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今夜も一杯 ! ヒロシのブログ

電子書籍で「新サラリ-マンの法則」 「笑いの宝庫」を出版しました。

懐かしい歌手  寒雲(KAN-UN)メモリアル

2005-10-05 01:25:01 |  人の縁は不思議
6年近く前だが台北空港に夕方到着して、出迎えてくれたビジネス相手である若いリュウ氏と握手をして、予約してるホテルにチェックインに向かおうとすると、1時間後に姉が日本から帰国するのでピックアップして一緒に食事をしようと彼が誘ってくれる。すぐ仕事の話を始めたかったのだが、なんとなく機内で飲んだアルコ-ルの酔いも残っているので、酔い覚ましにも良いかという気持ちで空港で到着便を待つことにした。時間ピッタリに荷物を持ってお姉さんが到着ゲ-トから出てきた。OLにしたら化粧も服装も少し派手だし、日本人の顔と少し違うのだが日本語が意外と流暢なので、日本で何の仕事をしてますかと聞くと歌手だという。驚いていると、プロ歌手だという事を歌って証明すると言って、彼の車で飛行場からホテルに行かないで直接カラオケのお店に連れて行かれた。彼女は、いつもなら無料で歌わないけど今日は弟のお客様なので特別よと言いながら、山口百恵の”いい日旅立ち”を歌ってくれた。その後は津軽海峡冬景色や雨の御堂筋、ベサメム-チョなど5-6曲立て続けに歌ってくれる。聞けば、石川県の加賀温泉に住み込んで歌謡ショ-で毎晩歌っていて、時折チャリティコンサ-トで各地を訪れていると言う。歌のうまさと、紹興酒の酔いも手伝って結局3時間近くカラオケで騒いだあとに、彼等の自宅に立ち寄った。今度は彼等のお母さんも参加してまた飲みなおし、結局ホテルにチェックインしたのは午前3時も過ぎていた。今思い出しても、初めての台湾の夜が、こんな風に強烈だったので細かい出来事まで覚えている。帰国後、時折、はがきで季節の便りをくれるのだが彼女の事はすっかり忘れていた。次に彼女の名前を思い出したのが2003年の新聞記事だった。この年に新型肺炎(SIRS)に感染した台湾の医師が、小豆島のホテルに宿泊していた事が判明して、宿泊客が激減したという事を彼女が知って、同じ台湾人として知らない顔は出来ないと、私費でホテルを借り切り無料で宿泊客を招待して自分の歌で、小豆島の人を応援した話が美談として載っていたからである。今週の金曜日10月7日(金)の夜7時から、新宿文化センタ-で、台北市立国楽団の伝統楽器を使ったオ-ケストラとの共同公演を開催するので来て欲しいという彼女からの誘いもあり、久しぶりに懐かしい歌声を聞くために出掛けてみようと思っている。歌手名は”寒雲”本名はリュウ・ハンファさん。彼女は歌う時は台湾の美人歌手、欧陽菲菲(オーヤン・フイフイ)と雰囲気が似ているし、普段の顔は小柳るみ子風の弟思いの姉ちゃんである。あれからお母さんの消息も聞いていないが、あのときにお母さんが台湾の人間国宝の候補に挙がっていたので、それも今回確認してみようと思っている。彼女のステ-ジ写真が載っているホ-ムペ-ジは、次の通りです。百聞は一見にしかずです。”寒雲メモリアル”でも検索できます。
http://www1.odn.ne.jp/~ceu55990/KANUN.html

フランス料理の鉄人 

2005-09-29 06:45:43 |  人の縁は不思議
一度8月のブログでも紹介したが、代官山の旧山手通りにある西郷山公園、この公園は、いくつものドラマに何度も登場した場所でもあり、本当に青葉台の低地部分を見下ろす眺めが素晴らしい。この入り口の所にレストラン「誤時」がある。料理に腕を振るっている料理長はフランス料理を担当する女性の加賀田京子さん。弟さんが日本食を担当している。家族で食事に訪れてもフレンチと和食という2つの選択肢があるのがうれしい。店内は落ち着いたインテリアにくわえて、表通り側は植え込みの竹が窓越しに見え、笹の葉が風に揺れる風情はなんとも言えない。彼女は、大学を卒業後、フランス料理担当としてホテルで修行を積み、1999年の12月に「誤時」をオ-プンした。料理番組や雑誌にも取りあげられるフランス料理の実力シェフであり、弟さんの、絶妙の日本料理の食材の選び方や盛り付けと味も感心させられる。お店の名前の「誤時」の由来は、このお店のオ-ナ-の口癖である、自分は誤った時代に生まれたという事から、お客さまにも、時間を誤るくらい素敵な時間をこのお店で過ごしてもらいたいという願いから付けられたものです。加賀田京子さんの名前で検索すればホ-ムペ-ジも出てきます。

