品川区高輪の再開發現場でこのたび發見された、明治五年に鐵道が開通した當時の線路跡を、京浜東北線の車窓より望む。
(※明治四年頃の高輪築堤工事の様子。右が工事中の築堤)
鐵道を敷設の際、現在の高輪あたりは土地の取得が出来なかったため、海上に築堤を造ってその上に汽車を走らせたことは有名な話し。
(※明治四年頃の高輪築堤工事の様子。右が工事中の築堤)
にもかかはらず、その後の埋め立てによって築堤は姿を消し、いまや痕跡も失はれたと思はれてゐたのが、實は長らく車両基地の土中に眠ってゐたことが、今回の再開發工事で判明したものだ。
京浜東北線の北行、田町驛に入る前の高架線から高い塀越しに、それはわずかに見られる。
写真下部、作業員さんたちの傍に写ってゐる石積み(石垣)が、かつて築堤の法面だった部分。
ほぼ手つかずで土中にあっただけに往時の姿をよく留めており、歴史的価値が非常に高いことは言ふまでもない。
この場所にはビルを数棟建てる計画ださうだが、そんなものは他にいくらでもあり、まただうせ後世に遺せるほどのしろものでもないのだから、この近代日本黎明期の遺構こそ必ず保存するべきだ。
それにしても、隣接する最も新しい驛の傍から、最も古い線路跡が見つかる──
その組み合はせの妙なることよ!
今年の前半にはお茶の水橋から戦前の都電軌道跡が発見され、現在は保存に向けて動ひてゐるなど、“新しい生活様式”が模索されてゐる──はずの──いま、かうした貴重な文化の發見は何かの暗示ではないかと、つひ考へてみたくなる。
ちなみに、この發見された築堤上をかつて走ってゐた汽車の實物が、當時の終着驛だった横濱驛──いまの櫻木町驛──そばの屋内に、静態保存されてゐる。
そして現在の“三代目”横濱驛の東口、横濱中央郵便局と崎陽軒本社の間を抜け、萬里橋を越えて高島町に至る緩く曲った道が、
やはり明治五年に開通した當時の線路跡なのだと云ふ。
そして横濱驛に至る鐵路も、高島嘉右衞門の指揮によって海を埋め立てた上に敷設された。
(※歴史案内板より)
當時の古冩真から、このたび發見された高輪の海上鐵路の姿も、想像できるのではないだらうか。