≪孔子曰く、君子に三戒あり。少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色(色欲)に在り。其の壮なるに及んでは血気方(まさ)に剛なり、これを戒むること闘(とう=争闘)に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得(貪欲)に在り。≫(「論語」季氏篇)
<買春疑惑のベルルスコーニ首相、逆ギレ?「国を訴える」──イタリアのベルルスコーニ首相(74)は9日、17歳(当時)のモロッコ人少女との買春疑惑について「事実無根」とし、検察の捜査で被害を受けたとして国を提訴する考えを明らかにした。フラティニ外相は欧州人権裁判所(仏ストラスブール)に提訴する可能性を示しており、国の最高権力者である首相が国を訴えるという前代未聞の「暴挙」となりそうだ。追い詰められた首相が死に物狂いの反撃に転じているようだ。>(2/10 朝日新聞)
∇イタリアは、首相の買春疑惑でさえも寛大なる国民性があるとみえる。首相退陣のデモは起きていない。ベルルスコーニ首相は、ミラノ地検が起訴手続きと即時裁判の実施を当地地裁に求めたことに「茶番で面汚し。検察官の手荒い捜査に対して代償を払わせるよう国を訴える」等々反撃しているそうだが、買春という下劣極まりない行為の疑惑当事者であること自体に“恥”を感じないのだろうか。エジプトでは「居座り」ムバラク大統領に、市民らが即時辞任を求めて各地で大規模デモが勃発した。演説で憲法規定に従い、権限を副大統領に委譲すると表明したまではよかったが、引き続き大統領ポストに留まるつもりだったからだ。市民はもう結構です、退陣して下さいと希求しているのに、「私はこの国で生まれ、この国で死ぬ」とか、今まで貢献してきた「名誉」が私にはあるとか言って。11日夜やっと辞任した。(ヤレ/\)
∇孔子は「君子の三戒 」として、若者は色欲、壮年は争闘、老人は貪欲に気をつけろと言ったが、人間幾つになろうが、位人臣を極めようが、色欲・財欲・権力欲・名誉欲等を抑制することは至難な業であるようだ。しかもそれを正当化するために、上記両元首ではないが、幾らでも屁理屈をひねり出してくるのである。我が国にも卑近な例がある。小沢「陸山会事件」である。少なくとも三人の秘書が裁判にかけられている“道義的責任”と、国会議員として“説明責任”を果たすべき小沢氏が、党の勧告を無視するどころか、離党等の処分は「私一個人の問題ではなく、健全な政党政治と民主主義の発展にとって妥当ではない」と拒否したり、2・26事件を引き合いに出して、それは政治の本来の任務を果たせなかった結果だと現政権を批判したりしている。自分の「政治とカネ」をめぐる問題はどうなのか、その事には一切触れずに、である。
∇こうした“バカ殿達”による欲得尽の“悪しき素行”は「鬼平犯科帳」の台詞ではないが「いつの世も絶えない」。そしてそれは決まって突然の「崩壊」で終わる。近代の強烈な例では、ドイツのヒトラー、ルーマニアのチャウシェスク。ナチス政権のホロコーストによって殺害されたユダヤ人は600万人以上といわれる。ヒトラーは狂信的民族優先欲・権力固執欲。最期はドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕内で妻エヴァ・ブラウンと共に自殺したとされる。チャウシェスクは親族ぐるみの権力欲と国民生活を省みない金銭物質欲。国民の反感をバックに勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、2時間にわたりテレビ放映された裁判を経て、最期は妻・エレナとともに公開銃殺刑にされた。そして中国古代の王朝「夏」「殷」「周」の滅亡原因の総てが色欲にあったのは、「前車の轍」として記憶されるべきだ。
