俺は昔から古典文学が好きなのだが特に清少納言が書いた枕草紙が好きだ。というか清少納言が好きなのだ。
彼女に関するエピソードは彼女の頭の回転の速さと、その場で実行してしまう実行力を示すものだ。
そこにシビレる。憧れる!
ところで俺は清少納言について何をどのくらい知っているのと問われると回答に困る。
兄弟はいるの?
中宮定子に何歳頃から何年仕えていたの?
なぜ一回出仕をやめて家にこもったのか?
歌人の娘なのにあまり歌が残っていないのはなぜ?
とか言われると全く回答できない。俺は清少納言は好きだが彼女については何も分かっていないじゃないか。
ということで調べてみた。
レポートバージョンのものは別に作っているがブログに載せるにはあまりにもカタい内容なので少々砕けた内容にあえてしている。
学者じゃないのでレポート自体の品質に対するツッコミは勘弁な。
本とはこんなことをGWをフルに使ってやろうと思っていたがGW始まった直後に終ってしまったよー!
【略歴】
966年頃清原元輔の娘として生まれる。実名は不明であるが、加藤磐斎『清少納言枕草子抄』では「諾子(なぎこ)」という説がある。
兄弟は雅楽頭の為成(従五位上)、太宰少監の致信(従六位上)、花山院殿上法師戒秀(彼がなぜ僧侶になったのかは分からない)。
また藤原理能(道綱母の兄弟)室となった姉妹がいるらしい。
父親は三十六歌仙の一人である清原元輔である。地方官を歴任し最終的な官位は78歳のときに従五位上肥後守。
母親は分かっていない。
祖父は古今和歌集の代表的な歌人である清原深養父である。官位は従五位下・内蔵大允(正七位下)である。
15歳のとき陸奥守・橘則光と結婚。翌年一子則長を生む。武骨な夫と反りが合わず10年後に離婚。
25歳のとき父清原元輔が他界。
28歳のとき冬頃から女房として中宮定子(藤原定子(一条天皇の皇后))に仕える。
30歳のとき藤原道隆がなくなり道長が関白になると、都合により里下がりをする。4ヶ月程度で再出仕する。
35歳のときに中宮定子が出産時に亡くなるとまもなく、清少納言は宮仕えを辞める。
その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われる。
『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。
晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を
交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。
59歳で亡くなる。
父清原元輔は歌以外はあまりうだつの上がらないサラリーマンのように感じる。平安貴族(殿上人)は優雅というイメージがあるが、
清原元輔は78歳の老体にムチ打って単身(?)赴任して任地で亡くなった。殿上人であっても下のほうの官位の者の暮らしは非常に
辛かったことがうかがい知れる
現代と違って月一回戻ってきたりできるような交通事情はないので父が任地に赴いたときには今生の別れを彼女は覚悟したことだろう。
彼女が宮仕えをやめてから亡くなるまでの24年間は何を思って過ごしていたのだろう?
藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたというのでそれなりに楽しんでいたのだろう。
【清少納言について】
彼女はどんな性格だったのだろうか?