 

伊真沁 (イマジン) ホリプロのお店

2005-08-19 23:30:42 |  人の縁は不思議
目黒駅から徒歩数分の行人坂を下りてゆく右側にホリプロの本社がある。ホリプロが経営している京料理のお店が溜池山王から歩いて4分くらい、場所で言えば赤坂ツインタワ-の裏手にあたる。カウンタ-席が10席程度に個室が幾つかある。価格で言えば高級料理屋であり、年間数回の接待でしか利用しないが、落ち着いた雰囲気で赤坂の料亭そのものである。お店の名前は伊真沁、読み方はイマジン、ビ-トルズの曲のイマジンに由来して、脚本家の筒井ともみさんが名付け親である。彼女は、失楽園、嗤う伊右衛門、阿修羅のごとく等の脚本や作家としても本を書いている。赤坂TBS迄車なら2分も掛からない場所であるにもかかわらず、表通りに面してないので、一見客が入るには、かなりの勇気がいる。ときおり、ホリプロのタレントも食事や打ち合わせに来ているが、このお店ではタレントと言うより、社員食堂的な雰囲気なので、見ているだけでも面白い。ホリプロと言えば、スタ-誕生で山口百恵を獲得して、大成功を収め、今では歌手だけでなく、あらゆるジャンルで250名以上のタレントを抱えている芸能プロダクションである。しかし、これだけのタレントを、いろんなイベント、テレビ、ラジオ等のマスコミに出演させる為の営業活動や,やりくりは想像する以上に大変だと思う。ホリプロの看板的なタレントとしては、片平なぎさ、深田恭子、東ちづるさんがいます。
伊真沁の電話は03-3582-8000です。





政経文化画人展

2005-08-04 19:34:33 |  人の縁は不思議
知人から案内状を頂いたので、オ-プニングデイであった今日、銀座松坂屋まで政経文化画人展を見に行ってきた。今回が第39回目と書かれていたが、見に行くのは今年で5回目である。参加者も展の名前の通り、政治、経済、文化人から幅広く、本人も見に来るので、それを見ているのも面白い。作品は70点余りで、かなりの作品が20号サイズの大きさである。プロ顔負けのレベルに達している人が多いのにはビックリする。政治家でも、失礼だが余りうまいと感じさせないのが、中曽根康弘さんと、海部俊樹さん。うまいのは松岡満寿男さん。文化人で言えば、歌手の八代亜紀(作品はルノア-ルに捧ぐ)と五月みどり(陽だまり)は、道を間違ったのかと思うくらいうまいと毎年思う。主催は社団法人の国際芸術文化振興会。昨年の12月25日のブログに書いたようにカキの会でお世話になっている、専務理事の野呂芙美子さんにご挨拶をして帰路についた。8月20日~28日は名古屋の愛・地球博でも開催予定との事です。

開催期間 8月4日(木)~9日(火)
場所   銀座松坂屋 本館7階催事場
時間   朝10時半~午後7時半まで

歌手 島和彦さん

2005-07-27 02:25:47 |  人の縁は不思議
赤坂の一つ木通りを国道246側から入ってすぐ左手のビルの上に「サパ-クラブ島」というお店がある。経営者でもあり、時折ステ-ジで歌を歌うのが島和彦さんである。島さんと言えば、若い方にはなじみが少ない名前であるが、コロンビアレコ-ドの専属歌手でヒット曲“雨の夜あなたは帰る”で1966年(昭和41年)第17回の紅白歌合戦年の紅白歌合戦にも出場した。昭和19年生まれの61歳だが、容姿はデビュ-当時とほとんど変わらないのが、魅力である。島さんは、お店を訪れたお客様の名前は、忘れないし、人をひきつける話術を持っている。時折、いろんなスポ-ス選手や芸能人や俳優も訪れるが、島さんと話して、忙しい中の息抜き場所として、このお店を使っているように見える。職種を変えても政治家や企業の経営者としても十二分にやっていける。お父さんが東京大学のドイツ語の先生をしていたという血筋の良さが滲み出ているのかも知れない。感心するのは、いつも健康には気をつけていて、喉を痛めるという理由で酒もタバコもたしなまず、プロ歌手としての意識の高さに感心させられる。1966年の9大スタ-と言えば、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、吉永小百合、マイク真木、都はるみ、三田明、島和彦、加山雄三の9人だが、その一角に食い込んでいたのがその実力の表れである。“栴檀は双葉より芳し”の言葉どおり、小学生の時から学校を代表して都内のコンク-ルに出ていたというから、プロ歌手になる片鱗はすでに子供時代に見せていたわけである。本業の歌手でも素敵ですが、特技としてのマジックもうまい。空中から水や塩を取り出す技は何度見ても飽きない。なんとなく生きるすべてとして半身に構えながら、決して現実からは逃げない、強さも持ち合わせている。年老いたお母さんの面倒も見ながら、商売を継続してきたのも、お店の中のスタッフとのチ-ムワ-クを保つ努力も忘れないから出来ることである。お店はカラオケは置かず、ピアノ伴奏だけで、本格的に歌いたい方には、楽しいお店ですよ。