∇「夏王朝」最後の王は桀王という暴君だった。桀王は不徳者で、生活は贅沢三昧。人民に重税をかけ、玉をちりばめた宮殿や楼台を造っては遊興に耽った。末喜(ばっき)という美女をことのほか溺愛し、彼女の言うことなら何でも従ってしまう。肉を山と積み、乾肉((ほしにく)を林の如くつるし、大きな池を掘ってこれに酒を満たし、そこに舟を浮かべて、太鼓をドンと鳴らすと三千人の宮廷人が裸で飛び込んで、牛のように酒を飲む姿を末喜(ばっき)と二人で眺めては狂喜していた。関龍逢という賢臣がその暴政や過度の遊興を見かねて諫言すると殺されてしまう始末。こんな暴君だったから、国は乱れ、人民は喘ぎ、遂に諸侯が桀王追放に立ち上がった。遂に湯(とう)という大名に放伐された。次の「殷王朝」も「桀紂」と並び称せられる悪玉・紂王(ちゅうおう)の代で滅亡した。姐已(だっき)という女性の色香で傾国に……。
∇才能溢れた君主であったが、姐已を寵愛し、彼女の言うことなら何でも聞いた。卑猥な音楽を作らせ、賦税を重くし、鹿臺という高殿に多くの銭を蓄え、多くの奇物や野獣飛鳥を集めては、広大な庭園に放ち飼いして遊興に耽った。そして“酒池肉林”、即ち酒を注いで池とし肉を懸けて林とし、男女を裸にして、その間を駆けさせ、一晩中酒宴を張る始末。諸侯の中に叛(そむ)く者が出てくると「炮烙(ほうらく)の刑」といって銅の柱に油を塗り、炭火で焚いて罪人にその上を渡らせ焚死させた。兄や賢臣が戒めたが聞かれず、周の武王に滅ぼされた。次の「周」は十代目の幽王の時、王朝滅亡の危機に遭遇した。これも女性問題。王が寵愛した褒 ji(ほうじ→jiは、女+以)は、何があっても笑わない性質(たち)だった。彼女の笑顔を一目みたい幽王は色々やってみるが一向に笑わない。
∇そこで一策を案じたのが烽火(のろし)作戦だった。当時辺境の外敵が侵入すると烽火をあげて諸侯の応援を求める取り決めがあった。幽王は、外敵がこないのに烽火をあげさせた。諸侯が「すわ一大事」と都に馳せ参じてみると、都はどこ吹く風かという静けさ。諸侯が拍子抜けした顔つきをしているのを、褒jiが高殿で見ていて始めて笑った。幽王が喜んでしばしばこれをやるので諸侯は誰も信用しなくなった。その後辺境の異民族犬戎(けんじゅう)が攻めてきた時、烽火を上げて救援を求めたが誰も駆けつけず、幽王は驪山(りざん)の下で殺害されてしまった。以上は「史記」の「本紀」から。──これらは総て色欲によるもの。女性問題で国を傾けた例は世界中のどの国にもある。その他の“バカ殿達”の幾例かを「春秋左氏伝」から──
∇衛の懿(い)公は鶴を好み、鶴を高位高官に任じたりして大事にした。戦争が始まると、兵たちは「鶴は過大な禄位を与えられている。鶴を使えばいゝ、小禄者の我々がどうして戦う必要があろうか」と不満タラ/\。そんな殿様だったので北方異民族の狄が衛に攻めて来た時、あえなく戦死した。これは鶴寵愛欲。晉の霊公は不君だった。楼台上から下にいる人間めがけて石を投げる。それを避ける人間模様がたまらなくて戒められても止めなかった。又、熊の掌がよく煮えていないというだけで料理長を殺した。程なく趙盾一族に滅ぼされた。これは遊戯欲・自分勝手欲(或は変態?)。私腹を肥やす“バカ殿達”の末路は「論語」の次の一文で十分だろう。<斉の景公は四千頭もの馬をもつほど私腹を肥やしながら、重税を賦し、人民には何ら恩恵を与えなかったので、景公が死んだ日、誰も涙を流さなかった。>(季子篇)
∇「ばか」は「馬鹿・莫迦」を当てるが、「広辞苑」に<梵語のmoha、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字>とある。「史記」秦本紀に文字通り「馬鹿」の語源を思わせる逸話がある。<秦の皇帝二世・胡亥の時代に権力をふるった丞相の趙高が政権乗っ取りを企てた。群臣の内の誰が自分に従うか心配だったので、試してみようと、鹿を連れてきて二世に献じ、「これは馬でございます」と言った。二世が笑いながら言うには、「丞相も間違うものか、鹿を馬と言った」と言い、左右の近臣に問うと、ある者は黙り、ある者は「馬に相違ありません」と言って趙高におもねり、又、ある者は「鹿でございます」と応えた。趙高は密かに鹿だと言った連中を罪に落しいれて処刑した。以後、群臣は皆、趙高を懼れた。> 権力で脅す者と迎合する者、それが合体した時、一国の腐乱と悲劇が始まる。政道に対する国民監視の目と退陣させる勇気がそれを抑止することを忘れないようにしたい。
