残照日記

晩節を孤芳に生きる。

沈思黙考

2011-07-19 18:58:35 | 日記
【新訳聖書的 or 旧約聖書的】
≪だれかあえて(新約聖書・マタイ伝にある)キリストの山上の垂訓における倫理、たとえば「悪しき者に抵抗(てむか)ふな」のような句や「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」のようなたとえを、「学問上反駁」しようと試みるものがあろうか。しかも、これを俗世間的立場からみるとき、ここで説かれているのは、明らかに卑屈の道徳である。それゆえ、人はこの教えに従って宗教上の体面を保つか、あるいは男子の体面を守るためになにかこれとはまったく違った教え、たとえば(旧約聖書・出エジプト記に出る「目には目を、歯には歯を」の如く)「悪しき者には抵抗(さから)へ、然らずんば汝はその悪事の共犯者たるべし」というような教えに従うか、のいずれかを選ばなければならない。すなわち、各人がその拠りどころとする究極の立場のいかんに応じて、一方は悪魔となり、他方は神はとなる。そして、各人はそのいずれがかれにとっての神であり、そのいずれがかれにとっての悪魔であるかを決しなければならない。しかも、これはわれわれのすべての生活の秩序についていえることである。≫(M・ヴェーバー「職業としての学問」岩波文庫)

【聖戦という思考】
≪汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(「聖戦」すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。そのような者と出くわしたらどこでも戦え。そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ。……向こうからお前たちにしかけてきた時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。≫(井筒俊彦訳・岩波文庫「コーラン」2-186~187)

【原発めぐり揺れる保守論壇】(7/19朝日新聞夕刊)
≪脱原発をめぐり、保守論壇が揺れている。「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長を務めた保守派の評論家・西尾幹二は、月刊誌「WiLL」7月号に「脱原発こそ国家永続の道」と題した論文を発表。「国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない」と保守派らしい言いまわしで、脱原発派への「転向」を宣言した。保守論壇の大勢は、なお原発推進だ。産経新聞社は社説で原発推進を堅持している。西尾は、間もなく原子力の安全神話が再び言論界を覆うだろうと予測し、「産経新聞は懲りずにすでにそうである」(同誌8月号)と手厳しい。

≪原発の維持や推進を、エネルギー問題としてではなく、核武装と関連づける議論も登場し始めた。評論家の西部邁は「表現者」37号の座談会で、原発が安全でないことを前提にしつつ、国家の自主独立には核武装とエネルギー自給が不可欠であるとし、原発容認の姿勢を見せた。産経新聞の報道によれば、ジャーナリストの桜井よしこは講演会で「核をつくる技術が外交的強さにつながる。原発の技術は軍事面でも大きな意味を持つ」と発言。14日に配信されたAFP通信のインタビューでは、石原慎太郎東京都知事も、今後も原発は必要とした上で「日本は核兵器を持つべき」と答えたという。≫

≪これまでは、原発推進派にとっても、原発はあくまで「原子力の平和利用」であり、核兵器とは明らかに一線を画すものとされていた。しかし市場経済を重視する人々の中からも河野太郎衆議院議員やソフトバンクの孫正義社長のような、「脱原発の旗手」が登場するなど、経済合理性の観点からも原発は割が合わないと見られるようになってきた。そこで、最後に残る原発推進の論理が、核武装のための原子力利用ということなのだろうか。≫(樋口大二氏)