<北方領土「日本固有」 日韓外相会談 前原氏理解求める──前原誠司外相は16日夜、外務省飯倉公館で韓国の金星煥外交通商相と会談した。前原氏は北方領土の国後島で韓国企業がロシア側と投資活動を行う動きがあることを念頭に、日本固有の領土との立場を強調し、理解を求めた。前原氏は韓国が不法占拠する竹島(島根県)についても、日本固有の領土との立場を表明したうえで、竹島問題を明記した中学校学習指導要領の社会科解説書に基づく教科書の検定結果が今春、発表されることを踏まえ、「日韓関係の全体に悪影響を与えないよう希望する」と述べた。>(2/17産経新聞)
∇「領土問題」がまたぞろ話題に上がってきた。交渉実録が残っていないのが紛糾のもとであろう。例えば、竹島問題に関しての外務省見解(文末添付HP参照)は、<竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土である>としている。ところがHPで、この外務省見解の中の「竹島領有に関する歴史的な事実」を何度読んでも、日韓双方で協議して<我が国固有の領土である>と担保できる条約や文献があるようには思えない。偶然手にした「想古録」という書物に、「竹島の争ひ蝦夷の国界」というのがあった。<日本の文献足らざるは遺憾なり。御勘定の日記に朝鮮と竹島を争ひたること見えず。又近くは文化中に高橋越前守が蝦夷国界を定めたることも、唯だ「蝦夷国界を定む」と日記に載せたるのみにて、何と云ふ山、何と云ふ河、又は何と云ふ地を境とせしや記録も無ければ絵図もなし。今や高橋死し、復た之を知る者なし。誠に嘆かわしきことと云ふべし>と。(羽倉用九談)
∇この中で「御勘定」とあるのは河合越州のことで、安永四年(1775)まで勘定奉行を務めた。外務省HPの記事に<刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。>とある。そして、<御勘定の日記に朝鮮と竹島を争ひたること見えず>と「想古録」にあるのは、当時何らかの日本─朝鮮(韓国)間に争いがあったのかもしれない。岩波年表の1776年の記事に、<幕府、朝鮮私貿易の断絶を認め対馬藩に永続手当て金1万2千両の給付を開始>とあるからである。尚、文化時代は1804年~1817年で、高橋越前守とは、シーボルトの後ろ盾となった長崎奉行高橋越前守重賢のこと。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が出来上がる前後だろうか。孰れにしろ、そろそろ双方がもっと大極的な譲歩案を持ち寄らねば、永久に紛争は絶えないのではないか。──ところで、「領土問題」の発端は「竹島問題」より北方「樺太問題」であった。
∇7年前、日本初の近代的世界地図「新訂万国全図」の元になったイギリスの古地図が東京都内で発見された。シーボルト事件のきっかけになったとも言われる地図で、大きな話題となった。<1810年(文化7年)に幕府天文方、高橋景保(かげやす)が完成させた「万国全図」は、ロシア船の蝦夷地来航に危機感を強めた江戸幕府が高橋に命じて作らせた、初の近代的測量技術による世界地図である。その際、高橋はアロースミスの地図を参考にしたとされるが、これまで具体的には特定されていなかった。当時、樺太については「2島説」や「半島説」もあったが、高橋は現地に派遣した間宮林蔵の調査結果と、アロースミスの地図を元に「1島説」を採用。しかし、高橋は「万国全図」の完成後も、樺太の形状について確信をもてず、オランダ商館医シーボルトが所有していたロシア人の樺太地図を譲り受ける代わりに、国禁の日本地図などを渡したため、「シーボルト事件」に発展した。>(05年/10/24読売新聞)
∇「シーボルト事件」とは、<文政11年(1828)シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された>。(「大辞泉」) この中でシーボルトに「国禁の日本地図」を渡したのが高橋景保で、「葵紋付き衣服など」を贈ったのが眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)である。共に罪人となって投獄され、家財没収の上、玄碩は永蟄居・終生謹慎の命を受けたが、景保に至っては獄中で悶死。その屍体に極刑が加えられ愛児・門人なども厳罰を受けた。高橋景保(1785~1829)は、江戸後期の天文学者。大坂の人。父は有名な天文方であった高橋東岡(至時=よしとき)。書物奉行兼天文方筆頭として語学・地理学を修め、伊能忠敬の測量事業を監督、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。幕府の「暦局」(後の蕃書調所→開成所→東大)で百科事典の翻訳や満州語の辞書なども作りあげた。
