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Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(2巻)感想

2011年07月29日 | SF・FT
『ダールグレン』2巻、ようやく読み終えました。

全体的な感想としては「文章の読みにくさは想像ほどではなかったけど、思ったより地味な話かも・・・。」
「性と暴力の魅惑を華麗に謳い上げた」という強烈なキャッチコピーのわりには、人もほとんど死なないし、
あんまりエロくもないですしねぇ(^^;。

さっと流して読むと「ヤマなし、オチなし、意味なし」に見えるので、むしろ「やおい小説の決定版」としたほうが
売れ行きが上がるかもしれない・・・少なくとも宣伝内容に偽りはないですし(笑)。
日本の「腐女子」の皆さんに、本当のハードゲイの世界を知ってもらうためには、最適な入門書かと思います。
王子様みたいな男子がくんずほぐれつする世界なんて、現実にはほとんどないですからねぇ(^^;。

まあ冗談はさておき、最後まで読み通して思ったのは「ああ、今回もディレイニーの自分語りなのね」ということ。
この人はどの作品でも自分のプロフィールが前提に来ちゃうから、芸風にややマンネリ感があるのは否めません。
特に『ダールグレン』の場合、刊行時はほとんど「同時代文学」だったから、SFとしてのカモフラージュも少なく、
いつも以上にムキ身のディレイニーがモロ出しになっちゃってます。

それでも「自分語り」がこれだけサマになっちゃうところは、複雑なプロフィールを持つディレイニーならではの強みでしょう。
ただしその強みが「常に自己言及から抜け出せない」という、ポストモダン文学ならではの弱さや甘えに見えてしまうのも、
彼の作品が常に抱えるジレンマと言えるかも。
まあそんなところも含めて、ディレイニーって気になる存在なわけでして・・・そこにシビれる、憧れるぅ!って感じ(^^;。

さて、翻訳前から話題となっていたオチの部分についてですが、ベローナ全体を「鏡の中の世界」と考えた場合は
「出る」すなわち「入る」ということになりますから、ちゃんと筋は通ってるなーと思いました。
まあ円環構造というよりは、作品自体が自己言及によって絶えず書き直しを行うことにより、物語も登場人物も
少しずつ変化しているということになるのでしょう。
例えるなら、ストーリーやキャストを入れ替えつつ延々と上演されていく舞台劇でしょうか。

そういえば、アメリカでは最近『ダールグレン』が舞台化されたそうですが、これを演出したジェイ・シャイブも、
同じような発想から舞台化を思いついたのかもしれません。
この上演の概要については、いつもお世話になってる究極映像研究所さんの記事に詳しく書かれてます。

S.R.ディレイニー『ダールグレン:Dhalgren』舞台化 Jay Scheib "Bellona, Destroyer of Cities"

ところで例の「赤目玉」ですが、あれは「アリス」の白ウサギの目もイメージしてるのでしょうか?
いまいち確証がないもので、ちょっと弱気になってます。
・・・まあ白ウサギなら「バニー」もいるので、むしろこっちが本命かなという気もしてますが。

それから『ダールグレン』のテーマのひとつと思われる「社会的・文化的なアイコンの変容」について。
この例として既に「ビートルズとマイケル・ジャクソン」を引き合いに出しましたが、さらに1969年の
「月面着陸」も、月がこれまでの神聖さを喪ったという意味では「アイコンの変容」に該当する事件です。
そして月(ルナあるいはディアナ)という女神を喪った地上に、その代替として現れたのが「ベローナ」という
新たな女神だとすれば、この街が「ルナティック(狂って)」いるのも当然のこと。
そこに宇宙飛行士のキャプテン・カンプ(モデルはたぶんバズ・オルドリン)がやってくるというエピソードも、
一種の皮肉めいたジョークかもしれません。
さらにはこの「地上の月」を観察するため、キッドたちが身にまとうのが「プリズムと鏡とレンズ」の複合体、
すなわち一種の「望遠鏡」である点も、なかなか凝った趣向ではないかと思います。

そしてベローナのギリシア神話における呼び名「エニューオー」の説明を調べてたら、こんな記述を発見。
「エニューオーは「都市の破壊者」の別名によって知られる・・・」(Wikipediaより)
なるほど、例の舞台劇のタイトル"Bellona, Destroyer of Cities"は、ここから来てるのかー!

次にベローナを象徴する「もうひとつの月」であり、ご当地で最も有名なセックスシンボルのジョージについて。
彼の存在は「マイノリティの抑圧されたエネルギーが、ポップアイコンと結びついて開放される」という形式を
人格化したものだと思いますが、これをポピュラー・ミュージックの主流が労働者階級のバンドであるビートルズから
ヒップホップ等のブラック・ミュージックへと移行していった過程と絡めつつ、表面上はまるで何事もないかのように
しれっと話を進めてしまうあたりに、ディレイニーのうまさがあると思います。

そしてこの過程の中で、フェミニズムやジェンダーも取り込んだ最新のアイコンこそ、この間来日したばかりの
レディー・ガガである・・・というのは、最近読んだ彼女のプロフィールやインタビューから感じたこと。
『ダールグレン』の中で密かに行われたマイノリティからの異議申し立ては、現実のポップカルチャーの中で
今も力強く受け継がれているのです。

これらはかなりわかりやすい例ですが、見えやすいテーマを物語全体から拾っていくだけでも、単なるヒッピーの
懐古話ではない『ダールグレン』の素顔が、かなりはっきり見えてくると思います。
まあやたらと社会批評寄りに読まなくても、「読むこと自体が大好き」という根っからの本読みの人であれば、
「意識の流れ」的な文章や随所にちりばめられた仕掛けを追うだけでも、十分に楽しめるはず。
現に玄人筋の本読みと目される舞狂小鬼さんさあのうずさんのレビューでは、かなりの高評価が出ています。

一方、読書によってなんらかの収穫を得たい(スリルとか発見とか教訓とか)を得たい人の場合、ある程度ムリヤリにでも
深読みしていかないと、2冊あわせて8千円も払ったモトが取れないことにもなりかねません。
(そんな私も、なんとかモトを取ろうと一生懸命読んでしまった一人ですが。)

特にSFらしい「センス・オブ・ワンダー」を求める人にとっては、結構厳しい内容ですね。
だっておもいきり端折ってあらすじを書いちゃうと
「混血の27歳ニートが荒廃した都市にやってきて、コミューンやストリートギャングの連中とつるみながら、
 小競り合いと爛れたセックスを繰り返す(その合間に詩を書いたら本になっちゃった)話」ですからね。
直感的に「この手の話はダメだ!」と思った人には、無理にお奨めしません(^^;。

(なんか冒頭に書いたのと食い違ってきたけど、まあいいか。ベローナでは常に物事が変化するのです。)

逆に怖いもの知らずや怖いもの見たさの人は、とにかくがんばって読むべし。
ひょっとしていままで誰も気がつかなかった、全く新しい発見があるかもしれませんよ。
もしも新たなネタを見つけた方は、ぜひご一報(つまりレビュー)をお願いします!

そういえばmsnの書評で、国書刊行会で「未来の文学」を担当する編集者の樽本さんが、こんなことを書いてました。

「アメリカ本国では70万部も売れたベストセラー。日本でもその100分の1くらいは売れてくれたら・・・」

70万部の100分の1ということは、7000部ですか・・・。
むかし「本の雑誌」のインタビューで「うちは3000部が採算ライン」といってたから、7000部売れれば
国書的には大ヒットですな。(しかも2冊刊行なので、両方売れれば倍の売り上げだし)
「未来の文学」のためにも、『ダールグレン』がいっぱい売れるように願ってます。
(そのわりには微妙な感想になってますが、一読の価値はあると思います・・・たぶん。)

最後に、サイバーパンクと『ダールグレン』との関連にまつわる、いくつかの補足事項。

「フリーミアムと匿名性によって支えられた社会は、既に現実世界ではなくネット上で実現している」というのは
1巻の感想で書きましたが、よく考えてみると『ダールグレン』の刊行後に大きく普及したインターネットによって、
いまやベローナという都市は全世界を覆いつくす「影の都市」となって君臨し、我々も気づかないうちにその街へと
出入りを繰り返しているようにも感じます。
そこでは皆が別の名前と別の姿になり、やがて元の名前と姿を取り戻して現実へと帰っていく・・・。

また『ダールグレン』の翻訳によってもうひとつ注目したいのが、21世紀の日本SFにおける
重要な成果のひとつである、飛 浩隆氏の『グラン・ヴァカンス』との関係です。

この作品はストーリーから小道具に至るまで、随所にディレイニーからの強い影響を受けていますが、
今回『ダールグレン』を読んでいろいろ考えていたとき、「ゲストが仮の生活を求めて一時的に滞在し、
放埓の限りを尽くした後に去っていく場所」というイメージが、『グラン・ヴァカンス』の舞台である
仮想空間上のリゾート「数値海岸」と重なることに気がつきました。

いまやベローナが仮想空間における「影の都市」になっていると考えれば、「数値海岸」とはまさに
その影の都市から生まれた、闇色の肌を持つヴィーナス(アフロディーテ)なのだと思います。
そして『ダールグレン』を意識せずに『グラン・ヴァカンス』が書かれていたとすれば、ひょっとして
飛先生は私たちが想像する以上に、ディレイニーに近い領域まで迫っているのかもしれません。
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サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(1巻)感想

2011年07月13日 | SF・FT
国書刊行会「未来の文学」第三期シリーズのスタートを飾る、サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』。
1・2巻同時刊行、併せて千ページというシロモノですが、ようやく1巻だけを読み終えました。
筋らしい筋がない話(というか、話ですらないのかも・・・)なので、読み進めるのになかなか骨が折れます、ふぅ。

まだ半分しか読んでないので断言はできないけど、ここまでの印象としては、ディレイニー版の「アリス」なのかな?という感じ。
なにしろ性別や人種といった(いわゆるアメリカ的な基準からすれば)既成の価値観がことごとく裏返しになっているところが
なんだか『鏡の国のアリス』を思わせるし、全編にばら撒かれた性描写には、言葉あそびの代わりに様々な性的プレイを用いて
物語を組み立てようとしてるんじゃないか・・・などと思わせるところもあります。
それに白ウサギとか怪物も出てくるし、日付の進行までバラバラになっちゃってますしね。

もし『ダールグレン』を「アリス」に見立てるとすれば、3章の「斧の家」でリチャーズ一家が延々と繰り返す
「街全体が崩壊しているのに、そこだけは普段と変わりがない日常を営む姿」は、鏡によって裏返しになった
「マッド・ティーパーティー」にあたると思います。
そこに迷い込むのが色黒で年齢不詳の“キッド”で、逆にリチャーズ家のメンバーに“金髪の白人少女”がいるのも、
様々な役割が逆転した「アリス」という感じでしょうか。
まあルイス・キャロルも特異言語感覚と偏った性的志向の持ち主だったわけで、今回のディレイニーが自分自身を
アリス=キャロルに見立てて『ダールグレン』を書いたと考えるのも、あんがい的外れではないのかも。

それにしても、自分向けの“ネバーランド”を作りたがる人というのは、どこかに性的志向の偏りがあるという
奇妙な共通項で結ばれているのでしょうか。
その点では、主人公の“キッド”という呼び名や、美しさと醜さが混在した容姿などに、ディレイニーと同じ黒人であり、
「キング・オブ・ポップ」というアイコンへと登りつめたマイケル・ジャクソンの姿が重なるようにも思えます。
結果としてディレイニーは『ダールグレン』を書くことによって、文学と音楽における二人のポップ・スターを
自分と重ね合わせてしまった・・・とまで言うのは、ちょっと煽りすぎですかね?

