残照日記

晩節を孤芳に生きる。

続 梅・桜雑話

2011-02-28 16:39:26 | 日記
○敷島の 大和心を 人とはば 
         朝日に匂ふ 山桜花  (本居宣長)

∇桜は日本固有の花木で、桜の品種には、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラなど非常に多く、桜はこれらの総称として呼ばれている。天平の宮人たちはヤマザクラをさして桜といった。万葉集でサクラは、桜の他に「佐久良」「佐具良」「作楽」の字が用いられている。「佐」は「助ける」、「作」は「為す」意だから「良きこと・楽しきことを助け・為す花」という寓意が籠っていたのかも。桜には優雅で清楚な気品がある。女流歌人・伊勢大輔の詠った「いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな」に代表されるように、当時桜は戸外で照り映え「咲き匂う」姿が主として人々の関心事であった。

∇桜が特に愛でられるようになったのは平安時代になってからで、宮中の紫宸殿に植えられていた梅が桜の木に代わって、所謂「右近の橘・左近の桜」となってからだといわている。(栗田勇「花を旅する」)「伊勢物語」「源氏物語」「枕草子」などに梅以外の草木や花が登場してきた。花といえば桜を指すようになった。就中桜好きの筆頭は西行で、「たぐひなき花をし枝にさかすれば桜にならぶ木ぞなかりける」と賛嘆し、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」とまで詠った。

∇平安時代は仏教的な無常観が浸透した時代で、奈良時代の人々に比べて桜の「咲き匂う」優雅と気品より、「咲いて散る」桜の“移り→散る”風情を歌に託したものが目だって多くなっていく。「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」(小野小町)「久かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」(紀友則) 宮人にとっては、ヤマザクラを自然の山野ではなく、身近な宮中や私邸で庭桜として見るものになり、桜は心象表現の抽象的対象であった。

∇他方で、一般庶民は早くから社会風習としての「花見」を行事化し、桜木の下で宴を催し、春の到来を素直に喜び楽しんでいたに違いない。それは宮廷貴族など貴人の遊びと異なり、江戸の花見で知られるように、庶民の間では「花より団子」で、身分を問わず飲んで食って大騒ぎしたようだ。江戸の文人は本居宣長等万葉調歌人以外は、森鴎外の「伊沢蘭軒」にその趣が垣間見られるように、隅田川に花見舟を浮かべて漢詩を作った。漢詩の世界では、桜は渓流の風景の一雅を添えるものに過ぎない。

∇“花は桜木人は武士”(仮名手本忠臣蔵)は戯作上のこと。桜が事実「潔く散るもの」の代表となったのは、恐らく幕末であろう。吉田松陰・梅田雲濱など主として安政の大獄・桜田門外の変などに於ける志士の作を収録した「歎涕和歌集」(岩波文庫版)にそれが如実に現れている。四編あるうちの初篇を一寸めくっただけでも随所に桜の「散る潔さ」が歌に託されている。それは第二次世界大戦で出陣する若者たちに受け継がれた。戦歌「同期の桜」は下掲・細谷忠斎の短歌と類を同じくする。

○色香よりめでこそ見ゆれなべて世に
          惜しまれて散る花の心に 安嶋帯刀
○桜田の花とかばねはさらすとも
          なに撓むべき大和魂   佐野竹之助
○散る時はしばしが程の早けれど
          同じ枝に咲く山桜かな  細谷忠斎

∇こうしてみると桜は万葉・天平のような大らかな時代は朝日に匂うが如く咲く花、庶民には華やかで花盛りを楽しむ花、悲哀や無常を観じ、死を賭す境遇にある人々には咲いてパッと散る花であった。華やかに咲き短時日に散る桜は、見る人ごとに感興と沈思そして決断を想起させた。──老生は万目の花盛りのみを観桜の粋と感ずる。願わくは見る人全てが万葉人や本居宣長そして江戸庶民の如き大和心を以て楽桜して欲しいものである。国花である桜は平和の象徴でなくてはならない。

∇桜はもともと日本の花。だから古来逸話が多い。思いつくまゝ幾つか述べておくことにする。先ず「古事記」から。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の話。──天照大神の命によってこの国を統治するため、高天原から日向の高千穂峰に降りてきたニニギノミコトは、ある岬で美しい乙女に出あった。「あなたはどなたか?」と問うと、「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ=木花咲耶姫:日本書紀)と申します」「ごきょうだいは?」「姉の石長姫(いわながひめ)がおります」。ニニギノミコトは会話をしているうちにすっかり木花咲耶姫を好きになり求婚した。

