<子曰く、予(わ)れ言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子 如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや。>(孔子が「私はもう何も言うまいと思う。」と言った。弟子の子貢が「先生がもし何も言われなければ、私ども門人は何を述べ伝えればいいのでしょう。どうかお話し下さい。」と言うと、孔子曰く、「天は何か言うだろうか。何も言わない。なのに四季は巡っているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。何も言わないで、しかも教えを垂れている。」と。)「論語」陽貨篇
∇<精度競う桜予想民間3事業者 独自の工夫こらす──桜の開花予想をしている「日本気象協会」(東京)と「ウェザーマップ」(同)、「ウェザーニューズ」(同)の民間主要3事業者の新しい予想が、23日までに出そろった。いずれもおおむね平年並みかやや早い傾向だが、それぞれ独自の工夫をこらして精度を競い合っている。……気象協会は、花芽の成長に影響する前年秋からの気温に基づく独自の計算式を導入。Wマップは、気温と開花日の関係や今後の予想気温について1万通りのシミュレーションを実施。Wニューズは、同社会員から寄せられた開花状況のデータを加味したのが売りだ。>(2/23 共同通信 )
∇愈々桜の話題が出始めた。上記予測によれば、全国トップの早咲きは宮崎市と高知市の3月21日ごろ(気象協会)、高知市と熊本市で3月22日ごろ(Wマップ)、福岡市の舞鶴公園で3月21日ごろ(Wニューズ)。東京都心は3月25日~27日ごろ(Wニューズ、気象協会、Wマップ)、遅い青森市では4月22日~24日ごろ(Wニューズ、気象協会)。尚、気象庁は1955年から毎年続けてきた桜の開花予想を昨年から行わないことにしている。<開花日の誤差は、民間の予想でもほぼ同程度。国として行うべき業務かどうか 総合的に勘案して廃止を決めた。標本木の開花や満開の観測そのものは続ける。><最近は、民間気象会社が開花予想日を発表しており、国の 業務として続ける必要がなくなった。>、という理由から。(気象庁2009年12月発表)
∇桜開花予想の「桜」とは、周知の通り「ソメイヨシノ」である。又、一定の条件を満たした「標本木」のいずれかの木に三輪以上の花が咲いた状態を「開花」と呼ぶのだそうだ。たかが「桜の開花予想日」、と思ってはいけない。先年、気象庁の予想が3日遅れたばかりに数十件の苦情が殺到したそうだ。桜に関連するイベントが多く、日程が狂うと主催者側はオオワラワ。そこで気象庁は汚名返上へ向け、大型コンピューターを導入するなどして、過去30年分の膨大なデータの分析に取り組んでいた。開花予想を弾く推測統計回帰式は、かつての気象庁の例でいえば、{温度変換日数 =exp{(9.5×103×(日平均気温-15))÷((日平均気温+273.15)×288.15)}というものだそうである。「桜の開花予想日」に大騒ぎするのは日本ならではのこと。
∇それにしても、時節の変遷は速いもの。「梅便り」が聞かれ、各地での梅見の話題が先日まであったと思えば、もう「桜開花予想」へと話題が移っている。まさしく<天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや>である。我が「21世紀の森と広場」では、南口の白梅・紅梅が咲き揃い、最後の“盛り”を納めんと、園内に訪れる人々のカメラのシャッターが忙しい。──ところで、千葉大教育学部・青木真由子さんの「日本における植物季節の推移」(02年度)という卒論を面白く読んだことを思い出した。1951~2000年の50年間の気象庁植物季節観測データを統計分析した研究である。それによると次の傾向がみられた。(1)一般的に冬~夏の植物季節は早くなっており、逆に夏~冬の植物季節は遅くなっている。両者を比較すると、夏~冬の遅れがより顕著である。 (2)「サクラの開花」や「サクラの満開」など冬~夏の現象で多くの種が早くなっているのは北海道、九州、四国である。(3)夏~冬の現象は多くの種が北海道から九州まで南下するにつれてだんだん遅くなる。