ポップスターといえば、『アインシュタイン交点』に続き『ダールグレン』でも、ビートルズがらみの人名が出てきます。
巽孝之先生の解説では(ここだけ先に読みました)ジョージ・ハリスンの名前が挙げられてますが、他の主要人物に
ジョンやポールといった名前があてられているのも、単なる偶然じゃないはず。
そして最後のビートルは誰かというと、その名前の由来に「ビリー・ザ・キッド」と「リンゴ・キッド」のダブルイメージを持つ
主人公のキッド(言い換えれば、ディレイニー本人)こそ、リンゴ・スターの化身なのでした。

もっとも、この作品で顕著な「ヒッピー文化とフリーセックス」が世界を変えるという考え方は、1970年代以降には
退潮を迎えるのですが、実はその文化的な土壌は1980年代以降に「ネット空間」あるいは「サイバースペース」へと
舞台を変えつつ、現在に至るまで延々と継続していると見なすこともできるでしょう。
例えばネットにおけるコミュニティの形や、仲間うちでしか通じない言葉遣いへの執着、そして集団内部での抗争まで、
それらはどこかしら70年代に挫折した“あの文化の記憶”を引きずり続けているようにも感じられます。

そして『ダールグレン』が「サイバー・パンク」の到来を告げる前兆のひとつであったと考えれば、この作品の序文を
ウィリアム・ギブスンが書いていることについても、ひときわ大きな意味が生じてくるはずです。

ところで、1巻の終盤でキッドの詩集「真鍮の蘭」の表紙見本が出てくるシーンについて。
ここを読んだとき、いま持っている本とSFセミナー合宿で見た束見本の記憶が一瞬の間にオーバーラップして、
なんだかすごく感動してしまいました。

これは前にも紹介した束見本の写真ですが、横から光に照らさないと題字が読めない表紙も、本編を読んだ後で見ると
また違った感慨があります・・・まあ中のページは黒くないし(むしろ真っ白)、挿絵も入ってないですが(笑)。

国書刊行会の樽本氏が自信ありげに「読んでもらえば、この表紙にした意味がわかります」と言い切った理由が、
今ではよくわかります。
うーむ、これからは敬意を込めて“コーキンズ・樽本”さんとお呼びしなくちゃいけないかも(笑)。

さて、これからがんばって残り半分にとりかからなくちゃ。
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SFマガジン2010年7月号「特集:伊藤計劃以後」

2011年06月14日 | SF・FT
SFマガジン2010年7月号で「特集:伊藤計劃以後」と銘打ち、伊藤氏に関する記事や評論と、
2010年代の日本SF界についての展望をまとめた企画が掲載されました。



今回は小説よりもインタビューや評論が多く、いわゆる「10年代」の日本SFを先取りするには
最適のガイドブックになっています。
ただ記事の構成がなんとなく「ユリイカ」っぽいなぁと思ったのは、私だけですかね?

ところで近年のSFマガジン7月号を振り返ると、2009年度は「追悼:伊藤計劃」、
2010年度は「メタルギア・ソリッド」、そして2011年度の「伊藤計劃以後」と、
この時期は必ず伊藤計劃氏にまつわる企画を持ってきてるのが興味深いところです。
2012年の7月号では、何が取り上げられていることやら・・・。

今号ではまず冒頭に『ハーモニー』がディック記念賞特別賞を受賞した直後に行われた
『伊藤計劃記録 第二位相』発刊記念トーク「いかにして伊藤計劃は作家となったか」が
まるまる採録されており、特集の大きな要となっています。

出演者4名の中で一番説得力ある発言だと思ったのは、伊藤氏と同じ創作者であり、また伊藤氏に
様々な側面で多大な影響を与えたという、ゲームクリエイターの小島秀夫氏。
伊藤氏と個人的な思い出話も興味深いのですが、何よりコメントから感じられる作品のとらえ方や
作者の資質に対する洞察力が格段に深く、やはり伊藤氏と最も近い場所に立つ人だと思いました。

伊藤氏がもう少し長く活躍して、小島監督と一緒にプロジェクトを立ち上げていれば・・・というのは、
今となっては夢でしかありませんが、今後も伊藤氏に続く才能を触発するためにも、小島監督には
今後一層の活躍を期待したいものです。
というか、前から何度も書いてる気がするけど、小島監督にはぜひとも『虐殺器官』の映画化を
実現して欲しいと思ってるのですが・・・。
(ただしゲームやCGメインではなく、あくまで実写ベースのSFX作品を希望します。)

ちなみに『ハーモニー』を映像化するなら、こちらは劇場用もしくはノイタミナ枠あたりでのアニメ化が
ちょうどいいかな、と思っています。
監督はダークで濃密な人間ドラマを撮るのがうまく、SFへの造詣も深い岡村天斎氏が第一希望。
『DARKER THAN BLACK』で登場する、合理的で感情を持たない「契約者」という設定は、今思えば
『ハーモニー』で描かれていた「人類の進化」が到達する姿と、どこか似ているようにも思います。

次点として推すのは、今や日本有数の有名アニメ監督になってしまった細田守氏です。
爽やかな印象のある細田作品ですが、実は作中に人間関係の歪みや秘められたエロティシズムを
さりげなく盛り込んでいる点について、もっと注目されるべきだと思いますね。
また、橋本カツヨ名義で脚本を担当したアニメ『少女革命ウテナ』では、百合やエロスをテーマに
TV的にかなりきわどい話を手がけてたこともありました。
理想を言えば、橋本カツヨ脚本で岡村天斎監督の『ハーモニー』なら、たぶん最強でしょう(笑)。

SFMの話題に戻って、もう一本の採録記事はSFセミナー2011で行われた「上田早夕里インタビュウ」。
当日話された内容が全部採録されているわけではありませんが、重要な部分についてはもれなく押さえた上に、
上田氏自らが何点か追記を加えていますので、公式記録としてはベストだと思います。
「SFが読みたい!2011年版」に掲載されているインタビューとあわせて読めば、上田早夕里という
いま最も注目すべき作家と作品をより深く知ることができるはずです。

あと個人的にウケた記事は、最近アンソロジーを編集しまくっている「日本のJ・ストラーン」こと
大森望氏へのインタビュー&本人によるエッセイですね。
話の締めくくりに、twitterなどでSF関係者の話題に上った星海社による「SF老人打倒宣言」への
皮肉まじりの返答を入れたところが、なんとも大森氏らしいところかと。

東日本大震災を受けた企画「3・11後のSF的想像力」では、自ら被災者となってしまった冲方 丁氏、
西日本から被災地へと足を運んだ小川一水氏、そして被災地と距離を置いて大震災を見つめようとした
長谷敏司氏による、今の日本とSFの在り方についての考察が述べられています。
立場の違う三者のエッセイを読み比べることで、震災以後への新たな視点が得られるのではないでしょうか。
少なくともこの3人が、それぞれ真剣に「災害とSF」に向き合っていることは、強く伝わるはずです。

他には評論が9本と「次世代作家ガイド」と称された期待の新人紹介ページが掲載されてました。
岡和田晃氏の『ハーモニー』論は、私とは異なる読みの部分もありますが、示唆に富む点の多い力作。
ただし、ややテーマを盛り込みすぎの感じもあって、視点が散ってしまったようにも感じました。
できれば内容を整理した上で、ぜひとも続きを書いて欲しいと思います。
それにしても、本文の中で紹介されていたピーター・ワッツの"Malak"は読んでみたいなー。
これを紹介した石亀渉氏のブログ「送信完了。」では、伊藤計劃氏の短編「The Indifference Engine」や
『ハーモニー』のディック記念賞ノミネートの話も取り上げているので、そのへんもぜひご一読を。

問題なのは後半の「小説外の想像力」と題された一連の評論で、正直なところこのへんが私にとって
今月のSFマガジンが『ユリイカ』っぽく見えた最大の原因です。
内容の良し悪しは置いといて、ジャンルの外側からSFを語るというやり方ってやっぱり古いなと思うし、
サブカルの文脈でSFを扱うなら、それこそ『ユリイカ』を含む各種の評論誌が立派に機能しています。
だったら、いまや国内に一誌しかないSF専門誌が取り上げるべき記事って、もっと他にあるんじゃないの?

例えば昨年の「はやぶさ」、そして今年の大震災プラス原発事故など、SFが扱ってきたテーマの数々が
最近になって次々と現実化し、世の中で大きく取り上げられています。
そんな状況なのに、なぜSFが社会あるいは現実への指標として、もっと注目されないのでしょうか?
そこをなんとか打破していかない限り、SFは21世紀になっても「若者の文学」止まりだと思うのです。

もう21世紀も10年たっちゃったことだし、SFもそろそろ「サブカル」に甘んじることはやめて、
現実の事象に対して向き合える文学ジャンルであるという「自己主張」を、もっと前面に出したほうが
いいんじゃないでしょうか。
特に「未曾有の事態」を扱うことについては、まさにSFの独壇場と言えるわけですし、こんな時こそ
日本SF界には一層の奮起を求めたいと思います。

これからのSFが目指すべきは、社会を斜めに見る「サブカルチャー」から、先に立って社会を切り開く
新たな視点を提示できる、いわば「コアカルチャー」とでもいうべき立場への転換ではないでしょうか。
そんな可能性を垣間見せてくれたのが伊藤計劃氏の作品であり、彼が切り開いたこの可能性こそ、
きっと「2010年代以後の日本SF」の在り方を左右する重要な鍵になるのだと思います。

最後はやや大げさな話になりましたが、このくらいはブチ上げないとつまらないですからねー!
星海社も「SF老人打倒!」なんて小さいことは言わず、もっとでっかい目標を掲げてもらって、
いっそブンガク界全体に挑戦状を叩きつけるとかして欲しいものですな(^^;。
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伊藤計劃『ハーモニー』感想

2011年06月06日 | SF・FT
今は亡き伊藤計劃による、星雲賞、日本SF大賞受賞の傑作『ハーモニー』。

先日のディック記念賞受賞と、SFマガジン2011年7月号の特集
「伊藤計劃以後」を受けて、改めてこの傑作を読み返してみましたが、
Jコレクション出版時と今では読後感も違うし、なにしろ世界そのものが
大きく変わってしまいました。
そんな中で思ったことを含め、いまの感想を率直に書いてみようと思います。

<etml:lang=ja>
<body>

『ハーモニー』を読んだとき、伊藤計劃はヴォネガットに似ているんだと思いました。

ミァハの持っていた本『特性のない男』はムージルの作品で、(読んでないけど)あらすじを見ると、
伊藤氏の作風に大きな影響を及ぼしているようです。
しかし一方で、私はこのタイトルにヴォネガット『国のない男』を連想しました。
(そしてここには『虐殺器官』のジョン・ポールの姿も投影されているはず。)

やさしさが世界をどう変えるかという認識と、そして虐殺行為への考察が
作品の原動力になっているという共通性。
さらに『国のない男』と『ハーモニー』が、共に著者の最後の一冊であるという事実。
もしもこれらの全てが偶然だとすれば、ちょっと出来過ぎと思うくらい。

文章から見ると、やはり小説とか文学とは異なる畑から育った人だと感じます。
例えば、伊藤氏に見えたはずの映像、撮ったはずの映画のノヴェライズを
本人が書いているような感触。
そして随所に出る引用や注釈めいた説明文には、映像で見せられないことへの
もどかしさが出ているようにも見えました。
絵でうまく見せられないぶん、変に饒舌になるような不自然さというか。

「etml」はこの作品における重要な仕掛けだけど、小説における文字情報として
必須であるとは思えませんでした。
これはむしろ「小説ではなくソフトウェア」という擬似的なパッケージとして
提示しようとした、伊藤氏ならではの戦略ではないだろうか、と。

少なくとも私は、伊藤氏は全面的に言葉の力を信じてはいなかったように思います。
あるいは、言葉に誠実に向き合った結果として、それを疑わざるを得なかったのか。
伊藤氏が言語表現に対するもどかしさ、あるいは限界性を探りながら書き進めた先に
「妥協点」あるいは「可能性」として見出したのが「etml」であったのではないでしょうか。