∇読売新聞の記事にある<シーボルトが所有していたロシア人の樺太地図を譲り受ける代わりに、国禁の日本地図などを渡したため云々>には異論がある。高橋が欲しかったのはシーボルトが持っていたクルーゼンステルンの「世界一周記」や「東印度の地図」等だった、と。土生玄碩の場合も、眼病治療に、目の中へ指すと瞳の開く薬があることを聞いて、何としてもその薬が知りたくてシーボルトの元へ足しげく通い、遂には彼の欲しがっていた将軍から賜った葵の御紋の付いている帷子まで贈って、薬方の伝授を受けたと伝えられている。高橋にしても土生にしても、海外の諸事情を知りたい、という純粋の学問的好奇心や愛国心が事件の発端だった、と推測したい。老生は、国禁の地図を渡し、将軍から下賜された衣類を外国人に与えてまで“命がけで”学問を追及した江戸時代の蘭学者たちの努力が、今日を築く尊い捨石になったと思っている。
∇尚、高橋景保の父・東岡は伊能忠敬の師である。次の逸話が知られている。──<東岡の家に柿木があって、貧しい夫婦はその実を売って生計を立てゝいた。或る年の秋、近所の悪ガキが毎夜のように忍び入り、実を盗んだ。東岡はこれを懲らさんと、天文を調べる傍ら、音がするたびに庭に降りて追い払うので何とも落ち着かない。ある日役所から帰宅すると柿木が根元より切り倒されている。東岡が驚いて妻を呼び、その訳を聞くと妻が言うには、「柿木は私が切らせました。この木があるために心が散って学問の障りとなっています。ですから私の一存で切らせました」と。東岡は恥ずかしく思い、それからは天文学に専心した。>(坪内国語読本)──先日伊能忠敬が完成させた「大日本沿海輿地全図」などが国宝に指定されたことを記念して、子孫らが旧宅のある香取市に集まった、という報道があったが、忠敬は高橋東岡を終生尊敬し、彼の墓は遺言により、師の眠る上野源空寺の墓に並んで建っているそうだ。
∇外務省HPによれば、「竹島問題」について、日本側から二度にわたる国際司法裁判所への提訴が行われているが、何故か韓国側から前向きな反応は得られていないようだ。又、<韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていない。>とある。先述した通り、改めて日韓双方の歴史専門家による「文献」照合や、国際司法裁判所への付託によって明確にしない限り、竹島問題は永久に決着しないだろう。その間、交渉期限をしっかり政治的に決め、それに則った作業を行程表に則り“粛々”と進めて欲しいものである。今春発表される中学校学習指導要領の社会科解説書に基づく教科書の検定も、「竹島に領土問題はない」などという一方的な見解で押さえ込むのではなく、丁寧な外交を通じて落着するまでは、「韓国と交渉中である」とするのがベターなような気もするのだが。……
◆外務省:竹島問題:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
∇「領土問題」がまたぞろ話題に上がってきた。交渉実録が残っていないのが紛糾のもとであろう。例えば、竹島問題に関しての外務省見解(文末添付HP参照)は、<竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土である>としている。ところがHPで、この外務省見解の中の「竹島領有に関する歴史的な事実」を何度読んでも、日韓双方で協議して<我が国固有の領土である>と担保できる条約や文献があるようには思えない。偶然手にした「想古録」という書物に、「竹島の争ひ蝦夷の国界」というのがあった。<日本の文献足らざるは遺憾なり。御勘定の日記に朝鮮と竹島を争ひたること見えず。又近くは文化中に高橋越前守が蝦夷国界を定めたることも、唯だ「蝦夷国界を定む」と日記に載せたるのみにて、何と云ふ山、何と云ふ河、又は何と云ふ地を境とせしや記録も無ければ絵図もなし。今や高橋死し、復た之を知る者なし。誠に嘆かわしきことと云ふべし>と。(羽倉用九談)
∇この中で「御勘定」とあるのは河合越州のことで、安永四年(1775)まで勘定奉行を務めた。外務省HPの記事に<刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。>とある。そして、<御勘定の日記に朝鮮と竹島を争ひたること見えず>と「想古録」にあるのは、当時何らかの日本─朝鮮(韓国)間に争いがあったのかもしれない。岩波年表の1776年の記事に、<幕府、朝鮮私貿易の断絶を認め対馬藩に永続手当て金1万2千両の給付を開始>とあるからである。尚、文化時代は1804年~1817年で、高橋越前守とは、シーボルトの後ろ盾となった長崎奉行高橋越前守重賢のこと。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が出来上がる前後だろうか。孰れにしろ、そろそろ双方がもっと大極的な譲歩案を持ち寄らねば、永久に紛争は絶えないのではないか。──ところで、「領土問題」の発端は「竹島問題」より北方「樺太問題」であった。
