残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治改革Ⅹ

2011-07-05 19:06:03 | 日記
【リーダーシップとは何だろう】元量子生物学研究者 永田親義88歳
≪(前略)政治の世界が科学と大きく異なることはわかるが、それにしても言葉の使い方があまりに乱暴ではないか。菅直人首相にリーダーシップがないから辞職すべきだと声高に叫ぶが、リーダーシップとは一体何かについての説明はない。例えば、浜松原発の全原子炉停止を中部電力に要請したことを高く評価する声がある一方で、皆の意見を聞かないまま行なった独断専行であると批判する人がいる。一つの決断をリーダーシップとみるか、独断専行と言うかは結局、それぞれの利害関係で決まっているようだ。大事なのは、国の指導者がリーダーシップを発揮できるよう、その評価の基準を定めることではないか。ポピュリズムに陥ることなく、現在のみならず将来にわたり本当に国民のためになると指導者が一身を顧みずに決断した時、それをリーダーシップとして評価することが必要と思う。今のままでは、誰が首相になってもリーダーシップを発揮することはできず、国民はリーダーシップのある首相をもつことはできないだろう。≫(朝日新聞「声」の欄より)

∇上記永田氏の「リーダーシップ」論は傾聴に値する。一考すべき視点が提起されている。最近、どの新聞の「読者の声」欄にも、ハッとする優れた意見が散見されるが、その一例である。首相の「リーダーシップ、/\」と誰もが言う。だが、結局、首相が「当方にとって都合のよい決断をしてくれる」場合を「リーダーシップがある」とし、逆に「当方にとって不都合な決断をする」場合、首相は「独断専行」だ、と評価される。フランスのモラリスト・モンテーニュは、人間社会の利害関係を、<一方の得は他方の損だ>と喝破した。まさにその通りで、よく世間では、“Win-Win(ウィン-ウィン)の関係”、即ち、関係する両者ともに メリットのある状態であることを願い、外交交渉などでも美辞麗句として使用されるが、実情でそういうことはありにくい。酷な言い方をすれば、被災者・被災地重視は非被災者の負担増、非被災者が抱える諸問題の置き去りに繋がり、首相や与党の好評価は野党批判と同義語になる。即ち、「リーダーシップ」論は、誰々にとってメリット又はデメリットとなるのか、国民にとって「現世代優先」と「日本の将来」のどちらを選択するのかといった問題と深く関わっている。歴史上「リーダーシップの鑑」とされる織田信長は、一方で、3千人とも言われる比叡山焼き討ち事件で惨殺された男女僧侶及び児童たちからみれば、単なる「人道破壊者」に過ぎない。

∇昨日、五百旗頭氏は講演で、≪「日本の弱さはトップの国家戦略的観点に立った思考が足りないこと≫に続いて、≪トップリーダーを養成する教育の役割は大きい」と述べた。≫という記事を引用した。尤もらしく聞こえる主張だが、さて、どんな教育を以て<トップリーダーを養成>するのか、もっと言えば、トップリーダーは教育で養成されるものなのか? オルテガは、名著「大衆の反逆」で、スペイン現代社会の病弊の一つに、エリートの不在を指摘した。彼の言うエリートとは、昨日縷々例示した「大衆人」と違って、≪自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたない≫とする、少数の≪選ばれた被造物≫、即ち、新しい意味での「貴族」であるとし、≪「貴族には責任がある」(ノーブレス・オブリージ)を自覚する者≫、としている。そして、社会はエリートの「模範性」と、大衆の「従順性」との有機的結合により、円滑に進展する、というのがオルテガ社会論の骨子となっている。当ブログでは、敢てオルテガの言う大衆人の「不従順性」(他人に耳を貸さない、より高い見識に従わないこと)を主として批判することから政治改革を考察してきた。何故なら、日本でこそ彼の言うエリートが希求されるのだが、大衆人化した傲慢不遜なマスコミ・有識者・専門家らの「不従順性」によって、エリート出現の芽が摘まれている、と考えているからである。

∇一般国民はどの国・いつの時代であれ、オルテガの「政治エリート」出現を夢想し期待する。だが、与党内の対抗派閥グループや野党陣営、そして評論・批判・非難することを「飯の種」としているマスコミや目立ちたがり屋の有識者・専門家にとって、彼らが空想で描く理想的なエリートが実際に出現して、仮に完璧な政治活動を行い、「世はすべて事も無し」となったのでは困る。何故なら、それでは彼らの出番がなくなってしまうのだから。皮肉なことに、こき下ろす「欠陥だらけリーダー」の存在こそが、傲岸不遜の大衆人が目を輝かせて「英雄崇拝論」「強いリーダーシップ論」を吐く母体となっているのである。また、永田氏が指摘するように、政策によって利害の異なるグループごとに、リーダーの評価は逆転する。国民にとっても同様だ。如何に優れたエリートが打ち出す政策であっても、必ず、<一方の得は他方の損><あちらが立てば、こちらが立たない>現実が待ち受けているのだから。プラトンは「哲人政治」を説き、孔子は「徳治主義」を唱え、トップリーダーの「模範性」を訴求して全国を周遊した。だが、「仁政」は実現しなかった。そもそも為政者のみに「模範性」を期待し、その出現を待つ「英雄待望論」は成功した例は無い。又、リーダーシップの一面とされる“強烈な求心力”を有した指導者は、結局ヒトラーに代表されるファシストであったり、ムバラク・カダフィ・金正日らの同類であった。

∇さて≪民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開放する運動として発達したもの≫である。(丸山真男「日本の思想」岩波新書) そして、政治リーダーに求められるのは、何よりも「結果責任」である。今日の朝日夕刊に、池澤夏樹氏が述べているように、≪国家は個人の資質によって左右されるにはあまりに大きい。王制は暗愚な王が出た時が悲惨だから消えたのではなかったか。首相の性格はどうでもいい。政策だけで政治を見よう。…週刊誌の見出しは創意工夫の限りを尽くして菅直人の悪口を書いている。辛辣で狡猾な人物だという。しかし、悪辣で狡猾だろうがなかろうが、それはどうでもいいのだ。…今、菅首相には罵詈雑言に耐えて電力政策の転換の基礎を作って欲しい。策謀が必要ならそれも使い、とんでもない人事も実行し、ぎりぎりまで居座り、改革を一歩進めて欲しい。≫と。その当否は後日「歴史」が判断を下す。獅子吼した小泉元首相と「ダメ菅」の評価も、その時までお預けで、暫く待たねばならないだろう。かくして、政治改革は、首相一人の「リーダーシップ」云々だけで片付けられぬ「政治制度そのもの」「大衆人の関わり」によりウエイトをかけるべきだ、ということになる。後者は縷々述べてきたので、次回からは「政治制度そのもの」の見直しを考えてみよう。尚、「聖書」箴言に、<知恵は巷に呼ばわる>との名言がある。単なる“一般人の声”に大いに耳をそばだてるべきである。