空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑤

造りたくても造れなかった?その①

 
 集団自決の時、あるいはその前に「地下壕」は存在していなかった、という元軍人と住民による、複数の証言があるということを再三指摘してまいりましたが、海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊の行動を考察してみると、「地下壕がなかった」という別の状況証拠も浮かんできます。
 ここでは海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊が何をしていたのかを、「地下壕」構築を中心として説明したいと思います。なお、海上挺身第三戦隊は第三戦隊、海上挺身基地第三大隊は第三大隊と名称を簡略化します。

 また、第三戦隊と第三大隊の任務やその違いについては、当ブログ「海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊の概要」において説明しておりますので、ご興味のある方はそちらを参照なさってください。


 地下壕を含む陣地構築という性質上、本来なら地下壕の建設は第三大隊が担当します。従って第三大隊の行動を考察することにより、どのような陣地構築をしていたかが明らかになるはずです。

 しかしながら、第三大隊に関する資料というものが存在しません。
一次資料として最適なのが「陣中日誌」や「戦闘詳報」といったものなのですが、これも残念ながらありません。ちなみに防衛省防衛研究所資料閲覧室へ、封書で存在の有無を確かめていただいたところ、第三大隊に関しては存在しないということでした。(2018年現在)
 ただし、個人が所有、所蔵しているといったというような、どこかに埋没している可能性も否定できませんが、これ以上は追求できません。

 第三戦隊に関しましては「陣中日誌」(複製版)と「戦闘詳報」が存在します。
 結果的に第三戦隊へ編入された第三大隊ですから、陣地構築等の行動がある程度把握できるものと思われます。それらを中心に集団自決が起こるまでに、「地下壕」を建設したか否かを時系列順に確認したいと思います。

  1. 1944年(昭和19年)9月9日 第三大隊が渡嘉敷島に上陸
  2. 同年9月27日 第三戦隊が渡嘉敷島に上陸
  3. 同年10月上旬 第三戦隊は攻撃訓練と同時に、自らも壕の建設を行う。一部の出撃基地は泛水作業(マルレの搬出作業)が困難にて、作業自体も遅延していること考慮し、場所の変更を第三戦隊が第三大隊に要請し、了承される
  4. 同年11月頃 渡嘉敷地区に構築されている避難壕で落盤事故が発生(第三戦隊)
  5. 1945年(昭和20年)2月中旬 第三大隊が一部を残し本島へ移動。また水上勤務隊が作業援助要員として配置される
  6. 同年3月20日 海上作戦準備作業が完了するも、陣地構築は継続
  7. 同年3月23日 米軍の空襲が始まる
  8. 同年3月24~25日 米軍の空襲
  9. 同年3月26日 米軍の艦砲射撃が始まる
  10. 同年3月27日 米軍が上陸。第三戦隊はマルレによる攻撃から陸上戦闘へ変更し、複郭陣地へ移動
  11. 同年3月28日 集団自決がおこる

 以上が「陣地構築を中心」にしたものですが、具体的にどのようなことをしたか、スケジュール等がどうなっていたかというものについては、第三大隊に関する資料がありませんので不明です。従って第三戦隊の「陣中日誌」を中心に参考としましたが、あくまでマルレによる攻撃が任務ですから、地下壕や陣地構築についての詳細は二次的なものと思われます。

 それでもある程度の推測が可能だと思われますので、以下に順を追って考察していきます。


次回以降に続きます。


参考文献

防衛省防衛研究所所蔵『海上挺身第三戦隊 陣中日誌(複製版)』

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