迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

「偲姿―オモカゲ―」10

2010-02-06 12:44:16 | 戯作
九月三十日。

この日、宮城県の志波姫(しわひめ)と云う町で、文化ホールの新築落成記念イベントが二日間あって、そのプログラムの最後に、劇団ASUKAが特別参加として、お芝居を上演しました。

一日目の演(だ)し物は、「血闘大井川」と云う劇団得意の二幕のヤクザ物で、大井川を挟んで長年いがみ合いってきた二組のヤクザ一家が、今日こそ決着を付けようと大井川の河原で大乱闘を演じる、ただそれだけの筋でした。

一幕目の後半、座長扮する親分がいよいよ死を覚悟で決闘に臨むことを知った琴音さん扮する若い女房が、「お腹にいる“やや子”―赤ちゃんのことです―のためにも、必ず生きて帰って来ておくれ…」、と涙ながらに訴えるシーンが最大の見せ場だったんですけど、さっき言った“事件”は、ここで起きました。

この時わたしは、一幕目のラストに舞台の下手(しもて)から出て来て、「相手の一家が大井川に続々集まって来ています!」と急を告げる下女の役でした。

芝居がいよいよ見せ場に入るという時、下手袖の操作盤で音響係をやっていた杏子さんが、出番を待つわたしを突然手招きして、

「ハルちゃん、アタシさ、オシッコ行きたくなっちゃったから、悪いけどちょっとの間、ココ代わってくんない…?」

と言い出したんです。

これから出番なんですけど…、と思いましたけど、出のキッカケに間に合わないというわけでもないし、

「はい…」

と頷くと、

「MDはちゃんとセットされているから、あとは琴音ちゃんの『お前さん、そんならどうしても…!』って云うセリフで、再生ボタンをポチッと押してくれるだけでいいから。大丈夫、ハルちゃんの出までにはゼッタイ戻って来るからさ。お願いね」

杏子はそう言って、楽屋のお手洗いへと走って行きました。

やがて琴音さんのキッカケのセリフになって、わたしが言われた通りに再生ボタンを押すと…、ナニが流れたと思います?

陽気な獅子舞囃子ですよ!

ピーヒャララ、テケテンテンテン…、って。

明らかにBGMが違うことは、さすがにわたしだってわかりました。

要するに、杏子さんがセットするMDを間違えてたんです。

お客も、音が違うことはもちろんわかっていますから、もう手を叩いての大爆笑、舞台の一番下手にいた子分役が機転を利かしてさり気なく袖に引っ込んで来て、パニクっているわたしを押しのけて正解のMDをすぐにセットしたものの、これからお涙頂戴の見せ場になるところだったのに、もうお芝居はメチャクチャです。

しかも、凄い眼光を下手へ走らせる琴音さんと、バッタリ眼が合ってしまって…。

音響や照明係は、その時に手が空いている人が持ち回りでやることになっていたんですけど、琴音さんに、わたしがこの場面の音響担当と思われてしまったことは明らかでした。

そりゃもう、「もう、ざけんなよ…!」ですよ。

いや、琴音さんに対してではなくて、杏子さんに対して。

杏子さんって方は、座長に“特に”招かれた、と豪語するだけあって、芝居は抜群に上手かったですけど、性格はそそっかしいところがあって、これまでにも音響や照明で、よくこういったテのミスをやらかしていました。

舞踊ショーで違う曲のMDをかけてしまったり、照明ではキッカケを勘違いして、まだ芝居の最中なのにいきなりパッと消してしまったり、逆にまだ暗転中なのに明かりをつけてしまったり…。

それでも後ですぐに、取り敢えずは「すみません」って頭を下げればまだいいんですけど、これがまたクセなんですね、先に口から出てくるのが、言い訳なんです。

「あの、ちゃんとわかってたんですけど、薄暗くてMDのラベルの字が見にくくて…」
「いや、前回の時はあそこのキッカケで明かりを消してたのよ…」

etc.…

で、座長の雷が炸裂するわけです。

「ばっかやろう、ミスはミスだろうがぁっ!」

あの劇団の人で、彼女のミスの被害に遭っていない人はいないくらいの勢いで、相手は大先輩ですからみんな彼女の前ではさすがに露骨にイヤな顔はしませんでしたけど、彼女がミスる度に、陰で溜め息をついていましたっけ。

