すみません。また、古い話題のエッセーです。
飛行機
昭和40年3月に私たちは四谷駅にほど近い主婦会館で結婚式を挙げた。
ちなみに、当時の主婦連の会長は奥むねお女史であった。
お若い方は主婦連といっても、ピンとこないかもしれない。
主婦連合会は戦後、昭和23年に結成された女性団体である。
女性の意見を政治や社会に反映させたり、消費者運動を行っている。
挙式の記念に主婦連と焼き印が押されたおしゃもじを頂いた。
今も、食器棚の引き出しの奥に鎮座している。
夫が教師と言うこともあり、挙式は春休みを選んだのだ。
新婚旅行は奈良、京都だった。最初は九州に行く筈ずだったのを、
「九州とは贅沢な」と言う義母の一声で変更したのだ。
当時の世相からして、新婚旅行は熱海、伊東が一般的だったから、
義母の意見はあながち不当とは言えない。
それに明治生まれの義母は東京生まれの東京育ち。熱海から先には行った
ことがない。九州は遠い地で贅沢に思えたのであろう。
でも、私は名古屋で青春時代を過ごしていて、京都、奈良へは数え切れない
ほど行っていた。それに幼少から少女時代の9年間、南九州で過ごしていた。
懐かしい地を新婚旅行で訪れる喜びはもろくも崩れ去った。
そして、母親の言葉に左右される夫に微かな不安を覚えた。
夫は7人兄弟の三男坊で誰よりも母親思いだった。
新婚旅行の往きは1年前の東京オリンピックの年に開通した新幹線に乗った。
一族郎党、夫の教え子たちまでが東京駅のホームで見送ってくれた。
思い出しても恥ずかしくなるが、古き良き時代の光景でもあった。
京都駅に着き、タクシー乗り場に向かった。私は右方向の乗り場へ。
夫は左方向へ。そちらは小型タクシーの乗り場だった。
当時は小型と大型との乗り場が別になっていたのだ。
「新婚旅行なのに小型とは・・・」 と、私は心の中で思った物だ。
「経済観念のない君と丁度バランスがとれてていい」と、
後年、私の父に言わしめるほど、夫は倹約家だった。
そのお陰で、長女が生まれる前に新居を購入できたのであるが。
3泊2日の新婚旅行の帰路は飛行機だった。飛行機にしたのは、夫の兄が
全日空の株主で、料金が半額だったからである。
2人とも、飛行機に乗るのは初めてだった。
夫はまるで子供のように嬉々として写真を撮りまくった。
私は、これからの結婚生活への不安でいっぱいだった。
羽田空港に到着し、タラップを降りようとして驚いた。
出迎えの人々の中に、義母と義妹、幼い姪たちの手を振る姿があったのだ。
当時は飛行機の滑走路、乗降口、送迎場所は地続きだった。
夫は大喜び、まるで映画俳優が外国から帰国したかのように大きく手を振った。
夫の親戚の中で、飛行機を体験したのは私たちが最初だったらしい。
出迎えがてら、羽田空港の見学に来たのだった。
みんなで大騒ぎしながら帰った記憶がある。