残照日記

晩節を孤芳に生きる。

藤田嗣治

2011-02-10 07:10:21 | 日記
≪ふるさとは遠きにありて思ふもの≫ (室生犀星)

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

∇<藤田嗣治の遺品6千点、母校に寄贈 日記や写真など──エコール・ド・パリの画家藤田嗣治の戦前の日記が見つかり、戦後の日記や遺品と合わせて約6千点が、母校の東京芸術大学に寄贈されることになった。……寄贈品の中心は、1930年から亡くなるまでの日記類。…日記は、戦時中を含む41~46年が欠けていた。藤田が戦争記録画を描き、後に戦争協力を指摘された時期と重なる。批判された藤田は戦後に渡仏、カトリック信者となり、フランス国籍まで取った。>(2/8朝日新聞) その辺の事情が分るかも知れない貴重な資料となりそうだ。藤田嗣治は家内が生前好んだ画家の一人だった。06年4月19日、家内と藤田嗣治展を見た感想を友人とのメーリングリストに載せた文章があったので、それをそのまゝ載せることにした。

∇時折雲間より太陽の覗く麗春の本日(19日)、心待ちしていた「藤田嗣治展」を家内と拝観してきた。嘆賞置く能わざる作品群に暫し時を忘れるほどであった。──午前11時、竹橋にある「東京国立近代美術館」に着くや、既に百メートルを越す長蛇の列。立ち並ぶ熟年・老年夫婦たちと、皇居から時折吹く風に散る桜の花びらを頬や背に受けて30分ほど待った。5月21日まで開催される丁度中日にあたる水曜日という穴場を狙ってきたつもりが、この人気ぶりだ。先日NHKで放映された影響もあるだろうが、老生夫婦同様“閑人”で、かつ一流の芸術品に触れようとする我が国民の底の深さを象徴しているのだろう。

∇<藤田 嗣治 (ふじた つぐはる=Leonard FoujitaまたはFujita)、1886~1968年)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスパリにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。>(フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」)1925年にはベルギーのレオポルド勲章、フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章を贈られている。

∇藤田は子供の頃から絵を描き始め、中学を卒業する頃には画家としてフランスへ留学することを希望していた。明治38年(1905)、東京美術学校西洋画科に入学した。当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らの印象派や写実主義が全盛の時代。卒業後精力的に展覧会などに出品したが全て落選した。藤田は意を決してパリに渡った。そこで出会ったキュビズムやシュールレアリズム、素朴派などの自由奔放に満ちた新しい絵画に接して藤田は大きな衝撃を受ける。<私が今迄美術学校で習っていた絵などというものは、実にある一、二人の限られた画風だけのものであって、絵画というものはかくも自由なものだ>、と悟ったという。

∇初期の作品は一目見てピカソを模し、モディリアニに影響されたことが窺える。会場に入って真っ先に引きつけられたのが「巴里城門」という作品だった。華やかなパリの町外れの情景なのだが、見たこともない黒ずんだ色彩の、何ともいえぬ寂しさが漂う不思議な魅力を訴えかけている。作品解説には、<会心の作><デングリ返へしを打ちて喜びたる>と、この絵の裏側に書き込まれているそうだ。1921年のサロン・ド・ドートンに発表されて好評を博した「自画像」に至るまで、日本からの送金が途絶え、明日の食事にも困る中で一心不乱に絵を書き続けた藤田が、ルーヴル美術館や大英博物館に通って学び、遂に<自分だけの様式を探り当てた>作品だった。

∇それからが所謂「乳白色」の時代。黒色の流れるような線描と細部にわたるリアルな事物の表現。線描は或は葛飾北斎から学んだのではないかと思える<一息に引かれた細く長い墨色の輪郭線>(解説)。細部表現に至っては、その一つ一つに驚異的な観察眼が光っている。インクの汚れを拭いた紙、吸殻をもみ消したあとの残る碗、食卓に残るおかずや漬物、懐に入れて可愛がった猫、14匹の本能むきだしにして争う猫たちの活写等々、見ているだけで飽きない。裸体画は藤田の十八番。何れも素晴らしいが、殊に「横たわる裸婦」(1922年)は画集では味わえない清純な色香に包まれていた。その他蛙を手にした生物学者、色々な職人、子供たち。……

∇ゴッホなどと異なり、生前経済的にも成功した藤田のサロンには、多くの画家仲間たちやモデルが集り、ささやかな贅沢を楽しんだそうだが、女性関係も出入りが激しく3度の結婚・離婚を繰り返した。戦時中藤田は日本に戻ったが、そこで軍部から戦争画を描くように強いられた。会場には「シンガポール最後の日」「アッツ島玉砕」「血戦ガダルカナル」等数点が並び、超大画布に、ダイナミックな構成で死に瀕する人々の凄絶な様相を浮き彫りにしていた。今回見たかった絶品であるが、後日これらの画により“戦争協力者”の烙印を押された。だが、見れば分かる。戦争礼賛どころか、寧ろ“戦場の残酷さ”を克明な描写によって訴求した反戦画である。

∇藤田は<渡仏の許可が得られると「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」との言葉を残してパリへ向かい二度と日本には戻らなかった。>(「ウィキペディア」) 藤田にとってその日から日本が、<石をもて追わるるごとくふるさとを い出しかなしみ 消ゆるときなし>(石川啄木)となり、室生犀星の詩の如く、<ふるさとは遠きにありて思ふもの>となった。──“百聞は一見に如かず”。これ以上駄文を弄しても意味がなかろう。従来「一流の芸術品にはできる限り触れる」を心がけてきた。絵画の展覧会にも数多く足を運んだ。その中でも今回の「藤田嗣治展」は、葛飾北斎、横山大観に匹敵する価値があった。時代も画風も異なり、個性溢れる比類なき画家たちであるが、一流の芸術家に共通している何かがある。それは、飽くことなき芸道追求心であり、事物を正確に観察する眼力・筆力であり、底知れぬ深い教養の発露であるような気がする。──(今日はこれから私用で栃木へ)