∇姫が、父に相談して欲しいというのでミコトは早速、大山津見神のところに行き、姫を后にと願い出た。大山津見神はミコトからの申し出を喜び、姉の石長姫も添え、結納品を沢山持たせて嫁がせた。ところがミコトは木花咲耶姫ばかりを寵愛し、姉が醜女だったので親元へ返してしまった。父親曰く、「2人の娘をさしあげたのは、石長姫はどんな風雪でも岩のようにミコトをお守りするであろうし、木花咲耶姫は華やかに栄えらるようにと思ってのことです。木花咲耶姫だけをお気に召されたということはミコトの命は木の葉のように脆くはかなく散るでしょう」と。代々天皇の命に限りがあるのはこのゆえだ、と「古事記」は語っている。

∇この美少女・木花咲耶姫こそが、最も美しい”桜の精”であったとして「桜神話」の筆頭に掲げられてきたのである。桜の美は美人の形容とされるようになる。<花の色はうつりにけりな徒にわが身世にふるながめせしまに>と散る桜に色香の衰えを嘆じた、平安の美女・小野小町は、木花咲耶姫の再来とされた。古代の文献の中で「桜」という文字が初出するのは、「古事記」の履中天皇の治世を述べた箇所だそうで、仁徳天皇の第一皇子である履中天皇が、<伊波禮(いはれ=奈良県磯城郡)の若桜宮に座しまして、天の下治らしめしき>とある。そして「日本書紀」の「履中紀」に、次のエピソードが添えられた。

∇<治世3年(402年)の冬11月、天皇は両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)に浮かべ、妃とそれぞれの船に分乗して遊んだ。臣下の者が御酒を奉ったときに、桜の花びらが散って盃に落ちた。天皇は不思議に思い、大臣を召して、「この花は季節はずれに咲いて散った。何処の花か探してきてくれ」と命じた。大臣はひとり花を尋ねて掖上の室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とした。磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と呼ぶのはこれがその由縁とか。この日、この大臣の本姓を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)とし、先に酒を献じた臣下の者を名付けて稚桜部臣とした>…

∇「日本書紀」の「允恭紀(いんぎょうき)」にもう一箇所「桜物語」が記述されている。履中天皇が没すると反正天皇が即位するが、僅か5年で崩じた。そのあとを継いだのが允恭天皇である。允恭天皇は慈悲深い天皇だったが、壮年になって病に冒され半身不随となった。そこで新羅へ使いを使わし名医を求めたら、その年の秋医者が来日し天皇の病は治癒したので、天皇は医者を厚遇して帰国させた。允恭は、和歌に秀でた、皇后の妹で絶世の美女である「弟姫」を愛した事でも知られる。当時弟姫は、容姿端麗でまばゆいばかりの肌の細やかさから、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と呼ばれていた。皇后は天皇が妹に心奪われることがわかっていたので隠していた。允恭は、姉の心中を推し量って入宮するのをためらう衣通郎姫の元へ、再三使者を送り遂に妃になることを了承させた。

∇天皇は、皇后の嫉妬をおそれて宮中に迎える事はせず、藤原部を定めて新しく茅渟宮を造営しそこへ足繁く通うのである。治世の8年(419年)春2月、允恭天皇が藤原に御幸すると、それを知らぬ衣通郎姫は天皇を恋い慕って、「我が君が訪れてくれそうな宵である。巣を営む蜘蛛の動きが、今宵はせわしく目に付くことよ」と歌を詠んでいた。天皇は心を打たれ、「錦の腰紐を解いて、幾夜も寝たいが、そうもいかない。せめて一夜だけ共寝をしよう」と返歌を詠んだ。翌朝、天皇は井戸の傍らに咲く桜をご覧になって、「花ぐわし桜の愛で こと愛でば 早くは愛でず我が愛ずる子ら(美しい桜の花の見事さよ。同じ愛するなら、もっと早く愛すべきだった。早く賞美しないで残念なことよ。我が愛する姫よ)」と歌った。……

∇以上が「記紀」に残る古代の「桜物語」である。もう一つ「万葉集」に残る「桜児伝説」を掲げておこう。巻16の巻頭歌「由緒ある並びに雑の歌」から。──昔娘子がいた。名を桜児と言った。その娘を妻にしようと競争した二人の男があったが、その命がけの覚悟で競うのを見た娘は、一人の女が、二軒の家の嫁となった例はない。今、この二人が心から融けあうということは難しい。私さえ死ねば、二人の争いも永久に消えうせるだろうと考えて、林の中に入り込んで、樹に下がって縊れて死んだ。二人の男は悲しみに絶えず、それぞれその気持ちを歌にして詠んだ。一人の男は「春去らばかざしにせむとわが思いし桜の花は散りにけるかも(3786)」と。もう一人は…(3787 略)と。