オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

上州・古城の旅 渡良瀬渓谷、阿久沢氏の山城、深沢城

2016年12月12日 | 群馬

本日もまた東武電車で桐生線・相老駅に来ました。わたらせ渓谷鉄道に乗り換えて本宿駅へいきます。

相老駅


本宿駅


本宿駅は無人駅で、ホームは崖下にあり、階段を上がると国道122号に出ます。

養蚕農家特有の屋根



今日の目的は深沢城です。城跡には正円寺があります。


正円寺の標高は365m




深沢城は阿久沢氏の居城です。16代直内の時、北条氏滅亡とともに深沢城は開城し、阿久沢氏は帰農しました。





深沢城の本丸





二の丸跡の畑



城山


途中のひまわり団地、標高280m

ひまわり団地付近からの眺望


石幢



赤城神社














印刷博物館「武士と印刷」展、徳川慶喜・松平容保終焉の地

2016年12月10日 | 東京



トッパン小石川ビルの印刷博物館で「武士と印刷」展を開催中、興味があって見に来ました。
凸版印刷は大日本印刷と並ぶ巨大印刷会社です。両社は日本1位・2位で世界でもトップクラスといっても過言ではない。凸版というと本社は秋葉原で、都内では小石川と板橋に主要な事業所があります。
昔、私の知人がタクシーに乗って「板橋の凸版印刷へ」と告げたところ、飯田橋の凸版、つまり小石川(大曲)の凸版に着いたという笑い話があります。「いたばし」と「いいだばし」、似ているといえば似ています。「こまごめ」と「まごめ」もよく似ている。
2000年にその小石川(大曲)のビルを建て直しトッパン小石川ビルが完成しました。新しいビルには印刷博物館とトッパンホールを併設しています。私は博物館にはポスター展を見にきた記憶があります。


「武士と印刷」展の第1部は武士を描いた印刷物、武者絵、錦絵、浮世絵など、第2部では武士による印刷物を展示しています。私が興味があったのは第2部です。江戸時代の印刷といえば浮世絵、版画などが思い浮かびますが、それらは活版印刷ではない。版木に文字を彫って印刷します。それに対してグーテンベルグの活版印刷は活字を使用します。
活版印刷はルネサンスの時代13世紀半ばにグーテンベルグが発明したと言われていますが、中国ではもっと早く11世紀には活版印刷(活字組版印刷)が始まり、13世紀に朝鮮に伝わって、日本にも13世紀末には伝わりました。
今回の展覧会では徳川家康による印刷物と活字が展示されています。室町時代にも寺社で印刷は行われていましたが、歴史上の人物で印刷を手掛けたのは家康が最初のようです。このころの活字は木製と金属製が混在していたようで、今回は銅製活字が展示されていました。
木製活字と金属製活字はそれほど時代の差はないようです。木製活字ができれば、鋳型をつくり金属活字をつくるはさほど困難ではない。
家康が活版印刷を行ったのに徳川光圀の「大日本史」はなんと一つの版木による印刷です。江戸時代の浮世絵、瓦版も木版印刷です。技術的には退化しました。
家康が手掛けた活版印刷が、孫の光圀に継承されず、江戸時代を通じて活用されなかった理由は日本語、漢字の字数の多さです。英文、アルファベットならば26文字ですが、日本語では漢字にひらがな、カタカナ。漢字だけの文章でも漢字の数は数千字です。さらに縦書きなので、文字のつながり具合、美しさも要求される。活字印刷は手間がかかり、メリットが少なく、美しくないというのが当時の評価だったようです。
そういう運命だった活版印刷も明治になり文明開化の時代になると、一気に復活し、大量印刷の時代へと進むのです。
印刷の歴史で徳川家康が登場するのはまったく意外でした。家康が活版印刷の創始者であることを歴史の教科書でもとり上げていいのではと私は思いました。

「武士と印刷」展を見たあと、安土城のVRも見ました。上野の東京国立博物館ミュージアムシアターで安土城のVRを見ましたが、それも凸版印刷の制作です。印刷博物館では別のバージョンを上映しています。
この印刷博物館は65歳以上は入場無料、VRシアターも無料で見ることができます。




