作品を本当に愛されるものとしていくためには、やはりファンの盛り上げが欠かせません。
とにかく多くの人に、しかも早くから期待してもらえるかどうかが、その成否を決めることになるでしょう。
そのために、私もできるだけ情報発信や呼びかけをしていきたいと思っています。

マイマイを通じてつながることができた多くの仲間たちのように、『この世界の片隅に』という作品から
また多くの人たちとつながることができることを、楽しみにしています。

最後に、去年のマイマイイベントでいただいた、こうの史代先生からのイラストメッセージを再掲。


これからも、よろしく!
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こうの史代原画展「夕凪の街 桜の国」「この世界の片隅に」

2012年02月12日 | この世界の片隅に
調布市文化会館たづくりで2月11日から始まった、こうの史代先生の原画展を見てきました。


まずは調布市文化・コミュニティ振興財団の公式サイトに掲載された事業案内をご紹介。

“手塚治虫文化賞や映画やドラマ化などでも注目を集めている漫画家こうの史代さんの2作品
 『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』の原画展を開催します。
  作者は、はじめ戦争をテーマとした作品を描くことに抵抗がありましたが、広島や長崎以外の地域で
 原爆を知る機会が少ないのではという思いから『夕凪の街 桜の国』を描きました。
  また『この世界の片隅に』では、原爆だけではなく戦争がもたらした様々な出来事を描きながら
 登場人物が「死ぬかどうか」ではなく「どう生きているか」に重点をおいています。
  両作品とも戦時という時代の中で、その場に生きた人々の生活が綿密に描きだされています。
  この原画展を戦争について考える機会とするとともに、フリーハンドでの描写やカラーの作品の
 色の美しさなど原画でしか味わえない魅力を存分にお楽しみください。”

イベントの冠に「調布市平和祈念事業」とあるとおり、展示作品は太平洋戦争を取り上げている
「夕凪の街 桜の国」と「この世界の片隅に」の2作品に絞られており、この事業のテーマ性が
はっきり示された内容となっています。


作品リストを兼ねて展示会場の順路図を配布していたのは、なかなかよい配慮でした。

稲城市の大河原邦男展といい、この手の展示会では資料を何も用意してない場合も多いですからね。

会場はたづくり1階の右奥にある展示室です。

入口の左には2012.2.10の日付が入ったサイン入りポスターと、ハトの絵入りサイン色紙がありました。
そして正面には「この世界の片隅に」上・中・下巻のカバー原画が勢ぞろい。

単行本のカバーでは二つ折りになっているイラストですが、こういう機会にじっくり見てみると、
こうの先生の筆致や色使いだけでなく、巧みな構図や各所に配置された小道具のリアルな描写など、
一枚の絵としても実に高い完成度でまとめられていることがわかります。

続いて生原稿の展示。こちらは描線だけでなくホワイトによる細かい修正、ワク外の書き文字など
原稿を構成する全ての部分が印象的でした。

「この世界の片隅に」の生原稿は、全45回のうち16回分の一部、計75枚。
どれもすばらしいのですが、中でも特に心に残ったものを並べてみます。

・第6回:すずが広島の市街を描くシーン(ここが右手を失った後の展開と呼応している)
・第7回:呉港を見下ろす見開き
・第8回:楠公飯の作り方(楠正成は画用紙に描いて、原稿に貼り付けている)
・第26回:米軍機の来襲(直前の見開きでは太陽のある場所から光源の補助線が引かれているが、
      太陽そのものは描かれていない。)
・第34回:爆撃で炎上する呉の市街と、それを見つめるすず
・第35回:失われた右手を見つめる見開き(原稿は台詞なし)
・最終回:ラスト6ページ分すべて(失われたすずの右手が、呉の街に再び色を与える)

なお、原稿はセリフが入っていない状態のものが多数を占めますが、いくつかの回にはそれを補うために、
完成したマンガから該当ページをコピーしたものが添えられていました。
さらに参考資料として、作中に出てきた五圓札や軍服、もんぺなどの実物も展示され、当時の生活を
生々しく感じることができます。

「夕凪の街 桜の国」は表紙と目次のカラー原稿が各1枚、マンガの生原稿が25枚。
目次のイラストは色使いも含めて、ゴッホの「星降る夜」を思わせるものがあり、こうの先生が
印象派から影響を受けているらしいことが感じられます。

「夕凪の街」の原稿は11枚。
皆実がおとみさんを歌う場面、原爆ドームの様子、姉の回想からラストシーンまでといった原稿が
展示されていました。

「桜の国」の原稿は(一)が8枚、(二)が6枚。
(一)からは連絡帳、凪生のお見舞い、東子との別れ、(二)からはバスでの七波と東子の会話、
旭のプロポーズ、そしてラストでの七波と旭の会話の場面が選ばれています。

サイン入りのポスターと色紙を含め、展示数は延べ110点。
広い会場ではありませんが、入場無料とは思えないほど充実した内容でした。
ただし、先にマンガを通読してから見たほうがより楽しめると思います。

こうの作品のファンだけでなく、マンガという文化を愛する人すべてにこの展示を見て欲しい。
そしてこれを機に、かつての日本と、これからの日本について思いを巡らせて欲しいと思います。

会期は2012年3月20日(祝・火)まで。開場時間は10:00~18:00までとなっています。
なお、会期中の2月25日(土)~28日(火)までは休館となりますので、ご注意ください。
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