迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

夕霧由縁優巴月。

2024-06-30 18:30:00 | 浮世見聞記
ラジオ放送で、常磐津一巴太夫師の追懐番組を聴く。

曲目は平成十六年(2004年)十一月に収録の「吉田屋」。

本外題は「其扇屋浮名戀風」、義太夫節「夕霧阿波鳴渡」を原曲につくられた常磐津の大曲で、上方歌舞伎の代表的狂言「吉田屋」の後半、扇屋夕霧の登場から義太夫と掛け合ひの出語りとなり、夕霧の真情を情緒たっぷりに聴かせる。

私は大阪に在住の時代、片岡仁左衛門(まつしまや)家型の「吉田屋」には何度も関はり、その時の常磐津は必ず一巴太夫師であったおかげで、人間國寶の藝を至近距離で耳馴染んだことは、私の生涯の寶である。

一巴太夫師の常磐津を知ったら、もふほかの太夫の常磐津なんざァ聴いちゃゐられねェ──その認識は現在(いま)も同じだ。

また一巴太夫師は関西在住で、私の師匠と同じ土地で同じ時代(じかん)を過ごした間柄であり、若き日の師匠が國立劇場の自主公演でやはり常磐津の大曲「關の扉」に挑んだ際、また大阪新歌舞伎座での襲名披露狂言で「粟餅」を出した際、ともに立浄瑠璃は一巴太夫師の出演だった。


(※私の師匠の舞薹で常磐津をつとめる若き日の常磐津一巴太夫師)

さうした縁(つながり)で、師匠の弟子である私にも何かと親しく接して下さったことは、大變だった思ひ出ばかりの大阪時代における、數少ない心潤ふ記憶である。

その後、私が新たな人生を歩み始めたばかりの頃、東京で偶然お目にかかった際にも、以前と變はらず気さくに會話をして下さったことは、さうでない人が多かったなか、學ぶべき姿勢であったと思ってゐる。

これが、常磐津一巴太夫師にお目にかかった最後であった。


今回ラジオ放送で、思ひ出深い浄瑠璃を思ひ出深い太夫の聲で逢った途端、あの時代の記憶がいろいろと甦り、なかで「吉田屋」について、

「片岡仁左衞門家(まつしまや)さんより、中村鴈治郎家(なりこまや)さんのはうが“入れ事(後から付け加へた演出)”が少ない」

と私に話して下さったことを、なるほどかう云ふことか……、と現在(いま)になって初めて知る私は、嗚呼、まだまだ學び取る力が足りない。








コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雨降って地均(なら)す。 | トップ | 露向日葵。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。