∇要するに、気温変化で表現すれば、春が早く到来して夏に至り、冬寒の季節になるのが遅く、春の到来は日本の南端・北端共に早く、南下するほど冬の期間が短くなっている、ということか。臆面なく言えば、日本列島全体が温暖化して、所謂季節感を表すはずの植物が、その役割を喪失しつゝある、と読んで大過なかろう。確かにその通りで、俳句の季語なども植物に限れば、実態にそぐわぬ場合が多く、過去の句をそのまゝ現代に適用させて鑑賞することが難しくなっている。桜開花予想は待たれても、梅の開花予想はあまり騒がれないので、遅ればせながら、青木さんの研究を紹介しておこう。梅の開花については、当然地域ごとにばらつきはあるものゝ、やはり全体的に早くなっており、回帰分析では、この50年間で関東・中部地方で開花日が平均8日程度早くなっており、関西~九州にかけては3日程度遅れているそうである。この10年間に限って分析すればもっと急速な変化が見られるような気がする。
∇さて、さて、春咲く花には色々あるが、万葉の昔、歌に詠まれたおもだった花は梅・桜・桃・山吹・菫である。松田修著「万葉の花」によれば、梅が119首で万葉集中萩に次いで第二位。中国から渡来したばかりで珍しさも加わったのであろう。「春されば先ず咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」。これは万葉集巻第五にある、大宰府の官人たち30数人を招いて、大伴旅人の宅で梅花の宴を催した際に詠まれた山上憶良の歌。この「梅花の歌」序文に、旅人は「時に初春の令月、空気は澄んで風和み、梅は鏡前の装いを開き、蘭香り、曙の峰に雲かゝり、…鳥林に迷い、庭に蝶舞い、空には帰雁飛ぶ、その天地を背景に客人たちが部屋で酒を酌み交わす。それはもう言語を絶した自由と自足の世界だ」と梅の宴を自讃している。花といえば当初は梅のことで、万葉人にまず愛されたのは梅だった。桜は42首で第八位。そして柳が30首、山吹17首、桃7首、菫2首と続く。(古今集では梅17首、桜41首)
∇梅はバラ科サクラ属で、元来中国を原産とする。万葉集には梅、烏梅、汗米、宇米、宇梅、有米などで詠まれている。(上同) かくして梅は、万葉時代に中国の文化に伴って輸入され、平安時代以降さらに香を愛でたり、詩歌に詠まれた。「東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(菅原道真) 当初梅は大衆的な花ではなく、貴族たちの鑑賞する珍しい美花で、上掲松田修によれば、万葉集に詠まれた梅は皆な「野梅」で白梅だったそうで、万葉に紅梅を詠んだものは一首もない、という。栗田勇「花を旅する」では菅原道真公の歌を紅梅としている。これは平安時代。──老生にとって梅は紅白いずれの趣も好きだが、季節感としては“寒梅”が最も相応しく思う。梅をこよなく愛した俳人はいうまでもなく与謝蕪村だが、その清楚さと雪に耐えて凛然と咲く梅花を愛した英傑が南洲・西郷隆盛である。南洲翁は漢詩を多く残してはいないが、「外甥政直に示す」に、西郷の託す「梅」が髣髴する。
∇<一貫唯唯の諾/従来鉄石の肝/貧居傑士を生み/薫業多難に顕わる。/雪に耐えて梅花麗しく/霜を経て楓葉丹(赤)し/もし天意を識らば/あに敢えて自ら安きを謀らんや/。>。──要約すればこうだ。男児たらば、一旦諾(よし)と引き受けた以上は、鉄石の意志を以て、どこまでも貫き通す。貧乏が豪傑を生み、艱難に耐えて薫業が顕れるものだ。梅の花が麗しいのは雪に耐えたからだし、楓は霜を凌いでこそ真赤に紅葉する。この天の意とする所が分かれば、自分の安楽を謀ることなぞ、どうしてできようか。──梅に関係ある英傑をもう一人挙げよと言われれば、当然梅里・水戸光圀公だ。徳川光圀公は徳川将軍第三代・家光公の寛永五年(1628)に生誕。水戸徳川家二代目の藩主。18歳の時、「史記」の伯夷列伝を読んで感奮するところがあり、30歳の折、江戸駒込の屋敷で学者を集めて「大日本史」の編纂事業を始めた。
∇45歳に史局を小石川邸内に移し、「春秋左氏伝」から語を取って「彰考舘」と名づけた。元禄四年、水戸の西山荘に居を移し、事業を続けながら亡くなるまでの10年をこゝで過した。「大日本史」は水戸藩の継続事業として光圀公死後も書き綴られ、全巻約400巻が完成したのは明治39年。朝廷と臣民との「君臣の義」を明らかにし、君臣の名分を正さんとした。光圀公は「大日本史」編纂事業にあたり、公自身は全国漫遊をしていないが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めた。儒学を中心とした広汎な学識と、西山荘で気さくに社寺民間の人々と交流した人柄の中から、自然と「世直し=勧善懲悪」の水戸黄門漫遊記が生まれたのであろう。光圀公が死去した際、江戸の町には次のような狂歌が広まった。<天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門>。 諡(おくりな)を義公、梅里と号した。梅雑話は話せばきりがない、明日は桜雑話を──。
