太った中年

日本男児たるもの

かぶき者

2009-12-28 | weblog

Baroque

 

梨園弟子

1300年前の唐の時代に国を統治していた唐玄宗は音楽を好み、音律にも精通し、作曲も得意であった。唐玄宗は唐の宮廷楽団を「立部伎」および「座部伎」に分け、「立部伎」は立ったままで演奏し、室外で行う比較的に規模の小さいもの。「座部伎」は室内で座って演奏し、規模は比較的大きく、豪華さと迫力を重んじるものだった。

唐玄宗は、梨園で選び抜いた300人に自ら音楽を教え、間違いがあるとすぐに指摘し正すなど厳しく指導していた。その場所には、梨が多く植えられていたことから「梨園」といわれている。唐玄宗の指導を受けた300人は後に、梨園弟子と呼ばれた。演出に参加した数百人の女官も梨園弟子と呼ばれた。

かつて、玄宗が寵愛した楊貴妃のために建てられた「華清宮」は、外国の使節を迎えることにも使用されるようになった。迎賓大使が天子の聖旨を捧げ歩いてきて、梨園弟子が奏でる雄壮な古楽が鳴り響くと共に、8人の雄雄しい旗手が厳かに貴賓を迎える。そして、6人の女官は綺麗な衣装を身にまとい、宮灯を手に青銅製の鏡を献上し道案内する。梨園弟子はしなやかに舞い始め、迎賓を迎える豪勢な儀式を繰り広げる。大唐天子の最高威儀が表現できる。

後に「梨園」は、劇場または演劇界の別称になり、「梨園弟子」は歌曲、演劇、舞踊等を行なう芸人を指すようになった。

日本で梨園は歌舞伎界を指す。歌舞伎に興味はない。しかし、ルーツは面白い。

かぶき者 - Wikipedia

かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596~1643)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。

茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。

当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかしかぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した。

多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪うなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元で喧嘩や刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった[要出典]。

彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていた。1612年(慶長17年)に捕縛・斬首されたかぶき者の巨魁大鳥居いつ兵衛(大鳥一兵衛、同逸兵衛、逸平などとも書く)は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせた。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいた。

かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。

かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や、れっきとした武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。寛永期頃から江戸に現れる旗本奴・町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られる。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国(いづものおくに)がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。

かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみるも、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくが、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていく。

歌舞伎のルーツは中国の故事とはまったく異なる、簡単に言えば頭のイカレた人だった。

さて奥さん、かぶき者の異様さではないが、鳩ポッポの目つきが尋常でないことを釈明会見のときに気づいた。まあ、目つきの異様さなら保毛尾田ホモ男そっくりの石破茂が政界No.1。かぶき者だって大トカゲのような目つきで睨まれたらイヤだろう。そんな目つきの石破さんはブログで鳩ポッポの釈明会見に激怒している。

鳩山総理の政治資金

石破 茂 です。

昨夜の鳩山総理の会見は何だったのでしょう。

母親から2002年以降、12億6千万円の贈与を受け、6億円もの税金を免れていた人物が総理を務めていることに対し、強い批判の声が上がらないのは一体何故なのか。「全く知らなかった」などということがもし事実だったとすれば、どのようにして自分の政治活動が可能であったと思っているのか。

かつて当選一回生の頃、鳩山氏も中核メンバーであった「ユートピア政治研究会」が公表した政治活動費報告の中で、同氏はダントツ一位の年間1億8900万円を支出し、収入も1億9649万円であったのですが、当時我々は「由紀ちゃんのところは選挙区が広くて大変だね」などと同情するとともに、「政治にカネがかからない仕組みを作ろう。かかるカネはなるべく透明な方法で調達でき、二世でなくても、官僚やタレントでなくても政治家になれる制度を作ろう」と誓い合ったものでした。

年間それだけのカネがかかることを知っていながら、それがどこから入ったか全く知らないなどということが本当にあるとはとても信じられません。明らかに嘘をついているとしか思えない。世の中を舐めているにも程がある。

仮に知っていたとすれば(そうに違いないと私は確信していますが)、一体その巨額のカネを何に使ったのか、「入りと出」の「出」の部分も明らかにする責任があるはずです。

政治資金報告書に虚偽の記載をすることは、「政治とカネ」の本質に関わる重大な犯罪です。税金さえ払えば、汚れたカネでなければ、それでいいというものでは決して無い。バレたら税金を払えばいい、ということが総理大臣に許されるのなら、誰が真面目に税金など払うものですか(激怒×10)。


検察も、世論も、税務当局も、すべてが明らかにどうかしています。

こんなままで年を越すことは、あまりに口惜しい。自民党はこの問題を追及するに足る立場を持たねばなりません。「自民党だって同じじゃないか」と言われるようなことがあってはならないのです。

そのためには自らを捨てる覚悟が必要であり、自民党内には今その危機感が横溢しつつあるように思えます。我々執行部として、決然たる姿勢を示すべき時が来ているのではないか、そう思えてなりません。

相変わらずホモ的な語り口同様、非常に丁寧な文章であるから激怒するには迫力に欠ける。やはり石破さんは異様な目つき、顔つきがウリ。映像セットでないと商品価値は著しく低下することを考えたほうがいい。また、批判対象が表面的な「政治とカネ」に向けられている。凡庸だから「強い批判の声が上がらない」のだ。

釈明会見について極東ブログが以下、政治家とカネの本来的な問題に触れ、鳩ポッポを批判している。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感

長い文章なので記事の転載は割愛。簡単に言えば、鳩ポッポの釈明記者会見で「私服をこやしていない」と弁明したことに焦点を当て、「私服をこやす」政治家を肯定し、逆説的な批判を展開している。つまり、政治はきれいごとで成り立っているワケではないから、政治家は私服をこやすことのできる度量、器量が求められる。逆に清廉潔白を信条とする政治家は、泥にまみれている自責感に欠け、危険だというのが前半の論旨だ。後半になるとイザヤ・ベンダサン、山本七平を登場させ、鳩ポッポを「乃木無能」に例えて真空エネルギーを論じている。飛躍し過ぎる感じもするけれど、鳩ポッポの目つきが空虚な不気味さであることが分かった。反対に石破さんの目つきは爬虫類エネルギーと保毛尾田ホモ男パワーが充満しているのだ。

 

「江戸城はふさわしくない」 亀井氏、陛下に移転進言(朝日新聞) - goo ニュース

国民新党の亀井静香代表は27日、24日の宮中昼食会で天皇陛下に会った際、「権力の象徴であった江戸城(現皇居)にお住まいになられるのは、お立場上ふさわしくないと申し上げた」と明らかにした。皇居を離れ、かつての天皇が住んでいた京都か自身の出身地である広島へ移ることを進言したという。

27日のテレビ朝日の番組での、天皇の政治利用をめぐる討論の中での発言。

サンプロでの亀ちゃん発言。田中康夫も同席していたからデキレースの確信犯。

これはロラン・バルトの「表徴の帝国」、権力の象徴記号ってこと。

で、京都遷都は陛下が望んでいるってことだ。

奥さん、極東ブログの山本七平「真空エネルギー」はバルトのパクリですがな。

そうだった、我がフィリピン人妻は石破さんの目つきがかぶき者であることを瞬時に理解した。