ワールドブックデザイン展。本の装幀・デザインの展覧会です。


トッパン小石川ビル。続いてトッパンの北側の小日向周辺を散策しました。


国際仏教学大学院大学の門。15代将軍・徳川慶喜終焉の地です。慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺、水戸、静岡を経て1897年に東京に戻って巣鴨に住み、1901年にここ小石川に移り、1913年にこの地で没しました。


慶喜邸跡には慶喜が大事にしたイチョウの木があります。どの木がそれなのかわかりませんが、それほどの大木はありません。

慶喜邸の北端は地下鉄丸の内線の線路が通っています。

今井坂(新坂)の説明

旧第六天町の説明

慶喜終焉の地の説明


慶喜邸のすぐ隣は会津松平容保の屋敷跡です。今は住宅供給公社の住宅が建っています。
容保は会津戦争後一時陸奥斗南藩で知事を務めましたが、その後、日光東照宮の宮司を務め、1893年に小石川で没しました。慶喜が小石川に住んだのは1901年ですから、容保の没後です。


少し歩いて小日向の切支丹屋敷跡にきました。江戸時代、キリシタンから海外情報を収集するため拘禁した屋敷がありました。





切支丹坂


地下鉄車両基地の下を通るトンネル


小日向台から切支丹坂、茗荷谷を経て春日通りへ上がる庚申坂













上州・古城の旅 黒川谷の要害にたつ五欄田城と旧花輪小学校

2016年12月09日 | 群馬
東武電車を利用し桐生線の相老駅にきました。今日はわたらせ渓谷鉄道で花輪駅に行きます。私はなぜこのところ赤城・桐生方面が多いのか? 東武鉄道の株主優待券は12月と6月が使用期限で、11月・12月は12月末までの優待券がチケット店で安く手に入るからです。

東武桐生線とわたらせ鉄道の乗り換え駅、相老駅。私はもちろん特急ではなく各停でここまできました。

相老駅の正面

改札口

ホーム側

わたらせ鉄道の路線図

わたらせ鉄道、略称「わ鉄」のホーム

待合室内の新聞記事。駅名は相老ですが、町の名は相生です。近くにアカマツとクロマツの根の部分が合体した「相生の松」という県の天然記念物があって、町名は相生の松に由来します。夫婦松、二本松とも呼ばれます。

原武史さんのわ鉄乗車記事。原さんは鉄道の著作も多いですが、本職は政治史を研究する大学教授です。このところ天皇の退位問題でかなり多忙と見受けます。

わ鉄のディーゼル車が接近

花輪駅に到着しました。

ディーゼル車の煙

今日の主目的は五欄田城です。花輪駅から歩いて40分くらいです。

左は花輪駅の駅舎、駅の右の建物は養蚕農家風の屋根の花輪ふれあいセンター


案内板

五欄田城の高橋口。リスクを感じましたが、近道と思ってこの道を行って大失敗でした。





道なき道ではなく、道はありませんでした。滑落の危険も大アリでした。

ようやくまともな道に出ました。

案内板は打ち捨てられています。

道はまあまあまともでした。



やたら倒木が多い。台風や大雪で木は倒れます。道を整備し続けるのは大変なことです。




やっと五欄田城の駐車場にきました。苦労しました。車なら楽にここまで来られます。


危険の立て札。スズメバチの巣があるようですが、冬は活動期ではないと思います。


渡良瀬川の上流、日光・足尾方向の山並み




五欄田城址の展望台

眺望

富士山も見えるようです。

山頂はもう少し先ですが、私はここで引き返します。

山麓に戻りました。駅から車道を通りこの場所へ来るのが普通の安全なコースです。




善雄寺


駅に戻りました。待合室のポスター。次の汽車まで1時間半ほどあるので、町内を一周します。

花輪駅とふれあいセンター





屋根が特徴的な養蚕農家




旧花輪小学校の記念館。1学年1教室、6教室のようです。

二宮金次郎の石像



今泉嘉一郎像。日本鋼管(NKK)の創業者。日本鋼管は川崎製鉄と統合し、今はJFEとなっています。今泉はドイツ留学後、八幡製鉄所を経て、日本鋼管を設立。なんとシームレスパイプ(継ぎ目なし鋼管)の生みの親です。胸像を除き周囲の構造物は伊東忠太の設計です。

