< 1. ベルリンの壁崩壊 >
今回は、1989年のベルリンの壁崩壊が起こった経緯を見ます。
それはソ連と東欧、東独を巻き込んだ嵐でした。
まるで春の嵐のように、去った後、人々は解放の喜びを味わうことになった。
< 2. レーガンとゴルバチョフ両大統領 >
概要
ベルリンの壁崩壊後、東西ドイツは統一され、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアなどの東欧諸国は、ソ連従属の一党独裁体制から民主制国家へと転換した。
現在、多くはEUに参加し、人々は自由と経済発展を手に入れました。
人々はEU域内の移動、居住、就職、言論の自由を満喫しているように見える。
しかしほんの10年前、それらの国では自由が無く、経済低迷に喘ぎ、不平不満は治安警察や軍隊によって圧殺されていた。
< 3. ハンガリーの首都ブタペストとドナウ川 >
何が引き金になったのか?
ソ連は経済が弱体していく中で、85年、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて登場しました。
彼は低迷を脱するには国民が問題を直視し、率直に語り合うことが不可欠と考えた。
彼は連邦内では、民主化を目指し、計画経済から市場経済を推し進めた。
外交では米国との核軍縮を進め、連邦内の共和国の独立容認、東欧への軍事不介入を宣言した。
この背景には、計画経済の失敗、軍拡費の高負担、米中ソ間の緊張緩和があった。
また86年のチェルノブイリ原発事故は、国民が情報開示の重要性、政治への関心を高めることになった。
あれほど腐敗し強固に見えた一党独裁体制下で、大きな抵抗もなく改革が進むことに私は驚嘆した。
< 4. チェコの「プラハの春」事件 >
東欧で何が起きていたのか?
東欧の人々は、幾度も経済と政治の改革を訴えデモやストを行ったが、その都度、流血の末、封殺された。
68年、チェコスロバキアで自由化を目指した「プラハの春」はソ連率いる軍隊により潰え、長く暗い時代が続くことになる。
しかしポーランドでは、80年に百万人加盟の自主労組「連帯」が結成され政府に改革を迫った。
またハンガリーは、歴史的に西欧に最も近く、西欧から多くの融資を受け、経済交流も進み、民主化気運が高まっていた。
85年、次々に誕生した自主労組の推す党が、ついには総選挙で議席を初めて占め、一党独裁は破られた。
これは他の東欧や東ドイツも同様でした。
< 5. ポーランド、連帯のワレサ議長 >
次回は、何が人々の背中を推したのかを見ます。
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