残照日記

晩節を孤芳に生きる。

百足ちがい

2011-02-05 09:39:22 | 日記
《探春》 戴益 

盡日尋春不見春
芒鞋踏遍隴頭雲
歸來適過梅花下
春在枝頭已十分

<尽日春を尋ねて春を見ず/芒鞋(ぼうかい)踏みて遍(あまね)し、隴頭(ろうとう)の雲/帰り来たりて適(たまたま)梅花の下を過ぐ/春は枝頭に在りて已に十分>(終日春を探しに芒鞋(くつ)を履いて隴山の上の雲などを見ながらあちこち歩き回った。帰宅してふと気がつけば、頭上に梅花。おゝ何だ、こゝに春があったわい)

∇<やったあ~~私もたまごが立ちました!!良い事がありそうです。>とは「みたかの敦子」さん。やることが手早い。きっと良い事があると思います。又、そうあって欲しい。──武士道を論じた書として有名な「葉隠」に、面白い記事がある。<勝茂公は、かねがね奉公人には4種類あると言われていた。「急だらり」「だらり急」「急々」「だらりだらり」である。「急々」というのは用事をいいつけた時、素早く受けあい、速やかに事を処理する者のことで、これは最良だが、そうはいない。次に「だらり急」というのは、用をいいつけた時はさっさと出来ないが、仕上げはきちんと出来る者のことである。「急だらり」は早分りするが実務は遅く不手際が多い者をいい、こういうのが案外に多い。あとは「だらりだらり」で話にならない>。さしずめ「みたかの敦子」さんは「急々」タイプの才媛であろう。

∇ところで「良い事」や「幸せ」とは何であろうか?「葉隠」の作者山本常朝曰く、<端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙(せわ)しき事もなく、求むる事もなし。この一念守って暮らすまでなり。皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、ここを見つけ候人なきものなり>と。結局のところ重要なのは現在の一念、つまりは足下に於ける仕事や暮らしに専心すること。やるべきをやって、そして待つ。冒頭の七言絶句「探春」は宋の戴益の詩。あちこち幸せを尋ねてみたが、青い鳥は足下にいた。<山のあなたの空遠く/「幸」住むと人のいふ。/噫、われひとと尋めゆきて、/涙さしぐみ、かへりきぬ。/山のあなたになほ遠く/「幸」住むと人のいふ。(カールプッセ 上田敏訳『海潮音』より)。「急々」で爽やかな「みたかの敦子さん」には余計なお節介なる老爺心にて失礼申上げ候。

∇人間的には「だらりだらり」なのに、成果ばかり「急々」を求めた若かりし頃。マルクス・アウレリウスの「自省録」やエピクテートス「人生談義」の諸条、そして「論語」の<速やかならんことを欲するなかれ>や老荘思想で「待つ」ことを覚えた。やるべきをやって、そして待つ。きっと周りから変化が起こってくる。山本周五郎の小説「百足ちがい」がそれを語り聞かせてくれた。以下「百足ちがい」の概要を。──勘調所書記役として、江戸の上屋敷へ着任した秋成又四郎は、国許を出てすでに五年になろうとしていた。もうすぐ三十歳になる。彼の父親はかつて、寄合、運上所元締めをしていたが、稀にみる性急(せっかち)な人で、「せかちぼ」とあだ名された御仁。倅だけは沈着な人間に育てようということで、寺の住持の雪海和尚に又四郎の養育を頼んだ。雪海和尚は、中国の雲門寺で二十年も修行した師家だが、俗世で見ると徹底的なぐうたら和尚で、「人間は死ぬまで生きるだよ、何にも心配するこたぁねえだよ」と大酒を食らい、酒臭いげっぷをするだけで、年がら年中何もしない。この和尚がどうやら又四郎を気に入ったようで、「参」つなぎの処世訓をとくと聞かした。

∇世の中すべて参(三)つなぎだ。天と地と人、火と水と空気、飯を食うには膳と茶碗に箸、人間は冠・婚・葬、顔にゃあ眼と鼻と口、皆なそうだべ。人生すべて「参」じゃ。この世にはな、男が本気になて怒るようなこたぁ、からひとつもねえ。いいかお前はどんなことがあっても怒っちゃいけねえ。ぶん殴りてことがあった時は三日我慢するだ、いいな三日だ。それでも腹がおさまらねえなら三十日我慢するだ。それでだめなら三ヶ月よ。それから三年我慢して、それでも承知できねえときはそいつのところへ行って、聞いてみな、どうしてあの時俺をあんな目にあわせたかを。まあそれで大抵のことは収まるもんだ、と。なにごとも我慢、急(せ)くな騒ぐな、じたばたするな。そして三日、三十日、三ヶ月、三年、この処世訓を又四郎は守った。そのため、世間ではよく「一足ちがいだった」というが、又四郎の場合は用が足りないお人という意味で「百足(ひゃくあし)ちがい」とあだ名された。彼は黙々とやるべき今を「参つなぎ」の処世訓通りやった。その分同僚に出世を越された。時にはたまらなくなって和尚をたずねた。和尚は既に八十八歳、相変わらず二升酒を飲んでこう言うばかり。「皆な出世する? する奴はするがいいさ。皆は皆、お前はお前よ。人はそれぞれ、世はさまざま。宰相もいれば駕籠かきもいる。梅の枝には桃は咲かねえもんだ。まあまあ三十まで我慢してみな」

