書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

権中納言定家

2010-07-30 09:12:14 | Weblog
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ     

夕方の松穂の浦で焼かれる海草のように、我が身を恋焦がしがら来ない人を待ち焦がれているのです

権中納言定家(1162~1241)
藤原定家。父は藤原俊成。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。初め藤原季能女と結婚するが離婚し、西園寺実宗女(公経の姉)と再婚。子に因子(民部卿典侍)・為家など。寂蓮は従兄。
14歳で高倉天皇に仕え、正二位権中納言にまですすむ。
若くして歌才を認められ、早くから歌人としての道を究め御子左家を歌道の家としての地位を不動にした。
俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心」を唱えた。
家集に「拾遺愚草」「拾遺愚草員外」。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集には最多入集歌人。勅撰二十一代集に最も多く入集。編著に「定家八代抄(二四代集)」「近代秀歌」「詠歌大概」「八代集秀逸」「毎月抄」など多数。「源氏物語」「土佐日記」などの古典研究にも多大な足跡を残した。 
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記「明月記」と後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した「熊野御幸記」は国宝に指定されている。

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