空と無と仮と

1990年代の沖縄旅行 平和学習の中の「壕追い出し」

別のタイトルにて南部戦跡で出会った人たち、
ことさら戦友会のことについて書きましたが、
もう一つ記憶に残っていることがあります。

それは現在もおこなわれている平和学習です。

必ずというわけではありませんが、
ひめゆりの塔は別格として、
白梅の塔や当時は糸数壕の呼称が一般的だったアブチラガマや、
摩文仁の丘や健児の塔といった、
1990年代当時でも有名だった場所では、
小学生から高校生たちの平和学習(修学旅行)に交じって、
その周辺をブラブラしていたことがありました。

ただ、あまり悪く言いたくはありませんが、
平和学習となると人数が十数名単位で多くなってしまいます。

そういった大人数だとやっぱり気を使ったりしまうし、
その中を身勝手に押しのけてかき分けてまで、
一人で行動するのはそれこそ非常識だと思うし、
とにかく落ち着いて探索ができなくなってしまうということで、
そういう時はサッと別の場所に移動していましたね。
ま、邪魔したくないし邪魔されたくもないって感じです。

でも時々「盗み聞き」してもいましたよ。

当事者かボランティアの方が生徒や児童たちに、
沖縄戦に関するいろんな話をしてる時、
自分もそれを聞いていたことが何度かありました。

その中で一番記憶に残っているのは、
白梅の塔での出来事です。

1990年代頃の白梅の塔には既に駐車場もありまして、
そこでレンタカーを停めて昼飯を食べようとしたら、
中学生か高校生の修学旅行だと思うんですが、
30代か40代の男性が白梅の塔の由来や、
ガマについて説明している場面に出くわしました。
ウチナーグチじゃなかったので、
ボランティアか平和団体関連の人でしょうね。

なんだかんだいって十数人の集団ですから、
正直言って「なんか落ち着かないな~」と思ったし、
レンタカーの中で食うのも窮屈だし、
どこで食おうかどうか迷いながらブラブラして、
ちょっと様子をうかがっていたんです。

そういうわけでありますから、
自然と平和学習の一部始終が聞こえてくるわけです。

白梅の塔の前での学習ですから当然のこと、
第二高等女学校についての説明をしていましたね。

自慢する気はございませんが、
自分もそれなりに事前調査をしており、
知っていることも多々ありましたので、
ほとんど聞き流しておりました。

もっとも、仮に間違った説明をしていても、
何もしませんでしたけどね。
そんな図々しい人は嫌いですし、
そんな図々しい人になりたくありません。

そうこうするうちにそのボランティアらしき人が、
ふと、日本兵による住民の「壕追い出し」について、
事細かに説明しているのが聞こえてきました。

ガマに避難していた住民を無理やり追い出して、
そこに日本兵が入り隠れるといった内容です。

日本兵が住民を壕から追い出すといった内容は、
平和学習を受けた方はもちろんのこと、
沖縄戦に興味ある方などもどこかで聞いたことがあるでしょう。
そういった意味では「定番」なエピソードですよね。

自分も様々な書籍とか摩文仁の平和祈念資料館等で、
事細かく読んだり聞いたりしていましたし、
現在もそれは変わることがないと思います。

ただ、その当時(1990年代)の白梅の塔で聞いた時は、
「白梅とは関係あるのかなぁ?」なんて思っていました。

いや、まぁ、どちらも沖縄戦のことですから、
全く関係ないとは言い切れませんが、
なんか、それとは別に、
自分としては別の違和感を持った記憶がございます。

なぜかというと、
日本兵による住民の壕追い出しというのは、
当時から沖縄戦における日本兵の「悪行三昧」の一つとして、
現在も語られていることに関して、
漠然とですが「なんかおかしいな」と思っていたからです。