∇7年前、日本初の近代的世界地図「新訂万国全図」の元になったイギリスの古地図が東京都内で発見された。シーボルト事件のきっかけになったとも言われる地図で、大きな話題となった。<1810年(文化7年)に幕府天文方、高橋景保(かげやす)が完成させた「万国全図」は、ロシア船の蝦夷地来航に危機感を強めた江戸幕府が高橋に命じて作らせた、初の近代的測量技術による世界地図である。その際、高橋はアロースミスの地図を参考にしたとされるが、これまで具体的には特定されていなかった。当時、樺太については「2島説」や「半島説」もあったが、高橋は現地に派遣した間宮林蔵の調査結果と、アロースミスの地図を元に「1島説」を採用。しかし、高橋は「万国全図」の完成後も、樺太の形状について確信をもてず、オランダ商館医シーボルトが所有していたロシア人の樺太地図を譲り受ける代わりに、国禁の日本地図などを渡したため、「シーボルト事件」に発展した。>(05年/10/24読売新聞)
∇「シーボルト事件」とは、<文政11年(1828)シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された>。(「大辞泉」) この中でシーボルトに「国禁の日本地図」を渡したのが高橋景保で、「葵紋付き衣服など」を贈ったのが眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)である。共に罪人となって投獄され、家財没収の上、玄碩は永蟄居・終生謹慎の命を受けたが、景保に至っては獄中で悶死。その屍体に極刑が加えられ愛児・門人なども厳罰を受けた。高橋景保(1785~1829)は、江戸後期の天文学者。大坂の人。父は有名な天文方であった高橋東岡(至時=よしとき)。書物奉行兼天文方筆頭として語学・地理学を修め、伊能忠敬の測量事業を監督、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。幕府の「暦局」(後の蕃書調所→開成所→東大)で百科事典の翻訳や満州語の辞書なども作りあげた。
∇読売新聞の記事にある<シーボルトが所有していたロシア人の樺太地図を譲り受ける代わりに、国禁の日本地図などを渡したため云々>には異論がある。高橋が欲しかったのはシーボルトが持っていたクルーゼンステルンの「世界一周記」や「東印度の地図」等だった、と。土生玄碩の場合も、眼病治療に、目の中へ指すと瞳の開く薬があることを聞いて、何としてもその薬が知りたくてシーボルトの元へ足しげく通い、遂には彼の欲しがっていた将軍から賜った葵の御紋の付いている帷子まで贈って、薬方の伝授を受けたと伝えられている。高橋にしても土生にしても、海外の諸事情を知りたい、という純粋の学問的好奇心や愛国心が事件の発端だった、と推測したい。老生は、国禁の地図を渡し、将軍から下賜された衣類を外国人に与えてまで“命がけで”学問を追及した江戸時代の蘭学者たちの努力が、今日を築く尊い捨石になったと思っている。
∇尚、高橋景保の父・東岡は伊能忠敬の師である。次の逸話が知られている。──<東岡の家に柿木があって、貧しい夫婦はその実を売って生計を立てゝいた。或る年の秋、近所の悪ガキが毎夜のように忍び入り、実を盗んだ。東岡はこれを懲らさんと、天文を調べる傍ら、音がするたびに庭に降りて追い払うので何とも落ち着かない。ある日役所から帰宅すると柿木が根元より切り倒されている。東岡が驚いて妻を呼び、その訳を聞くと妻が言うには、「柿木は私が切らせました。この木があるために心が散って学問の障りとなっています。ですから私の一存で切らせました」と。東岡は恥ずかしく思い、それからは天文学に専心した。>(坪内国語読本)──先日伊能忠敬が完成させた「大日本沿海輿地全図」などが国宝に指定されたことを記念して、子孫らが旧宅のある香取市に集まった、という報道があったが、忠敬は高橋東岡を終生尊敬し、彼の墓は遺言により、師の眠る上野源空寺の墓に並んで建っているそうだ。
∇外務省HPによれば、「竹島問題」について、日本側から二度にわたる国際司法裁判所への提訴が行われているが、何故か韓国側から前向きな反応は得られていないようだ。又、<韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていない。>とある。先述した通り、改めて日韓双方の歴史専門家による「文献」照合や、国際司法裁判所への付託によって明確にしない限り、竹島問題は永久に決着しないだろう。その間、交渉期限をしっかり政治的に決め、それに則った作業を行程表に則り“粛々”と進めて欲しいものである。今春発表される中学校学習指導要領の社会科解説書に基づく教科書の検定も、「竹島に領土問題はない」などという一方的な見解で押さえ込むのではなく、丁寧な外交を通じて落着するまでは、「韓国と交渉中である」とするのがベターなような気もするのだが。……
◆外務省:竹島問題:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/