部分的、断片的ではあるが、清女の潔癖なまでに敏感な感受性―文字に固定されてしまって訂正が効かないだけに、言葉を慎重に
選択しようとする意識が見られる。
規範意識や通念から考えて、たとえそれが、「いやしきこと」であり「わろきこと」であっても、その言葉を「さと知りながら
使用する―つまりその場面に適合し、表現目的を高めるため効果を期待する意識のもとに、話し手が使用したものであるなら、
それはそれでさしつかえはあるまいと容認している。
一方では、わざとらしい作為のもとに、場の雰囲気を無視して用いた場合については、「(我がもてつけたたるをつつみなくいひ
たるは)あさましきわざなり」としてい拒絶する。
「春は曙…」の例を出すまでもなく彼女の周りの物に対する感受性は非常に敏感であることは明らかだ。
また言葉に関する感受性も同様に敏感である。だから言葉を慎重に選ぶのだろう。相手の言った言葉に対してもその本質を察知する
能力に長けていると推測する。会話で彼女についていくためには殿上人や女房にも相当の能力を求められる。
転校が多いので幼い頃からの友達もあまりいないだろうと推測する。このことを鑑みるとふざけて冗談などを言い合ってワイワイ騒ぐ
タイプの女性ではないと推測する。もちろん中宮定子の部屋の中で他の女房達と笑いあったりすることはあったはずだが、あくまで
社交的の域を出なかったのではないか。
[逸話]の1にあるエピソードより藤原斉信らは彼女を試して見ようと思っただけだ。どんな返事が来ても笑って楽しもうとしたはずだ。
しかし彼女はこれを「挑戦」と受け取ったのだろう。だから漢文を和訳して「草の庵を誰か尋ねん」と炭で書いて返したのだろう。
自分の周りに壁を作るタイプの人間でそこに踏み込んでくる人間には容赦しないタイプと推測する。
同様の理由で[逸話]の4より恋愛に関しても近づくのは難しそうな相手であると考えられる。
あとあまり美人ではなかったらしい。
せめて現代では美人に描いてあげてくださいな、絵師さんたち。
【逸話】
逸話というか枕草子に乗っている彼女の手柄話は以下のようなものがある。
1、藤原斉信らから「蘭省花時錦帳下」とだけ書かれた文が清少納言の下に届いた。彼女は炭で「草の庵を誰か尋ねん」
と返事をして藤原斉信に送り返した。藤原斉信らこれにどう上の句をつければいいんだろうといってうならせた。
機嫌が悪いところに文を送ったか、挑戦状だと見抜いたか…
2、中納言隆家が手に入れた扇の骨を「さらにまだ見ぬ骨のさま」と言うのに対し、「さては扇のにはあらで、海月のななり」と答えたこと。
3、公任からの「少し春ある心地こそすれ」の言い掛けに「空寒み花にまがへて散る雪に」と付けたこと。
4、藤原行成が「鶏の声にもよほされて」清少納言のところから帰ったのだと言い訳をしてきたのに対し、「その声は函谷関ので、
偽物でしょう」と清少納言は返事する。さらに行成から「函谷関ではなくて逢坂の関だよ」と言ってくる。
ここで「夜を込めて鶏のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」という百人一首で出てくる歌を返したこと。
5、中宮の御前にいるとき「女房やさぶらふ」と声のするのにでてみると、御簾から差し入れられた呉竹に「おい、この君にこそ」と言ったこと。
6、「少納言よ、香炉峰の雪はいかならん」との中宮の仰せに、格子を上げさせ、御簾を高く上げたこと。
俺はこの話が好きだ。彼女が「簾を上げて」と命じたところでしてやったりと顔には出ていなかっただろうけど得意満面だったはずだ。
しかし中宮定子が亡くなった後、彼女は宮仕えを辞めて摂津に引っ越した。そして再び宮仕えしなかった。
このエピソードとこの漢詩の後半内容ががかぶるからだ。
7、中宮定子が女房たちに即興の歌を作らせたことがある。その際に「年ふれば齢は老いぬしかあれど花をし見ればもの思いなし」
という古今和歌集を「君をし見れば」ともじったこと。
これは中宮定子がこういうような機転を見たかったといって出した課題だったようだ。
逸話の特徴は彼女自身からしかけるのではなくて誰かから受けての見事な返しが特徴である。中宮定子に「仕えて」おりそのなかで地位を
確立していくには、中宮定子よりは目立たないが同じ仕えている女房よりかは目立つ必要がある。
彼女の得意は漢詩文である。古今和歌集などは覚えていて当たり前なのでもちろん彼女も覚えていたはずだ。
上記逸話のなかにも中国の故事がいくつか見受けられる。これらの武器を使用しながら女房のなかでの地位を高めていったと思われる。
葛綿正一「清少納言と差別化の戦略文学の社会学的考察」ではこの「枕草子」も女房の中での地位を高めるための戦略の一つだと述べている。
ようは他の人に読まれることを意識して書いているということである。
【疑問】
1、「清少納言」という名前は女房名で、「清」は清原姓に由来するが、彼女の周りに少納言になった人がいない。
にもかかわらず「少納言」と呼ばれているのはなぜか?