「追い出す日本兵」と「追い出される住民」という構図は、
極々単純化すれば「住民を守らない日本兵」となるでしょう。

本来守らなければならない弱者側の住民を、
卑怯卑劣な日本兵が無慈悲に追い出したという事実は、
これはこれで決して間違いではないと思います。
現に実際に起こった出来事ではないかと思われます。

ただ、このようにして日本兵の行動を単純化し画一化し、
あるいはステレオタイプ化して固定観念化するのは、
自分にはどうも納得がいかないのです。

例えば、この「壕追い出し」の理由として、
「ここは危険だから今すぐ立ち去れ」といった場合も、
少なからずあったのではないかとも思うからです。

「危険」というのは即ちこのガマ、
あるいはこの地域が米軍との交戦状態になり、
その「危険」から住民を「守る」ための措置として、
住民を「追い出し」た場合も想定できるのではないかと思うのです。

「何を言っているのだ!」
「どこに逃げたって同じじゃないか!」
「住民に逃げ場などない!」
とお怒りの方もあるのではないかと思います。
現にそのような状況でした。

しかし、それはあくまで沖縄戦の顛末を知っている人間、
即ち結果を理解している「未来人」の考えたことではないでしょうか。
「後だしジャンケン」ならいくらでも勝てますよね…

当然のことでありますが、
沖縄戦を戦った日本兵に「未来人」など存在しません。

そういうことでありますから圧倒的な米軍の攻撃に対し、
「日本は負ける」と薄々感じていた日本兵もいたでしょうし、
同時に「日本は勝つ」と頑なに信じていた日本兵も、
それなりに存在したはずだと思うのです。

あるいは実際に戦った日本兵にとって、
今後の状況が自分たちも含めてどのようになるか、
皆目わからなかったのも、
数ある事実の中の一つだと思うのです。

そのような状況に置かれた日本兵が、
形勢不利な戦況にもかかわらず一途の望みを託して、
あるかもしれない安全地帯へ「住民を追い出す」ことを、
言い換えれば「住民たちの安全を考慮した行動」を、
躊躇せず実行したという場面があったことも、
必ずしも否定することができないと思うのです。

しかし、このような行為は結果として間違っていました。
住民に安全地帯などほとんどなかったのです。

ただ、それはあくまでも「結果として」です。
「未来人」が「結果として」未来で「判断」したのであって、
未来を「知らない」日本兵に対して「後だしジャンケン」のように、
「卑怯にも住民を追い出した」と断言し断罪するのは、
それはそれで当時の状況を無視したものではないかと思うのです。

彼ら日本兵がした行動の結果がどうなるか、
彼ら日本兵がその場で知ることはできないのです。
その判断が適正かどうかわからないのです。

ま、「未来人」ではありませんから当然のことですよね。
追い出された住民が戦火に斃れたかもしれませんし、
追い出されたことによって生き延びたかもしれません。

「お前はそうやって相対化して日本兵を美化している!」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし日本兵のとった一連の行動をステレオタイプ化、
あるいは画一化して糾弾するという行為は、
沖縄戦を「多角化」して考究することを一切排除し、
単なる戦争責任追及だけのプロパガンダに利用している…
そのようなことに繋がっているような気がしてならないのです。

そもそも、当時のことを当事者目線で見ようとしないのは、
本来なら主役であるはずの、
その当時者を悉く無視しておいてから、
自分たち(未来人)の都合のいいように、
歴史を「書き換え」ているような気がしてならないのです。

沖縄戦に限らず「歴史」というものは、
常に多角的、多面的に考究することが、
現代を生きる「未来人」の基本的な姿勢であり、
そのようにして初めて「歴史」を現代や未来に生かすことができる…
自分は常々そのように考えております。

従って歴史の一部を「未来人」によって、
レッテル化、一面化、単純化、ステレオタイプ化するのは、
多面的で建設的な歴史学を悉く無視し、
自分の思想に都合のいいように「利用」するような、
本来なら唾棄すべき行為ではないかと思っています。
それは右翼も左翼も関係がありません。

さて、この件について皆様はどうお考えになるのでしょうか…

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