∇<精度競う桜予想民間3事業者 独自の工夫こらす──桜の開花予想をしている「日本気象協会」(東京)と「ウェザーマップ」(同)、「ウェザーニューズ」(同)の民間主要3事業者の新しい予想が、23日までに出そろった。いずれもおおむね平年並みかやや早い傾向だが、それぞれ独自の工夫をこらして精度を競い合っている。……気象協会は、花芽の成長に影響する前年秋からの気温に基づく独自の計算式を導入。Wマップは、気温と開花日の関係や今後の予想気温について1万通りのシミュレーションを実施。Wニューズは、同社会員から寄せられた開花状況のデータを加味したのが売りだ。>(2/23 共同通信 )
∇愈々桜の話題が出始めた。上記予測によれば、全国トップの早咲きは宮崎市と高知市の3月21日ごろ(気象協会)、高知市と熊本市で3月22日ごろ(Wマップ)、福岡市の舞鶴公園で3月21日ごろ(Wニューズ)。東京都心は3月25日~27日ごろ(Wニューズ、気象協会、Wマップ)、遅い青森市では4月22日~24日ごろ(Wニューズ、気象協会)。尚、気象庁は1955年から毎年続けてきた桜の開花予想を昨年から行わないことにしている。<開花日の誤差は、民間の予想でもほぼ同程度。国として行うべき業務かどうか 総合的に勘案して廃止を決めた。標本木の開花や満開の観測そのものは続ける。><最近は、民間気象会社が開花予想日を発表しており、国の 業務として続ける必要がなくなった。>、という理由から。(気象庁2009年12月発表)
∇桜開花予想の「桜」とは、周知の通り「ソメイヨシノ」である。又、一定の条件を満たした「標本木」のいずれかの木に三輪以上の花が咲いた状態を「開花」と呼ぶのだそうだ。たかが「桜の開花予想日」、と思ってはいけない。先年、気象庁の予想が3日遅れたばかりに数十件の苦情が殺到したそうだ。桜に関連するイベントが多く、日程が狂うと主催者側はオオワラワ。そこで気象庁は汚名返上へ向け、大型コンピューターを導入するなどして、過去30年分の膨大なデータの分析に取り組んでいた。開花予想を弾く推測統計回帰式は、かつての気象庁の例でいえば、{温度変換日数 =exp{(9.5×103×(日平均気温-15))÷((日平均気温+273.15)×288.15)}というものだそうである。「桜の開花予想日」に大騒ぎするのは日本ならではのこと。
∇それにしても、時節の変遷は速いもの。「梅便り」が聞かれ、各地での梅見の話題が先日まであったと思えば、もう「桜開花予想」へと話題が移っている。まさしく<天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや>である。我が「21世紀の森と広場」では、南口の白梅・紅梅が咲き揃い、最後の“盛り”を納めんと、園内に訪れる人々のカメラのシャッターが忙しい。──ところで、千葉大教育学部・青木真由子さんの「日本における植物季節の推移」(02年度)という卒論を面白く読んだことを思い出した。1951~2000年の50年間の気象庁植物季節観測データを統計分析した研究である。それによると次の傾向がみられた。(1)一般的に冬~夏の植物季節は早くなっており、逆に夏~冬の植物季節は遅くなっている。両者を比較すると、夏~冬の遅れがより顕著である。 (2)「サクラの開花」や「サクラの満開」など冬~夏の現象で多くの種が早くなっているのは北海道、九州、四国である。(3)夏~冬の現象は多くの種が北海道から九州まで南下するにつれてだんだん遅くなる。
∇要するに、気温変化で表現すれば、春が早く到来して夏に至り、冬寒の季節になるのが遅く、春の到来は日本の南端・北端共に早く、南下するほど冬の期間が短くなっている、ということか。臆面なく言えば、日本列島全体が温暖化して、所謂季節感を表すはずの植物が、その役割を喪失しつゝある、と読んで大過なかろう。確かにその通りで、俳句の季語なども植物に限れば、実態にそぐわぬ場合が多く、過去の句をそのまゝ現代に適用させて鑑賞することが難しくなっている。桜開花予想は待たれても、梅の開花予想はあまり騒がれないので、遅ればせながら、青木さんの研究を紹介しておこう。梅の開花については、当然地域ごとにばらつきはあるものゝ、やはり全体的に早くなっており、回帰分析では、この50年間で関東・中部地方で開花日が平均8日程度早くなっており、関西~九州にかけては3日程度遅れているそうである。この10年間に限って分析すればもっと急速な変化が見られるような気がする。