ウィキペディアでは以下のような推察がされている。
・女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、
元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
角田文衞「清少納言の女房名」『王朝の明暗』東京堂出版 1975年より
・藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言
であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
榊原邦彦「清少納言の名」『枕草子論考』興英文化社 1984年より
・花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
『枕草子大事典』勉誠出版 2001年より
・岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが
「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ
地位が反映されているとしている。
岸上慎二 『清少納言伝記攷』畝傍書房、1943年より
要するにわからないのね。下にも書いているが少納言って要するに殿上人ではるが下級役人なのだ。だから「少納言」と
でもしておけばくらいの勢いだったのではないか?
2、代々有名な歌人の娘であるにもかかわらず公式の場での歌がほとんど残っていないのはなぜか?
もちろん和歌に関する英才教育はなされているはずなのに。
三村淳子「枕草子の一考察清少納言の詠歌意識(平成六年度卒業研究佳作)」によると、彼女の和歌を作るときのコンセプト
は返事が早いこと。しかも「折」に適った和歌を即答するというものである。
今残っている彼女の和歌は55首ほどだが晴れの舞台で詠んだ和歌はない。当時女性が歌会・歌合に参加するのは一般的では
なかったことが理由だ。他の歌は特にコミュニケーションを円滑にするために歌われたものである。
彼女の和歌の特徴は
・日常のことを詠んでいること。
・四季の景物を主題にした叙景歌がないこと。
・「古今和歌集」以後の伝統的・類型的和歌表現に依った技巧が多いこと。
・他人が詠んだ歌を引用した和歌が多いこと。
清少納言にとって詠歌とは。自己表現の道具ではなく、人間関係を緊密にするためのものであったといってよい。※6
これには同意である。中宮定子に仕える女房の中で地位を築いていくためには自己表現のために和歌を詠むよりもコミュニ
ケーション重視で和歌を詠むほうが合理的だ。
自分の周りに壁を作って踏み込んでくるやつには容赦しないが、コミュ力あるなんてやっぱ才女だなぁ。これで美人なら
どこぞのゲームの攻略対象になりそうだ。
そういえば殿上人の一人が主人公で宮中の女房を攻略していくようなゲームってないよね。あったら欲しいな。
また、祖父、父と有名な歌人である娘という鳴り物入りで宮中に入ってきたことへのコンプレックスもあるのだろう。
詠歌放棄を何度もしているところをみると歌人の娘であることと父ほどの才能がないことが重荷だったと三村淳子
「枕草子の一考察清少納言の詠歌意識(平成六年度卒業研究佳作)」では述べられている。
3、離婚して、父が亡くなってどうやって宮中に宮仕えすることができたのか?
WEBサイト【 清少納言~特選“枕草子” 】によると
正暦4年993年(27歳)、関白・藤原道隆から「宮中で教養係をして欲しい」と依頼が届いたことがきっかけのようだ。
就職活動していないということかやっぱ才女は違う!
【その他】
少納言って?
朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。唐名(漢風名称)は給事中。四等官の中の判官(じょう)に相当する。
官位相当は従五位下。定員は3人だが、員外少納言・権少納言が置かれた時期がある。
左弁官局・右弁官局とともに議政官(大臣・大納言・中納言・参議)の下で実務を担う太政官三局の一つ少納言局
(しょうなごんきょく)を構成し、下僚として外記・史生・使部が属した。
主な職務は詔勅宣下の事務とそれに必要な御璽・太政官印・駅鈴の管理。大宝律令では「小事を奏宣す」官と位置づけられ、
侍従を兼任して天皇に近侍する秘書官的な役職であったが、侍従の職務の方が繁雑であったため次第に下僚である外記に
職掌を奪われた。さらに令外官である蔵人所が設置されると天皇の近臣的な地位・職掌も大幅に弱まり、主として儒者が
任用されて、ただ印と鈴を管理するだけの役職となる。
要は下級役人なわけね。
清少納言が里下がりした理由は?
29歳のときに藤原道隆(彼の長女が中宮定子)が逝去。関白に弟の藤原道長が就任する。清少納言は道長派だと言っては
ばからなかった。
30歳のとき中宮定子の兄が道長の策謀で中宮定子の兄弟である藤原伊周と隆家が流刑になった。
そんなところに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れた。彼女はいち早くそれを察知して里下がりした。
中宮定子は里下がりした彼女に戻って来いとしきりに文を送るが彼女は断る。中宮定子は彼女を慰めるために大量の紙や畳を送ったりもした。
この紙をつかって枕草子ができた。
彼女に関するエピソードは彼女の頭の回転の速さと、その場で実行してしまう実行力を示すものだ。
そこにシビレる。憧れる!