雑誌に掲載されました

2005-04-29 21:24:22 |  人の縁は不思議
4月2日のブロッグで書いたように、昨日,雑誌の編集長が発売前の5月号を10部持ってきてくれました。書いた記事と自分の写真を見るのはテレ臭いものである。1500文字の方は横書きでワ-プロで作ったが、本になると、それが縦書きで、丁度1頁分を占めているのを見ると、高木編集長のレイアウトのお陰で綺麗に見える。改めて編集長に感謝です。もう1つの記事である交遊録は900文字という制限なので、文章のボリュ-ムはないが、これもうまく配置してくれてさまになっている。交遊録は、テレフォンショッキングと同じような感覚で書けば良いので気楽である。世の中には素晴らしい人がいるし、身近にいるのが自分として恵まれた環境だと思う。今回は、書くスペ-スを与えてもらって感謝の気持ちと同時に、今後の連載を通じて合計6人しか紹介できなのが少し残念という思いが交錯する。自分なりにいろんなジャンルの友達を紹介したいので、勝手にジャンルを芸能、スポ-ツ、趣味、ビジネス、遊び、飲み友達の6つにわけ、第一回目の今回は芸能界の友達を紹介した。1500文字の方は、来月号にも掲載されるので、原稿を書くため、連休中の暇つぶしが出来てラッキ-である。いよいよ、作家生活のイメ-ジが湧いてきた。書いてきたブロッグも、夏ごろには300個に近づいてくるので、文章に手を入れなおして本にしてみようかという大それたアイデアも実行してみたい。

アンデスを飛ぶ

2005-04-07 22:05:07 |  人の縁は不思議
今日は、桜が咲いている大学のキャンパスに講演を聞くために出掛けてみた。すでに3月14日の報道ステ-ションでも紹介された、女性グライダ-パイロットの世界最長飛行距離を樹立した森中玲子さんの基調報告である。彼女は主婦であり、外資系会社に勤める営業のキャリアウ-マンでもあり、パイロットという不思議な人。先週末に彼女から案内のメ-ルが来ていたので、手土産を持って彼女の母校である早稲田大学の大隈講堂に駆けつけたわけである。彼女は結婚するまで飛行機やヘリコプタ-のプロの操縦士として活躍していたが、結婚を機に、ご主人と一緒にグライダ-操縦に切り替えたそうです。こう書くと大学の出身学部は工学部のように思えますが法学部という所が面白い。講演の中で動力のないグライダ-がいかにして上昇気流をみつけて飛ぶかの説明に、地形の分析力や雲の形から、どこに上昇気流があり、どこに乱気流が発生しているかを知らないと、長時間の飛行が難しいのが良く分かった。グライダ-でも1万m近くを飛ぶわけだから、酸素マスクに、防寒着の工夫や、長時間フライト中も、お菓子を食べたり、写真を取ったり、歌を歌ったりして、眠気防止の工夫や簡易トイレの器具も説明してくれる。約1時間半の講演は実にバラエティに富んでいてとても楽しかった。カラオケに行くと、彼女はピンクレディの歌と踊りを披露してくれる。ダイナミックな生き方は、空でのアクロバット飛行だけでなく、地上でも同じようだ。