∇さて、さて、春咲く花には色々あるが、万葉の昔、歌に詠まれたおもだった花は梅・桜・桃・山吹・菫である。松田修著「万葉の花」によれば、梅が119首で万葉集中萩に次いで第二位。中国から渡来したばかりで珍しさも加わったのであろう。「春されば先ず咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」。これは万葉集巻第五にある、大宰府の官人たち30数人を招いて、大伴旅人の宅で梅花の宴を催した際に詠まれた山上憶良の歌。この「梅花の歌」序文に、旅人は「時に初春の令月、空気は澄んで風和み、梅は鏡前の装いを開き、蘭香り、曙の峰に雲かゝり、…鳥林に迷い、庭に蝶舞い、空には帰雁飛ぶ、その天地を背景に客人たちが部屋で酒を酌み交わす。それはもう言語を絶した自由と自足の世界だ」と梅の宴を自讃している。花といえば当初は梅のことで、万葉人にまず愛されたのは梅だった。桜は42首で第八位。そして柳が30首、山吹17首、桃7首、菫2首と続く。(古今集では梅17首、桜41首)
∇梅はバラ科サクラ属で、元来中国を原産とする。万葉集には梅、烏梅、汗米、宇米、宇梅、有米などで詠まれている。(上同) かくして梅は、万葉時代に中国の文化に伴って輸入され、平安時代以降さらに香を愛でたり、詩歌に詠まれた。「東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(菅原道真) 当初梅は大衆的な花ではなく、貴族たちの鑑賞する珍しい美花で、上掲松田修によれば、万葉集に詠まれた梅は皆な「野梅」で白梅だったそうで、万葉に紅梅を詠んだものは一首もない、という。栗田勇「花を旅する」では菅原道真公の歌を紅梅としている。これは平安時代。──老生にとって梅は紅白いずれの趣も好きだが、季節感としては“寒梅”が最も相応しく思う。梅をこよなく愛した俳人はいうまでもなく与謝蕪村だが、その清楚さと雪に耐えて凛然と咲く梅花を愛した英傑が南洲・西郷隆盛である。南洲翁は漢詩を多く残してはいないが、「外甥政直に示す」に、西郷の託す「梅」が髣髴する。
∇<一貫唯唯の諾/従来鉄石の肝/貧居傑士を生み/薫業多難に顕わる。/雪に耐えて梅花麗しく/霜を経て楓葉丹(赤)し/もし天意を識らば/あに敢えて自ら安きを謀らんや/。>。──要約すればこうだ。男児たらば、一旦諾(よし)と引き受けた以上は、鉄石の意志を以て、どこまでも貫き通す。貧乏が豪傑を生み、艱難に耐えて薫業が顕れるものだ。梅の花が麗しいのは雪に耐えたからだし、楓は霜を凌いでこそ真赤に紅葉する。この天の意とする所が分かれば、自分の安楽を謀ることなぞ、どうしてできようか。──梅に関係ある英傑をもう一人挙げよと言われれば、当然梅里・水戸光圀公だ。徳川光圀公は徳川将軍第三代・家光公の寛永五年(1628)に生誕。水戸徳川家二代目の藩主。18歳の時、「史記」の伯夷列伝を読んで感奮するところがあり、30歳の折、江戸駒込の屋敷で学者を集めて「大日本史」の編纂事業を始めた。
∇45歳に史局を小石川邸内に移し、「春秋左氏伝」から語を取って「彰考舘」と名づけた。元禄四年、水戸の西山荘に居を移し、事業を続けながら亡くなるまでの10年をこゝで過した。「大日本史」は水戸藩の継続事業として光圀公死後も書き綴られ、全巻約400巻が完成したのは明治39年。朝廷と臣民との「君臣の義」を明らかにし、君臣の名分を正さんとした。光圀公は「大日本史」編纂事業にあたり、公自身は全国漫遊をしていないが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めた。儒学を中心とした広汎な学識と、西山荘で気さくに社寺民間の人々と交流した人柄の中から、自然と「世直し=勧善懲悪」の水戸黄門漫遊記が生まれたのであろう。光圀公が死去した際、江戸の町には次のような狂歌が広まった。<天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門>。 諡(おくりな)を義公、梅里と号した。梅雑話は話せばきりがない、明日は桜雑話を──。