ところで俺は清少納言について何をどのくらい知っているのと問われると回答に困る。
兄弟はいるの?
中宮定子に何歳頃から何年仕えていたの?
なぜ一回出仕をやめて家にこもったのか?
歌人の娘なのにあまり歌が残っていないのはなぜ?
とか言われると全く回答できない。俺は清少納言は好きだが彼女については何も分かっていないじゃないか。
ということで調べてみた。
レポートバージョンのものは別に作っているがブログに載せるにはあまりにもカタい内容なので少々砕けた内容にあえてしている。
学者じゃないのでレポート自体の品質に対するツッコミは勘弁な。
本とはこんなことをGWをフルに使ってやろうと思っていたがGW始まった直後に終ってしまったよー!
【略歴】
966年頃清原元輔の娘として生まれる。実名は不明であるが、加藤磐斎『清少納言枕草子抄』では「諾子(なぎこ)」という説がある。
兄弟は雅楽頭の為成(従五位上)、太宰少監の致信(従六位上)、花山院殿上法師戒秀(彼がなぜ僧侶になったのかは分からない)。
また藤原理能(道綱母の兄弟)室となった姉妹がいるらしい。
父親は三十六歌仙の一人である清原元輔である。地方官を歴任し最終的な官位は78歳のときに従五位上肥後守。
母親は分かっていない。
祖父は古今和歌集の代表的な歌人である清原深養父である。官位は従五位下・内蔵大允(正七位下)である。
15歳のとき陸奥守・橘則光と結婚。翌年一子則長を生む。武骨な夫と反りが合わず10年後に離婚。
25歳のとき父清原元輔が他界。
28歳のとき冬頃から女房として中宮定子(藤原定子(一条天皇の皇后))に仕える。
30歳のとき藤原道隆がなくなり道長が関白になると、都合により里下がりをする。4ヶ月程度で再出仕する。
35歳のときに中宮定子が出産時に亡くなるとまもなく、清少納言は宮仕えを辞める。
その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われる。
『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。
晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を
交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。
59歳で亡くなる。
父清原元輔は歌以外はあまりうだつの上がらないサラリーマンのように感じる。平安貴族(殿上人)は優雅というイメージがあるが、
清原元輔は78歳の老体にムチ打って単身(?)赴任して任地で亡くなった。殿上人であっても下のほうの官位の者の暮らしは非常に
辛かったことがうかがい知れる
現代と違って月一回戻ってきたりできるような交通事情はないので父が任地に赴いたときには今生の別れを彼女は覚悟したことだろう。
彼女が宮仕えをやめてから亡くなるまでの24年間は何を思って過ごしていたのだろう?
藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたというのでそれなりに楽しんでいたのだろう。
【清少納言について】
彼女はどんな性格だったのだろうか?
