第2サムエル記
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」
ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。
あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、
生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。
主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。
彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようと
したが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
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ダビデ王の第3番目の妻となったバテシバですが、
先回、述べたような罪を犯してしまいます。
ダビデ王は、唯一の神を信じている信仰者として、
誰よりも尊敬されるべき歩みをしていたのです。
思えば一介の羊飼いにすぎなかったダビデを
神はイスラエルの王とされました。
その恵みを誰よりも深く体験した人だったのです。
しかし、バテシバへの欲情に惹かれて
そのような神の恵みが消し飛んでしまったのです。
詩編に歌われているように先の王であるサウル王に命を狙われ、
荒れ野を逃げ回り、ようやく神がその地位を与えてくださったにも関わらず、
全くその欲望に対して、歯止めにならなかったのです。
いったいなぜダビデ王は罪に陥ってしまったのでしょうか。
ダビデほどの信仰者がこのように罪に陥っていくのであれば、
私たちごときはどんなに注意したとしても、
罪を犯さずにいられるという保証は一つもありません。
罪の力というのはそれだけ大きく、不気味なものなのです。
私が豊田市で超教派の断食祈祷院を経営していた時によく聞いたのは、
幾人もの牧師たちの性的な罪の実態であり、
そのことへの信徒たちの噂話でした。
まさにダビデ王の犯した罪が覆っていたのです。
韓国の伝道者、ブラザー・ヒョクは清めの第一は
性的な聖さを貫徹することだといいましたが、
これは私の経験からも痛感させられたことなのです。