∇又四郎は二十九歳になると、藩主の側へ上げられ、御用係心得を命ぜられた。これは彼の勘調書勤務からいえば奇妙な人事で系統外れであった。彼としてはかなりな失望であった。ここでもう一度雪海和尚の「参」つなぎ処世訓に疑義の念が沸いたが、和尚の「三十歳まで待て」を拠りどころに気を取り直し、御用係心得の任務に専心した。翌年の三月、藩主摂津守治定のお供をして、あしかけ五年ぶりに帰国した。親友や友人達の多くがそれぞれ出世していることを聞かされ、雪海和尚も大往生を遂げたことも知った。和尚は死ぬ前にこういっていたそうだ。「世の中に、死ぬほど楽は、なきものを、浮世の馬鹿は、生きて働く。ああいい気持ちだ、それでは皆さん、ええへへへん、だんだおうぎゃあ」。そして息を引き取った、と。又四郎はひと落ち着きすると、帰国の目的である、かねてからの懸案に着手した。それはあしかけ五年前に五人の相手から不当の侮辱をうけた、そいつ等に「参」つなぎ処世訓の最後の条目、「三年たっても承知できない時は、そいつのところへ行って、ワケを聞いてみる」を実践することだった。

∇先ず一人目は城代家老三男の簡野左馬之助。訪ねてみると既に分家していて、桶屋町に住んでいるという。そこでそちらへ行ってみると、職人がたむろする貧民屈街の裏店の長屋の端にあった。左馬之助は病床に伏していて、骨だらけの手で合掌し、しゃがれ声で昔のよしみを持ち出して金策を依頼する始末。又四郎は幾ばくかの金を包んでそこを出た。後で聞いたことであるが、結婚して子を設けたが遊蕩のため離縁、家からも勘当されたという。二人目乙原丙午は御厩奉行の次男であったが、半年前、暴食が祟って胃病で死んでいた。又、三人目槍組番頭だった大村田伝内は、賭け事のために公金乱用の咎で、足軽に降格されて、旧同僚を訪ね廻っては、やれ妻が急病だ子供が餓えていると喚いて、金銭をせびっていることを知った。四人目苅賀由平二は未だ健在であり、鉄砲足軽の組頭から支配職に昇進していた。そこで又四郎は訪ねた。さすが支配役の屋敷だけあって、堂々たる構えをしていた。会えば昔通りの大言壮語に豪傑笑い、又四郎が過去の侮辱を詫びろと言っても鼻であしらう。たまりかねて明後日、早朝、水車場の川原で決闘することを決めた。

∇その足で、最後の五人目である、今は普請奉行に出世している唐川運蔵宅を訪ねた。着くや早々、馬鹿丁寧な歓迎ぶりに驚いた。「貴公はかつて『百足ちがい』等と他人にいわれていたが、俺は睨んでいた、貴公が他の雑魚共とちがうことを。出世も出世、凄いもんだ。五段も十段も跳び抜けて、もう側用人じゃそうな。こちらから伺おうと思っていた矢先だった」、と。又四郎は何の事やらさっぱりわからず、その事はさておき、五年前の無礼を詫びろというと、土下座して拍子抜けするほどの哀願ぶり。この通りだ赦してくれ、俺には愛する妻がいる。金なら幾らでも出す。どうか、どうか、と。殴る気も失せてそこを立ち去った。中一日置いて決闘場所に行ったが、苅賀由平二はこなかった。後で知ったことだが、昨夜半、妻子を伴って出奔したということだった。── かくして五年前の懸案はきれいに片がついた。後日又四郎は、一週間前に側用人に推挙され、殿様からの御意があったことを知らされた。辞令が正式に発表された日、又四郎は帰国して初めて雪海和尚が眠る太虚寺へ行った。未だ新しい大きな墓石に向かい、お辞儀をして、和尚に祈った。以下は山本周五郎の原文で。

<又四郎は桶屋町の裏長屋を思い、足軽におとされた伝内を思い、胃がやぶけて死んだという丙午を思った。豪傑笑いをして夜半に逃亡した苅賀由平二、庭へ土下座した運蔵。これらの人々の、身の上の転変と盛衰、・・・しかもすべては五年間のことである。このあいだ又四郎は「参」つなぎの百足ちがいで、人に馬鹿にされながら悠々とやってきた。そしてかれらが或いは生活に敗れ、堕落し、或いは死し、出奔して、すでに人生をなかば遣いはたしているとき、逆に又四郎は御用人にあげられ、結婚しようとしている。彼の人生は、実にこれから始まろうとしているのである。──せくこたあねえ、せくこたあ。又四郎には雪海和尚の声が聞こえるようであった。>(完) これから散歩です。良い御身分で……。