残照日記

晩節を孤芳に生きる。

立春の卵

2011-02-04 16:02:21 | 日記
<子曰く、徳有る者は必ず言あり。言有る者は必ずしも徳あらず>(憲問篇)<子曰く、君子は言を以て人を挙(あ)げず、人を以て言を廃せず>。(衛霊公篇)──真実に生きる人には必ず他人の心を打つ言葉がある。しかし、立派なことを言うからその人が信用できるかどうかは別問題だ。言葉の良し悪しでその人物を決め付けてはならない。貴賤に関わらず発言する言葉の真実性・信憑性を斟酌してみる必要がある。

∇今日の雑談に入る前に、M・Sさんや八十悟空さんの投稿に感謝致します。M・Sさんには過分なる激励を戴き、八十悟空さんからは2月3日の産経新聞でソウル支局長・黒田勝弘氏の筆になる「柴田トヨさんはお手本」という記事を紹介して下さいました。梗概を以下に掲示させて戴きます。──黒田氏は、韓国の知日派女性記者の話として、かつて姑への日本からのお土産には電気釜が喜ばれたが、最近は入れ歯洗浄剤へと変わっているという韓国社会の変化を語り、柴田トヨさんの詩集『くじけないで』(飛鳥新社刊)が韓国でも翻訳出版されてベストセラーになっていること、そして社会時評へと筆を運んでいる。先ずは『くじけないで』。<村上春樹の小説や塩野七生の『ローマ人の物語』などを除けば日本モノとしては異例の反応>だそうだ。読者から感動のハガキが続々寄せられ、<人生のお手本>にしたいとの声しきりのようだ。

∇韓国のこうした潮流は、<家族愛が強く、父母や年配者に対する尊敬、気配りが日本より強く残っている韓国だけに、読者は自分の母あるいは祖母の心、言葉として親近感と共感を覚えている>という面と、背景に<韓国における高齢化社会の“予感”があるように思う>と、一段深い独自解釈に入る。今や<韓国の高齢化比率(65歳以上)は11%でまだ日本の半分以下だが、速度は急速という。2050年には37%に達し日本を上回るとの予測さえある。高齢化社会の課題というのは、年金・医療・介護など制度や法律、行政から、「人にやさしいモノ」など経済や環境…さらには「生き方」「死に方」という哲学にまで広がる。だから韓国では新たな「日本に学べ」が必ず起きる。いやもう始まっている>のだ、と論じた。ささやかな事実や現象を見逃さず、優れた社会時評にまで昇華させている。

∇こうした韓国社会を見通した卓論の展開は、黒田氏が日頃から韓国に於ける“現場”を実際に目と耳で丹念に見聞した経験から発想されたものであろう。よい記事を紹介して戴いた八十悟空さんに感謝する。そしてそれで思い出したのが「立春」を迎えると、かつては必ずといってもよいくらいマスコミに取り上げられた「立春の卵」の話である。「立春の卵」というのは、当ブログでも紹介した雪博士・中谷宇吉郎の随筆に同名で載る“愉快な話”である。──慣用句に「コロンブスの卵」という言葉がある。意味は周知の通り<《大陸発見はだれにでもできると評されたコロンブスが、卵を立てることを試みさせ、一人もできなかった後に卵の尻をつぶして立てて見せたという逸話から》だれでもできそうなことでも、最初に行うことはむずかしいということ。>(「大辞泉」) 即ち、“卵は立たない”というのが通説であった。

∇ところが、昭和22年2月6日の各紙に、中国の古書にある通り「立春」の日に試みたら卵が立った、という報道がなされ大反響となった。実験は、ラジオ会社、各新聞社、カメラマンの立会いの下、2月3日の深夜に行なわれた。何とUP特派員のランドル記者が床に立てた卵は、4日の朝になっても倒れず、又タイプライターの上にも立った。英字新聞は「ランドル歴史的な実験に成功」なる大見出しで、第一面四段抜きで報じた。この実験の成功を、東大T博士は理論的には何の根拠もない茶話だ、全くの偶然だと一笑に付した。気象台は寒さのための中味の密度の問題だ、ある大学の学部長か誰かは卵の内部が流動体であることが一つの理由だ等々諸説が出たが、肝心の<立春の時も立つが、その外の時も卵はたつものだよ、とはっきり言い切っていな>かった。

∇朝日新聞には、<みなさん、今年はもう駄目だが、来年の立春にお試しになってはいかが>とあった。そこで中谷博士は早速自宅の卵でやってみたら3、4分で立った。奥さんがやってみたらこれもわけなく立った。(老生でも立った→上掲写真)<要するに少し根気よくやって、中心をとることさえ出来れば、大抵の卵は立派に立つものなのである>。彼は卵の表面の凹凸を顕微鏡で観察し、支える面積計算を行なったりして理論上も立つことを確認した。<こういう風に説明してみると、卵は立つのが当たり前ということになる。少なくともコロンブス以前の時代から今日まで、世界中の人間が、間違って卵は立たないものと思っていただけのことである>。結論に曰く、<卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう些細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである>と。

