残照日記

晩節を孤芳に生きる。

老後人生試論

2011-02-17 16:02:40 | 日記
<もう去るべき時が来た。──私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうち、いずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がいない。……>(「ソクラテスの弁明」岩波文庫版)<日の下に新しきことなし。(コーヘレト) 人生を四十年間観察しようと、一万年観察しようと同じことだ。これ以上何を見ようか。>(マルクス・アウレーリウス「自省録」岩波文庫版)

∇今までの経過──<衰弱の妻、放置死の疑い 67歳夫「面倒くさかった」><山口県で81歳の妻が84歳の夫の首をスカーフで絞めて殺害した><神奈川県で81歳の認知症の妻の首を85歳の夫がタオルで絞めて殺害した>等々、一連の“老老介護”による「介護疲れ」での殺人事件が頻発している。山口県の事件を報道で知り、87歳の病夫を6年余介護し続けている82歳の某主婦が、朝日新聞「声」の欄に「長寿ってちっともめでたくない」という一文を投じた。それをきっかけに、長寿社会にどっぷり漬かっている老生自身も、“限りある晩節”をどう生きるかの模索が始まったのであった。今流行の白熱教室・サンデル教授流に言えば、上記被告3人を罰する“正義”はどこにあるのか。そもそも人生に意味・意義はあるのか、を問い、「死」という“限界状況”が厳然と待ち構えている限り、理論的には人生に意味・意義はない、換言すれば、人生は“不条理”である、というところまで辿りついた。

∇<生きているということはそれ自体偶然に過ぎない。従って人生に意味などなある訳がない。だから人生の意味は自分で見つけるしかない>(J・P・サルトル)という言葉が重みを増してくる。ジャカール+テヴォスらは「安らかな死のための宣言」で、<人には安楽死であれ、一般的には自殺であれ、「安らかな死」への権利がある。自ら死を選ぶこと、それは一生の終わりに自分の署名を入れることだ>とその書で断言した。一方でA・カミユは、神話に出るシーシュポスに模して、不条理に耐え、抗して敢然と生きることを提案した。その過程に人間としての自由と情熱が存在し、<死への誘いであったものを、生の掟に変える>ことができる、故に自殺を拒否する、と。もう一つの不条理への対応が宗教や東洋哲学に依存するやり方だった。神、天、仏、或は自然等々、呼び名は異なるが、浅薄な“人間智”に拘ることを放擲して、それを超えた大きな「何か」に身を任すことである。どの道を選ぶかは、個々人の選択に委ねられている。

∇敢て言えば、カミユの道は知的で高尚かつ挑戦的で、必然的に反社会的な生き方に向かう。かなり強烈なパワーが必要な壮年までの生き方だともいえる。カミユも晩年には<不条理なるがゆえにいっそうよく生きられる>という寛柔された考え方へ再統合している。パスカルは<人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。…だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。…よく考えることを努めよう>と言ったが、不条理の問題を考える意義はあるが、正解はない。荘子曰く、<私と君が言い争っているとしよう。君が勝てば私の負け、私が勝てば君が負ける訳だが、果たして勝った方が是で、負けた方が非なのだろうか。真実か否かの絶対的判定者がいないのだから判定できない。仮に第三者がそこに現れて、君の主張に同調したり、又は逆に私に加担したとしよう。それとても単に「第三者」というもう一人がどちらかと意見を同じくしただけのこと。君と私の考えが同じでかつ第三者が賛成した場合も同様だ。皆が同じ意見だっただけの話だ>と。(斉物論篇)

∇要するに、人生とは何か、その意義は何処にありや、という問題に対する理論的正解は無い。思惟する者が勝手に出せばいい。その是非は問えないし、又、問う必要もない。本人が納得すればそれでよいのだ。たゞ老人たちにはそんなことに耽っている時間は残されていない。もう考えることをやめて、宗教や東洋思想に逃げ込むのが得策だろうと思う。尚、儒教の立場としては「孟子」に、<人間の寿命・吉凶禍福は総て天命によるものだ。尽くすべき事々を順々と行い、天に任せよ。危ない巌の下に立つ危険は避けよ>(尽心篇)とある。さあ一通り考察し終わった。もう一度悟ろう。<人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを>(「コーヘレト」)と。要するに人間の生死を神聖化する必要はない。この地上を去るときに、どうしたらひどい苦しみを味わわずに済むか、それを考えることが残された問題だ。

∇個人的には、縷々述べて来たように、人生が不条理であり、現在如何に健康で楽しく幸せを満喫していようとも、やがて断末魔に襲われることを“重々承知”して、その上で達観した晩節を過す。出来るだけ楽しく、である。ジンテーゼの帰結は、ゲーテの楽観主義的な生き方を改めて推奨するのである。但し、単純能天気な楽観主義ではなく、厭世主義的楽観主義(pessimistic optimism)で! 人生は不可解、故に「ケ-セラ-セラ」=なるようになる。その分、病魔に冒され長患いする可能性や、断末魔の苦しみを覚悟しておかなければならない。老老介護の介護役を引き受けることが待ち受けていることも。──家族の不条理に対してはどうするか。第一は、日頃からお互いの「人生論」を徹底的に話し合っておく。縁戚や知友に、数少なくてよいから「親友(心友)」を作り、夫婦の考えに対する理解を深めてもらっておく。フランクで入魂なる近所付き合いを心掛け、公的制度を熟知し利用できる準備を怠らない。可及的に「自宅外介護」を志す。不治の難病には無駄な延命策を採らず、安楽死への意思表示を事前に心友・医師に依頼しておく。兎に角一人で抱え込まない! そしてあとは“祈る”。真剣に祈って総てを神に天に仏に委ねる。どうあれ、結果を素直に受け入れる。後は静かに時の流れに任せる。とりあえず、こゝまで。これをテーゼとして、又、アンチ・テーゼ→ジンテーゼを繰り返していくしかない。……