<買春疑惑のベルルスコーニ首相、逆ギレ?「国を訴える」──イタリアのベルルスコーニ首相(74)は9日、17歳(当時)のモロッコ人少女との買春疑惑について「事実無根」とし、検察の捜査で被害を受けたとして国を提訴する考えを明らかにした。フラティニ外相は欧州人権裁判所(仏ストラスブール)に提訴する可能性を示しており、国の最高権力者である首相が国を訴えるという前代未聞の「暴挙」となりそうだ。追い詰められた首相が死に物狂いの反撃に転じているようだ。>(2/10 朝日新聞)
∇イタリアは、首相の買春疑惑でさえも寛大なる国民性があるとみえる。首相退陣のデモは起きていない。ベルルスコーニ首相は、ミラノ地検が起訴手続きと即時裁判の実施を当地地裁に求めたことに「茶番で面汚し。検察官の手荒い捜査に対して代償を払わせるよう国を訴える」等々反撃しているそうだが、買春という下劣極まりない行為の疑惑当事者であること自体に“恥”を感じないのだろうか。エジプトでは「居座り」ムバラク大統領に、市民らが即時辞任を求めて各地で大規模デモが勃発した。演説で憲法規定に従い、権限を副大統領に委譲すると表明したまではよかったが、引き続き大統領ポストに留まるつもりだったからだ。市民はもう結構です、退陣して下さいと希求しているのに、「私はこの国で生まれ、この国で死ぬ」とか、今まで貢献してきた「名誉」が私にはあるとか言って。11日夜やっと辞任した。(ヤレ/\)
∇孔子は「君子の三戒 」として、若者は色欲、壮年は争闘、老人は貪欲に気をつけろと言ったが、人間幾つになろうが、位人臣を極めようが、色欲・財欲・権力欲・名誉欲等を抑制することは至難な業であるようだ。しかもそれを正当化するために、上記両元首ではないが、幾らでも屁理屈をひねり出してくるのである。我が国にも卑近な例がある。小沢「陸山会事件」である。少なくとも三人の秘書が裁判にかけられている“道義的責任”と、国会議員として“説明責任”を果たすべき小沢氏が、党の勧告を無視するどころか、離党等の処分は「私一個人の問題ではなく、健全な政党政治と民主主義の発展にとって妥当ではない」と拒否したり、2・26事件を引き合いに出して、それは政治の本来の任務を果たせなかった結果だと現政権を批判したりしている。自分の「政治とカネ」をめぐる問題はどうなのか、その事には一切触れずに、である。
∇こうした“バカ殿達”による欲得尽の“悪しき素行”は「鬼平犯科帳」の台詞ではないが「いつの世も絶えない」。そしてそれは決まって突然の「崩壊」で終わる。近代の強烈な例では、ドイツのヒトラー、ルーマニアのチャウシェスク。ナチス政権のホロコーストによって殺害されたユダヤ人は600万人以上といわれる。ヒトラーは狂信的民族優先欲・権力固執欲。最期はドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕内で妻エヴァ・ブラウンと共に自殺したとされる。チャウシェスクは親族ぐるみの権力欲と国民生活を省みない金銭物質欲。国民の反感をバックに勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、2時間にわたりテレビ放映された裁判を経て、最期は妻・エレナとともに公開銃殺刑にされた。そして中国古代の王朝「夏」「殷」「周」の滅亡原因の総てが色欲にあったのは、「前車の轍」として記憶されるべきだ。