部分的、断片的ではあるが、清女の潔癖なまでに敏感な感受性―文字に固定されてしまって訂正が効かないだけに、言葉を慎重に
選択しようとする意識が見られる。
規範意識や通念から考えて、たとえそれが、「いやしきこと」であり「わろきこと」であっても、その言葉を「さと知りながら
使用する―つまりその場面に適合し、表現目的を高めるため効果を期待する意識のもとに、話し手が使用したものであるなら、
それはそれでさしつかえはあるまいと容認している。
一方では、わざとらしい作為のもとに、場の雰囲気を無視して用いた場合については、「(我がもてつけたたるをつつみなくいひ
たるは)あさましきわざなり」としてい拒絶する。
「春は曙…」の例を出すまでもなく彼女の周りの物に対する感受性は非常に敏感であることは明らかだ。
また言葉に関する感受性も同様に敏感である。だから言葉を慎重に選ぶのだろう。相手の言った言葉に対してもその本質を察知する
能力に長けていると推測する。会話で彼女についていくためには殿上人や女房にも相当の能力を求められる。
転校が多いので幼い頃からの友達もあまりいないだろうと推測する。このことを鑑みるとふざけて冗談などを言い合ってワイワイ騒ぐ
タイプの女性ではないと推測する。もちろん中宮定子の部屋の中で他の女房達と笑いあったりすることはあったはずだが、あくまで
社交的の域を出なかったのではないか。
[逸話]の1にあるエピソードより藤原斉信らは彼女を試して見ようと思っただけだ。どんな返事が来ても笑って楽しもうとしたはずだ。
しかし彼女はこれを「挑戦」と受け取ったのだろう。だから漢文を和訳して「草の庵を誰か尋ねん」と炭で書いて返したのだろう。
自分の周りに壁を作るタイプの人間でそこに踏み込んでくる人間には容赦しないタイプと推測する。
同様の理由で[逸話]の4より恋愛に関しても近づくのは難しそうな相手であると考えられる。
あとあまり美人ではなかったらしい。
せめて現代では美人に描いてあげてくださいな、絵師さんたち。
【逸話】
逸話というか枕草子に乗っている彼女の手柄話は以下のようなものがある。
1、藤原斉信らから「蘭省花時錦帳下」とだけ書かれた文が清少納言の下に届いた。彼女は炭で「草の庵を誰か尋ねん」
と返事をして藤原斉信に送り返した。藤原斉信らこれにどう上の句をつければいいんだろうといってうならせた。
機嫌が悪いところに文を送ったか、挑戦状だと見抜いたか…
2、中納言隆家が手に入れた扇の骨を「さらにまだ見ぬ骨のさま」と言うのに対し、「さては扇のにはあらで、海月のななり」と答えたこと。
3、公任からの「少し春ある心地こそすれ」の言い掛けに「空寒み花にまがへて散る雪に」と付けたこと。
4、藤原行成が「鶏の声にもよほされて」清少納言のところから帰ったのだと言い訳をしてきたのに対し、「その声は函谷関ので、
偽物でしょう」と清少納言は返事する。さらに行成から「函谷関ではなくて逢坂の関だよ」と言ってくる。
ここで「夜を込めて鶏のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」という百人一首で出てくる歌を返したこと。
5、中宮の御前にいるとき「女房やさぶらふ」と声のするのにでてみると、御簾から差し入れられた呉竹に「おい、この君にこそ」と言ったこと。
6、「少納言よ、香炉峰の雪はいかならん」との中宮の仰せに、格子を上げさせ、御簾を高く上げたこと。
俺はこの話が好きだ。彼女が「簾を上げて」と命じたところでしてやったりと顔には出ていなかっただろうけど得意満面だったはずだ。
しかし中宮定子が亡くなった後、彼女は宮仕えを辞めて摂津に引っ越した。そして再び宮仕えしなかった。
このエピソードとこの漢詩の後半内容ががかぶるからだ。
7、中宮定子が女房たちに即興の歌を作らせたことがある。その際に「年ふれば齢は老いぬしかあれど花をし見ればもの思いなし」
という古今和歌集を「君をし見れば」ともじったこと。
これは中宮定子がこういうような機転を見たかったといって出した課題だったようだ。
逸話の特徴は彼女自身からしかけるのではなくて誰かから受けての見事な返しが特徴である。中宮定子に「仕えて」おりそのなかで地位を
確立していくには、中宮定子よりは目立たないが同じ仕えている女房よりかは目立つ必要がある。
彼女の得意は漢詩文である。古今和歌集などは覚えていて当たり前なのでもちろん彼女も覚えていたはずだ。
上記逸話のなかにも中国の故事がいくつか見受けられる。これらの武器を使用しながら女房のなかでの地位を高めていったと思われる。
葛綿正一「清少納言と差別化の戦略文学の社会学的考察」ではこの「枕草子」も女房の中での地位を高めるための戦略の一つだと述べている。
ようは他の人に読まれることを意識して書いているということである。
【疑問】
1、「清少納言」という名前は女房名で、「清」は清原姓に由来するが、彼女の周りに少納言になった人がいない。
にもかかわらず「少納言」と呼ばれているのはなぜか?
