残照日記

晩節を孤芳に生きる。

父母の恩

2011-02-02 08:37:32 | 日記
【ふるさと】 (大木惇夫)

朝かぜにこほろぎなけば
ふるさとの水晶山も
むらさきに冴えたらむ

紫蘇むしる母の手も
朝かぜに白からむ

∇今日2月2日は母親の3回忌。享年84歳だった。故あって父母とボタンを掛け違い、実家と暫く疎遠であった。幸い親孝行の末弟夫妻が両親を看てくれていた。葬式には参列したが、家内の癌が再発して入院手続きの最中だったため、通夜で焼香をしただけで翌朝とんぼ返りした。父は前年96歳で亡くなっている。実母は老生が6歳の時盲腸が悪化して亡くなった。享年35歳だった。当時、父は大学の助教授で、4人の子どもを抱えていた。教え子の皆川さんという女性の紹介で、我家に新しい母親が来てくれた。帰り際にまとわりついて離れない老生に牽かれて決意した、と後日母親が語ってくれた。腕白時代に、久松潜一「万葉秀歌」、西条八十「詩の生まれるまで」を叩き込んでくれた母。腹違いの長姉のことで悩み抜き、老生小学5年生の遠足の前日にトラブルが高じて家を出た。翌日の遠足を諦めて寝てしまったが、夜中に台所でコト/\炊事の音がする。起きてみたら、おにぎりを作ってくれていた母。……

∇時折父母の恩に十分応えられなかったことに心痛める。父からは人生を勤勉かつ地道に生きることを、母からは「偉くならなくてもよい、善い人になりなさい」と教えられた。家内の父親からも、彼が口癖にしていた「人の振り見て我が身を正せ」を──。我々の父母に限らず、我々の先輩たちは、個々人がそれぞれの信念をもって、筋を通して生きていたな、とつくづく思う。彼らには、強靭な精神的バックボーンがあった。往時の勢いはすっかり失せてしまったとはいえ、敗戦後の日本が、世界に冠として今日の隆盛を誇っているのは、紛れもなく先輩たちのおかげである。現在の政治や景況がどうあれ、自由で平和な日本に生まれ育ったことを、心から幸せだと思っている。以心伝心というか、たま/\過去の新聞切抜を整理していたら<嫁ぐ日の朝に厳父が独り言>という朝日新聞「声」の欄の記事が出てきた。

≪昭和23年の福井地震で姉が亡くなってから、父は特に私を可愛がっていたと、周りの人たちは言う。しかし、当時の私には厳しい怖い父としか映らなかった。殴られた記憶もある。 私が嫁ぐ日の朝、父は「風呂沸いてるぞ」と声をかけてくれた。ちょうど良いお湯加減。底板を押さえながら、体を五右衛門風呂に沈めた。壁を隔てた炊き口で、父が私に聞こえるように独り言のように言った。「言いたいことがあっても一晩考えろ。いったん出た言葉は元にはもどらないぞ」と。そして、薪をくべながら歌い始めた。「となりの村へお嫁入り、おみやげはなあに、かごのオウム、言葉もたったひとつ、いついつまでも」(藤浦洸作「南の花嫁さん」) 父の歌を聞いたのはその時が初めてのような気がする。あの日から40年余りの時が流れ、その父も亡く、五右衛門風呂もない。お見合いで姑、小姑の多い家へ入っていく娘が気になったのだろう。今私があるのはあの時、父の言葉と歌を心で聴けたからだと思う。(福井市62歳 前田益枝)≫

∇「論語」(陽貨篇)に曰く、<(弟子の)宰我が、父母の死後、子供が三年間(実質二十七ヶ月)、親の喪に服す決まりがあったのに反発して、「そんなに長い期間喪に服していたら、礼・楽そのものが行われず消滅してしまいます。一年でいいのではないでしょうか」、と孔子に訊いた。すると、孔子はキットなって言った。孔子「お前は親が死んで、僅かに一年経っただけで、米の飯を食い、美服を着て平気なのか」。宰我「別に平気ですけど」孔子「お前が平気だったらそうするがよい。君子たるもの喪に服している間は、何を食ったってうまくないし、どんな音楽を聞いても楽しくないもんだ」 そう言われて宰我が退出すると、孔子は嘆かわしい顔をしてこう言った。「子供は生まれてから三年経ってやっと父母の懐から離れる。三年も子を心配してくれたその父母への思いが『三年の喪』というしきたりになったのに。 宰我には、父母への三年の愛すらないのか、冷たいやつだ」>と。(ウーム!)

∇この章は、「礼楽の存続」と「三年の喪」の是非や、この時の宰我がいかなる状況でこの言葉を発したのかを詮索すると、朱子や伊藤仁斎・荻生徂徠らが指摘するように複雑な問題を含んでいるが、それらを一切度外視して孔子の一言、「父母への三年の愛すらないのか」を読むと、じーんと身に詰まされる思いが湧いてくるのを覚える。孝道の実践者として名高い中江藤樹の著した「翁問答」がそれを説明して余りある。親不孝者であった老生だが、父母の「慈愛かくの如くの苦労」があってこそ、今日の自分があることだけは忘れずにいようと思う。そして父母たちの訓え<人生を勤勉かつ地道に生きよ><偉人によりも善人になれ><人の振り見て我が身を正せ>を、亡妻と我家の家訓にしてきたことをも。母親の三回忌に当り改めて晩節の生き方を確認した次第である。以下に「翁問答」の一節を──

≪孝徳を明らかにしようと思えば、先ず父母の恩徳を思いみるがよい。胎育の始めより十ヶ月間、母は懐孕の苦しみを受け十病九死の身となり、父は母子安穏なるを憂えて千辛万苦する。臨産の時がくれば、母親は身を切り裂く懊悩を受け、父は煩熱の苦しみを抱く。幸いに無事に生まれてから三年間は、眠らせ、湯浴みさせ、衣装身繕い、哺乳と子の安穏を思わない時はない。風邪をひいたといっては医者に連れ、天に祈って回復を願う。年頃になればよい先生に就いて勉学させんと努力し、利口であろうとなかろうと、それぞれが家業を立て、富み栄るよう謀り願う。父母の慈愛とは、かくの如き苦労を積んで子の身を養い育てゝくれたものなので、子たる者の一身毛一筋に至るまで、父母の千辛万苦の厚恩ならざるはない。父母の恩徳は、天よりも高く、海よりも深い。──あまり広大無類の恩なるが故に、凡夫は、親に報いんことを忘れ、かえって恩ありとも恩なしとも思わなくなってしまっているのだ。(嗚呼)≫