なんとなくな日々

SL残日録(個人的なメモ帳)

ローマ字日記

2006年04月30日 23時59分53秒 | 本・雑誌
「啄木 ローマ字日記」石川啄木  桑原武夫編訳 1977/9 岩波文庫 読了 ☆☆☆☆☆
”ローマ字日記”というのは啄木自身の命名ではない。明治42年(1909年)4月7日から6月16日までの彼の日記は、黒クロース装のノート1冊に、ローマ字で書かれているがいつしか”ローマ字日記”と呼ぶようになった。期間は通算71日にわたっているが、5月18日から30日までは病気のため記載なく、6月2日以後は16日に『はつかかん』という要約があるだけである。

「~しようことなしに、ローマ字の表などをつくってみた。表のなかから、ときどき、ツガルの海のかなたにいる母や妻のことがうかんで予の心をかすめた。”春がきた、四月になった。春!春!花も咲く!トウキョウへきてもう一年だ!……が、予は まだ予の家族をよびよせて養う準備ができぬ!”近ごろ、日に何回となく、予の心のなかをあちらへ行き、こちらへ行きしてる、問題は これだ……
そんなら なぜ この日記をローマ字で書くことにしたか?なぜだ?予は妻を愛してる;愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ、―しかしこれはウソだ!愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。」(4,7より)

妻子、母親を北海道において上京、啄木23歳の時。3月に朝日新聞の校正係に就職し創作に励むが貧困と不安のなかでもがく姿が生々しく語られている。(公開前提のブログとは大違い)
日記は17歳から亡くなる直前までのおよそ10年間かかれている。その日記は啄木が金田一京助に「あなたに遺すから、あなたが見て、わるいと思ったら焚いて下さい。それまでもないとおもったら焚かなくていい」といい、節子夫人が病没前「啄木は焼けと申したんですけれども、私の愛着が結局そうさせませんでした」と残されたものであるらしい。 公開には友人らが反対したようだ。

貧困と結核にむしばまれるが、自由、恋愛、友情、反抗、野心、真理と快楽の追求といった青春が凝縮された啄木の一面がわかる本だった。図書で啄木の人と作品をざっと読んだが波乱にとんだ天才だったと改めて知る。  

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