『ハーモニー』が見せる、ヒトと社会の出会う究極の臨界点。
そこで問われる、ヒトとは、生とは、幸福とはなにかという命題。
そして、ネットワークとweb2.0の先、ヒトの自由と民主主義の極限には何があるのか。
そこは天国に一番近い場所かも知れないけど、そこに住むのは天使だけであり、
穢れた身であるヒトの居場所はないかもしれません。
それは作中でもぎこちなく引用された『風の谷のナウシカ』の最終巻が示す世界です。
twitterとustreamが人々を結びつけ、facebookとジャスミン革命に希望を抱く世界に対して、
伊藤計劃は『ハーモニー』という途方もない爆弾を仕掛けていったのではないでしょうか?
“その先に待っているのは、本当に理想の世界ですか?”とでも言わんばかりに。

私たちが見ている、聞いている、知っている現実とは、本当に本物なのか?
その問いに対して、私たちは絶対に答えを出せないでしょう。
それは外部から、そして私たちの内部から常に操作されている「現実」だから。

いま、放射性物質がヒトに及ぼす影響がさまざまなネットワークを介して飛び交っています。
あるいは、生肉の安全性についての議論がそこかしこで繰り広げられています。
既に私たちは「絶対的な健康」を保証して欲しいと求める道にはまりつつあるのではないか。
既に私たちの「絶対的な現実」は、ネットワークによって四分五裂しつつあるのではないか。

そして多様な社会インフラと目まぐるしい流通経済、そして溢れる情報メディアに身を委ねなければ
日々を生きることすらままならず、いくつもの無料サービスを利用する代償に個人情報を切り売りし、
気づいてみれば自分の身一つではどうにも立ち行かなくなってしまった現代社会において、私たちは
とっくの昔に、「どこにもいなくなっている」のではないのか。

私も放射線は怖い。食中毒も怖い。そしてデマに踊らされるのも怖い。
でも一番怖いのは、「わたし」を知りつくし、そして「わたし」に一切の異論を許さない世界の到来です。
そんなルールを押しつけてくるのが国家であろうと企業であろうと、あるいはごく普通の一般大衆であろうと、
その本質には何の違いもありません。

もしそれを言葉にするのが不謹慎だと思われても、いまこの問題をリアルと切り離して考えることが
「わたし」にとっては一番不謹慎なことだし、それを言わせない社会こそ一番不謹慎だとも思うのです。

そして“世界”の押し付けがましい優しさに対抗するための「ささやかだけど、役にたつこと」の例として
作中に出てきたのが“ほどほどの悪徳”や“ささやかな反社会的行為”を自覚的に嗜むという行為でした。

これらは確かに、稚拙で未熟な行為に違いありません。
でもそれを完全にコントロールするということは、結局のところ人間を「健康と正常という名の全体主義」
というガス室へ送り込むにも等しい。
そこは人間性の「場5号」、またの名を「スローターハウス5」と呼ばれる部屋です。
そして5はローマ数字のV、そしてかのアラン・ムーアによる「Vフォー・ヴェンデッタ」の原点でもあります。

ムーアが描いたVと同じく、ミァハもこの部屋で“誕生”し、まず自分を、やがて世界を救おうとします。
しかしミァハの場合、その動機は復讐でもなく、愛でもなく、人間としての合理的な判断によるものでした。
そこにはもう人間の尊厳も謙虚さもなく、ただ冷え冷えとした峻厳な論理が、あたかも白い雪山のごとく
そびえるだけのように思えます。
・・・あるいはミァハの選択も、やっぱりひとつの「愛」の形だったのでしょうか?

ここまで考えてきて、ふと東京都の「非実在青少年問題」をめぐる問題を思い出しました。
この条例を推し進めようとした「良識者」は、人間をどれだけクリーンだと考えていたのでしょう?
そしてこの検討に加わっていたメンバーとその肩書を見るとき、私の頭にはカフェインの害について
婦人から糾弾されていた、霧慧ヌァザの姿が浮かんできてしまうのです。

「プライバシー」や「プライベート」が「わいせつ」と同義で扱われる世界。
そんな世界を作ってしまった罪と、それに対する罰。
そのとき人間の尊厳を省みなかったのは誰か。その責めを負うべきは誰なのか。
しかし責任者が誰であろうと、結局そのツケは人類すべてに回ってくるのです。

そして私にこんなことを考えさせる「SF」を読むということも、
きっと“ささやかな反社会的行為”のうちに含まれるのでしょう。

だったら、『ハーモニー』に連なる作品が書かれ続けるかぎり、
私はこれからもずっとSFを読み続けるだろうと思います。
そこにSFの、物語の、そしてヒトの持ち得る唯一の“尊厳”があると
信じられる限り、私はSFの可能性をあきらめたくないですから。

世界は不協和音で満ちているかもしれない。
でも、同じ音しか聞こえない世界にはいきたくない。
それはたぶん、世界が寂しくなっていくことと同じなのだから。

</body>
</etml>



こちらが2010/12/8発売のハヤカワ文庫JA。
いま書店で入手できるのは、ほとんどこっちでしょう。


こちらは2008/12/25発売のハヤカワJコレクション。
クリスマスという日付に、なにか運命的なものを感じます。

以下は関連書としてとりあげたもの(の一部)。


カート・ヴォネガット・ジュニアの遺作エッセイ『国のない男』。


そしてこちらは、ヴォネガットを代表する傑作SF『スローターハウス5』。
これが最初に邦訳されたときのタイトルが『場5号』でした。


私がアラン・ムーア3大傑作コミックと崇めるうちのひとつ『Vフォー・ヴェンデッタ』。
V様はロールシャッハと並ぶ、私の敬愛するヒーローです。
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SFセミナー2011レポート(その3)ミリタリーSFの現在&SFPWなど

2011年05月13日 | SF・FT
SFセミナーレポート、いよいよ最終回です。

・ミリタリーSFの部屋
最近ハヤカワSF文庫でガンガン点数を増やしている翻訳モノのミリタリーSFについて、
その手の作品に疎そうなSFセミナーの参加者に読みどころを教えます!的なトーク。
司会進行は堺三保さん、相方を務めるのは軍事評論家でSFマニアの岡部いさく先生です。

ちなみに岡部さんは、合宿企画の「30年目のラファティ」にもいらしてました。
押井守監督との対談くらいしか知らなかったけど、本当にSF好きな方なんですねー!

ペラ1枚のレジュメにずらりと並んだ80年代以降のミリタリーSFは一本も読んでないので、
正直なところ面白さについてはさっぱりわかりませんでした。
でも「海軍モノは出世すごろくとして読まれている」とか「昔ながらのスペースオペラが減って、
そのニーズを埋める形でミリタリーSFが一定の支持を受けている」という説明は、スペオペから
SFの世界に足を踏み入れた者として、かなり興味深かったです。
堺さんが例として示したのは「レンズマン・シリーズ」でしたが、自分がまず思い浮かべたのは、
A・B・チャンドラーの「銀河辺境シリーズ」ですね。
まあアレに関して言えば、野田昌宏大元帥の翻訳と加藤直之画伯のお色気たっぷりなイラストが
何よりも魅力的でしたが(笑)。

また、「海外では巨大ロボットに乗って戦うという設定が、なぜかほとんどない」という指摘は、
昔から自分も気になっていたところ。
日本では機械による身体能力拡張への指向が強いのに対し、アメリカSFではバイオ技術による
身体そのものの改変や超人化の傾向が目立つように感じます。
(だから日本以上に、ニンジャという超人的存在に人気が集まるのかも。)
このあたりは国家における戦争との関わり方、あるいは身体能力に対するコンプレックスの度合いが
大きく影響しているのかもしれません。
きちんと研究すれば、比較文化論としてもかなり面白くなりそうな気がします。

ちなみに個人的に大笑いしたのは「近距離ワープが可能な設定にしちゃうと、戦術面も映像面も
なんだかワケがわからなくなってしまう」という話題。
・・・うわ、それってまるっきり「機動戦士ガンダム00」へのダメ出しじゃないですか(笑)。

たしかにトランザムライザーの量子化は、あまりにチート過ぎてげんなりしたもんなー。
まああの作品は「21世紀のガンダム」というより「21世紀のイデオン」を目指してたみたいだから、
戦術もへったくれもなくて当然かもしれませんけどね(^^;。

・「SF Prologue Wave」発進!
小松左京賞とSF新人賞の休止に伴い、危機感を持った若手作家と評論家が主体となって
新しく立ち上げたウェブマガジンについての、ほとんどプロモーション的な企画。
登壇者は運営側から八杉将司、片理誠、高槻真樹の三氏、ご意見番として翻訳家の増田まもるさんと
編集者の小浜徹也さん、さらにビジュアル面で協力されたイラストレーターのYOUCHANさん。
司会進行はこの手の企画ならお手のものの大森望さんです。

たくさんの人が出ていたものの、船頭多くしてなんとやらの感がありあり。
他の企画に比べて、どうにもまとまりがなかったのが非常に残念です。
情報発信がしたいのか、とにかく書いたものを読んで欲しいのかがいまひとつ伝わらず、
若い書き手が危機感を感じているなら、もっと必死になってアピールして欲しい・・・と、
逆に先行きへの不安を強く感じてしまいました。
せっかく出てもらったYOUCHANさんの発言機会がほとんどなかったのも、もったいない話です。

最後でややグダグダな感じにはなりましたが、全体としては見どころ・聴きどころ満載で
大変に充実した内容だったと思います。
また物販コーナーでは、青心社さんが書店で手に入りにくいと話題の『翼の贈りもの』を販売し、
その横では「はるこん」スタッフの方がソウヤーの短編集用の紙箱をせっせと手作りしたりと、
小さいながらも和気あいあいとしたスペースになってました。

SFセミナー本会のレポートはこれで終了ですが、合宿では上田早夕里先生から直接お話を伺ったり、
巽孝之先生から「ダールグレン」の裏話を聞いたり、「30年目のラファティ」では限定小部数発行の
すばらしい小冊子をもらったりしました。

5月25日前後に前後編一挙発売予定の『ダールグレン』束見本。
大震災の影響で当初の予定と違う紙を使うことになったとか。
黒い表紙は本編に関係あるようですが、それは読んでのお楽しみだそうです。


巽先生の私物、ディレイニーの短編集の見開き。サインはもちろん、ディレイニー本人のもの。


限定51部のラファティ小冊子「長い火曜の夜だった」。
私のもらったのは15番のナンバー入りでした。背後は一緒に配られた未刊行作品の英語リスト。

そして深夜のお楽しみ企画「水鏡子さんを囲む部屋」。
ここでは伝説のSF評論家にまつわる数々の武勇伝として「詰襟少年SFクイズ全問正解事件」、
「面前罵倒事件」、「SF大会水遁の術事件」などが、本人立会いの下で多くの関係者により、
赤裸々に証言されました。
そして後半には、謎のSF女子も登場。並み居るベテランSF者を次々と打ち倒す・・・などという
壮絶な一幕があったような、あるいはなかったような(笑)。

とにかくめちゃめちゃ面白かったので、いい企画があればまた参加したいと思います。
主催者・出演者・参加者のみなさま、お疲れさま&ありがとうございました!
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ジーン・ウルフの作品が、中学の受験問題に登場したらしい

2011年05月12日 | SF・FT
海外SF読みの間で、世田谷学園の入試問題にジーン・ウルフの「風来」が出たことが
ちょっとした話題になってるようです。

“ どんな入試だったのか気になりますが、英語でなくて、国語の、それも中学の入試のようです。”
“ それだって、恐ろしいと思います・・・。”
(えんじさん「SFムーンストーン enziの日記」より」

いやまったく、ごもっとも。
難解と評判のウルフを、しかも中学の受験問題に使うとは・・・。

さらにこの学校、実は曹洞宗の仏教系。それがカトリック作家のウルフを使うというのは、
さしたる意味はないにしろ、なんとも興味深いものです。

問9の完全正答率ゼロってのは問題の難度の高さを示してると思うけど、合格者の部分正答率が
95%というのは、また別の意味ですごいと思います。
ここに合格する小学生は、部分的にでもジーン・ウルフがわかるということか・・・なんてこったぁ!