∇「夏王朝」最後の王は桀王という暴君だった。桀王は不徳者で、生活は贅沢三昧。人民に重税をかけ、玉をちりばめた宮殿や楼台を造っては遊興に耽った。末喜(ばっき)という美女をことのほか溺愛し、彼女の言うことなら何でも従ってしまう。肉を山と積み、乾肉((ほしにく)を林の如くつるし、大きな池を掘ってこれに酒を満たし、そこに舟を浮かべて、太鼓をドンと鳴らすと三千人の宮廷人が裸で飛び込んで、牛のように酒を飲む姿を末喜(ばっき)と二人で眺めては狂喜していた。関龍逢という賢臣がその暴政や過度の遊興を見かねて諫言すると殺されてしまう始末。こんな暴君だったから、国は乱れ、人民は喘ぎ、遂に諸侯が桀王追放に立ち上がった。遂に湯(とう)という大名に放伐された。次の「殷王朝」も「桀紂」と並び称せられる悪玉・紂王(ちゅうおう)の代で滅亡した。姐已(だっき)という女性の色香で傾国に……。
∇才能溢れた君主であったが、姐已を寵愛し、彼女の言うことなら何でも聞いた。卑猥な音楽を作らせ、賦税を重くし、鹿臺という高殿に多くの銭を蓄え、多くの奇物や野獣飛鳥を集めては、広大な庭園に放ち飼いして遊興に耽った。そして“酒池肉林”、即ち酒を注いで池とし肉を懸けて林とし、男女を裸にして、その間を駆けさせ、一晩中酒宴を張る始末。諸侯の中に叛(そむ)く者が出てくると「炮烙(ほうらく)の刑」といって銅の柱に油を塗り、炭火で焚いて罪人にその上を渡らせ焚死させた。兄や賢臣が戒めたが聞かれず、周の武王に滅ぼされた。次の「周」は十代目の幽王の時、王朝滅亡の危機に遭遇した。これも女性問題。王が寵愛した褒 ji(ほうじ→jiは、女+以)は、何があっても笑わない性質(たち)だった。彼女の笑顔を一目みたい幽王は色々やってみるが一向に笑わない。
∇そこで一策を案じたのが烽火(のろし)作戦だった。当時辺境の外敵が侵入すると烽火をあげて諸侯の応援を求める取り決めがあった。幽王は、外敵がこないのに烽火をあげさせた。諸侯が「すわ一大事」と都に馳せ参じてみると、都はどこ吹く風かという静けさ。諸侯が拍子抜けした顔つきをしているのを、褒jiが高殿で見ていて始めて笑った。幽王が喜んでしばしばこれをやるので諸侯は誰も信用しなくなった。その後辺境の異民族犬戎(けんじゅう)が攻めてきた時、烽火を上げて救援を求めたが誰も駆けつけず、幽王は驪山(りざん)の下で殺害されてしまった。以上は「史記」の「本紀」から。──これらは総て色欲によるもの。女性問題で国を傾けた例は世界中のどの国にもある。その他の“バカ殿達”の幾例かを「春秋左氏伝」から──
∇衛の懿(い)公は鶴を好み、鶴を高位高官に任じたりして大事にした。戦争が始まると、兵たちは「鶴は過大な禄位を与えられている。鶴を使えばいゝ、小禄者の我々がどうして戦う必要があろうか」と不満タラ/\。そんな殿様だったので北方異民族の狄が衛に攻めて来た時、あえなく戦死した。これは鶴寵愛欲。晉の霊公は不君だった。楼台上から下にいる人間めがけて石を投げる。それを避ける人間模様がたまらなくて戒められても止めなかった。又、熊の掌がよく煮えていないというだけで料理長を殺した。程なく趙盾一族に滅ぼされた。これは遊戯欲・自分勝手欲(或は変態?)。私腹を肥やす“バカ殿達”の末路は「論語」の次の一文で十分だろう。<斉の景公は四千頭もの馬をもつほど私腹を肥やしながら、重税を賦し、人民には何ら恩恵を与えなかったので、景公が死んだ日、誰も涙を流さなかった。>(季子篇)
∇「ばか」は「馬鹿・莫迦」を当てるが、「広辞苑」に<梵語のmoha、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字>とある。「史記」秦本紀に文字通り「馬鹿」の語源を思わせる逸話がある。<秦の皇帝二世・胡亥の時代に権力をふるった丞相の趙高が政権乗っ取りを企てた。群臣の内の誰が自分に従うか心配だったので、試してみようと、鹿を連れてきて二世に献じ、「これは馬でございます」と言った。二世が笑いながら言うには、「丞相も間違うものか、鹿を馬と言った」と言い、左右の近臣に問うと、ある者は黙り、ある者は「馬に相違ありません」と言って趙高におもねり、又、ある者は「鹿でございます」と応えた。趙高は密かに鹿だと言った連中を罪に落しいれて処刑した。以後、群臣は皆、趙高を懼れた。> 権力で脅す者と迎合する者、それが合体した時、一国の腐乱と悲劇が始まる。政道に対する国民監視の目と退陣させる勇気がそれを抑止することを忘れないようにしたい。