残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治改革⑯

2011-07-13 19:38:28 | 日記
【国民の職分を論ず)(福沢諭吉)
≪人民も政府もおのおのその分限を尽くして互いに居(お)り合うときは申し分もなきことなれども、あるいは然らずして政府なるものその分限を越えて暴政を行なうことあり。ここに至りて人民の分としてなすべき挙動はただ三ヵ条あるのみ。すなわち節を屈して政府に従うか、力をもって政府に敵対するか、正理を守りて身を棄つるか、この三ヵ条なり。……以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。理をもって政府に迫れば、その時その国にある善政良法はこれがため少しも害を被ることなし。その正論あるいは用いられざることあるも、理のあるところはこの論によりてすでに明らかなれば、天然の人心これに服せざることなし。ゆえに今年に行なわれざればまた明年を期すべし。≫(「学問のすゝめ」七編より)

【提言 原発ゼロ社会―いまこそ政策の大転換を】
               (7/13朝日新聞社説特集)
≪日本のエネルギー政策を大転換し、原子力発電に頼らない社会を早く実現しなければならない。朝日新聞の世論調査では、段階的廃止への賛成が77%にのぼった。代替電源の希望の星は、風力や太陽光を始めとする自然エネルギーだ。これを増やす方向へエネルギー政策を転換し、電力会社による地域独占体制を抜本的に改めて自由化を進める。ただし、まだまだコストが高い。急激に導入すれば電気料金を押し上げ、暮らしや経済活動の重荷になる。そこで、たとえば「20年後にゼロ」という目標を思い切って掲げ、全力で取り組んでいって、数年ごとに計画を見直すことにしたらどうだろうか。戦後の原子力研究は「平和利用」を合言葉に出発した。しかし、原発が国策になり、地域独占の電力会社と一体になって動き始めると、反対論を敵視してブレーキが利かなくなった。 多くの国民も電力の源についてとくに考えずに、好きなだけ電気を使う生活を楽しんできた。 原発から脱し分散型の電源を選ぶことは、エネルギー政策をお任せ型から参加型へ転換し、分権的な社会をめざすことにつながる。それは、21世紀型の持続可能な社会を築くことにも通じる。 きょうの社説特集は「原発ゼロ社会」へ向けたデッサンにすぎない。必要なのは国民的に議論を深めながら、やれることから早く実行へ移していくことである。≫

∇朝日新聞は今朝の1面、14面、15面の紙面の、ほゞ延べ二面を使って、「提言 原発ゼロ社会―いまこそ政策の大転換を」と題する社説を論じている。上記に、第1面に掲載されている大軒由敬論説主幹の文章を、必要な部分のみ切り貼りさせて頂き、要略文として掲載した。無論文責は老生にある。朝日論説グループの呼びかけは、要するに、例えば「20年後に脱原発」という目標ゴールを決めて、段階的に「原発ゼロ社会」へと大転換しよう。エネルギー政策を、今までの≪お任せ型から参加型へ転換し≫、≪国民的に議論を深めながら≫、実行可能なことから進めていこう、という提言である。朝日新聞は、今後、「段階的脱原発」の立場を明確に表明したことになる。そしてそれを「国民参加型」でやろう、と呼びかけている。脱原発の道筋は「高リスク炉から順次、廃炉へ」、「核燃料サイクルは撤退」し、廃棄物処理問題に情熱を燃やし、新たな電力体制を敷く。即ち「電源の分散」と「発電と送電の分離」という「分散型へ送電網の分離」を目指す。次代の自然エネルギー政策は「風・光・熱を大きく育て」ることを重視する。etc etc。──今夕6時からの菅首相の記者会見でも「原発に依存しない社会を段階的に実現する」方針が述べられた。この流れは、最早世論の動向としても定着しだした、といえそうである。老生も賛成である。

∇かくして、朝日社説の内容自体は、特筆すべき斬新さがあるわけではない。たゞ、菅首相が、この度の大震災が発生するまでは、「安全を考慮しながら、原発推進」の旗振りをしてきたが、リスクの大きさを考えた場合、安全を律することは不可能と痛感したことからエネルギー政策の抜本的見直しに至った旨述べていたが、朝日新聞も今回の社説特集で、「推進から抑制へ」と題して、自紙「原子力社説の変遷」にかなりのスペースを割いて自己反省した点が、昨日紹介した終戦直後の「自らを罪するの弁」に類似していること、そして今度こそは「揺るがない」ことを期待する。因みに朝日原発社説の変遷をざっと拾ってみよう。昭和23年2月3日付社説は「原子動力化の実現する年」として早くも原発への期待が表明された。→28年12月アイゼンハワー大統領が国連総会で「平和のための原子力」を訴える。→翌29年、中曾根康弘氏らが、原子炉製造に向けた修正予算案を国会に提出。→朝日社説は学会をないがしろにする提案だと批判した。→55年に原子力基本法が成立。朝日社説は国内炉開発にこだわる。→32年8月茨城県東海村の原子炉に「原子の火」がともった。朝日社説は「記念すべき一歩」と称え、かつ米国技術頼みに苦言を呈す。当時原子力のエネルギー制御は可能だという楽観論が世間に蔓延。朝日も結果として追随した。

∇29年に第五福竜丸の核実験被爆事件、科学界でも放射能リスクや原子炉の危険を直視する動きが強まった。≪朝日新聞社説も、新しい知識や情報を取り入れ、原発の大事故が起こりうることや、それがもたらす放射能被害の怖さに、もっと早く気づくべきではなかったか。振り返っての反省だ。≫→推進から抑制の動きが高まったのは、昭和54年の米スリーマイル島原発事故や61年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故以来である。原発推進の是非が論じられ始めた。63年4月28日の社説は「立ち止まって原発を考えよう」だった。公害問題と環境保護、水俣病等、生態系を守る意識が国内に広がっていた。→平成に入ってからは、環境保護が国際政治の主議題となり、CO2などによる地球温暖化の心配が高まると、原子力推進側は原発をCO2排出減の決め手と位置づける攻勢を強めた。朝日社説はこれに対し、せいぜい「原発への依存ふやすな」(平成8年)、「脱温暖化を提案しながら「日本の原発依存率は現状以下」(平成19年)程度だった。…そして社説特集の最後に、こう結んだ。≪この半世紀、巨大技術の危うさがわかり、人々の科学技術観も変わった。それを感度よく、洞察力をもってつかめなかったか。反省すべき点は多い。≫ ざっと「原子力社説の変遷」記事を拾ってみて、論説委員たちでさえ、或は偏った、場合によっては過った主張を繰り返し述べていたことになる。今、反省文を認めた彼らが、又、明日から同じ過ちを繰り返すことを十分承知して、我々は報道記事を注視しながら自論を整理していく必要がある。「国民参加型」という政治への関与は、参加する一人ひとりの質的独立性があって、はじめて奏功する手段であることを肝に銘じておこう。続きは明日又。