でもウルフという一般には知られてないだろう作家が、受験問題に出てくるのは喜ばしい話。
誰かWolfeWikiとかで海外にも紹介してあげたら、世界中のウルフファンからも喜ばれそうな気がします。

今回の出題を機に“受験に出るウルフ”とか“「風来」の次に読むジーン・ウルフ短編”とか出すと、
けっこう売れるかもしれませんよ。(国書さんに河出さん、ひとつどうでしょう?)
そして受験生がうんうん唸りながらジーン・ウルフを読む姿は、なかなかほほえましいと思います。

しかしその中から東大や京大に入った人が、次代の若島さんや柳下さんになる可能性もあると考えたら、
まんざら笑ってる場合でもないような気がしてきた・・・(^^;

しかし、誰が受験問題に「風来」なんてマイナーな作品を選んだんでしょう?
その先生を次回のSFセミナーにお招きして、ぜひとも裏話を聞いてみたいものです。

できれば「特講:小学生からわかるジーン・ウルフの読み方」とかやってくれないものでしょうか?
(そしてそれを収録した本が、そのまま受験対策本として売れるかも!)
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“乱視読者”見習いの、演習問題-ジーン・ウルフ「島の博士の死」

2011年05月11日 | SF・FT
「うわぁ、この物語はまるで砂糖漬けのオレンジピールを添えたチョコレートケーキみたい。
 小さいかけらなのに濃厚でほろ苦いけど、ステキな甘酸っぱさもあって、まさにオトナの味ね。」

・・・のっけから遠子先輩を下手にパクった書き出しは、らっぱ亭さんというSFのえらい人の影響です。
関係者及び“文学少女”シリーズのファンの皆さんには、大変失礼いたしました。
(ああ、らっぱ亭さんと水鏡子先生の出るラノベ企画が見たいな。あとラファティがらみの企画も。)

さて、私の乏しい味覚で「島の博士の死」のお味を表現するなら、冒頭のお菓子な文章が精一杯。
まあさすがにこれだけではなんとも手の施しようがありませんので、せっかく拝聴してきた若島先生の
立派な講義を手がかりに、この作品について自分なりの解釈を書いてみたいと思います。

というか、この「島の博士の死」という作品、短いながらもウルフらしさが全開という点では
「Sir Gabriel」と同じくらいにウルフ演習に最適な作品ではないか、とも思ってます。

あと、らっぱ亭さんの記事によると、ウルフ自身もインタビューでこんなことを言ってたとか。

“"島の博士の死"という小品を書いたことがある 。大好きな作品だが、いまだかつて、
 誰も気にも留めなかったね。”
(「とりあえず、ラファティ」2007/3/25の更新履歴より)

つまりこの作品、ある意味ではウルフ先生もお気に入りの話なのに、世界でもあまりネタになってない!
これはもう、とりあえず何か書いちゃったもん勝ちってことですよね!(・・・そんな調子で大丈夫か?)

さて、「島の博士の死」において注目すべき点を、以下に並べてみます。

1 初出が短編集「ウルフ群島」Wolfe Archipelagoであること(若島先生の言う「パラテクスト」)
2 “島”“博士”“死”という言葉の組み変えにより生まれた一連の作品の最後に書かれている
3 最後に書かれたにもにもかかわらず、この一連の作品が収められたウルフ群島の冒頭に置かれている
4 先に書かれた3作の主人公が“少年”“青年”“壮年”なのに対し、「島の博士の死」の主人公は老教授である

これらの要素から推測するに、ウルフは先の3作では書き漏らした「老年期の物語」を加えることによって、
人生のひとつのサイクルを「ウルフ群島」の中に再現しようとしたのではないでしょうか。

しかし、ここでなぜ「人生の終わりの物語」を、わざわざ冒頭に持ってきたのかという疑問が生じます。
ジーン・ウルフほど順番にこだわる作家であれば、普通はこれを作品集の最後に置くのではないか。
しかし見方を変えれば、この作品を冒頭に持って来るため、わざわざ「まえがき」の中に組み込んだと
考えられなくもありません。
ではなぜ、この作品を冒頭に置かなくてはいけなかったのでしょう?

「ウルフ群島」に収録された4つの作品を並べてみると、人の一生を網羅するために肝心な場面である
“誕生”の場面が欠けていることに気づきます。

私は、その“誕生”の場面こそ「島の博士の死」に隠されたもうひとつの神秘であり、これによって
「ウルフ群島」は本当に完結する(そして再び始まる)のではないか、と考えています。
そしてこの解釈において特に重要となるのが、男女二人の学生による9月の舟遊びの場面であり、
さらにそこから数えて約3ヵ月後にわかったという「ある奇跡」が何であるか、ということです。

若い男女が二人きりで離れ小島にいた間に、本当は何があったのか。
誰かが語ったことが「都合のいい真実」であり、「本当の真実」ではないかもしれないということは、
作中で登場人物たちが繰り返し語っていることでもあります。
これは裏を返せば、第三者のいない場所での出来事については、その真偽が不明であるということに
ほかなりません。
これっていわゆる「信頼できない語り手」というやつの典型例ですよね。

ここで気をつけたいのが、SFセミナーで若島先生も指摘していたとおり、物語が「現実」と「超現実」の
両面で読み解けるということ、そしてウルフが特に祝日に対するこだわりをもっているということです。
ウルフが作中で「クリスマス休暇」と明記しているのが、単なる事実の指摘ではないとしたら、ここには
「クリスマス」と関係のある何事かが起きていると考えてよいでしょう。

それまでの記述どおりに読めば、このとき二人が気づいた奇跡は「愛」でしょうし、これはこれで
(普通の意味では)見事な物語の終わり方であると思います。
しかし副次的な要素として、「クリスマス」が何のお祝いかまでを考慮して読んだ場合には、
そこに愛よりもさらに進んだ「男女の関係」を読み取ることもできるのではないでしょうか。

さて、若島先生の「Sir Gabriel」についての講義を思い返して、ここまでを現実的解釈とすれば、
これとは別の超現実的解釈をするにあたり、次の部分が大きなポイントになるでしょう。

・二人の学生が島に渡ったとき、なぜインスラ博士はガレージの中でボートに乗っていたのか。
・博士は、そのボートでどこに行こうとして、最後にはどこへ到着したのか?

これについては、クリスマスという故事にまつわる超現実的な要素を重ね合わせることにより、
自然と答えが出てくると思います。
つまりインスラ博士は、あの時やはり二人と共に島にいて、さらに今でも二人をつなぐための
「絆」として、共に在るのではないかと・・・。

・・・なんてことをいかにもそれらしく説明してきましたが、こういう読み方でどれだけ作品の中にある
真実に迫れるかという点については、正直言ってまったくわかりません。
なぜなら、最後の一節では登場人物自身が「人生」というかけがえのない本の「読み手」という立場に
置かれており、彼らがその本からどんな「奇跡」を読み取ったのかは、「島の博士の死」という作品の
読者である私たちには絶対にわからないように書かれているからです。

しかしこれを「物語として知らせるべき情報を明かさない、不親切極まりない小説」と斬って捨てるのは
ちょっと乱暴ではないかと思います。
むしろこれは「人生という物語に対して無数の“読み”を許すことにより、人生における無限の可能性を
肯定する」ととらえたほうが、若島先生が「デス博士の島その他の物語」について語った際に話していた
「人生そのものを肯定する物語」という解釈と、うまく一致するのではないでしょうか。

うまいことオチがつきませんが、まあ素人でも手持ちの材料だけでこれだけいろいろに読める、という
ひとつの実例としてお読みいただければと思います。
若島先生の言う「ウルフは決して難しい作家ではない」という意見や、SFセミナーで指南された読み方の
有効性についても、ある程度は納得してもらえるんじゃないかなーとも思ったりして。

確かにジーン・ウルフはとっつきにくい作家ですし、なんだか回りくどく書いてるところも多いですが、
読んだ後にしばらく経ってから「あ、あそこはそういうことか!」という発見に驚くこともしばしばあり、
ハマると結構癖になる書き手です。(それだけに、インタビューでのウルフのボヤキが信じられない)

若島教授の講義が活字になったら、それを片手にぜひ新しいウルフの作品を読みたいし、それを手がかりに
より多くの人にウルフを読むことの面白さを知って欲しいもの。
そのためにも、さらに多くのウルフ作品が優れた訳者によってガンガン訳されることを願っています。
(プロ翻訳家のあの人とか、ファンジンのあの人とか、候補者は山のようにいると思うのですが・・・。)

まあとりあえずは一刻も早く、国書刊行会から「ジーン・ウルフの記念日の本」が出てくれないかなぁ。
確か同じ版元で「Wizard Knight」も出るはずだし・・・国書さん(の編集の樽本さん)よろしくお願いします!
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SFセミナー2011レポート(その2)乱視読者の出張講義―ジーン・ウルフ編

2011年05月06日 | SF・FT
上田早夕里先生インタビューに続き、「SFセミナー2011」レポートの続き。
今回は若島先生による、アカデミックなSF授業の模様をお伝えします。

【乱視読者の出張講義―ジーン・ウルフ編】
若島正教授による、大学での文学講義の出張版。お題は自家薬籠中のジーン・ウルフ!

まずは若島先生の方針として、テキストを精読(クローズ・リーディング)するという「新批評」の方法論に倣いつつ、
それに留まらない読みとして、作品に関する副次的な情報も「パラテクスト」として用いるとの説明がありました。

要は「作中の情報を丹念に読むのが前提になるけど、献辞とか序文とか奥付とかサブタイトルとかにも
読み解きの情報が仕込まれてるから、そっちも見落とさないようにしましょう」ということですよね。
書物まるごとが仕掛けとなっているウルフの本を読むとき、この手法は非常に効果がありそうです。
(とか書いていて、おもいっきり私の解釈違いだったらすいません。)

さて、今回のテキストは「BIBLIOMEN」に収録された「Sir Gabriel」です。

左が1984年の初版表紙、右が1995年の増補版表紙。増補版では2篇増えているそうです。

この「ゲイブリエル卿」は、若島先生がSFマガジンの連載かなんかで「大好きな作品」として取り上げており、
後に『新しい太陽のウールス』の解説文でも紹介済み。今回の講義も、このへんがベースになっています。
なので講義の内容にちょっとでも触れたい人は、まず『新しい太陽のウールス』をお求めいただき、巻末の
解説文をじっくりお読みください・・・とか言うまでもなく、ウルフファンなら購入済みですよね(^^;。

とはいえ、今回は初版のCheap Street版と増補版のBroken Mirrors Press版の相違点に言及しつつ、
先の解説では書かれていなかった情報も追加されており、作品へのアプローチ度は大幅にアップ。
そしてこれらの情報を駆使しながら作品の核心へ深く斬りこんでいく若島先生からは、日本における
ウルフ解読の第一人者としての風格さえ感じました。






日付の記述から奥付の情報まで活用した読み解きにより、現実と超現実(実在と非実在)を行き交う
物語=人物としての「Sir Gabriel」について説明し、「なぜ彼は夢中になってその本を読んだか」
という問いに対して、「自分の出てくる唯一の物語=自分を肯定してくれる唯一の本に出会えた喜び」
というひとつの解答を示すまでの流れは、この講義における最大の見せ場でした。

