新年の朝は、屋根の上の初日から始まった。
今年は良い年であって欲しいものだ。
最近、いろいろと考えさせられることが多い。
貴乃花は、結局、2階級降格となってしまった。
当分、理事に立候補しないような気がする。
どうしようもない人々に交じって自己の節を曲げるより、まだ若いのだから自分に吹く風を待った方が良いのではないだろうか。
声高に「貴乃花は礼を失した」と言っている人が、「張り手やかち上げのどこが悪いのか」とも言う。
何故だか、矛盾した発言だ。
この人は何もわかっていないのだな、と驚く。
我が国における「礼」とは、江戸時代に定着した儒教に根源を有している。
***(ネットから)
そもそも「礼」とは、古代中国における人が従うべき社会の規範のことを意味している。
孔子は内面の「仁」と外面の「礼」を結びつけ、行動として外面にあらわれる「礼」を正しく復興させることで、社会秩序を再建しようとした。
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であるから、中国の外夷であったモンゴルの人々には、「礼」という概念はない。
騎馬民族にとって力こそ正義であり、したがって張り手でもかち上げでも、許されるのなら何でもありの世界なのだ。
相撲道が確立された江戸時代にあって「礼」を規範とする日本人力士は、許されているとはいえ張り手やかち上げはよほどのことがない限り使わなかったのだろう。
ましてや、横綱がそのようなみっともない形で勝ちを拾うことなど、想像もしていなかったに違いない。
勝率9割6分を超えた大関雷電はあまりの強さに、「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂(かんぬき)」「鯖折り」を禁じ手とされたという。
一方、「礼」の本質を学習してこなかったモンゴル人力士にとって、形式のメンツより実質つまり勝つことへのこだわりの方が強いのは当然のことだ。
したがって、張り手やかち上げを遠慮なくやっていいのなら、おそらくボクシングのように繰り出すことにためらいはない。
差別という意味ではなく、日本人とモンゴル人とは、文化の背景が根本的に異なるという認識から今回の暴力事件を観るべきなのだろう。
例えば、モンゴル人に道を尋ねれば、必ず答えてくれる。
それは親切だからということではなく、厳しい自然環境で生活をする遊牧民族にとって、間違っていても答えを示してあげることが人を救う道なのだ。
知らないと答えて、決断しなくて迷うことの方が危険なのだ。
これはアフリカの狩猟民族でも同じだと聞いたことがある。
彼らもまた、当たり前のように道を教えてくれる。
一方、日本人の場合、知らなければ知らないと答える。
気候が穏やかな農耕民族にとって、仮に知らないと答えても、尋ねた人が道に迷って餓死する危険性は少ない。
「嘘をつく」とか「人をだます」ことに対する罪の意識も大きく異なる。
私は20年近くモンゴル人と付き合い、かの国を10回以上訪問してきた。
その中で、彼らに騙されたり、嘘をつかれた事例は枚挙に事欠かない。
「嘘」や「だまし」は生活の知恵であり、そのことに恥じ入ることはない。
また、人に謝ることもしない。
謝るということは、自分が弱いということを認めることなのだ。
厳しい自然環境下では、嘘を信じる方が悪いのであり、だまされるのが愚かなのだ。
むしろ、家族とか友人と言った同じ利益集団のきずなを守ることの方が大事なのだ。
日本人の多くは、自らの罪を悔いる。
嘘はつきたくないし、人も騙したくない。
これらは、ひとえに儒教の教えである。
こうして、今回の日馬富士の暴力事件を振り返ると、見えてくることがある。
日馬富士は、白鵬の指示または依頼で、貴ノ岩にヤキを入れたのだろう。
恐らく、日馬富士は白鵬に、何らかの借りがあり断れなかったのだ。
横綱3人は同じ利益集団であったからこそ、互いの利益を守った。
結果として日馬富士が一人悪者になった、というのが真相だろう。
しかし、このことはモンゴル人社会で言えば、当然のことなのだ。
一人を犠牲にしても、集団を守る。
そのためには、嘘や騙しも許される。
可哀そうなのは、そのような利益集団に翻弄される相撲協会という組織である。
いくら規律を求め、礼を唱え、厳罰を処しても、本質的な解決とは逆行している。
そんな中で、貴乃花がいくら相撲道を叫んでみても、無駄でしかない。
あきらめるか、時期を待つかしかない。
「礼」などどいう自分に都合のよい規範を持ち出して人を裁くことが、結果的に自分自身の首を絞めていることに気づかない愚か人々とは、距離を保った方がずっと賢い。
モンゴル人と日本人で、共通なこともある。
それは、自然を崇拝することだ。
モンゴル人は、自然と語りかける。
ホーミーなどがそのよい例だ。
共通点を共有することに、解決の道があるのかもしれない。