迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ごゑんきゃうげん4

2017-03-22 05:09:20 | 戯作
嵐昇菊(あらし しょうぎく)―

それが、父までの代々が名乗っていた歌舞伎役者の芸名でした、と金澤あかりは続けた。

「もともとは、“緒室屋(おむろや)”という屋号を持つ、名門だったらしいのですが……」

金澤あかりの祖父の代で家運は傾きだして―

「父が五代目を継いだときにはすっかり零落していて、役も思うように付かなくなっていたそうです。それで父は芝居に対する意欲を失って……」

三十五歳の若さで、ついに廃業した。

「その後は日本舞踊の師匠に転向して、細々とやっているうちに……」

縁があって―

「ある地方の、いわゆる“農村歌舞伎”の指導を頼まれるようになったんです。父はとても喜んで、張り切っていたそうです。やっぱり本当は、歌舞伎をやりたかったのでしょうね……」

そう微笑んで、金澤あかりはストローに口をつけた。

僕は、この若い女性が歌舞伎という、およそ一般的でない家の生まれであることに、興味を覚えた。

そして、運命の残酷さを思った。

人がその道で生きていくには、才能や実力以上に、何よりも“運”が、大きく物をいう。

僕も、画家としての実力がに充分にありながら、“運”に恵まれなかったがために、虚しく朽ちていった同業を、何人も知っている―

金澤あかりの父“嵐昇菊”という歌舞伎役者も、まさにそういう道を歩まされたといえる。

が、農村歌舞伎の指導者という形で、その技術を生かせたのならば、まだ幸せだったと言うべきか……。

「ちなみお父様は、どこの農村歌舞伎で教えていらしたのですか?」

金澤あかりは、東京から五百キロほど西にある町の名前を言った。

そして、

「わたしも、そこで生まれたんです」

と付け加えて、「町なんて名ばかりの、実際は村でしたけど」と笑ってみせた。

その町では、毎年秋におこなわれる神社の例大祭で、民俗芸能の奉納芝居―いわゆる“農村歌舞伎”が披露される。

しかし、地方の宿命とも言うべき深刻な“過疎化”と“少子高齢化”は、こことても同じだった。

ゆえに、農村歌舞伎の参加者が集まらない―とくに、肝心の指導者に後継がいなかった。

「向こうでは、“振付さん”と呼んでいましたけれど、今までそれをやっていたお年寄りの方が、老齢を理由に引退してしまったんです」

たまたま元・嵐昇菊の日舞教室に通っていた弟子のなかに、その町の出身者がいて、その人から「引き継いでもらえないか」と打診されたのが、きっかけとなった。

「最初は、東京から教えに出向いていたそうですけれど、そのうちに神社の宮司の娘と“いい仲”になって……」

金澤あかりは含み笑いをすると、「で、わたしが生まれた、と」

「ああ……」

「父はわたしの誕生をきっかけに、その町へ稽古場もろとも、引っ越したんです」

そう続ける金澤あかりの瞳(め)に、一瞬複雑な表情(いろ)が走ったことに、僕は気が付いた。


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