そして最後に、同種の「自己を肯定する物語」として、若島先生が選んだ3篇が紹介されました。

ひとつめの物語は短編集「Starwater Strains」収録の未訳作品「From the Cradle」。

これは「自分の人生を予見する一冊の本に出会った男の物語」だそうです。

そしてふたつめの物語は、言わずと知れた傑作「デス博士の島その他の物語」です。

悲惨な境遇のタッキー少年が出会った一冊の本は、彼にとっての逃避場所となるだけでなく、
自分の生きる世界を魅力的に変えてくれるもの。
そして本の力によって、現実世界の「悪」が最も魅力的な存在へと変じて登場することが、
タッキーの人生そのものを肯定する物語としても機能している・・・という風な説明でした。
(このへんはちょっとうろ覚えなので、修正が必要かも。情報があったらお寄せください。)

そして第三の物語は、短編集『Wolfe Archipelago』の序文であり、本邦で独自に編まれた短編集
『デス博士の島その他の物語』の巻頭に収録されている「島の博士の死」です。

若島先生は基本的に邦訳を読まないので、これもセミナー前夜に原書で読んだところ、あまりの感動で
寝られなかったとのこと。
うだつのあがらない博士が若い二人に伝えた“奇跡”とは、読み手である私たちにも当てはまるものだと
みんなを感動させた後に、「島博士(Dr. Insula)」の境遇に自らの大学教授としての境遇を反映させた
爆笑ネタで締めるという名人芸には、もはや賞賛の言葉しかありません。

と書きつつも、「島の博士の死」には「また別の読み解き方」があるのでは・・・なんてことも思ったりして。
若島先生が今回の講義ではしょった部分に、この作品の重要なポイントがありそうな気がするのです。
そして、実はあの場面の裏では、あえて書かれなかった「ある出来事」が起きていたのでは?
…でもそこは「書かれていないこと」だから、精読の読み方には反するということになるのかなぁ。
周到な若島先生だけに、あえてその部分は触れずにおいたという可能性もありそうだし。

と、つい余計なことまで考えさせてしまうのが、ウルフ作品の底知れない怖さでもあります(笑)。

なお、この講義の内容もどこかの媒体で紹介される予定があるそうです。
きちんとした若島講義の全貌を知りたい方は、今後の情報に期待しましょう!
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SFセミナー2011レポート(その1)「上田早夕里インタビュー」

2011年05月05日 | SF・FT
「SFセミナー2011」に行ってきました。

数々のSF系イベントの中でも、特にディープなSFファンの集う場として知られるのが、
東の「SFセミナー」と西の「京都SFフェスティバル」。
私のようなヌルいSFファンは、行った途端に怖いベテランに尻子玉を抜かれるのでは・・・と
これまで避けてきましたが、今回は行きたい企画が揃っていたので、ビビりながらの初参加。
結果はおかげさまで、無事に合宿まで参加できたうえ、大変楽しい思いをさせていただきました。

長くなるので数回に分けてレポートを掲載。今回は上田早夕里先生のインタビュー編です。

【上田早夕里インタビュー】
傑作『華竜の宮』で2010年度ベストSFの国内第一位に輝いた上田早夕里先生をお招きして、
評論家の小谷真理さんによるインタビュー形式で進行。
小谷さんがいきなり『魚舟・獣舟』を「さかなぶね」と読んだときにはちょっと心配になりましたが、
さすがにこれは単なる勘違いだったようです。

以下、上田先生の発言を中心に要約してみました。
(記憶違いや解釈が誤ってる可能性もありますので、誤記がありましたらお知らせください。)

・海洋小説へのこだわりと『華竜の宮』
デビュー直後から海洋SFが書きたかったものの、構想が大きくて原稿千枚越えは確実とわかっていたため、
持ち込み先をどうしようか考えていたところへ「異形コレクション」から原稿依頼が来たので、このアイデアを
まず短編として書いて世に出そうと考えたのが「魚舟・獣舟」。
その後にハヤカワから何か出さないかと話が来たので「こんなのありますが出せますか」と聞いたところ、
OKが出て『華竜の宮』の執筆に至った。
なお、元になるアイデアノートは既にあったものの、原稿になったのはハヤカワの依頼が来てから。

・生物科学が一番好き
変態する生物が昔から好き。不完全変態よりは完全変態する生物のほうが好きなので、昆虫に興味がある。
人間はなぜ変態しないのか?ということがいつも頭にあって、それが作品に反映している。
(人と魚の双子というアイデアは?)和歌山で発見された海洋微生物「ハテナ」は、分裂するとき植物と
動物に分かれるというニュースを読み、これが大きな生物で起こったらどうなるかと発想したもの。
(小谷:魚舟は胎児が早く生まれた感じに近いのでは?)ちょうどそんな感じ。
そしてそういうものを産んでいる時点で、産むほうも既に普通のヒトではない。

・バイオ志向と進化に対する視点
(小谷:進化の方向性については、バイオ系とメカ系に大別されると思うが?)自分はバイオ系で、
「人間はこのまま変われないのか、変わるならどうなるのか」に関心がある。
現実で身体改造や遺伝子改変をするのは問題だが、小説で書くぶんには抵抗がない。
というか、それ(変化の技術と変化したヒト)がつくる世界を見てみたい。
それが書けるのはSFしかない。SFは針が振り切れていて良いもの。
遺伝子テクノロジーについては個人への罰という視点ではなく、種全体への影響という視点から捉えたい。

・宇宙進出と身体性
ヒトがギリギリ出て行ける限度が「火星」と考えて『火星ダーク・バラード』を書いた。
地球人にとっての庭の一番はじっこが「火星」で、木星まで行くと意識の段階が変わる。
(『ゼウスの檻』の両性具有について)両性具有の生物であるカタツムリが大好き。
生物が好きだと、意識や理念よりもまず身体構造に興味が行ってしまう。
小説の中の心理の見せ方についても、独白などで書くとウソくさく感じてしまう。
身体を動かす行動がそのまま心理描写になるのが理想。

・生物の気持ち悪さ
(小谷:獣舟は気持ち悪いが)生物ってのは気持ち悪いもの。
異形コレクションで書いて、ホラーという枠組みを使うと自分の思っていることがポンと出せるのに
初めて気づいたので、今後も続けて書いていきたい。
(「小鳥の墓」の執筆理由について)端的に言うと、実際の少年犯罪についていろいろ調べているうちに
「人を殺さないと自己表現できない奴がいる」ということに気づいた。
勝原みたいな子供(暴力で他者を支配するタイプ)は、実際にいる。DV男性や花村萬月作品のキャラに
良く出てくるタイプ。人工的な環境で育った人間の残酷さ。
(小谷:けっこう暴力とか平気?)書いてて楽しいわけではないが、結構好き。
それが世の中にあるのに、書くのを避けることはできない。

・ネゴシエーターと心のアウトソーシング
(小谷:日本には調整役が出てくるSFの伝統があると思うが)海外の作家なら組織の価値観が
もっと強く出るはず。日本ではネゴシエーター役の存在が大きい(司政官シリーズ、TV版日本沈没など)。
書くとき主人公はあまり意識しない。意識するとき、視点を固定するときは死の場合。
『華竜の宮』のアシスタント知性体は“心のアウトソーシング”で、青澄は誠実だが立派な人ではない。
(アシスタント知性体の)マキがいなければ、人としてとっくに潰れているはず。

・ヒロイン像と社会システム
(『華竜の宮』ヒロインのツキソメについて)ウワサはすごいが、会うと普通の人。
これは“男性的イメージのリーダーをやめてみたら、ゆるいつながりの社会でもいいのでは”という発想から
出てきたキャラクター。よくできた母親のイメージだが、本当の母親とは違う。
本当の母親の場合は“支配するもの”で、けっこう男性原理の存在。
作中に出したクダクラゲという巨大クラゲの場合、個体が繋がって群体化すると個体別に分業制をとる。
海で生きるにはこういう組織のほうが便利。
今までのピラミッド構造社会は陸上の発想で、コチコチに固まっている。

・『華竜の宮』で書きたかったこと、そして今後の予定
一般小説では哲学や心理を書くのがメイン。自分はもっと種としての人間を書きたい。
ペンギンの話を聞いたところ、群れの中にペアを作らない個体があって、それは外敵から群れを守るために機能する。
自分の兄弟姉妹の子供が生き残れば、自分の遺伝子と大差ない存在が受け継がれていくから、それでよいということ。
集団の遺伝子が残れば、個としての遺伝子は残らなくてもいいという点、そして独身者であっても生物学的な意味で
ちゃんと有用であるという点が面白い。
青澄を“ヌル”という設定にしたのも、これが理由になっている。

(『華竜の宮』の最後のセリフについて)「彼ら」とは誰を指すか、あえてわからないようにするために
この代名詞を選んだ。
これがヒトを指すか、地球上の全ての生命を指すかの捉え方によって、印象が大きく違うと思う。
(これから出る作品について)光文社で600枚の長編が出る予定。(SFではないが)自分の書くものなので、
生物がらみのSF色のあるものになります。


上田先生のお話は歯切れよく、インタビューへの応答も的確で実に聴き応えがありました。
そしてなんといっても、書くことへの真摯さと異形への愛情がびんびん伝わってくるのがすばらしい。

小谷さんの進行はテンポが良くて聴き易かったのですが、途中でお得意のダナ・ハラウェイを持ち出して
しきりにテーマ的な結び付きを強調した点については、やや空回り気味だったかな?
あと、私は上田作品のうち『ゼウスの檻』以外は読破してましたが、まさかそこを重点的に取り上げるとは
思わなかったので、こっちの思惑とのちょっとしたズレを感じるところもありました。
個人的にはもっともっと『華竜の宮』に触れて欲しかったところではありますが、改めて『ゼウスの檻』を
読みたくなったので、これはこれで良かったのかもしれませんが・・・。

なお、インタビューの完全版は近々「SFマガジン」に掲載されるらしいので、より深く知りたい方は
そちらの発売をお待ちください。

そして企画の終了後は、上田先生のサイン会が行われました。

念願の上田先生のサインを、手にいれたぞ!

今回はSFイベントということで、『ラ・パティスリー』などのスイーツ物についての話が
出ませんでしたが、次は舞台を変えて、ぜひSF以外のお話も聴きたいものです。
出版社および書店関係者の皆さん、ぜひ上田先生がらみのイベントを企画してください!