∇<今日にでもすぐ試してみることが大切な点である>。頭で考えてつべこべ言う前にやってみる。実際に目で確かめることの重要さ、それはあらゆることに通じる真実の探求法であり、何よりも新しい発見の糸口になることを肝に銘じよう。──冒頭八十悟空さんが黒田勝弘氏の記事を紹介して下さったが、まさに足と目で見通した韓国現代社会のターニングポイント兆候の発見であった。記事の中に塩野七生の『ローマ人の物語』が出てきたので、ぶりかえすが、小池百合子総務会長の代表質問について、以上の観点から学ぶべき訓戒を引き出しておこう。<塩野七生さんや 森本哲郎さんの著書などで有名な『カルタゴの滅亡』の問題でありますが、最大の理由は国家の安全保障を蔑ろにしたことでありましょう、これにつきます。外国傭兵に頼り、国内世論も平和主義的な論調が強く有事に備えた軍事力の確保が困難だったからであります>発言に……。

∇カルタゴ滅亡の原因を塩野氏は<経済の才能にはめぐまれていても政治的な身の処し方に不得手なカルタゴ人>がローマ帝国の提示した妥協案を読み違えたため、そして度重なる両国間のすれ違いという「不運」にあったため、としている。森本氏は、「ある通商国家の興亡」(PHP)で、<富の追及が仇となったのか? そんなことはない。…カルタゴの悲劇はその経済活動にあったのではなく、カルタゴの運命は黄金への欲求が狂わせたのでもない。彼らの過ちは、それ以外に何も求めなかったことにあるのだ>としている。<ギリシア人は金銭を手段とみなし、富によって文化を創造することを、はっきりとした人生の目標に据えていた。それゆえ、ローマに征服されても、ギリシアは文化によってローマを征服した。…カルタゴが残した遺書、それには“人間は金銭のみに生くるにあらず”という教訓が、鮮血をもってしたためられているはずである>とも。軍事力云々よりも、文化形成に少しも意を払わなかった民族の結末─それがカルタゴだ、と。

∇塩野氏の推論に共感する点がある。例えば、ローマがカルタゴに最後通告した条件は、たゞ住民全員が、海岸から15キロ弱離れた内陸部に首都を移住することだった。<しかも海から15キロ離れていさえすれば、新都市建設の選定はカルタゴ人にまかされていたのだ>。何故それに抗し、滅亡の引き金となったのか。塩野氏は徹底的に<当時の地中海世界の有名な都市の、海岸からの距離を調べてみたのだった>。その分析の結果、こう推断したのである。<カルタゴ人にとっての都市は、(エジプトのアレクサンドリア等他の都市と違って)家から一歩外に出ればただちに船の上、というものであったのだ。その彼らにしてみれば、たとえ十五キロの距離であっても、「死を与えるに同じ」になったのではないか。このようなことこそ、しばしば民族間の争いや摩擦の原因となる、価値観の相違ではないかと思う>と。(凄い、こゝが塩野氏独創力の原点だ!)

∇森本氏も凄い。彼がかつてチュニジアに立ち寄った折、古代の遺跡に触れた。その地下に、ローマによって徹底的に破壊されたカルタゴの遺体が横たわっている、と聞かされて、その国の悲史を知りたくなった。帰国して早速資料を漁った。調べれば調べるほどポエニ戦争の実相を追及してみたくなった。<そのため、私は再び、三度、カルタゴ、すなわち現代のチュニジアを訪ね、現地の友人たちとも、いろいろ話しあったりした。…そしてハンニバルの行程をたどってみようと思い立った。チェニスから北アフリカを通って、ジブラルタル→スペイン……そしてアルプス越えへ。こうして、私はポエニ戦争についての実地見聞を、充分に果たすことができたのである>。尚、塩野七生氏は、1970年よりイタリアへ移り住む。イタリア永住権を得ており、ローマに在住。『ローマ人の物語』は年一冊のペースで執筆され、2006年第15巻「ローマ世界の終焉」にて完結した労作である。

∇以上に垣間見られるように、塩野氏や森本氏の「カルタゴ滅亡」論には、そこらの文献の表面をなぞるような安易な努力で出来上がったものではない。お二方の著書に“虎の威を借り”て、「カルタゴ滅亡」の理由を、<最大の理由は国家の安全保障を蔑ろにしたことでありましょう、これにつきます。外国傭兵に頼り、国内世論も平和主義的な論調が強く有事に備えた軍事力の確保が困難だったからであります>などと牽強付会して嘯く小池総務会長の如くであってはいけない。それは著者等への冒涜であると共に、<このようなこと(価値観の相違によるすれ違い)こそ、しばしば民族間の争いや摩擦の原因となる>(塩野氏)や、中谷宇吉郎が「立春の卵」で述べた、<人間の歴史が、そういう些細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである>ことに気付くことこそが為政者やリーダーに要望される重要事だからである。以て“他山の石”としたい。