書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

大弐三位

2010-06-20 09:03:59 | Weblog
有馬山いなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

貴方のことを忘れたりなどするものですか

大弐三位(?~?)
藤原宣孝の娘。母は紫式部。母ゆずりの才女として知られる。
彼女もまた恋多き女性で、藤原頼宗、定頼、源朝任等の貴公子たちとの交際後、藤原兼隆の妻となる。後冷泉天皇の乳母を勤め、その後、正三位大宰大弐高階成章と再婚し為家を生む。
「大弐三位集」があり「女房三十六人歌合」などにも多くの歌が採られている。

紫式部

2010-06-19 08:34:24 | Weblog
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月影 

久し振りにお逢いしたと言うのに何故そんなに早くお帰りになってしまうの

紫式部(970~1016)
源氏物語、紫式部日記の著者として知られるがこれは通説との説もある。
父の為時、叔父の為頼などの歌人や学者の多い家庭に育ち、
幼少の頃から漢籍、和歌、音楽、仏典などを学び、才女として名が高かった。
夫の死後一条天皇の中宮彰子に遣えた。
才気を外面に出す同時代の清少納言と対象的に内気で控え目な性格であったと言う。

和泉式部

2010-06-18 08:47:34 | Weblog
あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふ事もがな
 
貴方との想い出を残す為にもう一度だけお逢いしたいのです

和泉式部(999?~?)
越前守大江雅致の娘。最初の夫の名が和泉守橘道貞だったので、和泉式部と呼ばれる。
小式部内侍は二人の娘である。
後に一条天皇の中宮彰子に仕え王朝歌人として大いに名を成した。情熱的な真情に溢れる作風で殊に恋歌に秀歌が多い。 
当代きっての才女であり同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛されている。
一方で恋愛遍歴が多く、為尊親王や敦道親王と浮名を流し、道長に「浮かれ女」と評され、
紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されている。
「和泉式部日記」は情熱的な恋日記として有名。


大納言公任

2010-06-17 08:40:08 | Weblog
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

それはそれは素晴らしい滝だったそうですよ

大納言公任(996~1041)
藤原公任、関白藤原頼忠の子。
漢詩・和歌・管弦の三舟の才を謳われ当代一流の文化人、「和漢朗詠集」の選者であり、「新撰髄脳」という歌論書の著者、その他、多くの歌撰に関与し著作も多い。

儀同三司母

2010-06-16 08:46:26 | Weblog
わすれじの行末まではかたければけふをかぎりの命ともがな 

貴方のお言葉をずっと胸に秘めておきたいので いっそのこと 今日で命を絶ってしまいたいのです

儀同三司母(?~996)
儀同三司母は、従二位式部卿高階成忠の娘、名は貴子、高内侍とも呼ばれた。
儀同三司伊周・ 太宰師隆家・一条天皇の皇后定子達の母。
和歌や漢文の才能に恵まれ、藤原兼家の子の道隆と結婚している。
夫・道隆は内大臣、関白、摂政と栄達し、子の定子が一条天皇の中宮になるに及んで、嫡男伊周も十九歳にして権大納言さらに内大臣にまで昇進した。
しかし、夫・道隆の病死後、子の伊周と隆家は叔父道長との政争に敗れ、二人は地方に左遷され、一族は瞬く間に権勢を失い貴子は失意の余生を過ごした。
皇后定子も道長の娘彰子が中宮になるに及び宮廷内での地位が入れ替わった。
皇后定子に仕えたのが清少納言、中宮彰子に仕えたのが紫式部・和泉式部である。

右大将道綱母

2010-06-15 10:16:19 | Weblog
嘆きつつひとりぬる夜の明くるま いかに久しきものとかはしる

あーあ、貴方をお待ちしてる夜がこんなに長いなんて貴方にはお判りにならないでしょうね

右大将道綱母(937~995)
藤原倫寧の娘。家柄はあまり高くなかったがその美貌と和歌の才に恵まれ名門の御曹子藤原兼家の妻となった。
しかし正妻ではなくその結婚生活の喜怒哀楽を綴ったのが「蜻蛉日記」であり女流日記文学の白眉とされる。
紫式部は「蜻蛉日記」を深く愛読し源氏物語に生かしたという。 
後の藤原定家もこの書を愛しその十場面を選んで「蜻蛉日記絵」としている。 

藤原道信朝臣

2010-06-14 09:02:29 | Weblog
明けぬればくるるものとは知りながらなほうらめしき朝ぼらけかな

また直ぐ逢えるのどだけど、朝の別れは辛いなぁ

藤原道信朝臣(972~994)
謙徳公(けんとくこう)の孫で、藤原公任・実方・信方などと親しかった。
わずか23歳で夭折。    

藤原実方朝臣

2010-06-13 08:22:45 | Weblog
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを 

これほど貴女に恋焦がれているのに貴女は何も気付いてくれないんだから

藤原実方朝臣(?~998)
高級貴族の寵を受け、藤原道綱、道信、源宣方などとの親交があった歌人である。
清少納言の恋人とも噂された宮廷貴公子で、多くの恋歌、贈答歌を残している。
気性が激しく御所で藤原行成と口論となり行成の冠を投げつけた罪で陸奥に左遷された。

藤原義孝

2010-06-12 08:51:21 | Weblog
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな

一時は死んでも良いとまで思ったのが嘘みたいに幸せだ、もっともっと長生きしたいよう

藤原義孝(954~974)
兼徳公伊尹の子。兄の挙賢は前少将、弟の義孝は後少将と呼ばれた。兄弟揃って美男子の貴公子で、和歌の天才と謳われたが、二一歳の時兄弟は同時に天然痘にかかりきしくも同じ日に二人とも夭逝した。

大中臣能宣

2010-06-11 08:52:42 | Weblog
みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ 

炎のように狂おしく燃え上がっているこの私をどうしてくれるんだ

大中臣能宣朝臣(921~991)
祖先は中臣氏、神職にあった。三十六歌仙の一人。
村上天皇の命で梨壺の五人の選ばれ後撰和歌集の編集や万葉集の解読に携わっているほか、多くの歌集の撰や歌合わせ屏風歌などでも活躍している。