残照日記

晩節を孤芳に生きる。

海外漫想

2011-02-22 15:44:34 | 日記
 
  <耳> ジャン・コクトー

  私の耳は貝のから
  海の響きをなつかしむ
(堀口大学「月下の一群」所収)

∇今日は家内が亡くなって丁度7ヶ月。相変わらず友人から、家内が生前好きだった京粕漬けが届いたり、海外トレッキングでは奥さんに大変お世話になった云々のお便りが舞い込んで来たりする。良き友人たちと過ごした多くの日々が、家内が神から賜った最高の至福の時だった。海外へもよく出かけた。ご一緒して戴いた方々は皆、お元気だろうか。友人知己の皆々様に改めて心より感謝申上げたい。海外といえば、末弟夫妻が娘・桂ちゃんの結婚式で、今週一杯ハワイに行っている。家内が初めて外国に行ったのもハワイ、30年も昔のことになる。興奮してカメラにフィルムを入れ忘れてしきりにシャッターを押して、ホテルで気がついた時にはカウアイ島分全部がパーだった思い出が懐かしい。

∇現在「海外」といえば、中東一体が”改革の嵐”の渦中にある。チュニジアの政変をきっかけにエジプト、バーレーンへとドミノ倒しの如く、凄まじい勢いで連鎖反応を引き起こしている。民衆デモが発生した主な国をざっとあげると、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、エジプト、サウジアラビア、イエメン、ヨルダン、ジブチ、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア等々だ。或は30年、或は40年と独裁が続いたムバラク・エジプトやカダフィ・リビアは反体制デモで大揺れ崩壊し、モロッコの憲法改正・司法の独立、はては石油収入の公平分配を掲げるアルジェリアetc。一口で言えば「民主化の促進」が“改革の嵐”共通の目標となっている。これらについては後日取り上げてみたい。今日は我家の私的感慨を──。

∇老生の最初の「海外」は33年前33歳の時、一ドル360円時代のことだ。勤め先で、「英語が一寸できるらしい」という理由で、優秀な部下12人を引き連れて木製ドアの買い付けをするためフィリッピンに行った。空港で見た外人たちは、ビジネスバッグ一つで出張、こちらは物々しい出立ち。遅れている、こりゃいかん! それがきっかけで、家内をハワイに連れ出したのがそも/\我家の海外旅行の始まりだった。そして老生最後の旅は、家内と二人の偉大なる田舎・オーストラリア。皇帝ペンギンを見て、メルボルンで風雅なパンを食べ、ゴールドコーストでリゾートやカジノを楽しみ、シドニーのオペラハウスで大物の鯒(こち)を釣り逃がした思い出が昨日の如く彷彿する。老生にとっては、バブル期の怠惰を清算する新しい門出を決意させた旅だった。

∇それにしても今思えばバブル期は面白かった。日本全体が沸騰していた感がする。顧問先に急成長の不動産会社があり、何もせずとも業績が上がった。経営指導など一切不要、そこの社長と毎月のようにハワイやグアムへ不動産投資を名目に出かけては遊びまくった。当地の7割は日本の資金で買い占められていた時代だ。ゴルフ場付きリゾートハウスやマルコス元大統領の保養地などを買ったり、ロスでは砂漠の中のオアシス、パームストリングスの絶妙壮大なる企画に驚嘆し、かつゴルフ三昧。ラスベガスへは3度行って3度共ルーレットで大勝した。グアムなんぞは目をつぶって物件を買っても顧客がついた。顧問先の中小企業では業績優秀に付き、家族全員上海旅行。……という訳で、結局遊蕩三昧で無駄金を当地に散財したのみだったが。

∇海外旅行で人生の一大転機を齎した最初は、39歳の正月に行ったシンガポールである。日本がバブル経済を迎える前夜期で、国内が嵐の前の静けさに包まれていた。自転車のスポークではないが、前に走っているときは後に廻って見える。景気は下降しつゝあると思えた。よし、気分高揚と発想転換だと、家内を誘って出かけた。既に景気上昇中の「眠らぬ都市」シンガポールだ。歩行者天国のオーチャードロードを埋め尽くした若者達の熱気、ニュートンサーカスの汚れた屋台で、一見の異国人たちと夜を徹しての語らい。それがサラリーマン生活に終止符を打ち、独立する導火線になった。帰国後、何かに憑かれるように辞表を出して、3月には無手勝流で仕事を始めた。──かくして海外旅行は、老生に2度大きな人生転換の契機を与えてくれた。