琴音さんなんかは、「あのオバン、いつか追い出してやる!」って息巻いてましたしね。

わたしだけが今まで被害に遭っていなかったので、「いつ餌食になるか…」と思っていましたけど、まさかこんな、罪をおっ被される形でヤラれるとは思ってもいませんでした。

杏子さんのこうした“前科”を知らなかったら、わたしはこの“獅子舞囃子事件”を、杏子さんが仕組んだイヤガラセと本気で信じたでしょう。

え、杏子さん、ですか?

いいえ、すぐになんか戻って来ませんでしたよ。

楽屋のトイレにいたって、違う曲がかかってしまったことはモニターから聞こえていたはずですから、たぶん「またやっちまった…!」って蒼くなって、それこそチビってたんじゃ…、あ、ごめんなさい。

マズいな、杏子さんの性質が今頃になって伝染(うつ)っちゃったのかな…。

で、その後すぐに舞台へ出て行ったわけですけど、琴音さん、もうすっかり役を離れてリアルにわたしのことを睨み付けてまして、自分のミスではないだけに、イヤなものでした…。

一幕目が終わって楽屋に戻ると、すぐに琴音さんに謝ろうとしたんですけど、本人は怒り心頭でこちらの言葉になんか耳を貸さない勢い、いきなりわたしを、異常なくらいの剣幕で罵倒し始めました。

いつの間にかトイレから戻って来た杏子さんも、さすがにマズイと思ったようで、わたしを弁護しようとしたんですけど、そんな隙を与えないくらいの凄まじさでした。

「…あたしたち大衆演劇はさ、毎日の舞台を命懸けでやってんのよ!これ以上ナメたマネしたら、マジでタダじゃおかないから、よく覚えときな!」

と云う言葉を叩き付けられて、わたしはようやく解放されました。

自分のせいではなくて、杏子さんのミスのせいでこんな目に遭ってしまったんですから、それは身悶え級の悔しさでしたよ。

杏子さんは後で、「何もあそこまで言わなくたってねぇ…」と言ってましたけど、琴音さんがわたしを異常なまでに罵倒した理由がもっと他にあることは、わたしはわかっていました。

琴音さんは、この頃には顔の表情こそ友好的でしたけれど、目は常に探りを入れている…、ああそうです、「顔は笑っているけど目が笑っていない」、相変わらずそういうところがあって、最初の日にもあった、視線を感じてそちらを向くと、ふっと目を逸らす、なんてことは度々、「わたし、この人に“監視”されてる…」と思うと同時に、「わたしに心を許していないんだな…」と思ったものでした。

高島陽也が“ムシの好かない”存在だったんでしょうね。

そう云うのって、よくあるじゃないですか。

わたしへのそんな苛立ちが積もり積もって、いつかシバいてやろうなんて思っていたら、高島陽也がいい具合に舞台効果をミスってくれた。これはいいチャンスだわ…。

だから、音響を急に杏子さんと代わったと云う事情があろうがなかろうが、そんなことはどうでもよかったんです。

どっちみち、一度はああ云う目に遭わされることになっていたんだと思いますよ。

こっちはたまりませんけど。

劇団の行動パターンにもだいぶ慣れて、それなりに楽しくなってきた時期だっただけに、理不尽にも琴音さんに罵倒されたこの一件は、わたしの気持ちをいっぺんに醒めさすには充分すぎるもので、何だか力が一気に抜けてしまった感じでした。

鏡台前で涙を堪えてメイクを落とすわたしの脇で、杏子さんが「ごめんねぇ…」云々とお詫びの言葉を連ねているのを、だだウンウンと頷いて流し、

「明日の芝居は『伊豆の踊子』でいく。配役その他諸々は前回通り…」
と云う座長の言葉を半ば上の空で聞き、夜は座長以下、「よし、飲みに行くぞ!」と旅館からタクシーでどこかへ繰り出して行くのにも、「わたし、未成年なんで留守番してます…」と一人旅館に残って、自分の部屋で寝転がったまま、いつまでもボーっとしていました。



〈続〉
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