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中東に平和を! 13: 映画に見る中東とアラブ世界 6: その時代背景

2016年05月20日 | 連載完 中東に平和を

< 1. 三つの映画の主役 >


既に紹介した三つの映画「アラビアのロレンス」「サハラに舞う羽根」「風とライオン」の舞台には共通する時代背景がありました。
それは帝国主義、列強による植民地化でした。
今日は、この問題を整理します。


この時代、中東とアラブ世界で何が起きていたのか




< 2. 植民地 >
上の地図: オスマン帝国の最大領域。
下の地図: 1914年当時の殖民地。


1827年、アルジェリアの太守が借金を踏み倒し続けるフランスに怒り、領事を叩いた。
フランスはこれを口実に艦隊を送り、ついには軍隊で降伏させた。
こうしてフランスは難なくアルジェリアを手に入れた。

エジプトは「サハラに舞う羽根」で見たように1882年から英国に支配されていた。

1911年、遅れをとっていたイタリアは、リビアを手に入れる為に突然、オスマン帝国に宣戦布告し、これを降伏させた。

モロッコは、西の端にあったおかげでオスマン帝国の支配を逃れ、長らく独立国であった。
しかし、「サハラに舞う羽根」で見たように列強の軍隊が駐留し、取り合いが始まっていた。
1912年、フランスは北アフリカを英国とイタリアで分割し、割り込もうとしたドイツを排除し、モロッコを領有した。




< 3. 中東の植民地 >

中東は、1920から21年にかけて、シリア・レバノンはフランスの支配、ヨルダン・パレスチナ・イラクはイギリスの支配となった。
これは独立の為に戦ったアラブ、「アラビアのロレンス」の人々との約束を踏みにじるものでした。
英国がパレスチナを統治し、ユダヤ人の帰還を約束したことが、今のイスラエル紛争の発端になった。

こうして欧州列強は、1870年代頃より、オスマン帝国の弱体に付込み、中東とアラブを手に入れ、次いでアフリカ全土を分割していった。




< 4. 1914年の世界の殖民地 >


なぜ帝国主義が勃興したのか
19世紀中期以降、なぜ列強は軍事力によって植民地獲得にしのぎを削ったのだろうか。

いくつかの理由
列強の経済と産業構造の変化に伴い、列強は資本輸出、食料と原料輸入、工業製品輸出の拡大が必要になった。
その国内は幾度も大不況に見舞われ、政府は国民の不満を外部に逸らす必要があった。
19世紀半ばの奴隷貿易の禁止は、該当国の経済と貿易に変革を迫った。

さらに、英国の衰退、ドイツと米国の台頭、ロシアの南下など、国家間の均衡が崩れ始めた。
これらが相乗して始まった。

やがて植民地に多額の資本が投入され、国民の居留が進むと、列強はそれらの安全を守る必要が生じた。
こうなると植民地経営が赤字であろうが、列強はそれを強行し続けなければならなくなった。
結局、列強は税金を使い、国民の血を流したあげくに植民地を虐げることになった。

この不合理は、列強が不安に苛まれ、領土獲得競争に陥ったことが大きい。




< 5. 帝国主義は世界大戦を招いた >

歴史の教訓
既に見たように、帝国主義はかつての植民地の自立再生(民主主義、経済自立)を困難にした。

しかしそれだけではない。
領土分割競争は、やがて2大陣営(三国協商、三国同盟)による対立へと収束していった。
そうしてバルカン半島での民族解放を求める一発の銃弾から、2大陣営が死力を尽くし戦い、欧州は弱体化した。

結局、列強は領土拡大と軍事力増強で相手を牽制し、さらに同盟拡大に頼ったことにより、自滅した。
これは今風に言えば、抑止力を高め集団的自衛権を行使したことになる。
第二次世界大戦後、国連でこの過ちを二度と犯すまいと議論されたのだが・・・・

当時、弱肉強食の時代にあって、この愚を犯さない国が欧州内にあった。
それはスイスやスウェーデンなどです。


次回に続きます。




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