ただしスイーツ物のファンの前で「カタツムリが・・・」とうれしそうに話すのだけは、
さすがにやめておいたほうが無難かも(笑)。
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伊藤計劃『ハーモニー』米SF賞の特別賞を受賞

2011年04月23日 | SF・FT
アメリカのフィラデルフィアSF協会が選考し、アメリカ国内では最大のSF大会である
Norwesconで発表されるフィリップ・K・ディック記念賞にノミネートされていた、
伊藤計劃氏の『ハーモニー』が、本賞は逃したものの、審査員特別賞を受賞されたとのこと。
よしながふみ氏の『大奥』がティプトリー賞を受賞したのに続き、日本で書かれた作品が
またひとつ、権威あるSF賞を獲得しました。

伊藤計劃さんが遺してくれた作品が、いまや世界で認められ共有される物語となったわけで、
ファンの一人としては、その事実が一番うれしい。
英訳版を出版されたHaikasoruさんとVIZ mediaさんにも感謝です。
(VIZ mediaさんからは英訳版『大奥』も出版されてますね。)

伊藤作品では個人的に最も英訳して欲しい『虐殺器官』も、今回の特別賞受賞で
アメリカでの出版についての道筋がつくと、すごくうれしいのですが。
アレを読んだ米SF関係者の評価がどう出るか、それが楽しみでしょうがない。
いやー別に悪意じゃなく、当事者側からの感想が知りたいという意味ですよ(^^;。

さて、twitterで「究極映像研究所」のBPさんが『虐殺器官』アニメ化を希望していると
書かれてましたが、今あれを撮るなら押井守監督よりも、その弟子筋でいまもなお
世界を救う気まんまんの神山健治監督こそ適任でしょうね。
でも個人的には、クリストファー・ノーランの監督でハリウッドの技術を総動員した映像が見たいな。

さらに夢を語るなら、TVゲーム「メタルギア」シリーズで世界的に知られ、生前の伊藤氏と
深い交流を持つ小島秀夫監督こそ、『虐殺器官』の映像化に最もふさわしい人のはず。
小島監督がもし将来映画を撮るのであれば、ぜひご検討をお願いしたいものです。
ただし、作中で描かれた「肉体のリアリティと制御された現実認識とのギャップ」を
的確に表現するためには、オールCGよりも実写との併用が望ましいと思います。

それにしても、遺作となる『屍者の帝国』が完成しなかったのは重ね重ね残念。
設定といいテーマといい、あれこそ世界規格として世に問う日本SFになり得たように思います。
しかし「自分のいる世界のカタチ」を常に問い続けた伊藤さんのことですから、
自ら彼岸の住人となった今も、続きを書いているに違いありません。

未曾有の大震災と原子力事故に見舞われた今こそ、SFというジャンルの存在意義が
改めて問われているように感じます。
そんな時代に、伊藤氏から眺めた「生者の世界」がいったいどんな風に見えるのか、
直接聞けないのが本当に悔しいです。
そして伊藤氏の不在を埋めるためにも、SFの書き手と読み手がともに奮起して、
この時代を少しでも動かせるような作品を世に出していかなくちゃいけない。

だから今回のディック記念賞は、ここにいない伊藤氏から私たちに対して送られた
新たなエールということになるのかもしれません。

すなわち『Project Itoh』は、やはり今もなお着々と進行中なのです。



VIZ media版の表紙。
作者表記が「KEIKAKU ITOH」ではなく「PROJECT ITOH」なのが泣ける。


ハヤカワJコレクション版の表紙。
私にはこれが一番なじみ深いです。


2010年12月に出たハヤカワ文庫JA版の表紙。
文庫版『虐殺器官』と対照的に、白地に小さく簡潔なロゴを使用。
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ヒロシマをめざしてのそのそと(前編)

2011年03月06日 | SF・FT
SFマガジン2011年3月号に載った海外作品のうち、まだ読んでなかったジェイムズ・モロウの
「ヒロシマをめざしてのそのそと」を読了したので、感想を書きました。

実はこの作品、思いっきりタイトルを読み違えて「ヒロシマをめざしての“そのそと”」と思ってました。
“そのそと”ってなんだろう?と思ってたら、正解は「ヒロシマをめざして“のそのそと”」(笑)
せめて「ヒロシマめざして、のそのそと」とかにしてくれればよかったのに・・・。
まあ、読み違えたこっちが悪いんですけどね。

お話の舞台は第二次世界大戦末期のアメリカ。米軍は日本への決戦兵器として、原子力を利用した超爆弾と
トカゲ型の巨大生物兵器を開発していた。
しかし爆弾の開発はウラン精製の問題で遅れに遅れる一方、巨大生物兵器のほうはすでに3頭が完成ずみ。
米軍はこの巨大トカゲを日本に上陸させて降伏を受諾させようと図るものの、その凶暴さゆえに未曾有の
大惨事を生むことを危惧し、人道的見地から作戦を凍結。
代案として、日本側に人間サイズのトカゲ兵器による実演を見せ、戦意をくじく計画が立案されていた。

しかし小型版のトカゲ兵器は巨大版と違い、なぜかいたって温厚、かつ人なつっこい性格だった。
これでは日本をビビらせられないと考えた軍部は、トカゲ兵器にそっくりの着ぐるみを製作して、
こいつに日本人の前で大暴れをさせようと考える。
そして「中の人」として、ハリウッドでモンスター役者として鳴らす主人公に白羽の矢を立てたのだ。

最初はしぶしぶ参加を決めた主人公だが、見事なセットと業界有数のスタッフを見て、だんだんと
ノリノリになっていく。
そして何よりも彼の心を最もとらえたのは、ゴルガンティスと名づけられた怪獣の着ぐるみだった。
光る目玉に鋭い鉤爪、全身を覆うウロコと巨大な尾、そして炎を吐く口と、震え上がるような咆哮!
その完成度の高さが、モンスター俳優としての主人公の役者魂に火をつけたのだ。

個人用爬虫類装備(つまり怪獣の着ぐるみ)を身にまとい、見事な「のそのそ歩き」を披露する主人公。
これなら絶対に「中の人」がいるとは思われない!きっと日本は震え上がって降伏するだろう!
かくして前代未聞のプロジェクト「フォーチュンクッキー作戦」は、その幕を上げた・・・。


って、二本足で歩く巨大トカゲ怪獣ときたら「ゴジラ」しか思い浮ばないですよね(^^;

あらすじだけ見ればバカバカしいことこの上ないんですが、初代ゴジラの設定が水爆実験の産物であり、
また核兵器への警鐘として製作された意図も考えれば、「原爆の代わりにゴジラが開発されたら?」
という発想には、なかなか興味深いものがあります。
作中でも「核時代」をもじって「トカゲ時代」という言葉が出てくるあたり、作者もそのへんの背景を
十分わかったうえで書いてるはず。
また全編にあふれる映画、特に特撮モノへの深い愛情も、ユーモアの中に誠実さを感じさせるものがあり、
決して笑いだけを狙って書かれた作品でないと思いました。

そして何よりも泣かせるのが、フォーチュンクッキー作戦の監督を努める人物として登場するのが、
「フランケンシュタイン」を撮ったジェイムズ・ホエールというくだり。
世界で最も有名なモンスター映画を撮った監督が、もう一体の世界的モンスターを監督したら・・・
円谷英二監督には申し訳ないけど、この夢の組み合わせはやっぱり見たい!

これを国辱SFとか、ゴジラを馬鹿にしてると批判することは簡単ですが、むしろ「原爆」と「映画」という
極めてアメリカ的な文化に対する切り口として、日本が誇る大怪獣を持ってきた大胆さを評価して欲しい。
特に「ダイナメーションならもっとうまく撮れる」とハリウッド特撮マンに言わせておきながら、その意見を
わざわざ却下する一節に、作者の強烈な「着ぐるみ愛」が出ていると思います(笑)。
日本に関する描写にいくつも間違いが見られるのも、逆にリアリティを狙ったものではないでしょうか。
(とか書いておいて、実はモロウさんが全然ゴジラファンじゃなかった・・・なんてオチだけはイヤだなぁ。)

こんな感じで、先がとても気になる「ヒロシマをめざして“のそのそと”」ですが、今回は3回分載のうちの
まだ1回目。ふだんSFマガジンを買わない私にとって、あと2冊買うのはちょっとしんどいです(^^;。

単行本の発売が確実なら、そっちを待つんだけど。
でもモロウって、SFマガジンの掲載後は埋もれがちなんですよね・・・今度こそ書籍化なるか?
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『SFマガジン』No.660(2011年3月号)海外作品感想

2011年03月02日 | SF・FT
久々にSFマガジンを購入しました。(といっても、先月発売された号ですが・・・)
この時期恒例の「2010年度英米SF受賞作特集」そして中でもお目当ては、いま話題のキジ・ジョンスン。
収録作のうち、読んだものについての感想を書いてみました。(そしてメインはやっぱり『弧船』。)

【ピーター・ワッツ『島』】

ぶっちゃけてしまうと、宇宙規模な「ハイウェイ工事の立ち退き話」なんですよねぇ、これ。
一歩間違えると『銀河ヒッチハイク・ガイド』の焼き直しになりそうですが、さすがにそういう展開にはならず、
ファースト・コンタクトやAIの反乱、世代型宇宙船といったおなじみのネタを絡め、ガチのSFに仕立てています。

エイリアンの素性を筆頭にやたらスケールの大きな作品ですが、テーマ的にはそんなにでっかくない気がして、
やや食い足りない感じ。ひょっとすると私がオチを読めてないのかも・・・?
『2001年宇宙の旅』を含め、各所にクラークへのオマージュが読み取れる点は、解説文に同感です。

【キジ・ジョンスン『弧船』】

『島』を『2001年宇宙の旅』とすれば、こちらはさしずめ『エイリアン』。
ただし本編が終わったあと、もしリプリーとエイリアンが脱出艇に乗り合わせたら・・・とでも例えましょうか。

しかしこちらのエイリアンは知性の有無も生態も、そして形状すらも不明確なまま。
女性主人公はそんなエイリアンと、文字どおり「身体ひとつで」くんずほぐれつ渡り合うのですが、
その様子を表現するのに"Fuck"という言葉をあてたところが、本作のキモだと言えるでしょう。
邦訳ではこれを「性交」と書いてるけど、作品の意図や語感も含めると、やはりここは「ファック」で
押し通してもよかったのではないかなー。
この四文字言葉から受けるインパクトと、卑語ならではの力強さは『弧船』の大きな持ち味だと思います。

『弧船』とは、ある意味では"fuck"という言葉そのものについて語る作品であり、その言葉を実際の行為へと
置き換えたときに生じる「多義性」をも視野に入れて書かれた作品では・・・とも思ったりして。
そして物語の終盤、同じ人類である主人公とゲイリーが交わす「言葉」と「行為」の描写によって、
両者の間に横たわる意味のずれや断絶の深さ、そして種族の差異によらない「意思疎通の不可能性」が
まざまざと示される部分。テーマ的には、ここがひとつの見せ場でしょう。
これまでの描写をひっくり返す逆説を鮮やかに提示する手腕に、作者の非凡な力量が伺えます。

ストレートに読めば「エイリアンとの交渉を通じて、女性の性意識をあけすけに表現した」となりますが、
本作はむしろ物語の構図を極限まで単純化することによって、逆に社会の中で隠されがちな多くのタブーを
あぶりだしているようにも読めますね。
そして振り返れば、フェミニズム/ジェンダーSFとは、SFというジャンル内で常にそのような機能を
果たしてきたようにも思います。

また、作品を読むうえで忘れてはならないのが、どうあっても生き抜こうとする主人公の強い意志です。
手段を選ばずにひたすら生きようとする彼女の姿は、ぬるぬるぐちゃぐちゃな描写の続く作品にあって
人という生物の逞しさを保ち続ける「帆柱」のようにも思えました。

ちなみにこの『弧船』は触手SFか否か?という論争(笑)について、私なりの意見を述べますと、
これは触手ではなく、むしろ「呑み込まれ型共生SF」に分類されるべきだと思います。
その点を踏まえて比較されるべき作品を挙げるなら、フィリップ・ホセ・ファーマーの『母』が
最もふさわしいでしょうね。
全体に漂うつかみどころのなさと居心地の悪さという点では、キャロル・エムシュウィラーなども
連想されるところです。

どうとでも読めて、実はどれにもぴたりとあてはまらないのが『弧船』という作品。
でもそんな「どれにもあてはまらない」作品の拠り所となってきたのが「SF」というジャンルであることを
思い起こせば、『弧船』こそまさに「最もSFらしいSF」だとも言えそうです。

【カレン・ジョイ・ファウラー『ペリカン・バー』】

15歳の反抗期少女が施設に送られ、教育の名の元に受ける虐待/人格矯正(破壊)の顛末を、
乾いた文章で描いた作品。
その文章の淡々とした乾きっぷりが、逆に気持ち悪さを引き立たせます。

人格矯正のリアリティは凄まじいばかりで、呼んでいて胸くそ悪くなること必至ですが、一番恐ろしいのは
物語の終盤において、施設の外側と内側が「つながってしまう」ということ。
見方によっては、心の内側と外側の世界が入れ替わってしまったとも読めるところがあり、最後のセリフが
あとあとまでイヤな余韻を残します。
そして、人の尊厳を最も踏みにじる行為が「その人の心から一切の秘密を奪い去ること」であるという主題は、
いまや日本で最高のSFコミックとも言える清水玲子氏の『秘密』にも共通するものだと思います。