逆転の発想

2005-03-08 09:46:04 |  人の縁は不思議
50年前に日本で初めてロケットの発射実験が行われた。当時小学校2年だったが、新聞に大きな記事が載ったり、映画館のニュ-スで繰り返し見ていたので、鮮明に覚えている。設計者は東京大学の糸川英夫博士である。ロケットといっても、名称がペンシルロケットで、重さがわずか200gで、直径1.8cm,長さ23cmだった。打ち上げるのではなく水平に試射する実験だった。これに刺激されてロケット遊びがはやった。学校で使用しているセルロイドの下敷きを鋏で小さく切ってエンピツのアルミ製のキャップに詰め込んで、キャップをペンチで締め付けた後、ロ-ソクで下からあぶると、中でガスが発生し推進力となって、このキャップがロケットのように飛んでいく。うまくすると、家の2階の屋根まで飛んでいくこともあるので、よく作って遊んだ。昭和44年にたまたま、糸川博士の講演会を聞く機会があり、1番面白かった事がある。常識というテ-マで、糸川博士が、皆さんの腕時計を反対側の手で隠してください。そのまま、時計を見ないで、文字盤のデザインと今何時か長針と単針を紙に書いてくださいと言う。毎日何回も時計を見ているはずだが、書いてみてあと、博士が自分の時計と今描いた絵を比較してくださいという。確か、午後の1時15分くらいだと思って、長針と単針を描いたのだが、あらためて自分の時計を見ると、針がない。デジタル時計だった。講演を聴いていた50名で正確に書けた人は誰もいなかった。一体毎日何を見ていたのか不思議である。これは飲み会の時のゲ-ムとしても面白い。その数年後に博士は”逆転の発想”というベストセラ-の本を出した。

かきの会

2004-12-25 08:27:17 |  人の縁は不思議
数年前に知人から”かきの会”への参加要請があり、その会の趣旨を訪ねると”かきを食べる会”と聞き、てっきり”柿を食べる会”だと思い込んでしまって参加した。会が始まると、次から次に自分の苦手な牡蠣出てくる。殻付きの生牡蠣から、焼き牡蠣、天ぷら牡蠣と、これでもか出てくる。周囲の声は”おいしい、絶品、こんなに美味しいものを嫌いな人は信じられない..”という、非情な言葉しか出てこない。まさに孤立無援、インデアンに取り囲まれた騎兵隊の心境、負けずと手をつけずに美味しいですねと誉めたのが間違い。なんと、隣の人はこれを上げると自分の牡蠣を私の皿の上に乗せ、”貴方は初めての参加だから一杯食べて、私は毎年食べているから”もう逃げるわけにも行かず、皿の上には牡蠣で富士山状態。頭は使いよう。何をしたかと言えば、生牡蠣が出たら、焼きを食べに来たのでと言って、他の席へプレゼント。焼きが来たら、天ぷらを一杯食べたくてと言い訳をして、また他の席へ、天ぷらが来ればもうお腹一杯と言って、1番若そうな人へプレゼント。今年もあと2日で牡蠣の会がある。また今年もこの手が使えればとひそかに考えている。

パソコンの歴史 

2004-12-23 22:26:13 |  人の縁は不思議
忘れもしない1974年(昭和49年)。T社で開発担当しているときにインテル社が4004というCPUのテストサンプルを出荷した。当時の日本は、トランジスタからICに変わりつつある時代で、周辺回路を設計するには全て英語が読めないと、ICを販売していたテキサスインストルメント社やフェアチャイルド社の設計資料が役に立たない。開発チ-ムのM氏、W氏との3人でCPU4004のタイミングチャ-トから手分けをして回路設計をした。最初のサンプルが到着して、基盤の上にマウントして、動いた時は、3人で感動。今でいうプロジェクトX並の凄いこと、日本で初めて1ボ-トCPUが出来たわけである。俗に言うマイコン時代の幕開け。周辺のメモリ-もまだスタチックの256ビット、今では考えられない極小の記憶装置を並べるしかない。プログラムと言ってもスイッチを並べ、条件を作り1つづ命令語を記憶させるには、徹夜の連続。すぐに1024ビットと、毎月記憶容量の能力が拡大していた。CPUも4ビットから8ビット、16ビットと上がっていった。昭和55年までは、アプリケ-ションの開発の連続であった。しかし、給料も上がらず、疲れ果ててしまった。その後転職したが、このときの知識と経験は現在までに随分役に立ってきた。あのままパソコンの仕事をしていれば、すごい仕事をしていたのか、体調を崩して会社を辞めていたのか判らない。唯一言えるのは、日本で初めてのパソコンを自分が作った3人のメンバ-の1人ということだけかも。