∇その後国内での仕事が忙しく、文字通り日本中を講演やコンサルティングで飛び回った。老生が家を空ける日が多くなったので、「何でも見てやろう」だと、家内にも外出の奨め。時節柄、あっという間に知人・友人との交流に、ボランティアがらみの旅行にとスケジュールが詰まった。当初は欧州特にイギリス・フランス近域、スペインなどに魅せられ、一旦出掛けると20日~50日も滞在して来る。バルセロナの大学通りに面した「チキート」という日本人向けペンションが根城で、それを経営しているのが家内の友人。彼女は当時既に20年以上住み着いていた準スペイン人。国内のかつての仕事仲間たちと連れ立って欧州からイラク、エジプト、アフリカ諸国へと足を伸ばした。珍しい中近東やモロッコの土産品が未だに残っている。ピカソ美術館 (バルセロナ)や、マドリッドのプラド美術館からの絵葉書がよく届いたものだ。

∇その後「朝日カルチャー」で知り合ったお仲間と、毎年数回、ネパールを中心とした海外トレッキングに参加するようになった。余程天性に合ったのであろう。これにのめり込んだ。そのうちいつしかグループのサブリーダー格となって、72歳という高齢者の混じったチームの枢要メンバーとしてパルチャモ(6273m)はじめ、アイランドピーク(6160m)、キリマンジャロ(5895m)、キナバル(4095m)等々を登頂した。72歳の“お母さん”は家内の知人の記者の紹介で、九州「西日本新聞」の記事にもなって高齢者間で有名になった。家内の通算二十年間はトレッキング三昧だった。晩年は南米や台湾の山々を制覇していた。──家内にとっての海外は、広汎な交友関係の樹立と、旺盛なボランティア精神を涵養してくれたようだ。……

∇資料を整理していたら、某社の社内報に載せた記事が出てきた。今から思えばバブルの末期頃、グアムでの随想を自由に書いて欲しいというので、何でもよければということで寄稿したものだ。日中さんざん飲み食い・ゴルフと遊んだ後の常夏の夜は、一入深い静寂に包まれる。酔い冷ましにふらりと砂浜に腰を降ろしてタモン湾を一望する。すっかり正気に返って海風に吹かれていると、もう十分遊んだ、という満足感と、暫くまともな本を読んでいなかった自分に空疎感がひた/\押し寄せはじめてきた。もう一度原点に帰ろう。帰ったら勉強しよう。何となくバブル崩壊を予感させる時期に入っていた。期せずしてこれが最後のグアム旅行になった。懐かしいので棄却する前に、日記に写し取っておくことにした。

<順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ>

 グアムの陽はつるべ落とし。さっき迄海辺に遊んでいた若者達が、三々五々消え去ると、タモン湾はすっかり夕闇につつまれる。今宵満月。昼間見たコバルトブルーとマリンブルーの波境が、たゞ白い波打ちの円弧となって、リズミカルな潮騒に心地よい海風が頬をつたわる。

 ポッカリ月が出ましたら
 船を浮かべて出掛けませう
 波はヒタヒタ打つでせう
 風も少しはあるでせう

 中原中也の詩情が彷彿する。暗夜に霞む島影。右は恋人岬、左端はイパオ岬だ。浜辺に腰をおろしてじっと耳を澄ますと、時折りゴーという呻きに似た震声が伝わってくる。ふと思いは遠い昔の物語へ──
 
 マゼランがマリアナ諸島を発見して以来、約三世紀半、グアムはスペインの統治下にあった。原住民は人のよいチャモロ族である。ある時、チャモロの青年が島の美しい乙女と恋に落ちた。やがて二人は将来を約する迄になる。そんな折、スペイン人の船長がこの娘に横恋慕、娘の両親を金銭で買収して強引に結婚話をまとめてしまった。挙式当日、娘は愛する青年と逃亡を企てたが、追詰められ、互いに髪を結び合って百二十メートルの断崖から身を投げた。
 
 その「二人の恋人岬」は、今暗い靄の彼方に煙っている。イパオ岬の裏側は、アガニャ湾だ。第二次世界大戦の末期、五万五千人を擁した米軍が、わずか一日にして水際作戦を敷いた日本軍を玉砕した上陸の地である。約二万人の兵士が眠っている。迎撃の拠点イパオは今、不気味に静まり返っている。松明とイルミネーションの輝き。沈黙と静謐に潜む過去が織りなす潮騒のリフレイン。
 
 「歴史」は、些末と思える人々の営みがからみあい、ある時、大事となり、いつしかそのうちの幾つかがターニングポイントとなって変遷していく。それはうねり、繰り返し、そして忘れられる。我々にあるのはいつも「今」だけか。ならば真昼のリーフを噛む白い波にヨットを浮かべ、総てを楽しみ、夜の沈黙に過ぎ来し方行く末を思い馳せればよいのかも。<順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを知らせない為に彼とこれとを等しく造られたのである。>(「伝道の書」七の十四)─グアムにて。