今泉の寄付によって花輪小学校の校舎が建設されました。

童謡「うさぎとかめ」の作詞者で花輪小学校長だった石原和三郎の歌碑





駅ホームの「うさぎとかめ」

やっと汽車がきました。

水沼駅には駅附属の温泉があります。一度入りたいですね。











上州・古城の旅 赤城山南麓、善氏の膳城と山上氏の山上城

2016年12月04日 | 群馬

大胡駅から膳駅にきました。

膳駅から10分ほどの場所に膳城があります。膳城主の善氏は大胡氏と同じ藤原秀郷の子孫です。


膳城の土塁



膳城の本丸跡



内堀



二の丸





膳城西側の養鶏場

袋曲輪




須藤泰一郎の歌碑

文化財管理センター

歴史民俗資料館

養蚕の歴史を展示


膳城についての展示は少なめです。

膳城址公園

山上城へいく途中の竜源寺

八幡神社


膳城からは徒歩20分ほどの山上城です。善氏と同じ藤原秀郷の子孫の山上氏が城主でした。

新里村農村会館

山上城跡公園への橋


井戸



城跡は芝生の公園になっています。

二の丸


本丸




本丸東側の常広寺

山上郷右衛門の碑。小田原で生まれ、はじめは北条氏、次いで徳川氏に仕え外交交渉役として活躍した武将です。晩年は当地で過ごしました。
「江戸の地名名付けの里」とは、常広寺の和尚が江戸へ行った時、江戸はまだまだ未開拓の地で、江戸の村人たちから自分たちの村落に名前を付けてほしいと頼まれて、新里村にある地名を次々と提供し名付けたそうです。板橋、大久保、高輪、芝、赤坂などは新里村からの輸出品だそうです。真偽の程は不明ですが。





山上城の東を流れる蕨沢川



上州・古城の旅 赤城山の南麓、旧大胡町の大胡城

2016年12月04日 | 群馬

東武桐生線の終点、赤城駅です。上毛電鉄が管理する赤城駅へ東武電車が乗り入れています。







赤城駅の正面。赤城駅の所在地はみどり市、旧大間々町です。
この駅がなぜ赤城駅という駅名なのか。駅の開業当初は新大間々駅といっていたが、1957年に赤城山の山頂と山麓を結ぶ赤城登山鉄道が開業し、山麓駅と新大間々駅をバスで結んだために、新大間々駅を赤城駅と改名しました。登山鉄道は1968年に廃止となりました。東武は赤城山を日光や箱根のように観光開発したかったようです。

駅前の様子。上毛電鉄に乗り換えて大胡駅へと向かいます。今日の目的は大胡城です。

上毛電鉄は自転車をそのまま車内に持ち込むことができます。通常自転車は専用バッグに入れることが持ち込みの条件です。

上毛鉄道にも貨車があります。「ホキ」はセメント、石灰石、小麦などを運ぶ無蓋車の記号です。


大胡駅に到着。上毛電鉄の車庫です。

大胡駅ホーム側

大胡駅正面

駅前の風車

大胡の駅前通り。大胡町は2004年に前橋市と合併しました。

JA前橋大胡支所




前橋市民会館大胡分館シャンテ

大胡城南側の崖





城跡へのトンネル

大胡城跡の碑。大胡城は藤原秀郷の子孫の大胡氏の居城です。江戸時代初期に牧野氏が大胡城主となり、城を改築しました。



枡形門





二の丸


水の手門



本丸への石段











北城の幼稚園






二の丸と北城をつなぐ橋。通行不可です。




幼稚園の裏口

幼稚園の正面

近戸出丸跡の大胡神社


本殿

太々神楽の舞台

日露戦役の碑

大胡町初代町長・岡田義正の碑




大胡神社の裏手、近戸出丸の北端


大胡城東側の防御線、荒砥川

二の丸入口のトンネル

シャンテでは和太鼓まつりを行っていました。

大胡町の中心

駅舎内のポスター。牧野康成は徳川家康の家臣で、初代大胡藩主です。牧野氏はのちに越後長峰、長岡へ移封となります。

伊勢守とは上泉伊勢守信綱のこと。上泉氏は大胡の近くの上泉城の城主。信綱は兵法家として名を成し、新陰流の開祖、柳生石舟斎の師です。



大胡駅では上毛電鉄の模型を展示

大胡車庫