タイトルの『ペリカン・バー』は作中に登場する場所の名前ですが、登場する責任者のおばちゃんの目に
瞬膜があるのも、鳥の「ペリカン」を思わせる部分。
そしてこのペリカンが、西欧では母性愛の象徴とされている点にも、作者なりの皮肉が込められているのでしょう。

形は違えど、それぞれに「閉鎖環境」の物語であり、さらには「サバイバル」そして「戦い」の物語でも
あるという、今回の3作品。
これに巻末掲載の長編紹介や最近流行のゾンビテーマなどを重ね合わせると、21世紀とはまさに
「出口の見えない、現在進行形のディストピア」であるという「時代の気分」が見えてくる感じです。

そして21世紀におけるSFが、この時代を生き抜くための「ツール」として機能できるか否かも、
このジャンルの存在意義を左右する大きなポイントになるのではないかと感じました。
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国産SF描きおろしアンソロジー『NOVA2』感想

2010年08月13日 | SF・FT
河出文庫の国産SF描きおろしアンソロジー『NOVA2』を読了。
前置きは抜きにして、さっそく収録順にレビューしていきます。

●神林長平「かくも無数の悲鳴」
一読して「フムン」となった作品。
古典的スペオペの意匠をまとって、いま流行りの多世界解釈に風穴を開けてみせる手際に
「プロパーSF作家の矜持を見た!」と思いました。
難があるとすれば、話の分量に比べて説明的な文章が多いと感じるところかな。
でもこの説明過剰な語りも、神林作品の味なんだよね~。

●小路幸也「レンズマンの子供」
む、いきなりSF味のうすい作品がきたぞ。
ノスタルジックで心地よい作品だけど、アイデアストーリーとしては驚きが弱い。
例えるならライバーの短編から上澄みだけすくい取ったようなあっさり感で、
本家の持つ香気やコクのある文章が好きな私としては、テーマの扱いがやや
もったいないなと感じました。
ちなみに私もレンズマンは大好きですが、本作は期待したものとちょっと違ったかな。

●法月綸太郎「バベルの牢獄」
NOVA2に顕著な傾向のひとつである叙述トリックを駆使した、SF脱獄ミステリ。
本を牢獄に見立て、登場人物がいかにそこから逃れるかを追求したメタSFでもあります。

文章の対象性や反復描写を駆使して、物語の「外側」と「内側」を反転させていく手法を
完全に読み解けたとは思いませんが、超絶的テクニックであるのはわかったつもり。
形式が全ての作品なので、ストーリー性についてどうこう言うのは意味がありませんが、
書物への偏愛を示す作者の心意気には胸をうたれます。

●倉田タカシ「夕暮にゆうくりなき声満ちて風」
申し訳ない、これを文章として読む労力に耐えられませんでした。
アートとして見ればいいのかもしれないけど、NOVAにそれは求めてなかったわけで。
ちなみに大森氏の解説で「ゆうくりなき」は「ゆくりなき」と「ユークリッド」にかけた
造語とあったけど、むしろ「ゆくりなき」と「非ユークリッド」にかけた造語ですよね?

●恩田陸「東京の日記」
本書におけるマイベスト3のひとつ。ある外国人女性による、近未来の東京滞在日記です。

一人称の手記とくれば、まず思い浮かぶのがジーン・ウルフでしょう。
主観による情報から世界の実像を少しずつ見せていくウルフの手法に倣うごとく、
この作品も「書き手の見たまま、感じたまま」を描きつつ、改変世界における
異様な東京の姿を浮き彫りにしていきます。

日本的な情緒や風俗への愛着と、ディストピアの目に見えない圧迫感と居心地の悪さを
表裏一体で描き、「日本的なるもの」の正と負の面を等しく暴きだす手腕は、まさに職人芸。
作中で使われている単語に裏の意味がありそうなところも含め、恩田版「アメリカの七夜」
とでも呼びたくなる傑作です。

なお蛇足ですが、本作が横組なのは「英語で書かれた原文のママ」を意味するものであり、
従って第三者による改鼠は行われていない日記であると判断しましたが、いかがでしょう?

●田辺青蛙「てのひらの宇宙譚」
かつてオリオン書房ノルテ店のNOVA1トークショーで、責任編集の大森望氏いわく
「彼女はまだSFのなんたるかがわかってないので、NOVAに載せられない」
と言われた田辺青蛙氏の掌編5本が、いよいよNOVA2に登場。
いわゆる本格SFではありませんが、奇想系としては十分SFの範疇に入ってます。
私としてはなまじ論理性を備えている「邂逅」よりも、「喪主」や「三毛猫」のような
「なんだかわからないけど直感的にイイ」と思える作品のほうが好みでした。

●曽根圭介「衝突」
いくつかの断章によって語られる、人類壊滅までのカウントダウン。
語り手が何者なのかは早々にわかるけど、それが全て同じ存在なのかはわかりません。
そういう意味では、この作品も叙述トリックものですね。
人類を滅ぼすという「衝突」の具体的な説明がないのは意図的なもので、むしろ
作中に出てくる様々な「衝突」の形を象徴するタイトルなのだと思います。

ただし淡々と書かれるそれらの「衝突」の描写があまりに乾いていて、いささか
即物的に過ぎるのでは、との印象も受けました。
テーマ的には『虐殺器官』と通じるものの、その殺伐とした部分だけを写し取って、
あの傑作の内部に潜む哀しみの深さには届かなかった、という感じ。

●東浩紀「クリュセの魚」
火星、軌道エレベーター、オーバーテクノロジー、年上の非実在美少女(笑)と、
惜しげもなくSF的ガジェットを投入して、一生懸命がんばった作品。

その努力が伝わってくるにも関わらず、これをいまひとつ好きになれなかったのは、
作品のがんばりどころが舞台や社会システムの設定といった「物語以前」の部分に
大きく費やされているからでしょう。
このスタイルが「SF小説」として通用したのは、それこそ「古きよき」時代の話で、
今ではさすがに「美しさ」よりも「古めかしさ」を感じてしまうところがあります。

そしてこのSFらしい設定部分を抜いてしまえば、後に残るのはありきたりな
「ボーイ・ミーツ・ガール」で、いわゆる「女子と動物を殺して涙を誘う物語」の
同類項に過ぎないのが、なんとも残念なところ。
ヒロインの扱われ方についても、まさに「グウェン・ステーシー・シンドローム」の
典型に見えてしまって、可哀想よりもヒネリがないなぁと思ってしまいました。
(グウェン・ステーシー・シンドロームと「冷蔵庫の女」の問題については、
 こちらのダークナイト評に書かれている【レイチェルの愛】の項を参照。)

また批評家としての作者がこれまで研究課題としてきた思想や社会問題の要素が、
本作にも数多く取り込まれているのですが、それも世界描写における背景装置として
羅列されているように見えるのが、非常に惜しまれます。
むしろこの中のいくつかをテーマにして、より深く掘り下げた作品を書いたほうが、
より中身の濃い小説になったのではないでしょうか。
(その成功例のひとつが、この作品の後に収録されている「聖痕」だと思います。)

そして本作で一番興味深かったのは、「父親にとって、娘は永遠の恋人である」
という結論を、堂々とオチに持ってきているところ。
実は作者が一番書きたかったのは、この部分だったのかもしれません(笑)。

●新城カズマ「マトリカレント」
地上から水中へと生存の場を写した人々と、これに接触した人類との軋轢を描いた作品。
「NOVA2」の特徴として、異なる文明や存在同士の「衝突」をテーマにしたものが
多く見られますが、本作もそのひとつです。
確かにスケールは大きいけれど、逆に細部がはしょられすぎてなんだかよくわからず
話の流れを追っているだけのような物足りなさも感じました。

作中では地上人類に比べて平和な文明を営んでいるように描かれる水棲人たちですが、
その暮らしぶりがクジラやイルカとさして変わらないように見えるのは私だけですか?

●津原泰水「五色の船」
NOVA2収録作のうち、個人的ベスト1に挙げる傑作。
昭和初期の時代に生きる奇妙な見世物一座の物語を、凶事を告げるという異形の獣
「くだん」の逸話と結びつけた幻想譚にして、多世界解釈の物語でもあります。

人間が他者に対して感じる、異質なものへの排除心理と、その裏返しの興味。
そして異質である側の強い疎外感と孤独、さらに「特別な存在」としての自負を
余すところなくとらえた本作は、スタージョンの諸作品に対するオマージュであり、
またSFというジャンルが長年にわたり培ってきた「異質なものへのまなざし」を、
津原氏が確実に継承していると示すものです。

そして「くだん」の登場と、そのあっと驚く役割によって、本作は小松左京の名作短編
「くだんのはは」への見事な返歌ともなっています。
フリークを描いているのに読後感が清々しく、その中にも一抹の寂寥感を漂わせるのは、
津原氏の並々ならぬ筆力のなせる技でしょう。

●宮部みゆき「聖痕」
未成年による殺人と児童虐待、そしてネットにおける無責任な情報とカルト団体の隆盛。
いま最も注目される社会問題をテーマとして取り上げ、それに批評と分析を加えながら
読み応えある「小説」として練り上げていく手際には、もはや賞賛しかありません。
宮部みゆき氏は、もはや「和製スティーヴン・キング」の域に達しつつあるのでは?

殺人者の少年を救世主に読み替えることで、中盤から物語が劇的に変容していき、
遂には超現実的なクライマックスへと雪崩れ込むという仕掛けも、実に巧妙です。
そして最後に少年が選んだ決断が、イエスの受難とオーバーラップするところに、
本作における「聖と邪」に対する見解が凝縮されているように思えてなりません。

SFというよりはホラーとしたほうがよさそうな作品ではありますが、収録作中で
「五色の船」と頂点を争う傑作なのは間違いありません。
私的には僅差の2位ですが、これは読後の高揚感とSF度の高さによる判断であり、
あくまで好みによるものとお考えください。

●西崎憲「行列(プロセッション)」
今回のトリに置かれたのは、言葉の描写力とイメージ喚起力を重視した作品でした。
田辺氏の作品と同じく、なんだかわからないけどイイ感じ。
この前に置かれた「聖痕」の後味をいくらかでも和らげるための配置とも言えそうです。

●総括
「いまイキのいいSF書きたちに、短編発表の媒体を!」という戦略が明快だった
『NOVA1』に比べ、SFプロパーの作家がぐっと減った『NOVA2』から受けた印象は
かなり異なるものになりました。

確かに大御所ぞろいで一般文学ファンにもアピールできそうですが、見方を変えれば
一般文学でも十分食える作家に「あえてSFで書いてもらった」という感触もあり。
個人的にはSFプロパー作家にもっと活躍の場を与えて欲しいと思っているので、
今回はその点がやや弱いと感じられたことは、ちと残念です。

そんな中でも私が魅力を感じた収録作品は

「いま書かれるべき物語を、SFならではの切り口や手法を最大限に活かして書ききった」

と思えるものばかりでした。
「五色の船」「東京の日記」はその好例。「聖痕」はややホラー寄りですが、
ネット経由で○○○○神学が形成されていくあたり、なんとなくディックっぽいと
言えなくもありません。
逆に神林氏と法水氏は、このバラエティに富んだ顔ぶれの中で、各ジャンルの
スペシャリストとして、堂々たる仕事ぶりを見せてくれました。

まあ総括すると「やはりベストセラー作家はダテじゃない」ということですな。
小説の組み立てやテーマのこなれ方、そして言葉遣いといったレベルが格段に高い。
これらの点を加味すると、総合的なレベルでは『NOVA1』よりも上だと思います。

