残照日記

晩節を孤芳に生きる。

架空国物語

2011-02-09 11:05:44 | 日記
∇先ずは昨日からの続きに決着を。──「最小不幸社会」という政治理念のヒントを、A・ハックスリーの「すばらしい新世界」から得たと菅首相は言っていたが、この本にはそのような言葉は一行も出てこないし、物語自体が非人間的な架空国に於ける逆ユートピアの姿を描いたSF小説だった。ではどこでこの概念が育まれたのか。周知の通り、菅氏は東工大在学中に学生運動に関わり、卒業後弁理士事務所開業の傍ら、市川房枝のもとでボランティア活動を始めた。<私の政治活動は参院選に立候補した市川房枝先生の応援から始まった>と菅氏自身が語るように、28歳の時に女史の選挙事務長を務めて当選させ、自らも30歳で出馬したが落選。34歳、「社民連」所属で3度目の挑戦で初当選したという経歴を持つ。思うに、菅首相の「最小不幸社会」概念は、政治家としてのスタートで出会った市川房枝や、当時流行していたマルクス主義思想の影響が大きいと考えられる。

∇ベンサムの「最大多数の最大幸福」は、前々回述べたように、言葉上のニュアンスに欠点があった。即ち、《多数者の幸福だけが重視され、時として、多数者の幸福のために少数者の不幸が増大して、ひいては、社会全体の幸福総量を減少させる、という誤解を招きかねない。そこで、ベンサムはこの言葉から「最大多数」を削除し、「最大幸福の原理」という言葉に短縮した》(岩波「哲学・思想事典」)。──要するに「最小不幸社会」も、ベンサム功利主義思想の踏襲なのだが、社会全体の「“不幸総量”が極小になるような社会」に重点を置いたのである。繰り返すが、社会全体の利益を、ベンサムは、<個人の幸福の極大化をとおしてなされるべきだ>、としたのに対して<個人の不幸の極小化をとおしてなされるべきだ>に置き換えたのが菅首相の「最小不幸社会」である。言うなれば、市川房枝や、マルクス主義思想の原点である“弱者”側からの視点で功利主義を説いたものだともいえる。

∇そして彼はこの「最小不幸社会」実現のために「社会的包摂(ほうせつ)」が必要だ、と続けた。「首相官邸」HPに次の説明がある。<従来の絆が希薄化する中で、…「新しい絆の創造」が必要となります。この観点から、「社会的包摂」の取組が大変重要だと考えます。不幸に陥った人を、家族だけでなく政府やボランティアも協力して社会全体で包み込むことが必要なのです。云々>と。「社会的包摂」は最近EU諸国での最重要政策課題の一つになっている政治理念。「EU・英国における社会的包摂とソーシャルエコノミー」(中島理恵)によれば、EUでは「社会的包摂」を、<貧困や社会的排除の状態にある人々が、経済、社会及び文化的な生活に参加し、当該地域社会において一般的だと考えられる標準的な生活水準及び福祉を享受するために必要な機会や資源を受けること、及び生活に影響を与える意思決定に参加を進め、基本的人権が保証される状況と定義している>という。

∇誤解を恐れずに言えば、我が国憲法の<第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。>や<第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。>等の具体的な実施が「社会的包摂」だといえる。──以上の考察から、菅首相の「最小不幸社会」の実現、そしてそのための施策としての「社会的包摂」志向は、実に優れた政治理念だと断言できる。さすれば、それは決して櫻井女史のいう<日本が必要としているのは、…前向きの政策である。後ろ向きの最小不幸社会(ではない)>でも、大前氏が言う<「最小不幸社会」などという言葉は政党としては恥ずべき敗北主義のスローガン>でもない。それなのに何故かように不評なのか。断言すれば、思想の徹底的堀下げとそれをアピールする際の“老婆心”が決定的に足りないのだ! 

∇<(ダボス会議)終了後のロビーでは、わざわざ歩み寄ってきて「素晴らしかった」と握手を求めてきてくれた外国の方もいた。「哲学的なスピーチだった」という感想もいただいた。総理として、日本のプレゼンスが示せたように思う>と自画自賛していたが、それはお世辞。A・ハックスリーの「すばらしい新世界」からだって「最小不幸社会」の概念を引き出すことが出来た。「首相官邸」HPにある<幸せや豊かさは、自由な個人がそれぞれの価値観の中で理想を抱いて追求するものです。政治という権力行為で、あなたの幸福はこれですと決めつけることは、政治が行うべき役割ではないと考えます。しかし一方では、病気とか貧困とか戦争といった、だれにとっても不幸をもたらすこと、この不幸を最小化することこそが政治という権力行為のやるべき仕事だと考えるからであります>を、もっと深く掘り下げればよかった。例えばこうだ。──

∇先ず菅首相の愛読した小説のあらましをざっと説明したあとで、≪「すばらしい新世界」の社会では「共有・均等・安定」を掲げ、機械文明の極度の発達によりその点は十分成功していた。「共有・均等・安定」は孰れの時代、何処の国の為政者にとっても重要課題の一つである。たゞ、人間的価値の多様化、即ち幸福の基準の多様化については架空物語では殆ど無視され、人間のそうした感情は総て“ソーマ”という薬でかき消された。だが、現実はそうはいかない。そうした観点でベンサムの「最大多数の最大幸福」という普遍的政策を考えた場合、この「最大幸福」の「幸福」は個々人で異なるので、どうなることが国民に共通する「幸福」なのかを一律には決め難い。即ち、政治の介入する課題ではない。しかし病気・貧困・戦争等は確実に総ての人々を「不幸」に陥れる。そうした種類の「不幸」の除去・極小化こそが政治課題である、私はそう考えたのである。云々≫と解説してみたらどうか。

∇そして「老婆心」の必要性だ。道元禅師が<住持長老にてもあれ、師匠知識にてもあれ、弟子が不当ならば慈悲心・老婆心にて、教訓誘引すべし。>(「正法眼蔵随聞記」)と言った「老婆心」のことで、<年とった女の親切心がすぎて不必要なまでに世話を焼くこと>(「広辞苑」)。 特に、殆どの人が読んだことのないSF小説・「すばらしい新世界」や、「最小不幸社会」「社会的包摂」等の耳慣れぬ思想・概念を説明する時には、この<不必要なまでに世話を焼くこと>が不可欠なのである。菅首相に限らず、この老婆心を効かすことは政治家にとって、否、我々総てにとって、最も重要な「心遣い」の一つに思える。オバマ大統領の名演説を参考にすることだ。兎に角、自己の政治理念を練るだけ練って、先ずは所属する政党議員に、そして国民一人一人にそのイメージが浮かぶ程度まで超具体化されること、それを咀嚼して分りやすい言葉や数字を使って、繰り返し/\方針演説や国会答弁の場等で敷衍していくこと。菅首相のこうした努力不足が尾を引いて、相変わらず参院予算委員会では、菅首相を「口パク人形」、政権公約を「詐欺フェスト」などと罵倒され、「熟議」どころの話ではない状態が続いている。「熟議」の前の「熟考」がまるっきり足りていないのだ。嗚呼 !