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< 1. ネルソン・マンデラ、民主憲法下での初代大統領 >
1990年、白人政府を代表する大統領が辞任し、マンデラは27年間の監獄生活から釈放された。
しかし、これはアパルトヘイト撤廃への激しい妨害の始まりであった。
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< 2. 1990年2月、釈放 >
妨害の始まり
釈放の年から黒人居住区で、毎日のように数人から数十人の殺人が始まった。
これは同じ黒人のインタカ自由党が社会混乱を引き起こし、マンデラを失墜させ、元の体制に戻そうとした企てだった。
この政党は、裏で白人右翼から強力な金銭と軍事支援を受けており、体制の変更は大きな痛手となる。
また相次ぐ殺人事件が起きても、警察はインタカ自由党を黙認し、「部族抗争の頻発により社会は悪化している」と宣伝した。
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< 3. 前大統領デ・クラークとの会談 >
マンデラは警察の支援もなく、憎悪に燃え上がる国民の中にあって、懸命に和平を模索していた。
しかし1993年4月、遂に大事件が起きた。
彼が党首を務める黒人の最大政党(アフリカ民族会議)のナンバー2が暗殺された、白人右翼が放った暗殺者によって。
マンデラは国民に「挑発に乗って暴力で戦うのは、暗殺者たちにとって都合のよいこと・・」と訴え、国民は冷静に耐えた。
しかし、その7月には、一度に130名が殺された。
この時、既に死者は15000人に達していた。
国民は暴発寸前だった。
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< 4. 1993年、マンデラ演説 >
マンデラは危険を冒してでも現地で住民に訴えるべき時が来たと判断した。
その8月、彼はサッカー競技場の真ん中に立ち、1万人の支持者に向かって語りかけた。
「第一の大きな問題は、政府、警察、防衛軍に、我々黒人を守る姿勢がないことだ! ・・虫けらが死んでしまったかのように考えている」
「・・人々が怒りに燃えているとき、非暴力に訴えるのは難しい・・。しかし解決策は平和だ。・・政治的寛容だ」
聴衆の多くは不満を露わにした。
「暴力に終止符に打つのは、・・我々の責任である。・・罪のない人々を殺すなら、我々の党員ではない!」
聴衆は耳を疑った、殺人者は我々ではないのに。
大きな不満の声が上がった。
彼は意を決した。
「静かに!・・私に指導者として留まって欲しいか?」
彼は更に迫った。
聴衆は「イエース!」と大声で応えた。
するとマンデラは笑みを浮かべ「イエーーース!」、「ありがとう」と言い演説を終えた。
その後
暴力は収拾していった。
徐々に白人右翼や警察も、黒人の命を価値あると認めるようになっていった。
ついに1993年11月、南アフリカを代表する19名の全指導者によって全人種参加の総選挙を翌年に行うとした。
しかし、まだ手強い抵抗勢力は次の転覆チャンスを窺っていた。
マンデラはこれと正面から対峙することになるが、このことは次回に譲ります。
この文はジョン・カーリン著「二人のマンデラ」、潮出版社、2014年刊から多く引用しています。
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