ただし全作品のレベルがおしなべて高かったかというと、必ずしもそういうわけでもなく、
むしろ全体のバランスでは『NOVA1』のほうが優れているかもしれません。
今回みたいになっちゃうと、さすがに大きな実力差を感じるところもあるわけで・・・・・・
この手のアンソロジーに大御所が揃うのも、バランス的に難しいものだと思いました。

『NOVA3』は冬ごろ刊行の予定とか。はたしてプロパーSF作家の巻き返しはなるか?
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浅倉久志先生、逝く

2010年02月16日 | SF・FT
TwitterやSF系出版社を中心にニュースが飛び交ってますが、海外SFの翻訳を通じて
現在の日本SF界とその周辺に多大な影響を与えた偉大な翻訳者、浅倉久志先生が
2月14日に亡くなられました。

Wikipediaや「翻訳作品集成」で浅倉先生の手がけた数々の翻訳作品を見ると、その仕事の
質の高さと驚くほど広い守備範囲、そして訳した作品の重要性に改めて気づかされます。

とりあえず有名どころを列記すると、まず長編では、
* コードウェイナー・スミス 『ノーストリリア』
* ジェイムズ・ティプトリーJr. 『輝くもの天より墜ち』
* フィリップ・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
              『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』
* ジョン・ヴァーリイ 『へびつかい座ホットライン』
* ジャック・ヴァンス 『竜を駆る種族』『魔王子シリーズ』
* A・E・ヴァン・ヴォクト 『スラン』『宇宙船ビーグル号』
* カート・ヴォネガット  『タイタンの妖女』
* ポール・アンダースン 『タウ・ゼロ』
* トマス・M・ディッシュ 『いさましいちびのトースター』
* ハリイ・ハリスン 『宇宙兵ブルース』
* マイクル・クライトン 『アンドロメダ病原体』

短編ではさらに傑作ぞろい。もうとても書ききれません。
* コードウェイナー・スミス 『スキャナーに生きがいはない』『アルファ・ラルファ大通り』
* ハーラン・エリスン 『世界の中心で愛を叫んだけもの』
* J・G・バラード  『ヴァーミリオン・サンズ』『溺れた巨人』
* サミュエル・R・ディレイニー 『スター・ピット』『プリズマティカ』
* ジーン・ウルフ 『アイランド博士の死』『アメリカの七夜』
* ジェイムズ・ティプトリー・Jr. 『接続された女』『たったひとつの冴えたやりかた』
* ジョン・ヴァーリイ 『プッシャー』『ブルー・シャンペン』
* トマス・M・ディッシュ 『降りる』
* ウィリアム・ギブスン 『クローム襲撃』
* テッド・チャン 『バビロンの塔』
* チャールズ・L・ハーネス 『時間の罠』
* デーモン・ナイト 『アイ・シー・ユー』
* ジョン・スラデック 『マスタースンと社員たち』

そして忘れがたい、R・A・ラファティの短編集たち。
『九百人のお祖母さん』と『どろぼう熊の惑星』は、もはやラファティと浅倉先生による
奇跡の合作であった、といってもよいでしょう。
ライバーの『ファファード&グレイ・マウザー』を、およそ30年がかりで全訳したことも、
SF/ファンタジーの両面で非常に大きな仕事でした。

これらの作品はどれも日本のSF読者にとっての宝であり、日本SF界の歴史を通じて
その血肉を創りあげてきた必須栄養素であったと思います。
2010年代の日本SFにおける大きな柱の一人である飛浩隆先生も、Twitterでつぶやいてました。

“浅倉氏は、ただ豊かな訳業を残されたされただけでなく、
「日本のSFを作った」ひとりとして銘記されるべきだろう。
 浅倉氏の仕事をたらふく食べることで、私は育てられた。
 たぶん、あなたも。”

私も浅倉先生の文章をずっと食べ続けて、ここまで生きてきた一人です。
浅倉先生の訳したSFを読めて幸せだった。あの訳文を知ることができただけでも
海外SFのファンになってよかった、と思います。本当にありがとうございました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。
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『NOVA1』トークイベントatオリオン書房立川ノルテ店

2009年12月21日 | SF・FT
オリオン書房立川ノルテ店で行われた「NOVA1トークイベント」に行ってきました。



思えばここは『蒸気駆動の少年』トークイベントで伊藤計劃氏を見かけた場所。
同じ場所で伊藤氏も載ってるアンソロジーのイベントを見るのは、何か複雑な気分です。
今回の出演は責任編集の大森望氏、収録作家の円城塔氏、そして未収録作家(笑)の
新城カズマ氏(さらに後半では津原泰水氏も参加)。

新城氏が『NOVA1』の原稿落とした話はトーク内でもえんえんとネタにされてましたが、
来年7月ごろに出る『NOVA2』にはちゃんと書く、と本人からの決意表明がありました。
今回の件で心を入れ替え、2010年は新人作家(!)としてSF再デビューを図るとか。
あと、刊行中の『15/24』は、後半に向けてどんどんSF度が上がっていくそうです。

さて、トーク冒頭では『NOVA1』誕生の経緯について、大森氏から説明がありました。
概略は本の解説でも書かれてますが、国産プロパーSFの短編を発表する場が少ないので
それを提供しようというのが発端であること、企画が持ち上がったのは今年の2月ごろだけど、
その時はSFマガジン50周年記念で日本作家特集が出ることを全然予想してなかったこと
(そのため、重複作家が多くなってしまった)などを話してました。
ちなみに円城氏によると、早川書房からは50周年企画について3月ごろまで何のビジョンも
示されなかったということで「たぶんその時は何も決まってなかったのでは」との話。

本邦初の企画ということで、今回のラインナップは大森氏とつきあいの深い方で、なおかつ
「原稿をボツにしても大丈夫そうな人」を基準に選んだそうです。
そして大森氏からはさらに、こんな裏事情も明かされました。

「この企画を通すにあたっては大物執筆者の名前が必要だったので、伊坂幸太郎や
 宮部みゆき、恩田陸あたりの“書いてくれそうな人”をバンバン出しました」

その後ウヤムヤのうちにこの3人には執筆依頼をしてあるそうですが、締切を守る宮部さんは
ともかくとして、仕事を請けすぎてる恩田さんは原稿を取れるかが非常に問題とか。
さらに山田正紀氏や神林長平氏にも書いてもらう予定ですが、山田氏の『イリュミナシオン』に
かなり厳しい評価をした大森さんとしては、その後に原稿を頼むのが不安だとも言ってました。

作品の並びは大森氏が決め、扉のキャッチフレーズは河出の伊藤さんが書いたそうです。
大森氏が京フェスでの紹介用に作ったキャッチフレーズもあったそうですが、『NOVA1』の
出版に際し、伊藤さんのほうで全部リリカルな調子に書き直してしまったとか。
特に「Beaver Weaver」に関しては、大森氏いわく「オレにはあの文章は書けない」(笑)。

そして表紙の猫は、何もないと寂しいということで西島大介氏が描いてくれた「NOVA猫」。
尻尾の先の黒丸は、どうやらノヴァを意味するようです。
ちなみに河出の伊藤さんは西島氏の現担当で『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』
登場した“切れ者編集者”ご本人らしい。

アンソロジーの後半に同傾向の作品が並んでいることについては、円城氏から

「これはさすがにいかんなと思った。今後のSFはもっと違う方向を目指さないと」

との感想が漏れて、これには場内大爆笑。
周りから即座に「円城さんがそれを言いますか」と厳しくツッこまれてました。

その円城氏の「Beaver Weaver」については、作中に出てくる車が(『少女革命ウテナ』の)
暁生カーみたいだ」との声があり、続けて“円城ウテナ”という名言まで飛び出す始末。
しかしあの作品から円城ウテナというネタが産まれるとは、さすがに予想できなかった(^^;。
そして円城氏は「もし言ってくれてたら、ちゃんとボンネットに乗せてたんですけどねぇ」と
ウテナを見た人にしかわからない(笑)絶妙な切り返しをしてました。

ところで円城氏は他のイベントでも拝見してますが、気配り・進行・ツッコミ・ボケに加えて
さらにイジラれ方が上手と、着々とトーク職人の境地を極めつつある気がします。
横で話を振られるのを待ってるのが惜しい芸風なので、今後はぜひ本人が進行を勤める
トーク企画などにも期待しています。

そしてトーク中でなにかと話題になったのは、田中啓文氏の「ガラスの地球を救え!」。
新城氏は「目配りが優しいです」、円城氏は「こういうのを書いてもいいんだと思った」
後ほど登場した津原泰水氏からも「SFにブランクがあって何を書くか不安だったけど、
これを読んで安心しました」と同業者に大好評。
ただし円城氏は「今後こういうのを目指そうよ」と周囲に振られて「いやいやいや~」と
必死に固辞してましたが・・・。

さらに新城氏は「新しい円城作品の方向性をみんなで決めよう、お題を三つ出そう!」と
かなりむちゃくちゃな提案。
なんだかんだで「婚活・陰陽師・父」のテーマを決められてしまった円城氏本人からは

「みんなで私の芸風をどうしようっていうんですか!!」

というナイスリアクションをいただきました。さすがは業界屈指のトーク職人です(^^)。

後半では『NOVA2』への収録が予定されている(というか、このトークの最中にいきなり
原稿依頼をされていた)津原泰水氏に加えて、お客さんに混じっていた「ゴルコンダ」の
斉藤直子氏、今月末に新作『魂追い』が出るホラー作家の田辺青蛙氏も紹介されました。
津原氏は終了後のサイン会にも出るという流れから、そのままトークへと参加することに。

ちなみに斉藤さんは「ゴルコンダ」に出てくる梓さんみたいに可愛らしい方です。
私の見たところ、まわりにはキラキラと輝く妖精の粉が見えました。
“花びら大回転”は各所で大反響らしく、どこぞの書店POPでも大書されていたとか(笑)。

田辺さんは一見すると物静かな風貌の才媛タイプですが、帰宅してネットで検索してみたら
いきなりプラグスーツ姿の写真が出てきてビックリしました。
アレを着てトークに参加してくれれば、それだけで十分SFだったのに(笑)。
大森氏いわく「彼女はまだSFのなんたるかがわかってないので、NOVAに載せられない」
とのことですが、2人の田中先生の作品がOKなんだから、田辺さんもあとひとガンバリで
立派なSF(?)になれますよ、たぶん。

津原氏の登場後は『超弦領域』収録の短編や『バレエ・メカニック』についての話が出ましたが、
ここで判明したのが「早川の《創造力の文学》シリーズは、恐ろしいほど売れてない」という事実。
このままいくと《夢の図書館》の二の舞になりそうで、予定されている円城氏の長編が出る前に
《創造力の文学》そのものが無くなりそうだという話でした。
《創造力の文学》シリーズを続けて欲しい方、あるいは無くなる前に本を押さえておきたい方は、
どちらにしろ今すぐ購入に走るようオススメしておきます。

そんな《創造力の文学》の中でも、まだ売れている部類に入る『バレエ・メカニック』ですが
大森氏・円城氏とも、国産SFの年間ナンバーワンと太鼓判を押してました。
さらに柳下毅一郎氏も読書メーターで絶賛の本書ですが、大森氏によればAXNミステリーの
「闘うベストテン」の中で、日本代表として『フロム・ヘル』と激突したとか。
ということで、ムーアファンも敵に塩を送るつもりで(笑)『バレエ・メカニック』買いましょう!

今回は『NOVA1』のためのイベントでしたが、思いがけなく日本SF界の裏事情や
今後の展望についても聞くことができて、とてもためになる内容でした。
作家さんも執筆以外にトークまでやらされて大変とは思いますが、SFの未来について
現場からの声を直接聞ける場は、これからも随時設けて欲しいと思います。

トーク終了後はサイン会。津原氏が万年筆でサインしてる姿が、特にカッコよかったです。
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