ウィキペディアでは以下のような推察がされている。
・女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、
元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
角田文衞「清少納言の女房名」『王朝の明暗』東京堂出版 1975年より
・藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言
であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
榊原邦彦「清少納言の名」『枕草子論考』興英文化社 1984年より
・花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
『枕草子大事典』勉誠出版 2001年より
・岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが
「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ
地位が反映されているとしている。
岸上慎二 『清少納言伝記攷』畝傍書房、1943年より
要するにわからないのね。下にも書いているが少納言って要するに殿上人ではるが下級役人なのだ。だから「少納言」と
でもしておけばくらいの勢いだったのではないか?
2、代々有名な歌人の娘であるにもかかわらず公式の場での歌がほとんど残っていないのはなぜか?
もちろん和歌に関する英才教育はなされているはずなのに。
三村淳子「枕草子の一考察清少納言の詠歌意識(平成六年度卒業研究佳作)」によると、彼女の和歌を作るときのコンセプト
は返事が早いこと。しかも「折」に適った和歌を即答するというものである。
今残っている彼女の和歌は55首ほどだが晴れの舞台で詠んだ和歌はない。当時女性が歌会・歌合に参加するのは一般的では
なかったことが理由だ。他の歌は特にコミュニケーションを円滑にするために歌われたものである。
彼女の和歌の特徴は
・日常のことを詠んでいること。
・四季の景物を主題にした叙景歌がないこと。
・「古今和歌集」以後の伝統的・類型的和歌表現に依った技巧が多いこと。
・他人が詠んだ歌を引用した和歌が多いこと。
清少納言にとって詠歌とは。自己表現の道具ではなく、人間関係を緊密にするためのものであったといってよい。※6
これには同意である。中宮定子に仕える女房の中で地位を築いていくためには自己表現のために和歌を詠むよりもコミュニ
ケーション重視で和歌を詠むほうが合理的だ。
自分の周りに壁を作って踏み込んでくるやつには容赦しないが、コミュ力あるなんてやっぱ才女だなぁ。これで美人なら
どこぞのゲームの攻略対象になりそうだ。
そういえば殿上人の一人が主人公で宮中の女房を攻略していくようなゲームってないよね。あったら欲しいな。
また、祖父、父と有名な歌人である娘という鳴り物入りで宮中に入ってきたことへのコンプレックスもあるのだろう。
詠歌放棄を何度もしているところをみると歌人の娘であることと父ほどの才能がないことが重荷だったと三村淳子
「枕草子の一考察清少納言の詠歌意識(平成六年度卒業研究佳作)」では述べられている。
3、離婚して、父が亡くなってどうやって宮中に宮仕えすることができたのか?
WEBサイト【 清少納言~特選“枕草子” 】によると
正暦4年993年(27歳)、関白・藤原道隆から「宮中で教養係をして欲しい」と依頼が届いたことがきっかけのようだ。
就職活動していないということかやっぱ才女は違う!
【その他】
少納言って?
朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。唐名(漢風名称)は給事中。四等官の中の判官(じょう)に相当する。
官位相当は従五位下。定員は3人だが、員外少納言・権少納言が置かれた時期がある。
左弁官局・右弁官局とともに議政官(大臣・大納言・中納言・参議)の下で実務を担う太政官三局の一つ少納言局
(しょうなごんきょく)を構成し、下僚として外記・史生・使部が属した。
主な職務は詔勅宣下の事務とそれに必要な御璽・太政官印・駅鈴の管理。大宝律令では「小事を奏宣す」官と位置づけられ、
侍従を兼任して天皇に近侍する秘書官的な役職であったが、侍従の職務の方が繁雑であったため次第に下僚である外記に
職掌を奪われた。さらに令外官である蔵人所が設置されると天皇の近臣的な地位・職掌も大幅に弱まり、主として儒者が
任用されて、ただ印と鈴を管理するだけの役職となる。
要は下級役人なわけね。
清少納言が里下がりした理由は?
29歳のときに藤原道隆(彼の長女が中宮定子)が逝去。関白に弟の藤原道長が就任する。清少納言は道長派だと言っては
ばからなかった。
30歳のとき中宮定子の兄が道長の策謀で中宮定子の兄弟である藤原伊周と隆家が流刑になった。
そんなところに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れた。彼女はいち早くそれを察知して里下がりした。
中宮定子は里下がりした彼女に戻って来いとしきりに文を送るが彼女は断る。中宮定子は彼女を慰めるために大量の紙や畳を送ったりもした。
この紙をつかって枕草子ができた。